隣人と少年 その1
その日、木造二階建て。築三十年アパートの二〇三号室に住む根坂間薬師は隣の部屋からの騒がしい音で目がさめた。
このアパートの二階の部屋は自分しかいなかったはずだったが。誰か引っ越してきたのだろうか。
こんなオンボロアパートに入ってくるなんて、よほど金に困っている人間だろうか。
この物件のセールスポイントなんて家賃が、只只安い事だけだ。風呂はないし壁は薄いし、アパート前を大型車が通ると建物が軽くゆれる。もうこの建物は寿命が近いとさえ感じる。
時計を見ると午後一時。仕事が休みとはいえ、だらけ過ぎ……とは思わない。早起きしても遊びに行く友人などいないし、これといった趣味も持ち合わせていない。まぁ、何もしなければ金も使わないし体力も温存できる。メリットしか見当たらない。
それにしても。このアパートの二階は自分だけで快適に生活していた。新しい住人など迷惑でしかない。普通の話声ですら壁越しにきこえるのだ。ほぼルームシェア状態と言っても過言ではないだろう。
他人の生活音なんて煩わしいだけだ。
そう考えているとチャイムの音がした。チャイムの音と言ってもチャイムのボタンを押して壁がきしんでいる音だ。プラスチックのこすれる音もして不快な音だ。このアパートのチャイムは全部屋壊れて機能していない。
まぁ不快な音とは言え来客を知らせてくれるので役割りは果たしていると言える。
「はい、少々お待ち下さい」
寝起きの乱れた髪を五秒で直し、二秒で顔を洗い、その他、計十秒で玄関の扉をあけた。
そこには二十代と思われる若い女が立っていた。
自分は知人にも自宅の住所をあかしていない。知っているのは勤め先の上司と親くらいだ。
よって、目の前の女は間違いなく初対面の人間だ。そのはずだ。
「こんにちは。隣に越してきた出縄と申します。よろしくお願いします。これよかったら召し上がって下さい」
女は丁寧な挨拶と共に菓子折を差し出す。
「ご丁寧にすみません。有り難くいただきます。自分、根坂間薬師と申します。こちらこそよろしくお願いします。何かあったら言って下さいね。ここのアパート住人が少ないから助け合いましょうね」
下手するとナンパの類に勘違いされる可能性はあるが、とりあえずテンプレ通りの受け答えで処理する。実際に何か頼りにされると困るので、ご近所付き合いはこれで最後にしてほしい。
「根坂間さんはお一人ですか?」
もう会話する必要はないはずだがまだこのやり取りを続けるつもりだろうか。
「そうですね。友人も遊びに来ることもないので、ここにいる時は常に一人ですよ」
「そうなんですね。わたしも一人だからちょっと不安だったんです。お隣が男性の人でよかったです」
安心した様子でニコリとする。
なんだ、この子。普通にかわいい。なんでこんなところに引っ越してきたのだろか。
というか、隣に男の一人暮らしがいるとか安心どころか逆に危険だろ。
ほんの少しだけ興味が湧いたので観察してみる。
黒髪のショートボブ。腕から指先までしなやかに細い。今はジーパンを履いているが、ミニなスカートでもいける完璧な足だ。
持論ではあるが黒髪のショートが似合う女は美人確定である。
「あの……根坂間さん?」
まずい、視線に気付かれた。
「すみません、こんな綺麗な方がこのボロボロアパートに越してきたのでちょっとびっくりしてしまって」
うかつにも観察している事に気づかれてしまった。探偵事務所に勤める人間として自分は失格だろうか。
「綺麗だなんて、ありがとうございます。お世辞でも嬉しいです」
本日二度目の男を惑わす笑顔。
この出縄という女、自分の顔の造形が優れている事を自覚している。そういう返答だ。
「では根坂間さん、わたし部屋の片付けが残っているので失礼しますね」
三度目の魔性の笑顔を残して自分の部屋へ戻っていった。
ふぅ、やっと帰ってくれた。いくら美人だろうが貴重な睡眠時間を妨げられるのは歓迎できない。
さぁ、誰であろうと踏み込む事を許さない夢の世界に戻るとしよう。
玄関から部屋に戻ろうとしたとき、シャツのすそが何かに引っ張られた。
振り返ると小学校低学年くらいの男の子がシャツを掴んでいた。
今度は何事だ。
さっぱりわからない。
「こんにちは。こんなところでどうしたの?お母さんは?」
面倒くさい。厄介事に巻き込まれる前に親に引き渡そう。親がいないなら軽く説教して追い返せばいい。
「ウチに帰れない……助けて」
少年はか細い声でそう答えた。
何故か嫌な予感がした。探偵という特別な職業がもつ勘の様なものかも知れない。
少年の服の袖をまくり腕を見た。
アザだ。かなり濃いアザが複数箇所確認できた。おそらく顔や手以外の見えない箇所にもアザがあるのだろう。これは虐待という名の人害だ。
「誰にも言わないで。もっとやられちゃう……」
警察に通報しようと考えていた事を察したのか少年は自分の腕にしがみつく。
「大丈夫だから。君はちょっとだけケガをしているからお医者さんにみてもらおうと思うのだけれどもどうかな?病院に行こうか?」
少年は黙ったまま首を横に振った。
少し迷ったが少年の意思を尊重し、彼を家に招き入れる事にした。。