ある伯爵令嬢とその婚約者が引き起こした、異様な婚約破棄騒動の顛末
ウィルコックス侯爵家の嫡男バティストと、分家であるオリンズ伯爵家の令嬢トリスは遠縁──いわゆる、はとこ同士に当たるが婚約を結んでいる。
というのも、一族の魔力が弱まるのを避けるためだ。
この世界では、魔力が高ければ高いほど価値のある人間だとみなされる傾向がある。
その昔、本家であるウィルコックス一族はその高貴な血が薄まることを恐れ、いとこ同士や叔父と姪など血族で婚姻を結んでいた。
だが、近親婚を繰り返したせいで一族内に重度の精神疾患や身体障害を抱える者が増加したため、ここ数十年は積極的に族外婚を行っていたのだ。
「憂鬱だわ……」
トリスはそう独りごちながら、豪奢な馬車に乗り込む。そして、座席に腰をかけると小さく嘆息した。
実のところ、トリスは一歳上の婚約者──バティストのことをあまり良く思っていなかった。何故なら、彼の異常性を知っているからだ。
バティストと婚約を結んだのは、まだトリスが六歳の頃。彼とは、はとこの関係らしいがそれを知らされたのは婚約してから数年後のことであった。
年々、ウィルコックス家の人間の魔力は弱まってきている。このまま放っておけば、一族は完全にその価値を失ってしまいかねない。
とはいえ、近親婚をすれば遺伝性疾患のある子供が生まれやすくなる。
そこで、程よくウィルコックス家の血を受け継いでいるトリスがバティストの婚約者として選ばれたのである。
前述の通り、バティストは異常な一面を持っている。
あれは、トリスが九歳、バティストが十歳の頃のことだ。
当時、バティストは身の回りの世話をロイという下男にさせていた。
ロイは、バティストより一歳上の小柄な少年だ。歳の離れた付き人よりも同年代の付き人のほうが息子も気兼ねなく接することができるだろう、というウィルコックス侯爵の計らいで彼が世話係としてあてがわれたと聞いている。
バティスト曰く、彼とは気のおけない友人のような関係らしい。
しかし、トリスは懐疑心を抱いていた。何故なら、日頃からロイがどこか怯えているように見えたからだ。
バティストは賢くて人懐っこい子供だ。その上、まるで宗教画の天使のように美しく愛らしい外見をしているし、そんな彼を疑う者などトリス以外誰もいなかった。
確かに、バティストはロイに対して友好的に接している。けれど、それはあくまでも「目に見える範囲」での話なのだ。
ある日、トリスはウィルコックス侯爵邸の庭園で偶然ロイと彼の同僚である下女の話を聞いてしまった。
その下女はロイよりも少し歳上の十三、四歳くらいに見えた。一先ず、トリスは二人に気づかれないように慌てて木陰に身を隠した。
「どうしたの? ロイ。今日は一段と元気がないわね。もしかして……また、あのお方にひどいことをされたの?」
「ああ、はい……でも、大丈夫ですよ。僕、打たれ強いから」
そう返すと、ロイはにこっと笑った。
思えば、彼はいつもこんな風にへらへらと笑顔を浮かべているような気がする。
トリスには、その様がまるで苦痛をひた隠しにしているように思えて仕方がなかったのだ。
「やっぱり……! 大丈夫なわけがないでしょう!? さあ、傷を見せて! 手当てしないと……」
「そ、そんな……大げさだよ!」
拒むロイを無視して、下女はベストとシャツを半ば強引に剥ぎ取る。
そして、彼の背中が露わになった瞬間。トリスは目を見張った。
(何、あの傷……! それに、あのお方って一体誰のこと……?)
ロイの背中には、無数の傷跡があった。それどころか、ついさっき負ったであろう生傷まであり、血が滲んでいる。
「ひどい傷……」
下女は絶句していた。
恐らく、彼女の言う「あのお方」が付けた傷なのだろう。
「……ねえ、やっぱりあのお方の付き人は辞退させてもらったら? もしよければ、私が旦那様に掛け合ってみるわ。旦那様なら、きっとわかってくれるはずよ。だって、とてもお優しい方だもの」
下女は心配そうにロイの顔を覗き込むと、そう提案した。
彼女の言う通り、ウィルコックス侯爵は社交界では有名な人格者で、孤児院に多額の寄付をしたりスラム街で路上生活を送っている孤児に声をかけて住み込みの使用人として雇い邸に迎え入れたりしていた。
(あのお方って、もしかして……)
トリスが思いあぐねていると、ロイは懇願するように叫んだ。
「そ、それは駄目です! お願いですから、それだけはやめてください!」
「え? どうして……」
「旦那様を悲しませたくないからです。あの方は、餓死寸前だった僕を拾って助けて下さいました。もし、僕がバティスト様の付き人をやめたいと言えば、旦那様の期待を裏切ることになってしまう……」
(やっぱり、バティストのことだったのね……!)
疑惑が確信に変わった瞬間、トリスは激しく憤る。
日頃の憂さ晴らしなのか知らないが、立場の弱い健気な少年を傷つけるなんて許せない。
子供ながらに、トリスは自身が強い正義感に駆られるのを感じた。
「だ、だからって……このままずっと彼の付き人でいれば、毎日のように理不尽な因縁をつけられて鞭で叩かれ続けるのよ? ロイは、それでいいの!?」
鞭で叩かれ続ける──下女の口から飛び出した物騒な言葉に、トリスは唖然とした。
まさか、あの背中の傷が鞭で叩かれて出来たものだったなんて。
バティストは、まだ十歳になったばかりの子供だ。鞭で他人を叩くなんて、そんな残虐な行為を一体どこで覚えたのだろう。
戦慄しつつも、トリスは二人の会話に聞き入る。
「……はい。自分さえ我慢すれば、全て丸く収まりますから」
ロイは目を伏せると、そう答えた。
下女は諦めたようにため息をつく。そして、「わかったわ。とにかく、手当てをするから邸に戻りましょう」と言いながらロイの手を引いた。
邸に戻っていく二人の背中を見送ったトリスは、言いしれぬ不安に襲われる。
自分の婚約者は異常だ──それだけは、まだ穢れを知らない九歳のトリスにも理解できた。
数年後。
その頃には、既にロイはバティスト専属の付き人ではなくなっていた。それどころか、彼はいつの間にか退職してしまったらしい。
ウィルコックス侯爵邸に仕える使用人たちの間では、精神を病んで病院送りになっただとか、バティストに無礼を働いてクビになっただとか、流言飛語が飛び交っていた。
ロイが邸を去ったのにもかかわらず、バティストは悪びれる様子もなく日常を送っていた。
そんな中、バティストはトリスにある本を勧めてきた。なんでも、ある死刑囚が獄中で書いた話なのだとか。
十数年前に出版された本らしく、バティストは「これは僕の愛読書だ」と得意げに語っていた。
正直、トリスはあまり気が進まなかったが、後で感想を聞かれても困るので一先ずその本を読んでみることにした。
読み進めていくうちに、その本は著者の実体験をもとに書かれたものだということがわかった。
どうやら著者は貴族らしいが、殺人を犯して収監されたのだという。
序盤は至って普通だった。著者がひたすら自身の生い立ちを語るだけだったので、退屈で眠気すら覚えた。
けれど、その眠気は著者が自身の起こした事件について言及した途端吹っ飛んだ。
なんでも、著者は結婚と離婚を頻繁に繰り返していたそうなのだが、そのたびに妻になった女性に暴力──最早、拷問と表現したほうが正しいかもしれない──を振るっていたそうなのだ。
拷問の内容は口にするのも恐ろしく、且つおぞましいものだった。
気分が悪くなったトリスは、読書を中断して横になる。とりあえず、これではっきりした。
バティストは、この本の著者に感銘を受けている。だからこそ、以前ロイに対してあんな酷い仕打ちが出来たのだろう。
とはいえ、ただ単に本に感化されたから真似をしたわけではないような気がした。多分、そんな単純な話ではない。
──恐らく、バティストの潜在意識には元々「他人を傷つけたい」という欲求があったのだ。
本を読んだのをきっかけに、その傾向が顕著に現れたのだろう。
バティストは、恐らくトリスが恐怖心や嫌悪感を抱くことを見越してこの本を貸したのだ。
一見、ただの嫌がらせもしくは度を超えた悪戯のように見えるが、トリスは気づいていた。……既に、自分がバティストの「新しい玩具」として標的になっているということに。
それ以来、バティストは度々トリスに精神的苦痛を与えてくるようになった。
そう、例えば──トリスが弾くピアノに駄目出しをしたり、食事の作法に難癖を付けたりしてくる。
ロイの時とはやり方を変えたのだろうか。暴力自体は振るわれないものの、沢山の人の前で恥をかかせられたりすることがやたらと増えた。
トリスは日に日に疲弊していった。今すぐにでも婚約を解消してもらいたかったが、それをオリンズ伯爵に──自分の父に伝えることはできなかった。
オリンズ家は、本家であるウィルコックス家に隷属していると言っても過言ではない。
主人に逆らえばどんな処分を受けるのかは、まだ社交界デビューすらしていない世間知らずなトリスでも想像に難くなかった。
だから、トリスはせめてもの抵抗に毅然とした態度でバティストに接することにした。
具体的に言うと、嫌悪感を剥き出しにしたのだ。
更に数年後。
バティストは、新しい方法でトリスに精神的苦痛を与えてくるようになった。
というのも、彼は婚約しているにもかかわらず、別の令嬢と浮気をするようになったのだ。
しかも、浮気現場をあえてトリスに目撃させるという悪質ぶりである。
相手は、元平民で現在は子爵家の養女であるミラ。彼女は、数年前に聖女の一人として覚醒した。
基本的に聖女として覚醒した者は王太子と婚姻を結ぶことが義務付けられている。
だが、聖女が複数人いる場合、その中で最も強い聖力を持った者が王太子の婚約者として抜擢されるらしい。
だから、今のところミラには決められた婚約者がいないのだ。
この国の貴族にとって、婚約者を奪われるということは男女ともども最大の屈辱である。
明らかに相手側に非があるにもかかわらず、「きっと、あの人には何か問題があるんだ。だから、婚約者に愛想を尽かされたのだろう」などと荒唐無稽な噂が立つことも珍しくはない。
恐らく、バティストはトリスに屈辱を与えるためだけに浮気を断行したのだろう。
お気に入りの玩具を苦しめたいがためにわざわざそんな手の込んだことをするなんて、最早怒りを通り越して呆れ返ってしまう。
そして、今日──トリスは、バティストの誕生日パーティーに招待された。
おおよそ、何が起こるか見当はついている。だからこそ、トリスは今から憂鬱なのだ。
あれこれ思いあぐねながら馬車に揺られていると、いつの間にかパーティー会場に到着していた。
トリスは渋々ながらも、馬車から降りて重い足取りで建物に入る。
一時間後。
意外にも、パーティーは順調に進んだ。
案の定、ミラもパーティーに招待されてはいたものの、特に何か問題が起こるわけでもなく。
主役であるバティストと聖女ミラが爛れた関係であることを除けば、至って普通のパーティーだ。
身構えていただけに、トリスは何だか拍子抜けしてしまう。杞憂だったか、と安堵のため息を漏らしていると、ふとミラがバティストの隣に移動したことに気づいた。
何だか嫌な予感がしたが、トリスは一先ず成り行きを見守る。
すると──
「トリス・オリンズ! 本日をもって、お前との婚約を破棄する! もし、理由がわからないのなら、自分の胸に手を当ててよく考えてみろ!」
不意にバティストがこちらに鋭い視線を飛ばしてきたかと思えば、そう言い放ち火蓋を切った。
「……」
やはり、危惧していた通りの展開になってしまった。
トリスは自身に向けられた大勢の人々の冷ややかな視線に気づかないふりをしつつも、ゆっくりと口を開く。
「……申し訳ございませんが、心当たりはありません」
「心当たりがないだと? 聞けば、お前はミラが元平民だからといって、日頃からいじめていたそうだな。彼女は聖女である以前に、僕の大切な友人だ。──友人が苦しんでいるのに、黙って見過ごすことなどできない!」
そう言って、バティストはミラの肩を抱く。
傍から見たら、正義感溢れる侯爵令息が友人を守るために性悪な婚約者を断罪しているようにしか見えない。
けれどその実、バティストはトリスを辱めたいだけだし、ミラのこともただ利用しているだけだ。
今、この場でその事実に気づいているのはトリスのみ。皆、バティストが「正義の人」であると信じて疑わない。
(きっと、バティストは私に頭を下げさせたいんだわ)
恐らく、バティストの計画はこうだ。
まず、トリスに散々恥をかかせた挙句、皆の前で謝罪をさせる。
そして、「僕も鬼ではない。お前の罪を許そう」と言ってトリスを許し、寛大さをアピールする。
最終的には、ほとぼりが冷めた頃、ミラを捨ててトリスとよりを戻すという寸法だろう。
(冗談じゃない……今後もずっと、あいつの欲求を満たすための道具として扱われ続けるなんて。そんなの、まっぴら御免だわ)
威圧的な態度で腕を組んでいるバティストと、眉を八の字にしながら彼にぴったり寄り添っている可憐な聖女ミラ。
二人の顔を交互に見ると、トリスは呟くように言う。
「……私は、あなたの玩具じゃない」
そして、近くのテーブルの側までおもむろに歩み寄ると、その上に置いてあったフルーツナイフを手に取った。
「トリス……? 一体、何を……?」
バティストが不安げな顔でそう尋ねたが、トリスはお構いなしにナイフを自身の首に突きつけ──
「や、やめろ! トリス! 待て、早まるな!」
バティストの悲痛な叫びも虚しく、トリスはナイフで自身の首を掻っ切る。
次の瞬間、切り口から勢いよく血が吹き出た。トリスが纏っている白いドレスは、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
あちこちから悲鳴が上がり、会場内は忽ちパニックになった。逃げ惑う者、呆然と立ち尽くす者、泣き喚く者──まさに、阿鼻叫喚の光景であった。
この国では宗教上、自害は重罪に当たる。もっとも、死んだ人間を裁くことはできないので必然的にその親族が世間から白い目で見られることになる。
そういった理由から、結婚相手としても敬遠されがちだ。つまり、一族の中から自殺者が出た家門は衰退の一途を辿ることになるのだ。
──そう、トリスは自らの命をかけて復讐を果たしたのである。
この国の人々の平均魔力は高いが、その反面、治癒魔法を使える者が少ない。この場にいる招待客の中では唯一、聖女であるミラが癒しの力を持ち合わせているが、当の本人は大量の血を見て失神してしまったようなので救命処置をするのは難しいだろう。
薄れゆく意識の中、トリスは不意にある日の出来事を思い出す。
あれは、確か──ロイがいなくなってすぐのことだ。
ウィルコックス侯爵邸には「絶対に入ってはいけない」と言われている地下室があるのだが、その日、トリスは偶然侯爵が使用人を連れて地下に下りていくところを目撃してしまった。
以前からその部屋が気になって仕方がなかったトリスは、怖いもの見たさで二人の後をつけた。
侯爵は地下室の扉を解錠すると、周囲を警戒しつつもその中に入っていった。使用人は大きな袋を抱えていたのだが、その袋を背負い直すなり、すぐに侯爵の後を追った。
狩猟をした際、狩った獲物を袋に入れて持ち運ぶことはよくある。だから、きっとあの部屋では猪や兎などの動物を一時的に保存しているのだろう。
トリスはそう考えたが、どうも腑に落ちない。
やがて、二人は用が済んだのか部屋から出てきた。そして、なぜか鍵を閉め忘れてそのまま階段を上がっていってしまったのだ。
物陰に隠れていたトリスは二人が去ったのを確認すると、その部屋に入ってみることにした。
扉を開けた瞬間、信じ難い光景が目に飛び込んできた。
室内に放置されていたのは、複数の白骨化した人間の遺体。その遺体たちの傍らに、先程の大きな袋が置いてあった。
トリスは言葉を失った。袋の中身は確認したくもないが、恐らく誰かの遺体なのだろう。
ふと、頭にロイの顔がよぎる。もしかして、あの袋の中には──。
恐ろしくなったトリスは、逃げるようにその部屋を後にしたのだ。
(ああ、そうか。私、自分を守るためにあの時のことを思い出さないようにしていたのね)
きっと、無意識に防衛本能が働いたのだろう。
トリスは今の今まで、あの日の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。
ウィルコックス侯爵の本性は残虐な殺人鬼だった。わざわざ孤児を使用人として雇っていたのも、きっと身寄りがない子供のほうが殺人が発覚し難いからだろう。
──結局、ウィルコックス侯爵もその息子であるバティストも異常者だったというわけだ。
そんなことを考えながら、トリスはバティストのほうを見やる。
今にも消え入りそうな、絶望に満ちた表情。付き合いが長いだけあって、トリスは彼の色んな表情を見てきた。
嬉しそうな顔、笑っている顔、怒っている顔、泣いている顔──バティストの苦痛に歪んだ顔は、今まで見たどの表情よりも美しかった。
その瞬間、トリスは気づいてしまう。
(ああ、そうか。私、ずっと彼のこの表情が見たくて仕方がなかったのね)
だからこそ、ずっとバティストに愛想が尽きたふりをしていたのだ。
本当は、誰よりも愛していた。そう、初めて顔を合わせたあの日──まだ幼いトリスとバティストは、確かに互いに惹かれ合っていた。
けれど、もしバティストに関心を向ければ、彼がトリスの愛情を欲して苦しむ姿が見られなくなる。
それに、心の何処かでは自分が加虐性欲を持っているという事実を認めたくないという気持ちもあったのかもしれない。
トリスは一族内の他の人間と違って、まだ理性があった。つまり、自覚がなかっただけで常に理性と欲求の板挟みに苦しんでいたのだ。
一体、いつからこうなってしまったのだろうか。
(でも、これで良かったのかもしれない。私たちのような人間が子孫を残せば、また同じ過ちが繰り返されるだけだもの……)
トリスは自身の体に流れる穢らわしい血を呪うと同時に、安堵の気持ちで胸がいっぱいになる。そして、静かに目を閉じた。
そう、トリスは今際の際にようやく悟ったのだ。自身もまた、愛する者を痛めつけ、苦しめることに快感を覚える異常者であったことに──。