山は山頂まで辿り着くものも、山の中腹で引き返すものも、等しく愛しているものだ。
「ねえ、あんたのことどうなっても養うよって言ったのはあたしだけどさあ、流石にちょっと決意揺らぐよね。一日八時間も格闘ゲームしてる男をヒモとして住まわせておくのはさ」
本当に思ってることぶっちゃけていい? という前置きの後に、そんな言葉が口に出された。
木戸リュウセイはゲーミングチェアに座ったまま、体を捻って中城セナを見ていた。
外したヘッドホンを持ったまま固まっていた。
画面の中の自キャラが何度も同じモーションで対戦相手のジャブを喰らっている。
オンライン対戦中に突然対戦相手が停止してしまって、さぞや困惑しているだろう。
リュウセイはゆっくりヘッドホンを膝の上に置くと、椅子を回してセナの方に向き直った。
座ったまま、話を聞くのかゲームに戻るのか、中途半端に……。
「いや、セナちゃんさ、言ってることはもっともだけどさ……その……あと半年、って約束だよね。あと半年結果が出なかったら、その時はちゃんとセナのおじさんの会社で働くって……」
「あのさ!」
セナはドンと右足を踏み鳴らした。
いつも下の階の人に気を遣えと言ってるのはセナなのに、これは相当頭にきてるようだ、とリュウセイは思った。
セナはもう今にも泣きそうになって、
「ねえ! 夢を追うのはいいけどさ! それは隣にいる大切な人を無視していい理由にはならないんだよ!? あたしペットとか嫌いって言ったよね!?」
リュウセイはもはや何を言っていいかもわからずにゲーミングチェアに座っていた。
膝の上のヘッドホンを大型のタワー型pcにつけたフックにかけて、立ち上がるべきなのかどうかもわからなかった。
立ったら、取り返しのつかない致命的な喧嘩のゴングになりそうで。
「ペットって……」
リュウセイはそれだけ言った。
セナはハァ、と肩でこれみよがしにため息をついた。
「あたしね、ペットって嫌い。あんなの、普通に日々をやっていく糧にするならいいけど、家族だとか、人間と同列に扱うのホンット嫌い。服着せてるのも嫌」
「え、え、なんの話?」
「夢を追う人を飼うのはね!」
ああ、とリュウセイは思った。
そういう話か、嫌だなあ、と。
セナは強い口調で続ける。
「それとは違うと思った。ペットが嫌いなのはただの慰めがいつの間にか私の人生のいいポジションに居座って、本末転倒にそっちも大事だよねってなるのが嫌いだから。だから私は大事にする価値のあるものを飼おうと思った。……ごめんね、飼うとか言って。でも本当のことでしょ? そのゲーミングチェアもヘッドホンも、あんたが持ち込んだパソコン以外私が買ってあげたものだもん。……あのね、リュウくん。あたしね。あなたを大切にしたいの。ペットなんかじゃない、大切なあなたを。でもなんか、もう、限界で」
セナが両手で顔を覆った。
リュウセイが立ち上がる。
ヘッドホンが床に落ちた。
普段なら絶対に音響機器をそんなふうには扱わない。
その日は、もうロクに話さずに2人はそれぞれの部屋に戻った。
いうべき言葉を、一週間分くらい全て使い切ってしまったから。
だが、使い切ったのはセナだけだった。
リュウセイは、言うべきことをまだ言っていなかった。
格闘ゲームのeスポーツの大会に出られた、ということを。
*****
そのショットバーは、リュウセイの友達が去年独立して立ち上げたものだった。
その友人もまた、ゲーム仲間だった。
一番奥の席で、リュウセイは背後の棚に置かれたゲームの登場人物を見る。
樹脂製のフィギュア。
バーとしては随分といえば随分だが、リュウセイも友人の店主も、必ずここがゲーマーの憩いの場になると確信していた。
「なあ、リュウセイ。お互いもう30目前だな」
目の前に店とコラボしたインディーズゲームをモチーフにしたカクテルが置かれる。
リュウセイはグラスの足に手を添え、飲む前に、
「そうだな」
とだけ言った。
30までに結果が出なかったらセナを安心させる。
それが約束だった。
カクテルを見つめる。
アルコール度数の高い液の中に泡が立ち、ぼーっと店の明かりを宿している。
なれない手つきで持ち上げ、飲んだ。
ガツンと殴られるような一撃。
友人の店主が笑った。
「無理して飲むなよ。吐いて出禁第一号がお前になるなんてゴメンだぞ」
リュウセイは笑う。
カウンターの三席彼方の大学生三人組がワイワイ話していた。
リュウセイのその友人は、大学時代、有名なゲーマーだった。
彼ら大学生はそのファン。
有名な格闘ゲームのアマチュアチーム。
彼らから見れば、リュウセイもまた、スターだった。
尊敬と親愛、それから照れが滲み出る会話もそこそこに、彼らは帰って行った。
閉店間際の店内で、店主とリュウセイは昔を語り合った。
「いやあ、まさかリュウセイがセナちゃんを取っていくとはなあ」
「まあ、捨てられる寸前だけどね」
「あの子、ほんとに世話好きだったからなあ。先輩の妹が俺らのチームに料理作ってくれるって、めっちゃ恵まれてたよな、俺たち。楽しかったなあ、あの頃。先輩のクソ広い家でずーっと朝まで戦術研究してさ」
「ああ」
リュウセイは顔はにこやかに昔を懐かしむ風を装っていたが、その実心の中は嵐だった。
「リュウセイよお! そしてお前はセナちゃんをゲットした代わりに、逃げ遅れたってわけだ」
「え?」
リュウセイは友人の顔を見た。
カウンター越しに腕を組んだその顔はまっすぐリュウセイに視線を送っていた。
「逃げなかったことが、他の何かから逃げることになっちゃいけないと思う。それって、結局どちらにも不誠実だからな」
リュウセイは顔を落とした。
ショックな一言だったが、では他になんと言って欲しかったのだろう。
友人の言いたいことはなんとなくわかった。
氷だけとけつつあるロックグラスに、リュウセイの力ない視線が注がれる。
「なあ、リュウセイ。スポーツ選手って得だよな。体が衰えることで、自然に夢をあきらめることができる。でも俺らは、反射神経の衰えとか言われるけど、俺らより年上の人、っつーか、俺らがバリバリやってた頃に大スターだったような人がまだ第一線でやってるから、衰えは止める理由にならないし。まだやりたいけど体がついていかないから諦めがつくってことがないもんな」
友人は棚の上の方からいちばんいいウィスキーを選んでショットグラスに注いだ。
奢りだ、と言って。
リュウセイは目の前に出されたそれに、ちょっと口をつけて、その芳醇な香りだけ、楽しんだ。
そしてショットグラスを下ろして、人生の次の扉の鍵でも握りしめるように、両手でそれをしっかり握りしめた。
「ゲームって奴は残酷だな」
そしてリュウセイはつぶやく。
誰に言うでもないような、ぼそっとした声だった。
ショットグラスから手を離して、両手で顔をくしゃくしゃマッサージする。
「ゲームは、なんかダメだ。いつまでも誘蛾灯みたいに人を惹きつけちまう。
終わりが来ないのが辛い。逃げるのは嫌だった。絶対に嫌だった。でも本当は違う。俺は明確なピリオドを打てなかったんだ。惰性でズルズルやってたんだ。結果が……出なかった。出なかったんだよ」
リュウセイは顔を覆いながら言った。
嗚咽混じりにそのまま泣ければ楽だったが、まだ破れない夢がその涙を押し留めた。
カウンター越しに友人の手が伸びて、リュウセイの肩をポンポン叩いた。
「大会、出るんだろ? それを最後にしちまえよ。もちろんそのつもりだったんだろうけど」
リュウセイは頷いた。
ああ、なんて自分は幸せ者なんだ、と、顔を覆ったまま思った。
明確な終わりを、こんないい形で迎えられるんだから。
それが今の率直な感想だった。
かつての彼、大学時代、ゲーマーとして一番脂が乗っていたころ、彼は決意した。
絶対にスターになると。
しかしその後、あらゆる人生の甘さが彼の決意を溶かしにかかっていた。
甘さがどこから来るかといえば、彼自身だった。
時々、自分の世話をしてくれるセナにイライラがむいた。
最低だと思った。
意地でゲーム機に齧り付いた。
自分の意地はもう、幸せなんかに負けない。
そう思っていた。
しかし今、甘美な幸せが彼の背中に追いついてしまった。
この前のセナの叫びは、幸せの産声そのものだった。
*****
大会は、二回戦を勝ち進むことができた。
しかし海外の優勝候補が、三回戦でリュウセイを破った。
リュウセイは誰にも教えなかった、彼自身が独自に発見した技術を駆使してあと少しのところまで対戦相手を追い詰めたが、結局敗れてしまった。
その夜、友人のバーで、ちょっとしたパーティーがあった。
と言っても、狭い店内のこと、リュウセイや店主の大学時代のチームメイトが集まったらもういっぱいだった。
こんなに飲んだのは久々、というくらい、リュウセイは酒を飲んだ。
こんなに笑ったのも久々だった。
セナもちょっとだけ顔を出して、リュウセイを慰めて、二人のマンションに帰って行った。
他の者が酔い潰れる中、奥の席でいい気分になりながら、リュウセイは店主に礼を言った。
「ありがとう。最高の夜をセッティングしてくれて」
彼は親指を立てて、
「初めての貸し切り営業だったぜ」
と言った。
そして、指を一本、芝居がかった様子で立てた。
「そうそう、セッティングといえば、一つお前にプレゼントがあるんだ。俺が見習い時代、働いてたバー、今から行ってみろ。すげえ人に会えるぜ?」
リュウセイは訝しんだ。
今夜はもうセナのところに帰るだけだったのだが。
明日から、セナのおじさんと話をしないといけないし、もう帰って寝たかった。
疑問に思いつつも、タクシーを拾って、深夜三時の、初めて行くバーのドアを開けた。
入って、絶句した。
カウンターに座って一人で酒を飲んでいたのは、彼にとっての、いや、10年前から格闘ゲームに賭けていた人間全てにとってのスター、神木シュウだったのだ。
スラリとした長身は、ノリの効いたジャケットを着ていた。
大会の解説の時そのままの格好だった。
「あ……」
そのバーの店主も神木も、リュウセイの友人から話を聞いていたようだった。
「ああ、今日の大会に出てたね。どうぞ隣へ」
リュウセイは緊張でどう挨拶をしたか、自分でもよくわからなかった。
酔った勢いで、何か、尊敬しています尊敬しています、と、機械のように繰り返した。
「僕はこのバーの常連でね。ここのマスターは有名なゲームの開発に関わったんだ」
「そうだったんですね」
全てがつながった気がした。
なぜ友人がゲームがコンセプトのバーを始めたのかも。
そして、リュウセイに神木と知り合いなのを知らせなかった気持ちも、なんとなくわかった。
「今日の試合で魅せたテク、あるでしょ? あれ、いいよね。なかなか開拓しない方向の技術だったよ」
リュウセイはずっと、天にも昇るという気持ちを嘘だと思っていた。
セナとの時間ですら、彼を空の彼方までかっ飛ばすことはできなかった。
それほどに彼は報われることに飢えていたのだ。
しかしいま、それを感じていた。
「あの!」
リュウセイはこれっきりだと思った。
神木と話せる機会なんて、もう今夜が最後だと思った。
勝手に、そう思ったのだ。
「あの……夢が潰えた後の人生って考えたことありますか」
彼なりに精一杯の質問だった。
「うーん」
リュウセイよりもずっと年上の神木は、リュウセイの年齢のわりには若すぎる質問を静かに受け止めた。
酔った勢いの軽口ではないかと軽くいなすにはあまりにも重い雰囲気を感じ取っていた。
「リュウセイさん。僕はね。怖かったよ」
「え?」
リュウセイはキョトンとした。
神木の言葉の意味がわからなかった。
神木はリュウセイを見た。
イタズラっぽい笑みだった。
「君があの時見せた技術が。いや、それを見せてしまったことが」
それっきり、リュウセイの記憶は途切れた。
飲みすぎたのだ。
何時にセナのところに帰ったのか、怒られたのか、暖かく迎え入れらたのかもわからなかった。
しかし、最後に神木が言った言葉の意味は、やがてわかることになる。
セナのおじさんの会社からの帰り、満員電車で、リュウセイは神木の最新の試合の動画を見ていた。
自分以外のスーツの肩に押し込められつつ、無線イヤホンから慣れ親しんだゲームの音声を聞く。
神木の操作は、実に華麗だ。
相手に追い詰められながらも、きっちり見せ場を作って、最後に逆転する。
ただ勝つだけではない、人々を魅了することを意識した、ホンモノのプロのプレイングがそこにはあった。
その時、リュウセイの背骨を電撃が駆け抜けた。
(俺の戦術だ……)
神木が、リュウセイが最後の大会で見せた、あの独自の戦術を使っていたのだ。
(俺よりずっと上手い。当たり前だけど。でも、でもこれは……)
それは付け焼き刃の真似事ではなかった。
そうだ。
研究だった。
研鑽だった。
修練の賜物だった。
その技術はリュウセイが一番誇りにして、あの最後の大会で満を辞して公開したものだった。
どんな天才でも一朝一夕には出せない技術だった。
そう、神木は、リュウセイと同じことをずっと隠れて練習していたのだった。
リュウセイは、スマホをスリープモードにした。
現役でプロを目指していた時は、プロの試合は必ず最後まで見た。
もう必要なかった。
満員電車の中で、彼だけが大きな満足を感じていた。




