なまえ
思い出すのは夕暮れ時の公園だった。
たまたま出会ったリーマン風の男性が、莟の持っていた名札に反応したのだ。
「この辺りで葛和といえば、おそらく私の息子たちだろう」
簡単に事情を聞いてから、男は枝で地面に文字を書く。
『幸滉』『十瑪岐』と二つの名前が並ぶ。男に読みを教わって、莟は片方に目を吸い寄せられた。
「十瑪岐、って不思議な名前ですね。漢字の選び方も独特だし」
「音は私が付けたんだ。字は十瑪岐の父親が決めた。わざと意味を込めず、目についた漢字を組み合わせたそうだ」
「意味のない……?」
「ああ。彼は言っていた。『その生まれを特別にしたくなかった』。誕生をただ当たり前に祝福され、当然のように幸福になって欲しい。そう願って付けたそうだ。息子に何も背負わせたくなかったんだろう」
男が遠くを見るように目を細める。莟はこの時この話を深く考えずに聞き流した。その本当の意味を理解したのは、十瑪岐から彼の出生に関する秘密を聞いた後のことだ。
十瑪岐の育ての父は、本心から願っていたのだろう。十瑪岐に、自分の生まれに縛られて生きて欲しくないと。
「幸滉は逆だな。あいつを構成するのは、生まれた瞬間から背負わされたものばかりだ。私の息子であり、大企業を背負う者の嫡男であり、家族の空気が冷えている。何も感じるなと言うほうが無理な話だ」
「ご家族は仲良くないんですか?」
直球で訊くと、男は苦笑した。
「見合いという体はとっていたが、ほとんど政略結婚のようなものだったさ。そのせいか妻と私の関係は冷え切っていてね。彼女に子育てを任せていたからか、幸滉もまた、私をよく思っていないようだ。おかげであの子とまともに喋れたことがない」
「んー、問題児なんです?」
「いいや、逆さ。優秀すぎる。跡継ぎに十分すぎるほど、こちらの期待に応えてくれる。だがそれがあの子の意思であるのか、重荷になっていないのか。私には答えてくれないだろう。養子を迎えるとき、そのことを薄っすらぼやいたら、十瑪岐はこう言ったんだ」
弄んでいた枝を放って男が地面の文字列に目を落とす。
「『オレが全部ぶっ潰して、あいつの本音を引きずり出してやる。あんたは絶対に手を出すな』とね」
喉の奥で笑った男の目元は、楽しそうに緩んでいた。
「葛和という存在があの子たちの枷になるのなら、こんなもの壊してしまったほうがいいと思う。思っていて実行できないのは、私が多くの生活や、人生を、この背に乗せてしまっているからだ。革新を行う人間と同じくらい、現在を守る人間は必要だ。私は後者でしかいられない。だからこそ私は十瑪岐が何をしようと静観するつもりでいる。あの子たちがどんな道を選ぼうと、守り支えてやれる大人が必要だ」
それから幾ばくかの談笑を交えて、男は腕時計に撫でた。
「ああ、そろそろ戻る時間か。今頃みなが血相を変えて私を探し回っている頃だ」
「おじさん、サボりだったんですね」
「ふふっ、たまにはね。息抜きも人生には必要さ。君は聞き上手だからつい話し込んでしまったな。……ん? あれは、まさか。狛左め。まさか可愛い娘まで動員するとは。卑怯な」
遠目に駆け寄って来る赤毛の少女を見止め、男は慌ててスーツの内ポケットから名刺を取り出した。
「気が向いたらここに連絡を。また話をしよう、お嬢さん」
クセ毛をワックスで撫でつけた男は、そう言って去って行った。
それ以来、莟と彼はラインでよくやり取りをする友人である。
◇ ◆ ◇
文化祭の準備が本格化しだしていた。どのクラスも明確な方向性を固め、代表者が下準備に奔走している。そんなにぎやかな空気の中、椎衣は人目を避けて放課後の教室を抜け出した。
暗躍を達成する間者のように、誰にも気づかれなかったはずだった。
目的地まで自分の真意は気取られるはずがない。そう自負すら持って廊下を進んでいた。だが椎衣の前には、待ち受けていたとしか思えない仁王立ちで目の前に立ちふさがる少女が。
蕗谷莟。
一つ年下の、何かと縁のある少女。
待ち伏せされていたのだと、とっさに覚った。
莟は挨拶もおざなりにして膨らませた頬から文句を吐き出す。
「とめき先輩がおかしいのはいつもですけど、狛左先輩まで様子がおかしいのはどういうことですか」
「どうと言われてもな」
まさか本当のことを言うわけにもいかず、そう口ごもる。十瑪岐と違ってこういった駆け引きは苦手なのだ。上手い返しが思いつかない。
椎衣の反応をどう受け取ったのか、莟が神妙な顔つきで小さく頷いた。
「言いづらいことですか。お二人のご様子……分かります。二人して苦しんでる。……お通じ、ですね? 何日目ですか?」
「真面目な話をしに来たと違うのか!」
「もちろん冗談です。三割くらいは本気でしたけど」
「もう無視してもいいだろうか」
これみよがしにため息をつく。莟はたははと笑った。
「そういう冗談で済むならと思ったんですよ。本当は『葛和をぶっ壊す』……。そのために何かしているんじゃないですか? それも幸滉先輩に対して」
「どうして」
「おとうさんから聞いてたんです。とめき先輩がそのために動くって。文化祭は絶好の大舞台でしょう。予想も付きますよ。で、何をするおつもりですか」
『おとうさん』と、その呼びかたが誰を指しているか理解している椎衣は思わず眉をひそめた。莟は葛和の社長の、年の離れた友人だ。まさかそんな話までしているとは。
誤魔化すのは不可能か。椎衣は重たい口を開き、幾度か躊躇った後ようやく告げた。
「これから十瑪岐と会う約束だ。巻き込まれる覚悟があるのなら、姿を見せずに聞き耳でも立てていることだな」
それだけ言い捨てて莟の横をすり抜ける。当然のように後ろをついてくる莟に、椎衣は足を止めて問いかけた。
「どうして十瑪岐にそこまで肩入れする」
「親友ですから」
「本当にそれだけなのか」
即答に振り向いて、後輩の少女を見つめる。自分と同じ原動力を彼女も持っているのではと探るように。
莟が長いまつ毛をさっと伏せ、瞳に憂いをにじませる。
「ご期待に沿える答えは持ち合わせてないんです。でも……そうですね」
目を閉じて、微かに首を傾げて微笑を浮かべる。作り物ではない、本心からこぼれた笑みのようだった。
「これは恋じゃないけど、わたしにとって最上級の愛情であることには変わりないですから」




