偽装善人
夢独特のピンボケしたような境界の曖昧な景色に、懐かしい思い出が浮かんでくる。声が先に響き、その正体はうつらうつらと輪郭を得る。
『誠実であれ鳴乍。篤実であれ。高潔であれ。慈悲と慈愛によって他者と接するのだ』
父は何度でも繰り返す。
『僕たちは他人よりよほど完璧でなければならない。誰にも文句を言わせないように。誰にも付け入られないように』
優しい言葉をかけられたことはない。世間的には厳しい父親なのかもしれない。だが鳴乍が父を悪く思ったことはない。必死に娘を守ろうとしているが故の態度であるとぼんやりと伝わっていたから。
『決して、後ろ指を差されるようなことをしてはいけない。僕らは祖先が積み上げた誇りと負債を永遠に抱えていかねばならないのだから』
耳が痛くなるくらい聞かされて、けれど耳をふさがなかったのは、それこそ誠実でない行為だと幼いながらに理解したから。
親戚の人間も一様に、父と同じようなことを言う。皆それだけ家のことで苦労してきたということなのだろう。
外から嫁入りしてきた母だけは実感もないようで、
『みんな鳴乍に難しいことばかり言うわねぇ。そんなにたくさん、応えようとしなくていいのよ? お母さんが鳴乍に守って欲しいのはたった一つ。誰かが目の前で苦しんでるときに、笑っていられるような人間にならないでほしいってこと』
娘の頭を撫でながらそう笑う。しかし、鳴乍は笑みを返せない。
(それが一番むずかしいのよ、母上。
だって、苦しんでいる人を見るのは、とっても楽しい。その顔をもっと苦痛に歪ませたいって──)
そんな自分の本心に蓋をしたのは、もしかしたら初等部に上がるより前だったかもしれない。
鳴乍はみんなに良い顔して、そうやって本心から距離を取って、家の教えを強固に守ってきた。優しい笑みと誠実さで壁を作って他人との距離を守る。
別に無理はしていない。ただちょっと羨ましいだけ。自分のしたいように生きている彼のような人間が、妬ましいだけ。
(十瑪岐くん……)
始めて会った時のことを彼は覚えていなかった。床下から生えてきた手に出しすぎたハンドクリームを分け与えた程度の出来事だから、忘れられてしまっても仕方ない。
だからきちんと顔を合わせたのは、鳴乍が先輩から生徒会役員に推薦されて、生徒会棟へ話を聞きにいった十一月の半ば。彼が神妙な顔で生徒会長室から出てきたときだった。
鳴乍から声をかけて、それから互いを見かければ立ち話するくらいの関係になった。
少し話して分かった。葛和十瑪岐はどこまでも自分勝手な人間だ。自分勝手だからこそ、相手の都合より己の都合で他人を貶めたり助けたりする、おかしな人間でもある。その結果他人にどう思われても気にしていないようで。飯開先生の件で学園中から冷たい目を向けられたときもむしろ楽しそうだった。
そんな、鳴乍にできない生き方をするあの少年がどうしようもなく眩しい。
(──私ははじめ、この感情を恋なのだと思った)
目がそらせない。顔を見れば胸が高鳴る。話しかける理由をいつも探して、笑みが交わればそれだけで指先がしびれる。
その症状は話に聴く『初恋』というものに酷似していた。
だからそれなりに勇気を振り絞って告白したのだ。
彼は予想外にあっさりとOKしてくれた。予想外だったのは、十瑪岐が普段の態度からは想像できないほど、男女関係というものに不慣れだったこと。
『ええっと、恋人同士は手を繋ぐもんなんだったかあ? なぜえ? なんのために? いつ繋げばいいんだあ? くそおっ、教えてくれウィキペディア先生!』
『そこはせめて知恵袋先輩に頼まない……? くふふっ』
『わっ、笑ってんじゃねえー! ちくしょおっ、荷物お持ちいたしますよお!? え、これも違う?』
……否。慣れていないという言葉だけでは済ませられないほど、十瑪岐は何だかおかしかった。鳴乍の頼みは断らないし、無駄に献身的だし。なにより全人類を利用価値で判別しているはずの少年が、恋人に対して無条件に優しい。あと手を繋ぐ理由なんて手フェチを喜ばせるで十分なはず。
他人に優しくし慣れないせいか加減が分からないようで、十瑪岐はどんどん空回りしていく。
そんな無様な彼の姿に益々高揚していってしまう自分がいて。
(もっと私に必死になって。もっと私で苦しんで、もっと私で、もっともっともっと────溺れ死ぬくらい私でいっぱいになってくれないかしら)
ついに浮かんだそんな願望を、鳴乍は自分で否定した。
こんな歪んだ感情は恋じゃない。
恋であってはいけない。思ってはいけない。だって、恋っていうのはもっと輝いていて、純粋で、お互が幸せになれるような、そういう感情のはずだ。相手を一方的に不幸にするものじゃない。
このままじゃ自分はいつか、この手で彼を苦しめようとするかもしれない。
それは駄目だと直感した。背筋を這って全身を震わせる、家の教えを守れないという恐怖。だがそれ以上に恐ろしいのは……。
好きな人を不幸にして喜ぶような自分が、鳴乍には受け入れられない。
久米鳴乍は、誰より誠実な人間でいなければならないのだから。
こうして鳴乍は十瑪岐との交際を諦めた。
『どうやら告白したのは間違いだったみたい』と言って。
言葉の通りだった。初めから告白なんかしなければ、自分のこんな汚い一面を知ることもなかったのだ。
だが別れたあとも十瑪岐への感情に変わりはなかった。彼の存在が好ましく、離れがたい。恋でなければなんだったろう、と鳴乍は頭をひねらせる。
そうして思いついた。
きっと嗜虐心だ。
どれだけ消そうとしても浮き出て来る自分の悪癖が、性癖にぴったりの少年を見つけてうずいたに違いない。
初めから恋じゃなかったのだ。
一緒にいたいと思ってしまうのは、単純に彼が面白いから。
ときめきだと思っていた感情はぜんぶ嗜虐心だし、嫉妬はペットに発揮するようなありきたりの独占欲に過ぎない。
種を明かしてしまえばそんなものだ。
だったら友達でいればいい。離れるのだけはどうしても耐えられなかったけれど、せめて友達でいい。友達なら恋人じゃないから、その不幸に微笑んでしまってもまだ許されると思う。
だから葛和十瑪岐は、久米鳴乍の初恋ではないはずなのだ。
『よお鳴乍』
恋じゃないから、名を呼ばれて胸がくすぐったくなるのも、すぐ慣れる。すぐ治る。
自分の理論が破綻していることから、鳴乍は無意識に目をそらした。
◇ ◆ ◇
意識が曖昧から浮上する。呼ばれた気がしてふと目を開けると、目の前に夢で見たのと同じ顔があった。
「おっ、目え覚めたか。気分はどうだあ?」
「……悪夢に魘されてた。十瑪岐くんには本当、参るよ……」
「オレ出演してたんかあ。夢のオレが出ずっぱりですまん。ギャラの明細はあとで発行しとくなあ」
「ええと、現状説明お願い」
上半身を起こして鳴乍は辺りを見渡す。どうやらベッドに寝かされていたらしい。三方を白いカーテンに囲まれている。消毒液の匂いがするここは保健室だろう。
なぜ自分が保健室で寝ていたのか。記憶が不確かで経緯が分からない。
「硬球が頭にヒットして気絶したんだよお。救急車……は矢ノ根会長に止められたからあ、家に迎えだけ頼んでるぜ。眩暈とかしねえか? まっすぐ病院行けよお」
説明を終えて、十瑪岐はレールカーテンを勢いよく滑らせた。
「おらテメエら!」
そこには、莟に腕の関節を極められて逃げられない男子生徒が二名。
「「すっ、すみませんでしたー!!」」
ずっとその態勢で拘束されていたのか、半べそかきながら頭を下げる。そんな二人を十瑪岐が顎で示した。
「コイツら球技用ネットのねえ場所でキャッチボールしてたんだよ。校則で禁止されてたよなあ? なんか言ってやれ生徒会役員」
「そう。危ないから、今度から気を付けて。学園の決まりは守るのよ? 分からないことはなんでも生徒会に訊いてくれていいから」
安心を誘う微笑みを向ける。男子二人の顔をパッと明るくなった。
「「はいっ!! ありがとうございます!」」
「さすが慈愛の女神なんて呼ばれてる人!」
「もしや学園一の良心なのでは!?」
「マジ怖かった。助かりました!」
「もうしません!」
男子たちがまくし立てる。鳴乍が莟へ視線を向けると承知したように手を放した。
二人は何度も頭を下げながら保健室を出て行った。
無言で見送った十瑪岐が、むすくれ顔で鳴乍をねめつける。
「お前、それだけかよ」
抑えた声に苛立ちが濃く滲んでいる。鳴乍はあえて普段通りの語調で答えた。
「他に何かある?」
「今回は目え覚めたからよかったがなあ、当たり所悪かったら死んでんだぞ? もおちょい怒るかなんかしろよ」
「怒るのはあなたたちが散々やったのでしょう。あんなに怯えて、彼らは十分反省してたじゃない。私が追い打ちかけたって彼らのためにならない──」
「あいつらのことじゃなくてお前のことだよ。お前がそれで満足すんのかってえ聞いてんだ」
偽証を許さない視線が鳴乍を貫いた。焦げ付くような温度を、まぶたを結んで受け流す。そうやって本心に透明な膜をかけた。
「するよ。貴方の信条は『情けは人の為ならず』なのでしょう? そうよね。私も似たようなもの。私は私を嫌いになりたくないから、自分を好きでいたいから、こういう自分であり続けるの。全部、自分のためよ」
「………………そおかよ」
呟きは小さいながらも突き放す調子ではなかった。まだ納得いっていない顔だが、どうにか飲み込んでくれたようだ。幼い子供がすねたような表情に鳴乍は苦笑をもらした。
「そうよ。だから十瑪岐くんも、私のために怒らないで。頑張らないで。……苦しまないで」
「んなことしねえよ。お前はただの友達なんだから。今のはオレがイラついたから怒っただけだっつうのお」
「うん。いつまでも、そういう十瑪岐くんでいてね?」
願いを込めて笑いかける。すると十瑪岐は言葉を喉に詰まらせ口をへの字にしてしまった。黒目が泳ぎ、口角が震えている。顔が赤くなっているのは歯を食いしばってでもいるからか。
突然どうしたのだろうか。まるで緩む頬を無理やり引き締めているようだ。
話がひと段落したからか、カーテンに隠れていた人物が顔を出す。
「あの、ほ、本当に大丈夫? 頭の怪我は、あ、あとから響く、響き、ます」
吃音混じりの声の主は、気絶する前に見た少年だった。
背丈はコンパクトで、目じりには常に怯えが漂っている。髪を頭の形に切り揃えているのがお坊ちゃんの様相を呈していた。制服のサイズが合っていないのかシャツの裾が余ってズボンからはみ出している。少年は落ち着かない様子で裾の生地を指先で擦り合わせていた。
鳴乍の笑みがひび割れの音と共に凍る。
「君は……たしか楠間男くん」
「く、楠間田です。ま、間男みたいに呼ばない、で」
「ごめんなさいね、認識が……」
「にん、認識?」
意味を掴みかねたようで楠間田が小首をかしげる。
そのタイミングでちょうど保険医が入ってきた。
「久米さんお迎えが来ましたよー。裏門まで来てください」
「はい。すぐ行きます」
「鳴乍先輩、お荷物はここに持ってきてますよ。お供します」
「ありがとうね、莟ちゃん」
呼ばれた鳴乍は莟の手を取ってベッドを出た。十瑪岐から見ても足取りはしっかりしている。むしろ後輩と合法的に手を繋げて手フェチはご満悦な様子だ。
必要以上に心配しても意味ないだろう。十瑪岐は背伸びをして楠間田の小さな背を押した。
「あーっもうオレらも今日は帰ろうぜえ」
「あ、うん。あの……」
「ああ?」
「ぇうっ、ぼ、僕はてつっ、手伝いをしてもいいのかな」
楠間田が不安そうにズボンを握る。その手が震えているのを見て、十瑪岐は少年の肩に付けられた『取材中』の腕章を視界に入れつつ好青年の笑みを浮かべた。
「おう、役立ってもらうわ。明日からよろしくなあ」
「! うん!」
心底ホッとした表情はどこか過剰にも思え、十瑪岐はかすかに眉をひそめた。




