今日はもう眠りたい
テープを切った莟はゆっくりと減速した。
筋肉を弛緩させる。手足から力を抜く。同時に呼吸を落ち着けようと深呼吸を行う。
そうやって数メートル通り過ぎて、莟は後ろを振り返った。十瑪岐の足音が聞こえなかったからだ。
必死すぎていったいどっちが先にテープを切ったのか自分でも定かでない。観客も判別がついていないようだ。どっちが早かったかと口々に言い合っている。
十瑪岐はどうだろうと思ったが、それどころではなかった。
少年はゴール地点で地面に両手両足をついていた。荒々しい呼吸で身体が大きく上下する。うつむいたその目には涙が滲んでいる。
「あっ──」
まずい、と直感的に思った。短距離走において四百は身体の限界に迫る競技だ。走り切ったあと気を失う選手もいる。全力疾走しながらあれだけ喋っていたのだ。無理をしていないほうがおかしい。
「十瑪岐くん大丈夫っ?」
鳴乍が横のテントから駆け寄ってくる。酸欠になっているのか十瑪岐は答えられない。
直後、十瑪岐が大きく嘔吐いた。
「おぷっ──」
「十瑪岐くん!?」
鳴乍がさっと両手を受け皿に差し出す。ためらいのない行為に観衆のほうがぎょっとしてしまった。
十瑪岐は危ういところで口を手で押さえ、こみ上げたものを飲み込んだようだった。
「んぐっ。げほっ、ごほっ。おまっ……、なに躊躇なく、っは、受け止めようとしてやがんだっ」
浅い呼吸で絞り出すように苦言を呈する。
「大丈夫よ十瑪岐くん。何が飛び出そうと受け止めるから」
「その覚悟を固めていいのは産婆くらいなんだよなあ! うっ、げほっげぼっ」
手を引っ込めた鳴乍は自分が何を責められているのか分かっていない顔して首を傾げるばかり。
十瑪岐は大きなため息をついて、なんとか呼吸を落ち着けたようだった。
「でえ? 勝負の結果は」
まだ微かに肩で息をしながら十瑪岐が汗を拭う。莟も隣に並んだ。
「そうです。どっちがゴール早かったんです?」
「お前はなんでもう元気そうなんだあ?」
まだ具合悪そうな表情でドン引きされた。
三人でテントへ戻るとちょうど生徒会長が執行部から報告を受けたようで、届いた用紙とマイクを持って立ち上がった。カメラマンが集まって来る。
「うん、お腹も空いてきたことだし、もったいぶらずに結果を発表するのだね。
有効投票数、赤団百八十七票、黒団ゼロ票、青団三百四票、黄団ゼロ票。
以上を加味した最終得点は画面に表示される通りなのな」
赤団:1956点
青団:2083点
黄団:1776点
黒団:1777点
画面に合計得点が表示される。
莟は目をむいた。
すっかり忘れていたが黄団の優勝が目的だったはずだ。それが最下位に落ち込んでしまっている。これは作戦として大丈夫なのだろうか。
横目で十瑪岐を窺うが、彼は考え込むような表情で黙ったままだ。
ざわめきが静まったのを見計らって画面がまた切り替わる。
どこか満足気な涼葉が総括を述べた。
「よって番外競技を経ての優勝は、青団となった。総合優勝と合わせて二冠なのな。おめでとう! そして昨日、今日と全力を尽くした諸君に心からの賞賛を! たとえ優勝を逃しても、君たちの一人一人が体育祭を盛り上げたことに変わりはないのだよ」
静かに、ゆっくりと、まるで生徒たちが目の前にいるかのように見渡して、涼葉は頷いた。画面を見つめる生徒達にすれば、まるで彼女と目が合ったように感じたことだろう。そんな錯覚を抱かせるのは人を惹きつける涼葉ゆえか。
「それでは正式に勝者を発表するとしよう。僅差ではあったが、ビデオ判定により決定された。栄えある勝者は────生徒会陣営。我が愛すべき生徒会諸君。そして助っ人の葛和十瑪岐君。みんな頑張ったのだね。それと蕗谷君もお疲れ様なのだよ。急な申し出に付き合ってくれてありがとう。おかげで例年にない盛り上がりになったのな」
にこりと笑みを向けられる。これが生徒会長の人徳というものか、それだけで充足感が湧いてくるから不思議だ。先輩との言い争いを全校生徒に聴かれるという大恥をかいてまで走った甲斐がある。
涼葉はしんみりとした空気を吹き飛ばすように手を叩いた。
「ではお待ちかねの抽選タイム! 勝者たる生徒会陣営に入った票の中から一つ抽選し、そこに書かれた願いを生徒会が全力で叶えよう! というわけでここはあたしが引かせてもらってもいいのな?」
パチンとウインク。異論を唱える者などいるわけなく、涼葉は大きな箱を前に袖をまくり上げた。
「うんうん、ではいざ! これだ! ……え~っと『運動部に専門トレーナーを雇ってほしい』?」
赤色の画用紙をひいた涼葉が内容を読み上げる。
それは全運動部員が願っていたことだった。莟としても心躍る内容だ。
とはいえ運動部員は全校生徒の三割ほど。ガス抜きとしては弱いか。
生徒会長はふむと呟いて笑みを深めた。
「なるほど。我が学園では伝統的に運動部が冷遇されがちであるものの、その熱意は文化部にも他校にも負けていないとあたしは思う。事実この体育祭では、スポーツ特待生たる蕗谷君の走り以外にも、素晴らしい活躍を見せてくれた運動部員は枚挙にいとまがないのな。精神も肉体も、突き詰めれば仲間同士の高め合いだ。正しく教え導く者が指導すればその力は何倍にもなろうね。生徒会も検討していた事例だが、前年までは理事会の承認を得られなかった。しかしだね諸君、これは必ず叶えるという約束だ。あたしは約束を守る女だ。任せるのだよ。必ずお上を説き伏せてみせよう!」
天然なのか機転だったか、涼葉は話を運動部の事情から、学園理事会と生徒会の対立軸へと話を持っていった。理事会の頭の固さは多くの生徒が知っている。力強い断言に歓声が沸き上がった。ガス抜きの効果も上がっただろう。
歓声が落ち着くのを待って、涼葉は少年を振り返った。
「では最後に勝者へのご褒美といこう。十瑪岐君は何を願うのだね」
最初の約束を涼葉は忘れていなかった。横からマイクを渡された十瑪岐は真剣な顔で拳を握る。
「オレの願いは…………。学食に大盛ワンコインランチを常設してくれ、だあ!」
天に高々と突き上げられた拳。予想外の要望にさしもの涼葉も呆気にとられている。
「そんなことでいいのだね?」
「そんなことじゃねえですよお! 過去、現在、未来すべての男子生徒が心の底から求めていたものだ! 育ち盛りの大飯喰らいにここの学食はお上品すぎる! 質より量の満腹メニューがオレたちには必要なんだっ。そおだろ野郎どもおお!」
ほか運動場から野太い歓声が聴こえてくる。すごい反響だ。
莟は内心で困惑していた。
(今まで反感買うことしかしてこなかったのに、なんで急に男子に取り入るみたいなことを……?)
十瑪岐の意図は分からないが、多くの男子が共感したということはガス抜きという点で大成功と言える。事前に生徒からの要望書に目を通していた十瑪岐だからこそこの願いを口にしたのだろう。
だがやはり解せない。
(とめき先輩いつもお弁当じゃん。学食関係ないし)
いつでも自分の利益を一番に考える彼が、なぜ他人の願いを優先させたのか。いつもの彼ならもっと──。
そう考えたのは莟だけではないようだった。
涼葉が首を傾げている。
「てっきり、コネクションを作りたいからあたしの父上を紹介してくれとでも言うのかと思っていたのだよ」
「ぐあっ、その手があったかあ! いや待て。この中継はお父上様も見てるはず! 矢ノ根涼葉生徒会長のお父様! 寄生とご支援を前提に娘さんとの交友を認めてくださあい!」
「とっても欲に忠実なのな」
やっぱりいつもの十瑪岐かもしれない。
◇ ◆ ◇
体育祭が終わり生徒達が帰宅の途へ着く。生徒たちが口々に語るのは十瑪岐の思惑通り番外競技のことだ。とはいえ一番の目標だった黄団の優勝は消えてしまった。
佐上冥華には、十瑪岐が味方したほうに投票するよう言い含めていた。今回であれば生徒会陣営だ。なのに黄団の投票が無効だったのは、団長が莟へ票を投じたということだった。
火苅が冥華の意に反することなどないはずだ。ということは、十瑪岐が予想していなかった何かがあったというか。
帰り際、一瞬だけ視線を交わした冥華と火苅は対照的な表情をしていた。冥華は晴れ晴れとしていて、火苅は沈みこみそうなほど暗い。それは普段の二人からは考えられない雰囲気だった。
(ま、あとはあいつら次第だよなあ)
冥華の様子からして、少なくとも爆弾が起動することはなさそうだ。となれば当初の目的は達成されている。
肺から重たい空気を吐き出して、十瑪岐は三角コーンを抱え上げた。
体育祭が終わっても後片付けが残っている。今日はグランド周辺からの簡単な後片付けで済ませ、本格的な引き揚げは休日の間に行う手筈だ。みな疲労が蓄積している。今日はもう手早く帰りたい。
作業にあたっているのは生徒会役員と生徒会執行部、そして莟と十瑪岐だった。
十瑪岐はさっさと帰ろうとしたのだが、莟に引きずれられて参加させられてしまった。手伝いは最後までやれということだ。すこぶる面倒である。
小さめの指揮台を前に立ち尽くす。これは一人で運ぶには無理がある。十瑪岐は校舎のほうへ向かう一団に目を留めた。
「おおい幸滉ちょうどいい所に。ちょおっと手伝っていけよお。道連れになりやがれえ」
兄を見つけて大きく手を振る。だが幸滉は困った顔でとりまきを示した。
「ごめん、これから青団のみんなで反省会なんだ」
「なあにが、反省会だよ優勝したくせによお。祝賀会の間違いだろお。そこまでいくと嫌味だぜえ」
ぶーぶー文句をたれると幸滉はかすかに眉を痙攣させて、控えていた赤毛の少女を振り返った。
「椎衣、代わりにお願いできるかな」
「幸滉様のお申しつけでしたら。終わり次第ただちに合流させていただきます。調子に乗っている十瑪岐の息の根も止めておきます」
「最後以外でお願いね」
幸滉たちは去って行った。
なぜ青団の集まりに黄団の椎衣が混じっていたのかは指摘するだけ無駄であろう。
椎衣は十瑪岐を見て嘆息をつき、号令台を挟んで少年の反対側に回った。
「これを運べばいいのか」
「おう、さんきゅう狛左ちゃん。頼りになるうっ」
両側から持ち上げる。身長差があるので十瑪岐が屈まねばならない。重さはそれほどないが長時間だと腰にきそうだ。
歩幅を合わせて運動場の隅に運ぶ。木々に日差しが遮られて暑さが和らいだ。
椎衣が周囲に人がいないのを確認し、重たい口を開く。
「十瑪岐、昨日みたいなのは事前に伝えておけ。急で手加減ができなかっただろうが」
言われて思い至る。借り物競争での跳び蹴りのことだ。
十瑪岐は肩をすくめてにやにや笑いを浮かべた。
「緊急事態だったんだよお。アドリブだったが、良いアピールになったろお? 来てくれてありがと☆」
「アピールね。ふん、普段のやりとりで十分だろう。ボクがお前を嫌いなのは嘘じゃないからな」
「そう言うなってえ。これからも裏で強かに手を取り合っていこうぜ。オレたち共犯なんだからよお」
「ボクは…………」
椎衣は不快に眉をひそめ、されど否定はしない。
誰にも秘密の共同戦線。お互いに覚悟は決まっている。それでも、引き返す道を思い浮かべないわけじゃない。彼女の立場ならなおさらだろう。
十瑪岐は複雑な表情を浮かべて次の片付けへ向かった。




