複雑な感情は純情
「ふんのああああ!」
今日という日に際し特別に開放された教室に十碼岐の雄叫びが響き渡った。
身体の一部分に神経を集中させ力を込める。己が筋肉を極限まで緊張させて限界を越える。こめかみに浮かんだ青筋が今にも切れそうなほど歯を食いしばり、そして……
「はい、四十六キロです。握力は平均ですね」
「っだあクソ! 去年と変わんねえ!」
専用用紙に数値をメモる莟の声に十碼岐は一気に脱力した。
兎二得高等学園、晴天の今日は測定大会の日である。
生徒は各々《おのおの》で校舎を回り、各所に設置された測定所にて体力測定と身体測定を一日で終わらせる。全校生徒参加のイベントだった。
こなす数は多いものの丸一日使うのでゆったりと回ることができる。最低でも放課後までに終わらせられれば、測定の順番も自由である。効率の良い生徒の中にはもう昼過ぎに帰宅している者もいた。
とはいえほとんどの生徒は気ままに時間いっぱい使って用紙を埋める。校舎の廊下も運動場も夏用の体操服を着た生徒でいっぱいだ。
十碼岐は握力測定所を出て、莟と共に次の測定種目へ向かう。
莟が伸びをした。
「どうして測定を六月にやるんでしょうかね。普通の学校は四月にやりません?」
「このバカでかい学園で四月にやったら一年生が遭難するだろ」
「確かに校舎も多いですよね。いくつ棟があるんでしたっけ」
「旧棟と体育館も合わせりゃあ十五は超えてんな。増改築で入り組んでるし」
「それは絶対に迷う。そのうえ敷地の半分は山と見紛う自然豊かさでしょう? 自主連で学園外周を走ってると熊に会ったりしますよ」
「熊出るのかこの教育機関!?」
「間違えました。熊の毛皮を被った人間です」
「恐怖の度合い変わんねえ! だあれそれえ!?」
「原住民のかたでは?」
「そりや日本じゃ不審者って意味だなあ!」
「でも蜂蜜喉アメくれるんですよ」
「知らねえ熊から経口摂取する物を貰うんじゃありませんっ!」
今度遭ったら呼び止められても逃げなさいと指導する。莟はなぜか不満顔だった。
「それにしても……とめき先輩って意外とぜんぶ平均値ですよね。上回ってるのは反復横跳びくらい。あ、短距離はいい数字出てますね」
「全測定で成人男性の平均軽々越えてくお前が異常なんだよ」
手にした莟の記入用紙に目を落す。数値を記入する欄の横には同世代の全国平均が書かれているのだが、莟の数値は軒並みそれを大きく上回っていた。
「つか体脂肪率が七パーセントて。そりゃ胸に行く余裕ねえわなあ」
視線が身体の一部分へ向かってしまう。その視界が突然に暗転した。体勢が前のめりになる。どうやら下方からのアイアンクローを受けたらしい。ガッチリ頭を固定されて動けない十瑪岐に、腕の主が薄く笑う気配がする。
「別に大きさとか気にしてませんが。走るとき邪魔そうとすら思いますが。そうやって嘲笑と哀れみの目を向けられるとどうしてでしょう、不思議と指に力がこもるんですよね……」
「悪かったってえ! 目つきは生まれつきなのお! そーいうんじゃなく自然と思っちゃっただけで悪意はなかったんですマジにい!」
誠心誠意の謝罪で視界が開けた。危なかった。手加減はされていたが万力を締めるように爪が食い込みかけていた。
「もう、発言には気をつけてくださいよ。わたしはいいですけど、本気で傷つく女の子も世の中にはいるんですから」
「いえっさあ。オレだって相手は選んで喋ってるっつうの。お前の胸なんざ興味ねえし。っと測定もあと半分か。さあて、次どこ行きますかねえ」
「さっき向こうの体育館が空いてるの見ましたよ」
「お、でかしたぞ莟。あそこ時間によっては激込みだからなあ……ってなんだよ、その目は」
「いえいえ、なんでもありませんよ?」
褒めてやると必要以上に微笑ましげに笑う。十碼岐は不可解に表情を歪めた。
ストーカー事件以来、莟の視線が時折、妙に生優しいのが気味悪かった。ストーカーに怯える彼女を置いて帰ったときは怒っていたというのに。
莟の盗まれた私物も狛左椎衣経由で返したから、十碼岐が莟の件で手を回したことはバレていないはずなのだが。
(もしや狛左ちゃん、なんかもらしたか?)
口は堅い少女だがわりと分かりやすいところあるからな~とそれで納得する十碼岐である。本当は椎衣が洗いざらい莟に話してしまっているのだが、そんな報告を受けていない十碼岐は自分が莟に”やり方ともかく助けてくれる人”として認定されてしまったとは夢にも思わない。
「というかですね、なぜわたしはとめき先輩と測定日を回らなきゃいけないんです?」
体育館に向かいながら莟が不平をもらす。クラスメイトと教室を出ようとした莟を、十碼岐がわざわざ迎えに来たのであった。
十碼岐はその質問を待ってましたと言わんばかりにこれ見よがしなため息をつく。後ろから莟の両肩を掴んで、ゴマを擦るように手を動かした。
「仕方ねえだろ、兎二得の測定日はグループで回るのが鉄則なんだ。幸滉は狛左ちゃんとさっさと行っちまって見失うし。オレに教師と回るボッチ黒歴史を生成しろってかあ? パシリならオレのパートナーくらいやってくれよお」
「他に仲いい人いないんですね……。肩もみしなくても付き合ってあげますから耳に吐息吹きかけないでください。先輩の声って無駄にゾワゾワするっ。というかですよとめき先輩」
「なんだあ」
「そろそろパシリから友達にランクアップさせてほしいんですけども」
下唇を突き出し拗ねたように申し出てくる。虚を突かれた十碼岐は遅れて這い上って来たえも言われぬ気恥ずかしさに思わず胸の高さにある莟の頭を手で押さえた。
「オレの友人ハードルはクソ高えんだよお。そう名乗りたきゃもっと役に立ておらおら」
「うきゃあーグリグリしないでくださいっ。ちょっ、やめ」
「うーん、頭小せえからなんかの操作レバーみてえ。ほれガシーンガシーン」
「やめろおおおおおおおっ何を操縦してるおつもりで!?」
陽光の反射でオレンジがかったボブヘアーを前後左右に倒すが、体幹が良いからか足取りはしっかりしている。そうやって腹の底から笑っていると体育館についた。莟の言ったとおり閑散としている。
これなら体育館での測定は待ち時間なしで終わりそうだ。そう見渡した十碼岐は、一人だけ長袖のジャージを着て短パンに黒タイツを履いた季節感のおかしな少女に視線が釘付けになった。
「あっ、十碼岐くんだ」
「ぐおっ……」
十碼岐を見つけて袖から出た左指をひらひらさせるのは、十碼岐と同じくらい長身の少女だった。
(会わねえようにしてたのに……)
ウルフカットに整えられた髪はくすんだアッシュグリーンで、毛先にいくほど色素が薄い。長身と女性らしい体つきも相まって雑誌のモデルのようだった。いや整えられた表紙などより生き生きとした彼女のほうがよっぽど衆目を惹く。
鋭くも暖かい瞳は赤子の眠りを見守る猫のよう。その眼を一筆で書いたように細めて笑うのが大人びた印象から離れて可愛らしい。
もう一生会いたくないとまで思っているはずなのに、六秒後には見返したくて堪らなくなる、そんな彼女の顔を十碼岐が見間違えるはずがない。
「久米鳴乍……」
喉の奥に何かが詰まっているような呻きで名を呟く。するとあろうことか、鳴乍は一緒にいたクラスメイトらしき者達に断ってこっちへ駆け寄って来た。
「十碼岐くん久しぶり。へぇ、後輩のかわいい女の子を連れ歩いてるって話は本当だったのね。やるのねプレイボーイ」
「からかってんじゃねえよクソ……」
「え、どなたです?」
冷えた空気を感じ取って莟が首を縮める。笑みを浮かべたまま口を開こうとしない鳴乍に代わって、十碼岐はしぶしぶ少女を紹介した。
「こいつは久米鳴乍。二年生で生徒会会計職。日本売上ナンバーワン、世界十七か国に事業展開する警備会社クメセキュリティ、その代表の一人娘だ。ちなみに曽祖父の代まで組率いてた元極道一家のお嬢様だよ」
「あっ、ほとんど言ったね」
「会社の名前CMでよく見る! ご、極道の方でしたか」
「大丈夫よ。父の代からは完全に足を洗ってカタギになってるから。安心してね。私も指詰めとか二回しか見たことないし」
「カタギでは一生お目にかかれないはずの数字!」
「くふふっ、十碼岐くんこの子面白いね」
恐怖に飛び退く莟に、笑いを堪えて口元へ手をやる鳴乍。十碼岐は苦い顔のまま莟の背を叩いた。
「怯える必要ねえぞお。コイツの冗談は分かりにくいんだ。過去の汚泥を引きずったまま世界にまで進出できるか。少なくとも身内はみんな汚職と無縁の清廉潔白だろうよ」
「えっじゃあ冗談なんですか?」
「ごめんね、可愛い子を見るとついからかいたくなっちゃって」
鳴乍が指先を合わせて謝罪する。
「許してくれる? 蕗谷莟ちゃんだったよね。よろしく」
「は、はい……。よろしくお願いします……」
美人な先輩に甘えるようにそう言われては、莟は頷くことしかできない。
呆ける莟とは対照的に、十碼岐が喧嘩腰で前に出る。
「んでえ? フッた男になんの用ですかあ? 傷口にシーソルトでも擦り込みにきたんですかあ?」
「あそっか。お二人ってお付き合いなさってたんですよね、一週間」
すっかり頭になかった莟である。この二人に関していろいろと噂が出回っていたのだ。いつの間にかもう聞かなくなったが。
鳴乍はあっさり肯定する。
「そうよ。いわゆる元カノだ」
「そんなすぐ嫌気が差すほど酷かったんですか、この男」
経緯がどうであろうと別れたのは事実なはず。さすがに気になった莟だったが、鳴乍の瞳に少しだけ影が差したのを見て胸がざわついた。鳴乍は柔らかに笑って否定する。
「違うよ。彼と別れたのは私の自分勝手な都合。十碼岐くんはなにも悪くない」
「?」
「そうね。いうなれば……私は十碼岐くんに好意を持ってるけど、恋人関係とはちょっと違ったかなってだけ」
「感情の解釈が違ったんですね」
「近いかな」
「なんでお前らは分かりあってんだ。オレには一寸も意味わかんねえんだがっ」
「ごめんね十碼岐くん」
打ちひしがれる十碼岐に鳴乍はそれ以上の弁解をせず、ただ微笑む。
「そんなわけで、恋人になるのは違ったけれど、私の貴方への好感度って何ら変わりないのよね。これで貴方との縁が切れてしまうのは悲しいことだと思う。だから、ねぇ十碼岐くん」
世界を好意的に捉える輝かしい大きな瞳が真っ直ぐに、ひねくれ曲がった十碼岐の視線とぶつかる。
「私を貴方の、友達にしてほしいの」