ラストランは犬も喰わない
破裂音が鳴り響く。あとを引く余韻を巻き込むようにしてスタートした両者。だが走り出しの差は歴然であった。
観客の視線は人気者の生徒会役員ではなく、その対戦相手のほうへと集まっていた。
否、引き寄せられた。
少女の走りはまごうことなき全力疾走。風を切り裂く轟音が聞こえてくるかのよう。地を蹴り前へ前へと進む機構が目前を走り抜けて生徒の呼吸が止まる。
学園唯一のスポーツ特待生。肩書は知っていても、彼女の走力を実際に見た者は少ない。それを目の当たりにした観客はほぼ全員が彼女の勝利を脳裏に思い浮かべた。
あんなものに素人が敵うわけがない。
ほら、二人の差がみるみる縮まっていく。
逃げ走っている当人ですらそう確信していた。
だが一人だけ、その幻想に取りつかれず叫びを上げた男が。
『落ち着けえ! いくらスポ特生でも全力疾走で九百完走できるわけねえだろ! こっちの心を折る算段だ。必ず失速すっから気にせず走れえ!』
怒号のように響いたのは十瑪岐の声だ。彼が告げた当たり前の事実に皆の思考が現実に引き戻された。
少年も緩みかけていた気力を立て直して足に力を入れる。おかげで危ういところで追いつかれずに済んだ。
「チッ」
莟がかすかに舌打ちしてゆるやかにスピードを落とした。長距離走の常識的な速さになる。それでも十分に速いが。
十瑪岐は少女の眉の動きを見逃さず、自分の襟にはめた小型マイクへ気に障る声で呼びかけた。
『あっれえ~? なあんかクソデケえ舌打ちが聞こえましたけどお? やっだあ~、みなさんも聴きましたよねえ? 汚い手を使ってでも勝ちたいなんてやっぱお前、さては負けず嫌いだなあ?』
「…………」
莟はもちろん答えない。だが聴こえているのは間違いない。十瑪岐はさらに続けた。
『プレッシャーには弱いくせに記録出せるのは負けず嫌いだからかあ。でもそういう奴に限って競争相手のいない個人競技のときは全力出せなくて結果伸び悩んだりすんだよなあ』
「…………」
『周りの環境に影響されちゃう特待生ってどうなのかなあ? 陸上部の足手まとい共に囲まれてたら足遅くなっちゃうんじゃねえ? そりゃ一人で自主練してたほうが有意義だよなあ。かわいそお~』
「……っ。──うるっさいな! 競い合う相手が身近にいるほうが頑張れるんですよ! 友達いない人は黙っててください!」
我慢の限界だというように莟が叫ぶ。バトンは二人目に移った。
『おう誰の友達がいねえだと? 確かにいねえけどお! 言ったなこいつ。そういうお前は友達多くても親友って呼べる相手はいなかったタイプだろお』
「ぅぐっ。人の繊細な部分でフルスイングするのやめてくれませんかねっ」
『先に友達の話題出したのそっちだろうが。とても全校生徒の半数の期待を背負って走ってる奴とは思えねえなあ!』
「はっ、半数? それって千人くらい……ぐぅっ、胃が……。ちょっと黙っててくださいよ先輩!」
莟の呼吸が乱れてきた。バトンはまもなく三人目へ。生徒会チームが莟の背後まで迫っていた。
三人目へのバトンパスが莟と並んだ。十瑪岐はさらに調子を上げる。
『うっせえ誰が黙るかこの脳筋!』
「自分勝手な人に罵倒されたくないです!」
『いっちょ前に反論すんじゃねえよこの爬虫類マニア! ヤモリが巻き付いたボールペンとかどこで買って来るんだよお!』
「かわいいでしょうが! あとあれはカナヘビさんです! トカゲですから間違えんなっ!」
『知るかあ! なんだその過去見たことない剣幕は! これイモリって言ってたら殴られてる予感!』
「イモリとヤモリが同じなわけないでしょう! 全く別物ですよ!?」
『そこ普通は分かんねえからねえ!? これだからマニアは他人の目線に立ててねえんだよ!』
「はぁ!? そっちは上から目線の寂しんぼのくせに!」
言い合いはどんどん加速していく。
見守る体育祭運営本部では放送部が現状の残り距離数を実況している。
それを横目に、鳴乍がぼそりと呟いた。
「子供の喧嘩かしら……」
「いや、あれは作戦なのだね」
「作戦?」
小さな声を生徒会長が拾って、走る少女を指さした。
「見たまえ。蕗谷君のフォームが乱れている。身体に余計な力が入っているせいだ。無理に喋るから正しい呼吸もできてないのな。真面目にトレーニングに取り組む彼女にとって、走るのはあくまで厳格なルールに則ったスポーツのはず。怒鳴りながら走るなんて慣れてないのだろう。とうてい本領発揮とはいくまいね」
「十瑪岐くんはそれを狙って……?」
「彼が全員にマイクを付けるよう求めたのはこのためなのだろう。勝てないと見るや相手を引きずり下ろそうとする。あまりに愚劣だが彼らしいのだよ」
「それにしても、莟ちゃんが少し不利のようですね」
四人目の金髪少女にバトンが渡る。両陣営の差は直接距離にしてほんのわずか。総距離に換算すれば二百メートルを切っている。最初の半分ほどにまで差が縮まった計算だ。
書記は足に自信がないらしく、ほぼ並走状態でコーナーを曲がる。
「どうかな。彼女はわざと体力を温存しているのかもしれないのだよ」
莟から見れば生徒会陣営は周回遅れ状態ともいえる。だが彼らはゴールまで残り約五百メートル。十分逆転できる距離だ。
ギャラリーが盛り上がるなか、十瑪岐と莟はまだ言い合いを続けている。
「何もかも恐喝で済ませる存在懲役刑!」
『言葉に詰まったら拳で解決するタイプよりマシですう』
「気遣いの方向性y=ax²のくせに!」
『放物線ってかあ!? 対策ノート借りといて赤点ギリギリだったくせしてよお!』
「ちょっ、人の成績を公表しないでくれます!? 頭脳も身長もすくすく成長しちゃって。見上げなきゃで首が痛くなるんですよ。後輩のためにちょっとは縮んだらどうですか!」
『そっちが小せえんだろうが! 見下ろすのだって疲れるんだからなあ? あ〜あ、下ばっか見てると疲れるなあ。いっそ年中竹馬に乗って生活しててくれねえかなあ』
「楽勝ですよ。そのままドロップキック決めてやりますよ!」
『できそうで嫌あ!』
悲鳴を上げながら十瑪岐はレーンに立った。なびく金髪の十メートル向こうに息を切らせて駆ける莟が見える。余裕のない睨みつけるような鋭い視線が突き刺さって十瑪岐の背筋は震えあがった。散々煽ったおかげで目が据わっている。明らかに視線に殺意が乗っていた。怖くて泣きそうだ。
同時に確信が湧き上がる。
十瑪岐は走り出し、ついにバトンを受け取った。いっきに加速する。今までの疲労と戦っていたメンバーより遥かに速い。
だが加速したのは十瑪岐だけではない。
莟も抑えていたピッチを急激に上げる。ここで勝負を決めてしまうために、残った力をすべて注ぎ込む。
一緒に測定大会を回ったのだ。十瑪岐のタイムは長短両方知っている。だから確実に勝てるよう体力を調整し温存していた。あとはこのまま逃げ切るだけで──
「あれっ…………?」
おかしい。十瑪岐の加速が終わらない。明らかに体力測定の時よりも伸びている。引き離されていくのが分かった。
「なんでっ」
予想外の事態に焦りの声が漏れる。
十瑪岐の嘲るような笑い声が運動場に響き渡った。
「ははははは! 残念だったなあ。オレは怖え奴から逃げるときのが足速えんだよお!」
「はぁっ? どういう原理!?」
「なぜなら逆上した奴らによく追いかけられるから! 逃げれねえと死ぬ! 人間の生存本能舐めんなあ!!」
「あなたどんだけっ」
莟が最後の一周に入る。だが正面に十瑪岐の姿はない。彼は反対側を走っている。差は半周以下にまで縮まっていた。
────かわいい後輩の前で手え抜いて無様な姿晒すとかさすがにしねえって。
いつかの昼休みに聞いた言葉を思い出す。だからこそ、十瑪岐の脚力は把握しているつもりだったのに。
「アレは本気じゃなかった……」
完全に騙された。いまさらペース配分は弄れない。全力で走るしかない。だがこれ以上の加速は望めない。
残り百メートル。最後まで逃げ切れるか……?
莟の中の冷静な部分が背後に迫る駆け足を捉えた。
負けず嫌いゆえの、強烈な悔しさが腹の底から湧き上がって爆発する。
莟は気づけば出来る限り避けてきた文言を八つ当たり的に叫んでいた。
「っこんの────クズ男っ!!」
「はっはあ! やっと心の底から言いやがったな脳筋女あ! 仮にもオレの親友名乗るなら、遠慮なんかしてんじゃねえよこの阿呆!」
二人が並ぶ。がなり立てながら走ったり逃げたりするのに慣れている十瑪岐もさすがにトップスピードを維持できず減速し始めていた。互いに意地だけで抜いて抜かれての攻防を繰り返す。
コーナーを曲がって最後の直線数十メートル。
用意されたゴールテープへ前傾姿勢をとりながら、二人の視線が一瞬交差する。
「遠慮なんて、普通するでしょ人として!」
「うるっせえ! オレはなあ! 配慮できる奴は好きだが! オレごときに遠慮しやがるような奴はっ、殴りたくなるんだよっ!!」
「なんてひねくれ者!」
ほぼ同時にテープを切る。
観客からどっと歓声が上がった。




