クズなりの幕引き
莟が啖呵を切る姿を見守る者達がいた。
莟のいる場所から約四十メートル後方。体育館横に付属した非常階段の踊り場に二人座り込んでいる。
「今回は王子様の出番は必要なさそうだね。十碼岐のお願いも毎度こうなら僕も余計なもて囃されかたしなくて済むんだけど。じゃあ先に帰るよ」
幸滉がイヤホンを外して立ち上がる。椎衣は彼にカバンを差し出した。
「はい。迎えの車はすでに待機させております」
「ありがとう。十碼岐の後始末よろしくお願いね椎衣。彼女の襟に付いてる盗聴器も取ってあげて」
「かしこまりました」
頭を下げ、主人を見送る。本当ならば彼が自宅に着くまで護衛として付き従いたいのだが、今日はそうもいかない。十碼岐に頼まれた仕事は莟の安全確保。せめて彼女が学園を出るまでは警戒せねば。
気を引き締め目視で少女を確認しようと立ち上がると、同時に勢いよく物体が飛んできた。少女の姿をしたそれは、余裕をもって手すりに着地する。
「よいしょっ……ん? あれ? お久しぶりです狛左先輩。どうしたんですこんなとこで」
「どうしたはこちらのセリフだ……」
飛んできたのは莟だった。前方の倉庫の屋根を渡って来たらしい。確かに下は一般生徒が入れないようフェンスが張ってあって通り抜けられない。迂回せず陸上部の部室へ向かうならここを経由する他ないが。
断じてここは道ではない。
「あ、ここからあっち見える。もしかして、さっきの見てました?」
振り返って自分がさっきまでいた場所を確認したのだろう。不可解そうに聞いてくる少女に椎衣は。
「…………」
十碼岐の応答はない。すでにインカムを外してしまったようだ。指示は仰げない。
誤魔化すべきか、正直に話してしまうか。どっちにしろ面倒だなと眉間のしわを深めた。
◇ ◆ ◇
「意味わかんない。なんなんだ。なんで俺を頼らない。なんで俺にすり寄らない。なんで、自分のほうが恵まれてるみたいな顔してんだ」
マネージャーは部活をさぼり、息を切らせて寮の自室へと飛び込んだ。フラれたその足で陸上部の練習に行くなどできはしない。唇が裂けるほど屈辱に歯を食いしばる。
部屋に入り電気を点けると、いるはずのない人間が椅子に腰かけ笑っていた。
「はあい、お帰りなさい。こうして会うのは初めましてだなあストーカー野郎」
下卑た笑いを浮かべるのは間違いない。想い人に近づく虫。憎き葛和兄弟のクズのほう。
驚きのあまり尻餅をつく。
「くっ、葛和十碼岐!? どうやって俺の部屋にっ。ここのセキュリティは万全なはずで!?」
「どんな完璧な警備システムも管理してんのは人間の手なんだよなあ」
「寮監を脅したのか!」
「まさかあ。ちょうっと貸しがあるだけだよ。そんなことより澄君、ひっでぇお部屋を片づけてあげたのにお礼もないのかなあ?」
「は…………なっあれっ、写真が? コレクションは!? テメエ、俺の宝をど、どこへやった!」
落ちついて辺りを見渡しようやく異常に気付いた。壁一面に張っていた拡大写真も、机の上に出ていたはずの録画データもなくなっている。おそらくコツコツ集めて引き出しに仕舞っておいた莟の私物もないのだろう。
あんなものが外に出たら、自分の評判がどうなるかはさすがに分かっている。
慌てふためく澄を見てクズがゲラゲラ笑う。
「もちろん証拠として回収しましたあ。澄君のお父さんにも報告済みでえす」
「は?」
さっと血の気が引く。父さん? こいつが言っているのは、あのすぐ手をあげる厳しい父のことか?
「いやあ、パパさん話が分かる人だねえ。澄君がストーカーに成り下がったって証拠写真と一緒に突きつけたらあ、すぐ転校手続きしてくれたよお。週明けから行くのはここより厳格な男子校だってさあ。寮生活も禁止、自宅通いにシフトチェンジ! たったそんだけの罰で済んでよかったじゃん」
「なっ、なにも良くない!! そうだ、お前のせいだ! お前が莟になんか吹き込んだんだな!」
「はあ? 自分の失恋、他人のせいにしてんじゃねえよ。好きな女へこませて喜ぶような下種がよお」
十碼岐が突然立ち上がり近寄ってきたかと思うと足を振り上げた。
「があっ!」
顔面を蹴り上げられた。壁に挟んで踏みつけにされる。開いた口にローファーの踵が入り込み咳き込むこともできない。
口内に血の味が広がる。きっと歯も何本か折れたに違いない。あまりの痛みに涙がにじむ。
そんなひどい有様を見て、十碼岐は愉快げに笑い声をあげた。
「はははははは! そうそう澄君、小学生のとき壁に顔面衝突して前歯全部セラミックになったんだってねえ。パパが最新の良いやつ買ってくれるらしいからあ、いまのうちに全部外しとこうかあ?」
ぐりぐりと踵を押し付けられる。澄は必死に十碼岐の足から逃れ、咳き込んだ。
「なんなんだ。お前には迷惑かけてないっ!! おっ、お前も莟が好きなんだな!?」
血と唾液が混ざった泡を吹きながら叫ぶ。
抗議の声に十碼岐は面倒臭そうに首を鳴らし、これみよがしに大きなため息をついた。
「阿呆かお前。なんでもかんでも惚れた腫れたで済ませやがって。恋愛とか当分は勘弁なんだよオレは」
「ううう嘘だ! こんなことしてもお前の得にはならない!」
「あのなあ、オレのモットーは『情けは人のためならず』なのお。オレ頑張ってる奴って好きなんだよねえ。デカい利益を生むのはいつだって必死に頑張ってる連中だろ? その利益が巡り巡ってオレの懐に入るわけだあ。何においても大切にしてやらにゃいけねえだろう? なのにさあ、そういう頑張ってる奴につけ込んで足を引っ張る、自分の徳しか考えてねえ連中が一番鼻につく」
「ゔぉえっ!?」
腹を蹴られて澄が嗚咽を洩らす。十瑪岐はさっき靴に付いた唾液と血を拭うように胸元を踏みつけた。
「そう、お前のことだよクソ野郎。あ〜あ、見てるだけで鼻が不快に曲がりそうだあ。詰まった下水のがまだ愛着湧くってもんだぜ。根性腐ったヘドロ野郎が、オレの利益を害するな」
ニヤニヤした目が狂気じみた睨みに変わる。
全身を寒気が走り、澄は恐怖のためか痛みのためか、あっけなく意識を手放した。
「……うわっ気絶してやがる。マジか驚くほど根性ねえな。精神杏仁豆腐か? 葛和近辺に生まれてたら三回は死んでんなこいつ」
倒れた澄をつついて十碼岐が呆れ声を出す。
「オレが駄目押しするまでもなかったねこりゃあ」
まとめてベランダに出しておいたストーカーコレクションを引っ張り出した。
澄が盗んだらしき莟の私物──ノートやペン、ハンカチなど──もあったが、写真や盗撮データがほとんどだ。自身で設置したらしき隠しカメラの映像もあった。学内の映像ならば有益なものが映っているかもしれない。処分する前に椎衣に預けて分類を頼むことにする。
「にしても他人は他人でしかない、ね。オレみたいなこというのな、あの後輩」
耳のイヤーカフスを指先で弄んで呟く。ついでみたいに漏れ出た言葉の先から、脳裏にいつかの景色が浮かんだ。
手には自分のものではない名札を握りしめ、ずぶ濡れになって歩いている子供。濡れて縮れた前髪からは泣き喚いて真っ赤になった目が覗く。それは間違いなく、葛和になる前の自分だ。
たどり着いた公園には青色のペンキが剥げかけた、空洞の遊具があった。地面は雨で泥濘んでいる。遊具にあけられた丸い穴から、声を抑えて泣く誰かの細い足が見えて──
「………………なんて、まさかな。一年の梅雨時期なら、オレはまだギリギリ葛和じゃあなかったはずだ」
こんなのは記憶ではなく、脳が想像から捏造した映像だ。そう自分を納得させて、葛和十碼岐は浮上しようとする予感をかき消した。
【一周目 フィニッシュ 二周目へ】