初恋トレッドミル(仮説)プロローグ クラッカー告白
──お前はただあの家を破滅させる毒であればいい。
身内から浴びせられたそんな言葉が、いまだに人生を縛ってやまない。
■ □ ■
あの胸の痛みこそが失恋だったとようやく自覚して見上げる太陽は、いつもより目に沁みるものなのだと知った。
◇ ◆ ◇
迫る梅雨の気配を空気の柔らかさに感じる火曜日の朝だった。
校門から一直線に伸びる並木道を、一人の少年が大勢の女子から遠巻きな視線を浴びながら進んでいた。前からも後ろからも、もちろん横からも熱い視線は飛んでくる。
少女たちは互いを牽制するかのように少年へ近づくことはない。一定の距離を保ちながらついて来る様子は、さながら台風のようであった。
中心にいるのは、金色の柔らかいくせっ毛をした少年である。優しげで落ち着いているのにどこか幼くも見える顔立ちは中性的だ。均整のとれた体格に高校生の平均を超えた高身長。真っすぐに伸びた背筋はそのまま彼の誠実な人格を表すようだ。
一分の隙もない詰襟がいっそ軍服のようにも見え、飾り立てればそのままどこぞの王子と見間違えられることだろう。彼の放つ柔らかで浮世離れした雰囲気と相まって絵本から飛び出てきたかのようだ。
少年が少し微笑みかければ、少女たちは誰しもが、彼こそ自分の運命の人に違いないと頬を赤らめる。
見た目で得する人間の筆頭のようなこの少年の名を、葛和幸滉といった。日本有数の大企業、葛和グループの御曹司である。
資産家や歴史ある有名老舗店の子息が集まるここ私立兎ニ得学園の中でも、幸滉はそのルックスからかひと際目立つ。彼の登校に会わせて女生徒たちが色めきたつのは毎朝の恒例行事であった。
そんな、校舎まで続くと思われた人垣が一か所、さっと割れた。
颯爽とやって来るのはいささか粗雑な印象の少年だった。後ろの跳ねた黒髪の直毛に、着崩した制服、通学カバンに指をひっかけ適当に担いでいる様は半グレの不良に見える。せわしなく周囲を観察する瞳と癇に障るにやついた口元が彼の性格の神経質さを表しているようだった。
放つ空気は幸滉と対照的なもの。唯一近しいのは身長くらいか。
特に人を不快にさせるのが目だ。この少年に微笑まれれば、致命的な弱味を握られたに違いないと皆が顔を青ざめさせるだろう。よく見れば顔立ちは整っているものの、この下卑た目つきがすべてを台無しにしていた。
少年が一歩進むごとに少女達は一様に背後のキュウリに気付いた猫のような俊敏さで道を開ける。その顔は出現した害虫から逃げんと強張っているようだった。少年の登場に気付いた向こう岸の少女たちも不快に表情を歪める。
早朝の爽やかさに似合わない騒めきが起こった。中心にいる幸滉には遠すぎて意味をとりかねたが、口々に呟かれる単語がいくつか認識できた。
―—たった一週間でフラれたって。
——葛和兄弟の”クズ”のほう。
それだけで振り向かなくても誰がやって来たか分かってしまう。
「よお兄ーちゃん」
背中を叩かれた衝撃があった。母音が掠れて聴こえる低い声。どこか病みのにじむ甘やかな響きのあと、肩に腕を回される。
幸滉は不愉快に歪みそうになる眉根を、ため息をつくことで整えることに成功した。
「その呼びかたはやめてくれないか。僕は洋画の主人公じゃないんだ」
「んなミュージカル顔してんのにい?」
「どこ見て下した判断かな?」
「全部」
「そうかその目は節穴だったね」
腕を下ろさせて振り向くと、見慣れた葛和十碼岐のニヤニヤ顔があった。
「そう邪険にすんなよ幸滉お兄さまあ」
「義理のね。……君、これだけ騒がれてるのによく登校できるね」
「なんのことだ?」
「久米さんのことだよ」
幸滉は声のトーンを落した。すでに周知のようなので何の意味もないことではあったが、こういう話は大声ですべきではないとの配慮からだ。
幸滉は一瞬だけ周囲に目を配って重い口を開いた。
「クズの葛和十碼岐が告白してきてくれた女の子に一週間でフラれたって。もう孤立した新入生の耳にだって入ってる。初日に泣かせたとか、酷いデートをしたとか、無理矢理に体の関係を迫ったとか。君が一日休んでいる間にもう噂のバリエーションが増えてる。何が本当なんだ」
問い詰めるニュアンスと共に義理の弟を見る。すると十碼岐はお道化るように肩をすくめた。
「いやあ噂の渦中とは人気者だなあオレは! 最後のには断固抗議するが。一つ確かなのは、フラれたのはオレのほうだってことだ。『どうやら告白したのは間違いだったみたい』だとよお」
「うわっ、初彼女だったろう? さすがに哀れがすぎる……」
「なあに? 慰めてくれんの? 貰えるもんは何でも貰うができりゃあ換金できるものがいいでえす! 鮭とか!」
「そりゃイクラだいって? あつかましいな。まったく一日休んだくらいでよく学校に来れるよね。僕だったらあと三日は引き籠ってる。いや去年のアレの時も十碼岐は普通に学校来てたっけ。ははっ今回はあの時よりきつかったってことかな」
「はっ。お前、女どもにへつらってる時よりオレに悪態ついてるときのが良い顔してるぜ。今日は周りに睨み利かせてくれる狛左ちゃんがいないんだ。気ぃつけろ」
「――――っ」
楽しげな口調に幸滉はハッと口をつぐんだ。心中にじわりとした冷たさが広がるが、十碼岐が出した名前に意識が引っ張られる。十碼岐はいつもの調子で嗤った。
「てか本当に珍しいな、狛っちゃんいないの。いっつもカルガモみたいにお前について歩いてんのによお。普段より女子の壁が分厚かったのは番犬の睨みがなかったせいか」
「彼女なら今朝ご両親に呼び出されたそうだよ。遅れて登校してくるだろう。珍しいと言えば君のほうだ。こんな早くに」
「たまには早起きするさあ。三文の得なんだろ? 今日ってのは知ってんだ。三文ぽっちだったらえんえん泣いちゃうけどなあ」
「言いかた気をつけて。預かってるよ、十碼岐のぶんのお小遣い」
カバンを開き父親から預かった封筒を渡すと十碼岐が歓声を上げた。
「おおっ、サンキュ。ついでにお前の分も貸してくれよ。どうせ使わないんだろ? 二倍にして返すからさあ」
「そう言って前回の分をまだ返してもらってないんだけど?」
「そだっけかあ?」
十碼岐が封筒を日にかざして猫なで声を出す。女子達がまたざわついた。あちこちから”クズ”という言葉が聞こえてくる。それが二人の苗字である葛和とは違う響きであることを幸滉はよく知っている。
頭が痛くなるのを微笑みで隠してため息をもらした。
「はぁ……今朝はやけに機嫌が悪いな。さっきからわざとやっているだろう」
「その悪評に巻き込まれる自分のことも考えてちょうだい弟よ、ってか?」
「義理のだよ」
大事な部分を繰り返す。
「んな肩書はすぐ意味なくなるだろ。葛和グループトップの椅子はオレが奪う。お前はオレに蹴落される。そのためにこんな面倒くせえ学園でコネ作りまくってるんだ。そうだろお?」
「十瑪岐の野望はどうでもいいけれど、クズだなんだと避けられるのは逆効果じゃないのかい?」
言い合いながら二人はひと際目立つ大木に差しかかった。学園創立前からあるという楠で、路の半ばまで太い幹を伸ばしている。
その真下に着たとき、頭上で突然パアンッと破裂音が響いた。
「うわっ」
「なんだあっ!?」
兄弟は驚きに足を止めた。
ちょうど真上に何かが降って来る。
その何かが、十碼岐の額と勢いよくぶつかった。
「あぎゃっ!」
「いっでえっ!?」
それの正体が一人の少女だということと、少女が幹に足をひっかけてぶら下がっているのだと気付くのに数秒を要した。
「ううっ、ごめんなさい、出るの遅れすぎちゃった。ちょっと下がってもらえますか」
言われた通りにニ、三歩後ずさると、兄弟はようやく少女と目が合う。
額の痛みに涙目になっているのは、溌剌とした印象の少女だった。逆さになっておでこが全開になっているせいもあったろう。小柄で、顔が小さいから瞳が余計に大きく見える。髪の色素が微かに薄いのか、木漏れ日が当たってオレンジがかった輝きを放っているような錯覚を覚えた。
手の中に使用済みのクラッカーが握られている。紙吹雪などの入っていない空砲タイプだ。さっきの破裂音はこれだろうと兄弟は同時に当たりをつける。
少女は失態を恥じながら、仕切り直すように咳払いした。
「こほんっ、初めまして葛和幸滉先輩、とめき先輩。わたしは一年四組の蕗谷莟といいます。とっ、突然ですが」
少女は一瞬だけ口ごもり、意を決したようにクラッカーを握り潰した。
「お二人のどっちかがわたしの初恋だったかもしれないんです。お二人のことを知りたいから……なので、えっと……以後お見知りおきを!」
勢いのまま言い切ると、身体を持ち上げ幹から軽やかに飛び降りる。そのままボブヘアーをなびかせ校舎へと走り去っていった。見惚れるような美しいフォームだった。
「…………なんだったのかな、いまの」
幸滉が思わず呟く。十碼岐もおでこのたんこぶをさすって呻いた。
「知らん。ったく、『間違い』だの『だったかも』だの。頼むからもうちょい頭使って恋愛しろってんだよクソが……」
いつも楽しげな義弟が珍しく沈んだ顔で空を見上げ、太陽の光に目を細めていた。