人は己の力によって羽化する
罠を巡らせるならば神経質なまでに丁寧に、決して正体を掴まれてはならない。でなければ、手痛い反撃を喰らうこととなる。そのことを十瑪岐は身をもって知った。
◆ ◇ ◆
十瑪岐は飯開の元へ怒鳴り込むような愚を犯さなかった。少年の根底は手段を選ばないクズではあるが、向こう見ずに目前の快楽を優先させる人間ではない。保身を第一にする思慮と、先々のリスクを予想し得る頭を持っている。
己が利己心の塊であるがゆえに、他人の悪意を推察し障害を予感できるのだ。
そんな十瑪岐の感性が告げていた。二桁以上の女生徒をいいように弄ぶあの教師は、自分の同類の驚異であると。だからこそ当人への接触は控えた。
崩すなら、外側からだ。
十瑪岐はたとえ邪知暴虐の王へ激怒していても同じことをしただろう。
コミュニティの崩壊は大抵内側からだ。彼女たちの不信感を誘発すべく、手始めに囁きかけた。
被害者の女生徒たちへ、飯開が他の女生徒にも気を持っているかもしれないと、優しく諭すように味方の顔をして。
情報を小出しにし、直接的衝突は避けつつ彼女たちの中に不信感の芽を植え付けた。時に作為的に揺さぶりをかけ、彼女たちが自ら自分の記憶や認識を疑うように仕向けた。
当時の十瑪岐は今ほど有名ではなかった。中学時代は大人しくしていたから、その本性を知る者も少ない。大勢の他人にとって十瑪岐は、葛和幸滉の義弟という認識でしかない。
だから外野から見れば十瑪岐は、明るいわりに他人を寄せ付けない、ちょっと物言いがおかしい性格の悪い奴。クラスでもその程度の認識で、だからこそ金貸し稼業が成り立っていたのだし、女生徒も十瑪岐の言葉を必要以上に警戒しない。
こうなってしまえば、あとは決め手を放るだけだ。
だがその決定的な崩壊の一手を決める前に気づかれた。
◆ ◇ ◆
飯開教諭の授業時間だった。飯開はその日ずっと青い顔をしていた。生徒からも心配のざわめきが起こっていたほどだ。
授業の終わりごろにそれは起こった。プリントを回収した飯開が目の前でふらついたのだ。自分の机に手をついた男へ、意表を突かれた十瑪岐はつい「顔色悪くないすか?」と聞いてしまった。
それが罠だった。
飯開はキッと十瑪岐へ厳しい視線を向け、「それは、君が…………!」と堪えていたものを吐き出すように言うと、悔しげに唇を噛みしめ首を振って離れていった。
飯開が行ったのはそれだけだ。だが人気者の教師が見せた普段と違う姿はそれだけで憶測を呼ぶ。
放課後にはもう、『一年生の葛和十瑪岐が、飯開教諭へ嫌がらせをしている』という話で学園内はもちきりだった。同時に周囲からの信頼もがた落ちし、女生徒たちは十瑪岐の言葉を聞かなくなる。
こうして少年は簡単に追い詰められ、計画変更を余儀なくされた。
とはいえ、一度植え付けた不信の芽は根を這って安易には抜け落ちない。まだ逆転の一打はこちらにある。虎視眈々《こしたんたん》と執拗なまでに機を待つのは得意とするところだ。
そう一度は静観に努めようかと思っていたが、十瑪岐は予期せぬ招集を受けた。
当時、生徒会副会長をしていた矢ノ根涼葉からの呼び出しだった。
生徒会棟を訪れた十瑪岐はなぜか、執行部員に生徒会長室へ案内された。
「やあ、よく来てくれたのだよ葛和君。さあそのソファーにかけて。楽にしてくれたまえ」
部屋に入ると、小学生のような少女が机でチョコレートをつまんでいた。箱にはウイスキーボンボンと書いてある。表示されているアルコール度数がえげつない。だが幼女から酔っている気配はまったくしなかった。
「なんで生徒会長の椅子に副会長が?」
挨拶の前に思わずそう言ってしまった。すると見た目幼女の先輩は大人びた表情で自慢げに笑う。
「兎二得の生徒会がすべて前年度の役員からの推薦形式で成り立っているのは知っているね? あたしはすでに会長から内辞を頂いているのな。来期の生徒会長に就任予定だ。つまりこの椅子はもうあたしのものも同然なのだよ」
「わあ! それはおめでとうございますう!」
「まあ、今日はたまたま生徒会長が休みというだけだけれどね」
「そんな偉大な方のお目にかかれるなんて光栄ですう。オレは葛和十瑪岐です。矢ノ根のご息女のお話はかねがね。どうぞお見知りおきをお」
「媚びるのが早いのだね。やはり思った通りの人物のようなのな。君は今日、どうして呼び出されたのか分かるかな」
「飯開先生をオレがイジメたって話でしょう? ごめんなさい反省してますう、以後気を付けますそれじゃあこれにてえ」
「待つのだよ」
余計な悪印象を残す前に逃げようとして、引き止められてしまった。観念して振り返ると、人が変わったように真剣な表情をした女性と目が合う。思わず息を呑む十瑪岐に副会長は声を低くして語りかけた。
「あたしはこんな姿だが、人を見る目にだけは自信があるのだよ。……飯開教諭に裏があるのは察している。だが具体的なしっぽが掴めなくてね。ずっと隙を窺って来た。君は、飯開教諭が初めて見せた瑕瑾なのだ。君と彼の間に何があったか、腹を見せてはくれないかね」
「へえ。オレを信用できるんすかあ?」
「いいや。だが、君は次期生徒会長のあたしに恩を売りたくてたまらないはずだ。あたしに対してつまらない虚言は吐くまい? 君みたいな人間は、どうすれば自分にとって一番有益になるか理解できるはずなのだよ」
「あんたには嘘を吐かないほうがオレの利益になるって確信してるとお?」
面白がってニヤける十瑪岐の言を、涼葉は笑みだけで肯定する。
十瑪岐は内心冷や汗をかいた。
あの瞳にはすべてを見透かされている気がしてならない。根拠もないのにそんな思いが先に立つ。少なくとも彼女が見た目通りの人物でないことは確かだろう。
「さあ、君の持つ飯開教諭の情報を惜しげもなくあたしに晒すのだよ。さすれば君のことも、上手く使ってあげるのな」
矢ノ根涼葉の傲岸不遜ともとれる要求に、十瑪岐は頷きで返した。
◇ ◆ ◇
「んでなんやかんやあって会長の協力の下、飯開の所業の証拠を固めて学園と教育界から追放したってわけえ。矢ノ根会長はオレの意図を可能な限り汲んでくれた。オレはとにかく悪評だろうがなんだろうが名前を売りたかったからなあ。だから飯開をオレが個人的に攻撃して陥れたって形にしたんだ。それが今の現状、葛和兄弟のクズのほうっつう称号なのさあ」
あらかた話し終わると、弁当を片付けた莟が元気よく手を挙げた。
「はい先輩、質問です。その事情を学園の生徒どころか被害者の人たちまで知らないのはどういうことです?」
「はい莟良い質問。被害者の身内とそういう取引をしたからだあ。矢ノ根会長に付き添ってもらって、被害者の保護者連中にはことの経緯を説明してる。そのうえで、世間にも本人にも事実を公表しない約束を交わした。いやあでけえ会社の社長やら代表取締役やらと対等以上にお話しできるなんて光栄だったよなあ」
思い出し下卑笑いを堪えきれない十瑪岐だった。実際には矢ノ根の令嬢が隣にいたのでもはや対等以上どころか一方的な蹂躙ですらあった。そんな虎の威を借りる狐状態でも気分良くなれる十瑪岐である。
「でも内緒にしてたら先生の被害を訴えたりできないんじゃ」
莟の心配を、鳴乍が横から正した。
「お金と権力がある人間は体面を気にするものなの。卑劣な教師に騙された女、なんて評判が出回るのは避けたいのよ。傷物の価値は下がるものだから。その事実を隠匿できるなら多少の対価を払ってでも願い出るでしょう。十瑪岐くん貴方、自身の人望と引き換えに被害者たちの家に大きな貸しを作ったのね」
「元からないもん売っ払ってリターンが出るなら最高の取引だろお? 元手ゼロで大儲けえ。あ、思い出し涎出そお」
「貴方が幸福そうでなによりよ十瑪岐くん」
微笑ましげに笑って箸を置く。ずっと喋っていた十瑪岐もようやく弁当を片付け生徒会の備品で入れた麦茶をあおる。
一息ついたところで、またしても莟が手を挙げた。
「一つ分からないんですけど、飯開先生が奥さんと離婚させられたのってどうしてですか? 学園から締め出すだけなら、よそ様のご家族にまで危害を及ぼす必要はなかったのでは?」
「危害とか人聞き悪いなあ。あのなあ? オレは飯開みてえなクソ男に騙されてる善良な奥さんとお子さんを諸悪の根源から引きはがしただけだぜえ?」
お道化てみせるが、莟のほっぺは膨らんだままである。
(こいつ、さては自分が納得しないと先に進めないタイプだなあ?)
薄々気づいていたが面倒くさい後輩である。十瑪岐は悩んだ末、実感を共有することにした。こういう時はお決まりの定型句から始める。
「これは友達の話だがなあ?」
「先輩、友達ほとんどいないのに?」
「…………これはオレの話なんだがなあ?」
「言い直すのね」
女子二人の相槌に出鼻を挫かれつつも、十瑪岐は麦茶で唇を湿らせ説明した。
「子供のころによお、なん両親がぎくしゃくしてると子どもは気を遣うだろお? しかもその理由が分かんねえもんだから解決のしようもねえ。原因知らねえからどのワードが地雷かも分からねえ。ヘタに内緒にされようものなら親に話を聞くのも憚られ、いろいろ推測して落ち込んで。いつの間にか自分のせいにしちまう。だったら分かりやすく崩壊してくれてたほうがいいんじゃねえかなあと」
「自分のせいにしちゃう気持ちは分かりますけど……。だからって」
「莟ちゃん、彼が言いたいのはね、形のない不安感に苛まれ続けるより、『お父さんが女子生徒に手を出しまくって両親が離婚しました』って分かりやすい理由があったほうが、気持ちの整理もつくってことよ。どちらがいいのかは人それぞれでしょうし、本当のところは両方体験した子ぐらいにしか分からないけれど」
注釈を入れて、鳴乍が小さくため息を吐く。
「それにしてもやりすぎ、という点については莟ちゃんに同意よ。十瑪岐くんの攻撃は徹底的すぎるのよ。敵を自分の世界から締め出したいのは分かる。けど、その締め出した先で相手の人生は続いてるんだってちゃんと考えて」
「なあんでオレがそいつらの未来まで考えなくちゃいけねえんだよ」
「今回みたいに貴方へ復讐しに来るかもしれないでしょう。互いのためにも、奪う壊すばかりじゃなくて何後も穏便に済ませるべきなのよ。もっと他にやりようがあるでしょう」
教え諭すような語調で鳴乍が微笑む。対する十瑪岐は皮肉げに片眉を押し上げた。
「オレは手段を選ばねえ。つうか、恨まれる以外の方法を知らない。……どうにかしたいならお前が手綱を握れ」
十瑪岐は甘やかに笑って、自分の首を両手で絞める。
「赤の他人のためになんて吐き気がするが、鳴乍のご命令なら特別だあ。犬みてえにお利口に我慢して、ちゃあんと言うこと聞いてやるよお」
◇ ◆ ◇
部屋のカギを所定の場所に返して鳴乍は一人、教室へ戻ろうと校舎を進んでいた。角を曲がろうとしてその先に一人の少年が待ち構えているのに気づく。突然現れた影に一瞬だけ肩が跳ねた。
頭の形に切り揃えた髪に、怯えの浮かぶ目元。小さな背丈は楠間田だった。腕には『取材中』の腕章を付けている。
「あ、あの二人なか、仲直りしたんだね。よかった」
見ていたように楠間田が口元だけで笑う。ひきつった不出来な笑みに、鳴乍は特に感慨もなく頷いた。
「ええ。そうね」
「でも、よ、よかったの?」
「どういう意味?」
胸の内にかすかな騒めきを感じて聞き返す。
心配を顔一面に貼り付けて少年は言った。
「だってく、久米さんは、十瑪岐くんの、こと、好きでしょう。ほか、他の女の子がち、近づくの、いいの?」
シャツの裾を指で擦って楠間田が首を傾げる。鳴乍は嘆息を吐いて明るい笑みを浮かべた。
「私は彼の友人だもの。彼が楽しそうなら、私はそれでいいのよ」
「そ、そっか。うん、そう、そうだね」
慌てたように肯定する楠間田の肩を、鳴乍はすれ違いざまに叩く。
「新聞部の活動は大変そうね。でも、私が生徒会役員であることはちゃんと意識していて、楠間田くん?」
そのまま足を止めることなく去っていった。楠間田は顔を青くしてその背を見送る。
「やっ、やっぱり、生徒会こ、怖い……。うう」
遅れて身震いする。どんなに鈍感でも今のは分かる。ちょっかい出して来るなと遠まわしに釘を刺されたのだ。
少年はスマホを取り出して、画面を操作した。そして画面の向こうにこぼすように呟く。
「ゆさ、ゆさぶり、二人ともき、効かなかった、よ、先生。次は、ど、どうしよう、か」




