最終トラック 出走前
夏休みが終わり新学期が始まった。
暑さは薄らいでいないというのに、何を目安に夏季の休暇は終わりだと決めつけられねばならないのか、と文句も言いたくなるはずの今日。だというのに、学園はまた浮足立っていた。
理由は簡単だ。今から約一か月半後に一大イベント、文化祭が控えているからだ。
兎二得学園文化祭、通称『兎二祭』の盛り上がりは体育祭の比ではない。
開催はまだまだ先に思えるが、ほとんどのクラスが夏休みの登校日に出し物の話し合いが終わっている。そのため新学期が始まるとすぐに文化祭の準備が始まるのが通例だ。
気の早い文化部が掲示板に張り出したカラフルなチラシを視界に収め、葛和十瑪岐は片手でスマホを操作していた。
後ろだけ跳ねた黒髪直毛が頭を揺らすのに合わせて微かに上下する。少年から粗雑な印象を受けるのは、なにも制服を着崩してるせいだけではない。
皺の寄った眉間から弧を描くように伸びる力強い眉の下で、人を常に見下しているみたいな眼が神経質に痙攣している。よく見れば目鼻立ちは整っているのにその下卑た雰囲気がすべてを台無しにしているようだ。
その証拠に、登校時間の一階廊下だというのに、十瑪岐を認識した生徒たちは大抵が彼を避けて速足に立ち去っていく。そうでない者も遠目に観察するような視線を向けるだけだ。
そのため、彼に声をかけるその少女はいっきに人目を引いた。
「とめき先輩おはようございます」
軽い呼びかけに十瑪岐が身体ごと少女のほうを向く。
「お、おう莟。久しぶり──って、はあっ!? 待ておい、ギプス取れてんのはいいが、なんでもう普通に歩いてんだよ!?」
十瑪岐は驚愕して間抜けにもあんぐりと口を開けてしまった。
声だけで分かってはいたが、そこにいたのは蕗谷莟だ。
少女の浮かべる笑みの眩しさに十瑪岐はちょっと目を細める。
見る者を明るくする笑みの少女だ。大きな瞳には輝きがあり、小さな口は自然に口角を上げている。
健康的に焼けた肌が彼女の元気な印象をさらに明るくしている。光の具合で橙色に輪を作る髪は見ないうちに少し伸びて、ボブヘアーからそろそろロブになりそうだった。
にこやかに自分を見上げて来る親友は相変わらず可愛い。道行く生徒も思わずちらりと目を向けずにはいられないほど。
それはいい。いいのだが。
身長の低い彼女を見下ろす視線をさらに下げると、骨折してギプスがはめられていたはずの莟の足には代わりにゴツめのサポーターが巻かれているのが分かった。ベルトできつく固定されているので動きづらそうだ。
眼を見開く十瑪岐に莟は自分の左足を見下ろし、なんでもないようにまた十瑪岐を見上げる。
「そりゃもうあれからひと月以上経つわけですし癒着したわけですよ。何を驚いてるんですか」
「まだひと月ちょいしか経ってねえから驚いてんのよお」
医者は全治三か月と言っていたはずなのだが。「まさか完治かあ?」
「いえ、さすがにまだリハビリ中です。部活も見学だけですし。復帰にはもう一週かかりますね。こんなに動かなかったの初めてなので筋肉だいぶ萎縮しちゃってるかもなぁ」
「…………」
親友のフィジカルの高さに思わず絶句してしまう十瑪岐であった。
「なんか……もう化け物じみてきたなあお前」
「へへ、なんですか急に。モンスターエナジー的な有用性だなんて」
「なんで嬉しそうなのお?」
◇ ◆ ◇
会話を適当に切り上げてそそくさと自身の教室へ去っていく十瑪岐の背中を、莟は首をひねって見送った。
(なんだろう、やけにあっさりしてるような)
二週間ぶりに会ったのだから、もっとうざったらしく絡んでくるものとばかり思っていたのだが。
何より学園はすでに文化祭に浮かれている。それは相手の足元をすくうのに適していることにも繋がり、十瑪岐の動きは活発になる──つまり莟への出動要請が増えるだろうからもっと機嫌取りにへりくだってくるかと。
予想が外れて莟は自分の耳たぶを指でさすった。
ちょうどスマホが震える。画面を灯すと、十瑪岐からのメッセージだった。
内容は簡潔で、しばらく昼食会は控えようと書かれている。スクロールしようとしても文字は上に飛んでいかない。いつもは二、三言はあるはずの説明や理由は付随していなかった。
「なんなんだろ……?」
違和感を覚えて、莟は唇を尖らせた。そのまま視線を落として小さく誰にもとなく呟きをこぼす。
「きっとそろそろ葛和をぶっ壊す計画を手伝わされるんだろうって、そう思ってたんだけどな」
◇ ◆ ◇
様子がおかしいのは十瑪岐だけではなかった。
彼女の変化を敏感に感じ取ったのは幸滉だ。
普段は自分にぴったり付いてくるはずの狛左椎衣が、今朝は理由もなく別々に登校していた。自分のことよりも葛和と幸滉を優先する彼女が珍しい。いや珍しいどころではない。今までなかったことだ。
それに夏休みが明けてから、椎衣の態度がなぜかよそよそしく感じられていた。
今も幸滉が話しかけようと彼女の席を振り返ると、その赤毛は教室を出ていくところだった。彼女が幸滉に行き先も告げずに離れるなど尋常ではない。
そんな椎衣を見たことがなかったから、幸滉は昨日からずっと彼女との接し方を測りかねていた。
もしや自分が何かしてしまったのかと不安を覚える。だが、どれだけ記憶をひっくり返しても心当たりなどあるはずもない。
本当は頭を抱えたいほどだが、それは彼のプライドが許さなかった。クラスメイトの誰が見ても、幸滉の挙動はいつも通りだ。
明るいブロンドヘアーに、中性的な整った顔。誰もが羨み、特に女子からの熱い視線を浴びるように集める学園の王子様的立ち位置にある少年。
そんな兄がひっそり浮かべる微かな困惑を、十瑪岐だけが横目で監視するように盗み見ていた。




