恋煩いは煩わしい
十瑪岐は幸滉に嘘をついた。椎衣は何も知らないのだと嘘をついた。そう頼んだのは椎衣だった。
椎衣は、幸滉が自分の父親のことで負い目を感じていることを知っている。
だが自分が幸滉の隠したがっていることを知っているとバレたら、それどころか、彼すら知らない真実まで把握していると彼が理解してしまったら、どんな顔をするのか。見たくなかったから。
椎衣は何も知らないのだと、嘘を吐かせた。
それが椎衣の幸滉に対する唯一の不義理だった。
細切れに破り捨てられた鑑定書を拾い集めながら、椎衣は浴びせられる罵声を胸の底に落とし込む。
「ですから夫人、ボクはこれ以上、幸滉様が苦しむさまを見過ごすわけにはいかないのです」
対峙する女性は椎衣の突然の裏切りに怒りを露わにして言葉にならない何事かを叫び続けている。
幸滉は母親をなにより大事に想っている。だからできるだけ、彼女を傷つける方法は取りたくなかった。けれどこうなってしまったら──幸滉の何もかもを救いたいと言う我が儘を通すというのなら、何かを切り捨てねばならない。
そうして無慈悲に壊すのは、この女性の自尊心。
そんな残虐を成すのは、十瑪岐の口車に乗り、さらには莟の提言を受け入れた、自分の役目に違いなかった。
「貴女が産んだのは間違いなく、旦那様の御子です」
子供のように泣き叫び狂乱する女性に椎衣は淡々と事実を突きつける。
飛んできたカップが頭に当たり、割れてこめかみを切ったらしい。温かいものが頬を流れていくのが見なくても感じられる。しかし血液の帯びる熱とは裏腹に頭は冷水を浴びたように冷え切っていた。
予想はしていたが、幸滉の母親は事実を受け入れようとしない。どうせこうなるからと十瑪岐と椎衣は彼女との対峙を避けていたのだ。
しかし椎衣たちの企みを通すためには、幸滉かもしくはこの女性か、どちらかの反抗意思を奪う必要がある。幸滉を立てるなら、犠牲は自然とこちらになる。椎衣はこれから完膚なきまでにこの哀れな女性を糾弾し間違いを正さねばならない。
何度目かの宣告を繰り返そうとするとスマホが震えた。十瑪岐からの合図だ。最後の切り札もどうにか揃ったらしい。これで後顧の憂いなく安心して、夫人を追い詰めることができる。
椎衣は通話を繋げたままスマホをテーブルに置き、それから部屋の外に声をかけた。
恐る恐るといった調子で男性が部屋へ入ってくる。その顔を見た途端に夫人の動きが止まった。手招きされてようやく扉を閉めた男は怯えた目で床にへたり込んでいる女性を捉える。
この男こそ、椎衣がずっと探していて、つい先日やっとカルフォルニアから連れ帰って来た人物だ。
「お……お久しぶりです、昌胡さん」
男が掠れた声で呼びかけ、気まずげに目を逸らす。呼ばれた夫人は絶句していた。互いの表情はとても十八年ぶりの再会には見えない。
男の名は佐野雅史。かつて葛和昌胡が恋をした相手。しかし昌胡が身ごもるとそっと姿を消してしまった、昌胡の実家の元使用人だ
彼こそが幸滉の本当の父親だと、昌胡が密かに言い張っている相手でもある。佐野は想像よりも酷い昌胡の様子に愕然としているようだった。
「夫人、どうか彼の言葉を聞いてくれませんか」
視線で促すと、佐野は意を決したように眉に力を入れて喉を鳴らした。
「俺は確かにあの頃、あなたに淡い気持ちを抱いていました。あなたは美人で品があって儚げで、何より俺に優しかったから」
男は記憶を辿るようにたどたどしく語る。
「でもそれは、男なら誰でも抱くようなもので、特別なものじゃなかったんです。なにより雇い主の娘さんに手をだすような真似は俺には無理です。嫁入りしてったはずの屋敷に急に俺だけ呼び出された時だって、そういうことは欠片も考えてなかったんだ。
だから昌胡さん。俺たちがあの夜に結ばれたというのは、あなたの妄想です。あなたに押し倒されたとき、俺は怖くてあなたを突き飛ばして逃げた。それ以来あなたに関わるものからも逃げました。だからまさか、あなたがずっと──」
その先を口にするのは彼にとってよほど苦痛らしい。当たり前だ。自分の知らないところで勝手に父親扱いされ、しかもそれが事実無根となると受け入れがたいだろう。
佐野はどこにでもいる、弱くて優しいだけの人間だ。嫌なことからは目を逸らすし、耐えられなければ当然に逃げ出す。何も悪いことではない。けれど、逃げ出したあとも、置いていかれた人間の人生はしこりを残して続いていくのだ。
椎衣は姿を消した佐野を数年かけてやっと探し出し、何も知らない彼にそのしこりの有様を伝えたのだった。
『貴方を不快にさせるだけなのは百も承知です。そして必ずしも昌胡様のためになるとは限らない。むしろ昌胡様を追い詰めるだけかもしれない。ですからこれはボクの我が儘です。身勝手なお願いです。どうか──。どうか幸滉様を救うために手を貸してはくれませんか』
しぶる彼の前で土下座までして誠心誠意そう頼み込んだのだ。十瑪岐がやるポーズだけの土下座とは違う、己のすべてを賭けて額を地にこすりつける姿勢。
すると佐野は正義感が動かされたのか、勢い込んで了承してくれた。憎まれ役を買って出てくれたのだ。
佐野は金髪を振り乱したまま微動だにしない昌胡を悲痛な眼で見つめる。
「まさかあなたが、自分の息子を自分の妄想につき合わせて苦しめていたなんて、知りもしなかった。それに俺が巻き込まれていることも」
お前は被害者ではなく加害者なのだと、言外に突き付けるように。
「俺と昌胡さんは、赤の他人です」
それがとどめだったのだろう。昌胡の目から涙があふれ出した。さっきまで悪鬼のように暴れていた女と同一人物とは思えないほど、弱弱しく静かに泣き始める。
まるで初めて失恋した幼い少女のようだ。とても自分の息子を復讐の道具にしようとしていた女には見えない。
佐野が彼女の前に膝をつき、薄い肩に触れた。そのまま振り返って椎衣にぎこちない笑みを見せる。
「狛左さん、こっちは俺に任せて。学校に向かいなよ」
「ですが──」
「大丈夫。外に警備員さんもいるし、それにやっぱり、昌胡さんと言葉も交わさず逃げ出した俺にも非はあるから」
視線が、置きっぱなしのスマホへ向かう。
「なにより君が優先しなくちゃいけないのは幸滉くん、でしょう?」
そっちは俺じゃどうしようもないし、と佐野が気弱に呟く。椎衣は頷くと、いつも通りの力強い表情に戻った。
「はい。あの人こそボクの最優先事項です」




