合図で意識が切り替わる
投票は無事に終わったらしい。
終わってしまったらしい。
運動で莟に勝たねばならないという不可能にしか思えない任務が発生した十瑪岐はそれでも自分の利益を諦めない執念を持っている。
あと数分で開始時間だ。十瑪岐はとにかく自分を落ち着かせるために情報収集をしようと決めた。無知のまま無闇に想像ばかり膨らませても良いことはない。
青い顔で動的ストレッチに励む莟へ、まずは軽い挨拶をしてみる。
「よお莟。全校生徒が注目してる大舞台だなあ。調子はどうだあ?」
「おかげさまで胃が痛いしお腹がぎゅるぎゅる鳴って心拍数が異常値を叩き出してますよ」
「そりゃ良かったあ。彼女にフラれた翌朝くらい爽快な気分じゃねえか。ちなみに莟よ、一日で最高なんキロ走ったことあるう?」
「えーっと、あれは去年の冬休みで……およそ七十キロちょいですかね」
「もう飛脚なんだよなあ距離があっ!」
頭を抱えて生徒会メンバーのもとへ逃げ帰る。迎えてくれたのは貧乏くじを引いた四人だった。メガネの少年と、金髪の書記ちゃんとピアス男子、それと副会長だ。
ちなみに手足の長さが小学生と同じ生徒会長と、疲労蓄積が一番深刻な体育祭実行委員長代理はくじ引きを免除された。現生徒会メンバーはみな仲がよろしくて何よりである。
生徒会役員たちとは共に修羅場を乗り越えたおかげか、以前よりも十瑪岐に対する警戒心が下がったように思えた。
少年がメガネのズレを直す。だが眉の痙攣を隠しきれていない。
「あの莟さんに僕たちは勝たなきゃいけないの? あれ解き放ったの君だよね。なんとかしてよ」
彼のよく通る声が今は震えている。
生徒会役員の選抜基準に運動神経の項目はない。とはいえ彼彼女らはみな誇りある名家か、もしくは多額の資産を有する富豪の子息だ。無様を晒さない程度には教えを受けているはずだが。
(鳴乍を見るに、ここで万全に走れる体力があるほど訓練されてはねえよなあ。……いや、自宅で元軍人の家政婦さんが仁王立ちで待ってるのはオレくらいか……)
現状、生徒会役員は全校生徒の前で恥をかきかねない状態ではある。
それは大量の外馬を行う十瑪岐も同様だ。
「安心しろよお。莟はちょっと日本記録に近い運動神経を持ってるだけの女の子だぜえ? 専門は短距離だし、あれでも物理法則に縛られた人体だ。オレたちみんなが高校生の平均タイムを超えられれば負けるこたあねえ。んでお前ら体調はどう?」
「「「「死にかけ」」」」
「はははははっだよなあ! クッソ! こうなったら、どんな手を使ってでも勝つしかねえ!」
「法律の範囲内でお願い」
「そしたらオレなんもできなくなるけどお!? せめて都条例……いや校則の範囲内にしてくれねえかなあ!」
「校則にそんな度量の広さを求められても……」
「~~っ、とにかく全力でやるしかねえ。まさかバトンパスをミスるなんてヘマはしねえよなあ」
「走る順番はさっき話したのでいい? 君がアンカーなのに文句はない。百メートルの記録が一番早いのは君だから。けど……」
メガネ君の言いたいことを十瑪岐は理解していた。
百と四百では全く違う。そして生徒会メンバーが本調子でない以上、その遅れ分は十瑪岐が取り戻すしかない。アンカーの比重が重いのだ。
だが十瑪岐はそんなプレッシャーなど一切感じていない余裕の表情をして、地面をつま先で蹴る。
「安心しろお。作戦はいま考えた」
「どんなん?」
「訊くな。オレはオレのやり方しかできねえ。憎まれ役はオレだけでいいだろお。生徒会の皆様方におかれてましては、その気品と誇りを胸に自分の全力を尽くしてくれりゃあいいさあ。オレからお前らに求めることは一つ。ラスト四百メートル、どれだけ不利でもいい。必ず莟より前でオレにバトンを渡してくれ。形だけでも莟から追われるように頼む」
◇ ◆ ◇
兎二得学園の第一運動場はトラック一周が約二百メートル。
生徒会メンバーは一周ずつ四人走り、そのあと十瑪岐が二周走って合計六周でゴールする。
一方の莟は四周と半。スタート時点では一周半の差がある。莟に勝つためには必ず二回は彼女を追いこさねばならない。逆に言えば、一度でも莟に追い越されれば逆転は絶望的ということだ。
トップバッターの少年は軽く手足を振って緊張を解いた。トラックの外から女子の歓声が聞こえる。ファンクラブの人間だろう。少年は派手なピアスをきらめかせ、応援に対して笑みで応えた。
「応援お願いしまーす」
明るく言うと、声は数十倍になって返ってくる。声は付けさせられた小型マイクを通して他の運動場にも届くようだった。
見ればトラックを囲むように生徒たちが見学に来ている。中継だけでは満足できなかったらしい。
『では両陣営とも準備をお願いします』
体育祭実行委員長代理のアナウンスで、対戦相手の蕗谷莟がテントから出て来る。
泣きそうな顔でお腹を押さえてとぼとぼ歩いてくるのを見て、少年は同情の念を禁じえなかった。
莟は目立つのがあまり好きではないらしい。それをこんな、全校生徒の注目を集める立場に追いやられている。かわいそうだなと思う一方で、あの様子なら勝負は勝ったも同然に思えた。
いくら実力があろうとプレッシャーに勝てない人間は上にいけない。その点、生徒会役員は常日頃から度胸を鍛えられている。
アナウンスが走者の紹介を始めた。間もなく勝負開始だ。
つい先日も生徒会失敗劇場で歴代ガンダム名言モノマネメドレーをやり切っている少年は余裕の表情で軽く重心を落とした。
そして横目でトラックの反対側にいる莟を一瞥し、
「なっ」
驚きに声が出た。
莟はなぜか地に片膝をつき、両の指先で上半身の体重を支えている。
その態勢はまさしくクラウチングスタートだ。
短距離走で用いられる爆発的な推進力を得るための体勢……だったと少年は記憶している。体力の消耗が大きいから長距離で使われることはないはずだが。
(あっちだって九百走る──短距離じゃないんだぞ!? スタブロだってないのにっ)
まさかあの少女は一キロ近い距離をトップスピードで走り続ける気でいるのか。
『位置について』
困惑を置き去りにするようにアナウンスが鳴る。
『よーい……』
声に合わせて莟が深い前傾姿勢をとる。瞬間、少女の顔から雑念が消えた。まっすぐコースを睨みつける表情はまさしく、獲物の息の根を止める瞬間を夢想する狩人そのもの。
あれがさっきまで怯えた表情をしていた人間と同一人物か。背筋をゾッと恐怖が走り抜け────
パァンッ! と、空高く号砲が響き渡った。




