二話
六月二十一日/午前九時
雨は降っていなかった。昨日からの雨は止んでいたがまだ分厚い雲は残っていた。眩しい朝日が顔を出すことはなく、六月なのに嫌な肌寒さが体温を奪っていく。
鷲島と佐々川は熊谷市役所近くの公園に来ていた。もちろんプライベートではなく、警察車両から降りると黄色の規制線を潜ると目的の場所に向かう。相変わらず佐々川はやる気のなさそうな顔をしているが、その内にある思いを知っているからか鷲島はいつもみたいに文句を言ったりはしなかった。公園の砂場から鑑識が戻るのを見て鷲島達も現場に向かう。
「またですか・・・しかも市役所近くの公園って・・・」
「何も考えてないのか、挑戦なのか、まだ分からないな」
砂場にあったのは河川敷で発見された時と同じようにバラバラにされた遺体だった。腹部は切り開かれ、内蔵が大きく損傷していた。詳しく調べられていないので分からないが、三船の事件との関連は明らかだった。熊谷警察署の皆野が駆け寄ってきて報告する。朝でも相変わらず元気だった。
「第一発見者は朝のウォーキングをしていた男性です。周辺の家から見えそうですが、大きな木が公演を囲うように植えられているので見え辛かったそうです」
皆野の話を聞いて鷲島は周りを見渡す。確かに大きな木が公園を囲うように植えられているが、市役所が近くにあることもあり大きな通りもあるのですぐに見つかりそうだが、一本裏の道に入ると人通りがかなり少なかった。どちらにせよ、犯人が普通の考えをしていないのは明らかだった。
「鷲島さん、佐々川さん!遺体の身元と犯行場所が分かりました」
皆野が駆け寄ってきて報告する。二人は皆野の報告を聞いてすぐに現場に向かう。
通報があった場所は熊谷駅から少し離れたマンションの一室だった。三船千佳子の時と同じように隣の住民から異臭がすると通報があり、事件との関連を考えた警察が交番の警察官だけではなく、県警と警察署の刑事を派遣した。マンションの管理人に鍵を開けてもらうように頼むが、既に鍵は開けられていた。普通に考えれば犯人は遺体を部屋で解体した後遺棄しているので鍵が空いているのは当たり前だった。鷲島は部屋の前のプレートに目を向ける。
「碓氷・・・被害者の名前ですね」
「しかし、犯人も大胆なことするよな。周りの部屋に人がいるマンションで解体をしてそのまま放置するなんてな」
「見つかっても問題ない。現場の処理はさほど重要ではないってことですかね」
佐々川は顔を顰めて部屋に入る。鷲島と皆野もそれに続く。
玄関に入るとすぐに鼻を突く異臭がした。腐るような臭いではなく、錆びた鉄のような臭い。部屋中に蔓延するくらいなのは、相当な血液が部屋にあるということ。覚悟を決めてまず浴室へ向かう。
うっ、と三人とも手で口と鼻を抑えた。脱衣所には血を引きずった痕が残っていた。浴室の扉を開けると、洗い場は壁も浴槽内も血で真っ赤に染まっていた。それは解体の際の返り血や出血なのは明らかだった。
「話で聞いて写真で見ても何とか見られましたけど、こう実際に現場に入って見ると耐えられませんね。これが人間のすることですか?」
「あるいは人間じゃない、かもな」
「え?」
佐々川の言葉に鷲島は耳を疑う。鷲島がどう言うことかと聞こうとしたが、その前に佐々川は忘れろと一言いってリビングに向かう。リビングに入ると目を疑う光景と共に、やはりという感じだった。
「佐々川さん、やっぱり犯人はキッチンで何かしていたようです・・・」
「こっちもだ。食器に血がべっとりだ。考えたくはないがな」
鷲島は流し台の排水口を見る。排水口のカバーの溝に血が入り込み固まっていたので取り辛かったが少し力を入れるとカポン、という音と共にカバーが外れる。その下には下水管に生ゴミなどが入らないように塞き止めるネットがあった。
「これは・・・」
ネットに何か引っかかっている。赤いと言うよりは茶色や黄色、赤黒い塊が小さな山になっていた。そして遺体や現場の状況を見てうわっ、と叫んで仰け反る。恐らく解体して内蔵等を洗っている際に落ちた細かい肉だろう。茶色のは排泄物、黄色のものは脂肪だろうか。もちろん、人の身体の中を見たことないので何とも言えないが。
皆野が奥の部屋で二人を呼ぶ。鷲島と佐々川が向かうと皆野が部屋にある机の上にあるバッグを開けていた。
「これ、見てください。学生証です」
「碓氷保、東松山の大学に通う大学生か・・・何で学生が殺されるんだ」
「こっちはアルバムですかね」
鷲島は本棚にある青い冊子を取って中を見る。碓氷保と思われる男性と同い年くらいの女性が満面の笑みで写っていた。二人は付き合っていたのだろう。どのページを見ても笑っている写真しかなかった。何故未来ある学生の命がこんなにも無惨に奪われなければならないのか。どうしてこんなにも理不尽なことをするのか。鷲島は怒りに震えアルバムを掴む手に力が入る。
そんな鷲島を見て佐々川が軽く肩を叩く。
「そろそろ会議の時間だ。署に戻るぞ」
「・・・はい」
これ以上ここにいたらまた鷲島が暴走すると察したのか佐々川は外に出るように促す。確かに、このままここにいたら鷲島はまた怒り狂って走り出してしまったかもしれない。刑事としてはこんな感情的になるのは失格なのかもしれないが、佐々川はそう口にはしなかった。みんな心ではきっと犯人に対する怒りと被害者に対する無念でいっぱいなのだろう。表に出なくても思うことは同じだ。それをどうして責めることができるのか。
アルバムを閉じ本棚に戻してリビングに出る。凄惨な現場から目を背けようとした時、ふとテレビ台に置かれているパンフレットに目が向く。パンフレットを見るとそこには「虐待を無くす会」と書かれていた。
「これは、虐待を受けた人やしてしまった人達に対する支援の団体の事ですかね・・・」
佐々川は鷲島の背後からパンフレットを覗き込むと、下の方に書いてある人物の名を呟く。
「創会者兼会長、阿比留岩雄・・・この人は確かに臨床心理学の権威だったな。中でも児童虐待の子供や家族の心理状態について研究してた人だ」
「詳しいんですね。もしかしてお知り合いですか?」
「よくニュース番組に出てたぞ。お前ニュースとか見ないのか?」
そんな事は無いですよ、と言いつつ確かにニュース番組はあまり見ない方だったので図星だった。これでよく刑事続けられるなとか言われそうだが、その時見ないだけで必要とあればちゃんとニュースくらいは見る。とりあえずパンフレットの写真を取って部屋を後にする。
マンションの外に出ると黄色の規制線が部屋の周りに張られていく。それを見てふと先程のパンフレットの事を思い出す。
「あのパンフレットがあったってことは、碓氷保は虐待児だったんですかね。さすがに大学生で虐待は無いと思いますし・・・」
「いや、虐待っていうのは子供に対することだけじゃないからな。大人に対してだってある。身体的虐待、性的虐待・・・要するに誰にでも虐待ってのは当てはまるってことだ」
そう言われてぐっと言葉に詰まる。虐待といえば親が子供に対して行うことのようなイメージが強いが、それはそのような事例が多いだけで本来虐待という定義は子供から大人に対して行われるものまで幅広い。子供に対する虐待、つまり児童虐待に関心が向けられるのは虐待を受けた子供は心理的にも身体的にも大きなダメージを負い、その後の人生に大きく影響を与える可能性が強いからだ。しかし、大人は大丈夫なのかと言われるとそうではないのかもしれない。
車に乗り込み署に向かう。既に碓氷のマンションの周りには野次馬が大勢いたが、去り際にその中に佐東のカフェにいた三船千佳子に執拗に迫っていた男が居たような気がした。急ブレーキをかけて辺りを見回す。佐々川と皆野が「うおっ?!」と声をあげて前のめりになるが気にしないで探してみた。だが男の姿はなかった。気のせいだったのか、と思っていると「何やってるんだ、危ない運転するんじゃねぇ!」と怒られて車を発進させた。
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六月二十一日/午前九時半
署に戻るとすぐに捜査会議が開かれた。まずは三船千佳子の周辺の人間関係については特に恨みを持つ人間などはいなかった。そして話は直ぐに三船と碓氷との関連についての話になった。
「三船千佳子と碓氷保との関連は何かないのか?」
「殺害状況や死因等は一致しているのでこの点に関しては言わずもがな関連はあります。どちらも被害者宅で首を絞めて殺害、浴室で解体、臓器をキッチンで調理して処理したものと思われます。また両被害者の関係者に話を聞きましたが、二人を繋げる接点はありませんでした。他にも無いか現在捜査中です」
捜査員の返答を聞いて署長は唸り声をあげる。猟奇的な殺害方法は同じなので同一犯で間違いない、この点に関しては関連はあるが知りたいのは被害者同士の接点だった。管理官はしばらく黙っていたが冷静な声で話す。
「この事件に感じられる猟奇性から犯人は、我々常人には理解し難い考えの持ち主である事は間違いないでしょう。そしてこれがもし快楽殺人なら連続性があり動機も想像も出来ないようなことかもしれません。あらゆる可能性を視野に入れて捜査を進めてください」
解散、と言おうとしたところで鷲島が突然あっ!と声をあげる。周りの視線が鷲島に集中する中、署長が怪訝そうな顔をして鷲島に問いかける。
「どうした?」
「あの、関連といえば関連が無いことは無いと思います・・・」
自分から声をあげたものの、自信をなくしたのか鷲島は声を小さくして話す。署長は早く言えと言わんばかりに鷲島を睨みつける。鷲島は意を決して話す。
「実は碓氷保の部屋を調べていたら、虐待を無くす会というパンフレットを見つけました。そして三船千佳子に関して、同じカフェで働いていたバイトの女子高生がある人から三船千佳子も結婚相手の連れ子に虐待をしていると言われたらしくて・・・」
「虐待・・・その三船千佳子の虐待の事を女子高生に話したのは誰ですか?」
「それが三船千佳子に執拗に迫っていたカフェの常連の男なのですが、まだ詳細は掴めていません」
鷲島の話を聞き終わると管理官は再び考えてから指示を出す。
「三船千佳子のカフェの常連の男の所在や素性を調べてください。また虐待という関連についても視野に入れて捜査を進めてください」
以上、解散!と今度こそ会議室に声が響き捜査員達は捜査を進めるべく走り出す。
そんな中、鷲島と佐々川は再び検死官の浦部の元へと向かっていた。皆野は別行動となったが、去り際に「何か手伝えることがあったら何でも言ってください!」と元気よく言い残して署の先輩に連れられて行った。
薄暗い廊下を抜け、遺体が保管されている部屋に入る。いつも通り背中を丸めて書類を作成していた。二人の気配を感じたのか振り返ると軽く挨拶を交わして遺体に掛けられているシートを捲る。
碓氷保の遺体も切断された箇所を繋げると目立った外傷はなく寝ているようだった。もちろん腹部は縫合されていた。
「今回も膵臓だね。もしかしたら犯人にとって一番食べやすい部分なのかもねぇ」
「そんな軽い感じで言わないでくださいよ・・・」
浦部の変な調子に惑わされながら特に収穫はないか、と思い部屋を後にしようとすると浦部はそういえば、と二人を呼び止める。
「この前言い忘れてしまったんだが、この遺体の腹部の切開について、これは多分ある程度経験がある人物のやり方だと思うぞ」
「という事は手術経験のある医療関係者、医師の可能性が高いと?」
佐々川は縫合部分を見ながら言う。浦部は縫合部分をなぞる様に指を指す。
「素人が包丁でやろうとしてもこんなに綺麗には切開出来ないはずだ。だがこの遺体の切開は綺麗に行われている。もちろん完璧ではなく多少粗は見られるがそれでも素人よりは経験がある切開だ。まぁ遺体から分かるのはこれくらいかね」
浦部はそれ以上話すことはなく、鷲島と佐々川は部屋を後にした。鷲島は浦部の話を聞いて少し可能性を見出していた。
「これで犯人は絞り込めましたよね。少なくとも切開の経験がある人物、医師とかそれに関する医療関係者の仕業の可能性が高いってことですよね」
「ほら、焦るな。あくまで可能性だ。完璧ではなく多少粗は見られるって言ってただろ?つまり現役ではなく多少ブランクがあってからの犯行かもしれない。もしかしたら元医師かもしれないし、独学で学んだのかもしれない。だから現時点では現役で医療に従事している者の犯行とは言い切れない。焦りは禁物だ」
佐々川に宥められて頭を落ち着かせる。三船千佳子の時もこの廊下で諭された。自分はまた同じ過ちを犯そうとしていた事に恥を感じて佐々川を追う。
「これからどうしますか?」
「お前自分でどうするか分かってないのか?やるべき道はさっき自分で示しただろう」
そう言われて先程の捜査会議での自分の発言を思い出す。鷲島は捜査会議で二人の接点は虐待かもしれない、と言ったばかりだった。自分で言った事に対して全く責任が持てていなかった事にも恥を感じながらも、今度は自分の意思でしっかりと言った。
「虐待を無くす会に行きましょう」
そう言われた佐々川は強く頷いて鷲島の後を追った。
鷲島と佐々川は車を降りる。閑静な住宅街の真ん中に大きな公民館があった。普段は自治会の集まりやPTAなどの地域住民の集会などに使われることが多いであろう公民館だが、今日は少し違っていた。建物内に入り、管理人のスタッフに軽く挨拶をして「虐待を無くす会」が行われている部屋を聞く。スタッフの案内で二階の大きな部屋に通される。そこには椅子を円形に並べて座る人々の姿が目に入った。子供から大人まで主婦や会社員、学生など年代も職業もバラバラだった。そして鷲島達と向かい合うように一番奥の椅子に座る老人が静かに話し出す。
「今日は皆さんの素直な気持ちを聞かせてください・・・成宮さん、その後はどうですか?」
成宮と呼ばれた女性が俯きながらも老人の優しい声に諭されてゆっくり話し出す。
「実は、昨日も少し手を上げてしまって・・・夫への不満や子供が言う事を聞かないからってその怒りを子供にぶつけるのは間違ってるのは分かっているんです。でも、自分の中に溜まっていく何かをどこかにぶつけないとやっていけないんです」
それを聞いて鷲島は随分身勝手だな、と思う。夫は妻に、妻は夫に不満を持つのは正直当たり前であり、子供に対しても怒りを覚えることはある。だが、自分達の血を分けた大切な子供であり、母親にとっては痛い思いをして産んだ命だ。それを自ら蔑ろにするなんて理解出来なかった。それに精神的にも身体的にも苦しんでいるのは虐待を受けている本人だ。その気持ちも分かろうとしないで何ができるのかと思ってしまう。すると老人は優しい声で語りかける。
「誰か話し相手を作ってください。友人でも、親戚でも、それもいなかったら私が幾らでも聞きましょう。子供が言うことを聞かないのは当たり前ですし、旦那様との問題を子供に怒りとしてぶつけてはいけません。大丈夫、あなたは一人じゃない。私達がついています」
そう言われた成宮という女性は涙を流しながら深く頭を下げた。その後も老人は一人一人丁寧に話を聞いていった。一通り全員と話終えると、老人が後ろにいた若い男性に声を掛けられこちらに向かってくる。
「お待たせしてしまい申し訳ありません。私虐待を無くす会というNPO法人を運営しております阿比留岩雄と申します」
「埼玉県警の鷲島と佐々川です」
名刺を渡され、こちらも自己紹介をする。周りに気を使って阿比留2だけ見えるように警察手帳を見せる。それを見て「お気遣いありがとうございます」と一言述べると、後ろにいた若い男性が隣の部屋に案内する。テーブルを挟みお互い向かい合う形で座る。まず最初に話したのは若い男性だった。
「申し遅れました。私は阿比留先生の元で臨床心理学を学ばせていただいている南藤といいます。今は先生のお手伝いもしてます」
丁寧な自己紹介を受け二人もしっかりと頭を下げる。佐々川がとりあえず世間話から切り出す。
「阿比留先生の功績は存じています。臨床心理学の観点から虐待について熱心に研究されていたとか」
阿比留は白髪を掻きながらゆっくり話す。
「これでもまだ虐待の根本的な解決には至っていません。私は研究者として虐待接してきましたが、どうもこうして虐待被害者や虐待をしてしまった人と直接接する方が良く、性ににあいましてね。もう教授の身は引退しましたが、こうしてNPO法人まで立ち上げてやっている次第です」
「私も虐待問題には関心がありまして、それで阿比留先生の元で学ばせていただきながらこうして当事者とも接していることができています」
二人の話を聞いて鷲島は先程の光景を思い出す。
「虐待被害者の支援だけじゃないんですね。あの成宮さんという方は虐待をしていた方だった」
「虐待を根本的に無くすには虐待をしてしまう人の心理状態や環境をしっかりと理解し、支援していく必要がありあります。しかし世間では虐待被害者ばかりに目が行き、虐待者は罰するべきという風潮があります。まずはこの考えを正すことが必要なのですが、これが中々・・・そもそも虐待に関心があまりありませんからね。隣の家で虐待が起きていても所詮は他人。わざわざ介入する必要は無いと考えるのでしょう。だからこその保健所だったりするのですがそれもあまり機能していないのが事実です」
そう言われて鷲島は少し言葉に詰まる。虐待者は罰するべき、その考えは正に今鷲島が抱いていた考えだった。ニュース等で報道されるのは虐待された側とした側の表面だけ。その実態がどうだったのか等はあまり報道されていないような気がした。そして虐待を受ける側もそうだがしてしまう側も何か問題を抱え、その問題が肥大した結果虐待に至るのも多い。その実態が伝えられないまま「虐待者が全て悪い」という認識が広まってしまったのかもしれない。しかし、先程の成宮という女性との会話を見てて支援が必要なのは虐待被害者だけではなく虐待をしてしまう人にも必要なのかもしれないと感じた。そして虐待家庭に介入できない、というのも間違いではなかった。警察にもその手の相談は来るが、結局注意喚起で終わるか保健所任せになる。れっきとした事件にならないと動くことも出来ないのだ。そんなもどかしさに唸っていると佐々川が咳払いをして話を戻す。
「そろそろ本題に入りたいのですが・・・」
「あぁ、そうでしたね。話を逸らして申し訳ない」
阿比留は改めて鷲島と佐々川に向き直り、佐々川が写真を取り出す。それは碓氷保の写真だった。
「この男性ご存じありませんか?恐らくこの会に所属していたと思うのですが」
「えぇ、碓氷さんですね。週に一回ほど集まりに来ていましたよ。そういえば今日来てませんね・・・」
阿比留は南藤に確認するように呟くが南藤も知らないという感じで首を横に振った。
「碓氷保さんが、今朝市役所近くの公園で遺体で発見されました」
それを聞いて阿比留と南藤は一瞬驚くような顔をしたが、すぐに冷静になる。
「それはもしかして、今起きてる猟奇殺人事件ですか?」
「えぇ、手口や状況見ても恐らく今起きてる猟奇殺人事件の犯人と同一犯による犯行でしょう」
「まさか碓氷さんが・・・かわいそうに」
そう言うと阿比留は黙祷するように静かに目を閉じ、少し俯く。少しすると顔を上げて鷲島と佐々川を見る。鷲島はあまり驚かないのか、と不信がっているとそれが伝わったのか阿比留はにがわらいをしながら話す。
「もしかして知り合いが殺されたのに随分と冷静だな、と思われているでしょう。すみません、どうも昔から悲しみに関しては感情の表出がないのですよ。だからよく冷たい奴だ、と言われてきました」
「あ、いえ、そう感じさせてしまったのならすみません・・・不信ついでに聞きますが、碓氷さんを恨んでいたり、人間関係でトラブルがあったりはしてませんでしたか?」
鷲島の問いに阿比留と南藤は少し顔を見合わせて考える。そして口を開いたのは南藤だった。
「碓氷さんはとても良い方でしたよ。他の参加者の方とも仲良くしていましたし、お子様を連れてくる方もいるんですが、その子と仲良く遊んでいたりもしていました。とても恨まれるような方とは思えません。ただ・・・」
「何かあったんですか?」
南藤が言葉を濁したので聞き逃すまいと少し食い気味に聞く。南藤は隣の部屋に聞こえないように少し声のトーンを落として話す。
「碓氷さん、付き合っている女性がいるみたいなんですけど、その方に暴力を振るっているという話を聞いた事がありまして。一度その女性も一緒に来たことがあったんですが、腕に痣があるのを見たことがあります」
「ちょっと待ってください、という事は碓氷さんは虐待被害者ではなく虐待者としてここに来てたんですか?」
「いや、その両方ですよ。碓氷さんは児童虐待が被害者であり、虐待者でもあった。そういう方は少なくありません」
南藤の話に補足するように阿比留が答える。確かにアルバムからも女性と一緒に写っている写真があったので彼女がいた事は明らかだった。ただ虐待、暴力に関しては写真を見ただけでは想像が出来なかった。彼女にそのことも聞く必要があるな、と思った。すると佐々川がもう一枚写真を取り出して二人に見せる。鷲島がなんの写真かと思ったら覗き込むとそれは三船千佳子のカフェの常連の男の写真だった。いつの間に撮ったのか、という顔をする鷲島を無視して佐々川は話を続ける。
「こちらの男性に見覚えは?」
「この人は・・・・・・一度だけ来たことあります。人を探してるとかで」
「名前とか分かりませんかね?職業とかどこに住んでるとか」
「えっと・・・」
阿比留が思い出そうと頭を抱えていると、南藤が思い出したという顔をして話す。
「確か尼崎さん、っていう方だったような・・・ちょっと聞き慣れない苗字だったんで覚えてます。職業は確か・・・市内の動物病院で働いているって言ってました。あとは誰か探しているっていうのは具体的な名前は聞きませんでした」
「市内の動物病院ですか・・・貴重な情報ありがとうございます・・・また何かありましたらお願いします」
「えぇ、いつでも」
鷲島と佐々川は席を立ち、二人に軽く挨拶をしてから部屋を後にする。先程阿比留がカウンセリングをしていた部屋では談笑の声で溢れていた。この集まりが虐待による集まりなのだから不思議だ。警察や保健所では出来なかったことが阿比留にはできる。だからといって任せ切りではいけないのだが、警察なども虐待に対して動けていないのは事実だ。せめて自分一人でも何か出来ることはないのか。そう悶々と考えていると佐々川が強く肩を叩いた。
「鷲島!どうした?」
「あ、すみません。少し考え事をしてまして・・・」
公民館の静かな廊下に二人の足音が木霊する。佐々川は鷲島の心の内を探るように話を切り出す。
「鷲島お前、この事件が虐待絡みだと知ってから随分前のめりだな。何か思うところがあるのか?・・・俺だって何も思わない訳じゃないが、今回のお前はかなり焦ってるみたいだからな」
佐々川にそう言われ少し言葉に詰まる。鷲島の行動の変化から心理状態を見抜かれ、痛いところを突かれてしまった。確かに今回の事件が虐待に関係しているかもしれないと知ってから無意識の内に感情の制御が出来ず行動に現れてしまっていた。鷲島はそれが刑事にとって有るまじき事であること、冷静に事件を捉えることが早期解決に繋がる事を考え、心の内を話してしまおうと考えた。
「俺も実はあの人達の側に居たのかも知れません。いや、本来なら今も居るべきだったのかも知れません」
佐々川は鷲島の言っていることにが少し理解出来なかったが、あの人達が先程のカウンセリングを受けていた虐待被害者、虐待をしていた人達を指している事を理解し鷲島が言おうとしている事を察した。
「お前、もしかして・・・」
そこで佐々川は口をつぐむ。これから先は言ってはいけない気がしたからだ。そんな気遣いを察した鷲島は苦笑いしながら軽い口調で言う。
「そんな気にしないでください。俺も別に触れられたくない過去とかじゃありませんから」
どう話そうか少し悩んでいると後ろから聞き覚えのある声で声を掛けられる。鷲島と佐々川は声の方をする方に顔を向けると相手も意外そうな顔でこちらを見ていた。
「あれ、佐東さん?どうしてここに?」
「刑事さんこそどうして・・・?」
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鷲島は佐東と二人で歩いていた。公民軽で佐東に声をかけられた後、佐々川が自分は先に所に戻っているから鷲島は佐東を家まで送ってやれ、と言ってきた。鷲島はどうしてなのかと聞こうとしたがそれを聞く前にそそくさと佐々川は車に乗って行ってしまった。佐々川の意図が分かりかねた鷲島はとりあえず佐東が持っていた荷物を持って家まで送ることにした。今思えば、佐々川は佐東から何か情報を聞き出せれば聞き出してこい、ということを言っていたのかと思うがならば尚更鷲島一人では心許ないと思うのだが、佐々川は考えなしに動く人では無いので何か根拠があると信じて佐東と歩く。
「佐東さんはどうしてあそこに?」
「あの虐待を無くす会の阿比留さんがよく私のコーヒーを頼んでくれるんです。だから私の方からそちらに持っていきましょうか?って打診してこうして会の集まりの日にコーヒーを出張で淹れているんです」
「そうでしたか・・・ちょっと待ってください。阿比留先生・・・阿比留さんは佐東さんのお店の常連なんですか?」
「えぇ、ここ一年くらい結構来てますよ。そういえば千佳子ちゃんともよく話してました」
まさかのところで繋がった。偶然と言われればそれまでだが、第二の被害者の関係者が第一の被害者のカフェの常連でしかも三船千佳子と面識があった。しかも三船千佳子に執拗に迫っていた尼崎という男は阿比留の虐待を無くす会にも現れていた。これを偶然で片付けてしまっては絶対にいけないと思った鷲島は少し前のめりになりそうだったが、佐々川の落ち着けという声が頭に響き一旦呼吸を整えてから話を続ける。
「虐待を無くす会の会員だった碓氷保さんという男性を知りませんか?東松山市の大学に通う大学生なんですけど・・・」
「碓氷・・・えぇ知ってますよ。よくコーヒーの準備を一緒にしてくれてましたから」
そこまで言うと佐東は少しだけ声のトーンを落として鷲島に聞く。
「あの、今日碓氷さんがいなかったんですけど・・・それに今日も人が殺されたって・・・」
「・・・ご想像の通り、殺害されたのは碓氷保さんです。今日は碓氷さんが虐待を無くす会の会員だったことが分かり、阿比留先生の元へ事情を聞きに行っていたんです」
佐東の問いに慎重に答えながら同時に鷲島と佐々川があの公民館にいた理由を話す。その話を聞いた佐東はそうですか、とだけ言って黙ってしまった。三船千佳子の時ほどではないが知り合いが二人も殺されて平気なわけが無い。鷲島はどう声をかければよいか悩んでいるといつの間にか見覚えのある建物の前についた。佐東のカフェに着いたので帰ろうとしたが荷物も重く多かったので店内まで運ぶことにした。店内に入るとアルバイトの女子高生二人がいつも通りの笑顔で接客をしていた。女子高生は佐東と鷲島を見るとニヤニヤしながら話しかけてきた。
「あれー?佐東さん、公民館にコーヒーを届けるって言ってたのにどうして刑事さんと帰ってきてるんですか?それもいい感じで・・・」
「もしかして・・・そういう関係ですか?」
「ちょ?!二人とも変なこと言わないの!刑事さんにも迷惑でしょ!」
女子高生がピンクな妄想をしてキャーキャー言っているのを佐東が必死に止める。鷲島もどう反応したら良いか分からず変な笑いを浮かべるとそれを否定とは受け取らなかった女子高生は更に妄想を膨らませる。佐東はもう収まりそうにない妄想をする女子高生達から遠ざけるように鷲島を店の奥へと通す。鷲島は変にドキドキしているのを自覚しすぐにその邪念を振り払う。鷲島には妻と子供がいるのだ。愛しているのは家族だけであり、決してそんな気持ちを佐東には抱いていない。昔から誤解されやすいのは変に否定しないせいだからなのだが、その癖はまだ直っていなかった。
「すみません、あの子達ったら変なことばかり・・・」
「ま、まぁあのくらいの年頃はそういう話に花を咲かせるのが楽しいですからね」
荷物を指定された場所に置くと、棚の上に写真があるのを見つけた。写真には佐東ともう一人男性が笑って映っていた。
「これは・・・」
「それは主人です。一年前に病気で亡くなりました」
「そうでしたか・・・それじゃあこのお店はご主人が?」
「はい。主人とは元々カフェで出会ったんです。当時別の仕事を目指して勉強してた私はその勉強場所に主人が働いていたカフェを選んだんです。お店も静かで、コーヒーも美味しくて・・・たまに勉強も見てくれてたんです。全然頼りになりませんでしたけど」
佐東は写真を見ながら寂しそうな顔をして話す。確かに店で見たのは佐東とアルバイトの女子高生二人だけだ。妻が店主としているのなら夫も出てこないはずはないとは思っていた。夫は家事に専念している事も考えられたが、夫婦で店を切り盛りしていけるのならそうするのが普通だ。なのにアルバイトを雇っているのは夫が店に出られない事情があるものだと思っていた。
「その内コーヒーに惹かれて、夫にも惹かれて結婚して独立して店を持った夫と一緒に店を続けていくつもりでした。でも急に癌が見つかって、あっという間でした」
「寂しくないんですか?今まで当たり前のようにいた旦那さんが居なくなって」
「寂しいですよ。だから本当は雇う余裕なんて無いのにアルバイトとか雇ってるんです。昔から度を超えた寂しがり屋なんで」
佐東の顔を見てとんでもない愚問をしてしまったと思う。一人で寂しくないわけがない。そんなの当たり前のはずなのにわざわざ聞いて思い出したくない寂しさを無理やり思い出させてしまった。鷲島はすぐに謝ると佐東は謝る必要なんてない、と笑って言ってくれ、荷物を運んでくれたことや家まで送ってくれたことに感謝を述べた。
「じゃあ俺はこれで失礼します」
「良かったらまた来てください。今度はプライベートで」
「家族で来ます」
簡単に言葉を交わして店を後にしようとするが、ふと阿比留のことを思い出して急いで聞く。
「すみません!阿比留さんについてなんですけど、三船さんとどんな話をしていたかは分かりませんか?例えば尼崎という言葉を聞いたことは?」
「阿比留さんと千佳子ちゃんですか・・・よくは知りませんけど何か虐待関係の話をしていたみたいです。尼崎なんて言葉も聞いたことありませんし、私も知りません」
鷲島はそれを聞くとそこまで重要な情報は得られなかったな、と思いながら佐東と軽く言葉を交わして店を後にする。
鷲島は署に戻りながら虐待を無くす会のことを思い出す。虐待を受けていた人と虐待をしていた人が集まってカウンセリングを受けていた。虐待を無くすには虐待を受けた人達への支援だけではなく虐待をしてしまった人達に対する支援も必要であり、根本的な解決にはどうして虐待に至ってしまったのかを知る必要がある。それをまじまじと見せつけられたような気がした。鷲島は自分の右腕を抑えながら昔のことを思い出す。
鷲島は生まれてすぐに父親を亡くし、母親と弟の三人で暮らしていた。母親は優しい人であり自分よりも優秀だった弟と兄である自分を対等に扱い、女手一つで育ててくれていた。そんな母親が変わったのは弟が不慮の事故で亡くなってからだった。優しかった母親は人が変わったように毎日鬼の形相で鷲島を殴る蹴るを繰り返していた。その度に口にしていたのは『どうして弟なのか、どうせなら出来の悪いお前が死ねばよかったのに』という言葉だった。それを呪詛の様に吐きながら虐待をしていた。その後近所の住民からの通報により鷲島は児童相談所に保護され、母親は永遠に別れることになった。里親はとても優しく痣だらけの鷲島を見て可哀想に思ったのか何不自由ない暮らしをさせてくれて、大学まで行かせてくれた。そんな暮らしをしていく中でふと母親のことを思い出す時があった。その時は自分は悪くないのに一方的に暴力を振るわれた恨みしかなかったが、今思えば女手一つで育てる大変さ、ストレスの捌け口、誰にも言えない辛さ、母親には逃げ道がなかったのかもしれない。結局、母親を支えていたのは優秀な弟を持つプライドだけだったのかもしれない。出来の悪い兄にも優しかったのはそのプライドのお零れだったのかもしれない。今ではもう分からないが虐待は虐待を受ける側だけの問題ではないという事を今日の虐待を無くす会の阿比留のカウンセリングで見たような気がした。そんな昔の記憶に浸っている内に署に着いた。鷲島はそのまま捜査本部の会議室に向かうと佐々川を見つけて駆け寄る。
「佐々川さん。佐東さんを送ってきましたよ」
「おう、おかえり。何か情報は得られたか?」
「それが目的なら最初からそう言って下さいよ・・・虐待を無くす会の阿比留先生は佐東さんのカフェの常連でした。しかも碓氷保はもちろん三船千佳子とも面識があり仲は良かったそうです」
鷲島の話を聞いて佐々川はホワイトボードを見る。ホワイトボードには凄惨な現場の写真が貼りており目を背けたくなるような写真ばかりだった。
「ここまで来ると阿比留先生が事件には関係ない、とは言えなくなってきたな。何せあの事件の当事者だもんなぁ・・・まさか地元で虐待を無くす会というNPO法人を立ち上げていたとは」
「あの事件・・・?何ですか?」
「なんだ、お前知らないのか。まぁ十年以上前の事件だからな。凄惨な事件だったから内容聞けば思い出すかもな」
鷲島は佐々川のあの事件という言葉に引っかかり怪訝そうな顔をして聞く。意外そうな顔をした佐々川は奥にあった段ボールをいくつか退け、一番下の段ボールを漁る。しばらくしてから佐々川はこれだ、と一つの黒表紙の捜査資料を鷲島に渡す。
「鴻巣市母親殺人事件・・・」
「今から十五年前、鴻巣市に住む母親が自宅マンションで殺害された。その場で犯人は逮捕されたがその犯人は当時十歳の娘だった。母親は前の夫と離婚後、夜の街で遊び歩いては男を作り家と娘を放ったらかしにして遊んでいたそうだ。そしてたまに帰れば娘には虐待の日々。保護時には娘の体には数十の痣と切り傷があったそうだ」
佐々川の話を聞きながら資料の見ていく。写真には血だらけの浴室、部屋、そして返り血を浴びた娘の姿が映っていた。顔は髪で隠れていてよく分からない。
「そしてこの事件が当時日本を震撼させた。その理由が『娘が母親の肉を食べて生き延びていた』からだ」
「母親の肉を食べていた・・・?それって・・・」
今回の事件と似ている、と言いそうになったが何も根拠は無いので口を閉じる。
「母親の身体は内蔵を大きく損傷しており、娘は内蔵を加熱処理して食べていた。娘は精神鑑定を受けることになり、結果は愛着障害という判定を受け、精神に異常があったとされ医療少年院に送られた。十歳という若さでの殺人や、その殺人の動機、生きるためにやむを得なかったと判断され刑罰は降りなかった。この事件は当時の日本人にかなりの印象を刻んだはずだ」
「はぁ・・・でもこの事件が今回の事件と何か関係が?」
この少女が今回の事件と関係しているかも、とは中々言えなかった。何せ十五年前であり今更こんな事件を起こす理由が分からなかった。佐々川は鷲島の問いに答えるように資料のある部分を指さす。
「母親の名前、見てみろ」
「逢坂瑠璃、旧姓は阿比留瑠璃・・・阿比留って・・・」
まさかと思い逢坂瑠璃の関係者のページの中の親族の欄を見る。
「母親は阿比留恵子、父親は阿比留岩雄・・・まさか殺された母親は・・・」
「そうだ。殺された母親である逢坂瑠璃の父親は阿比留岩雄、今日会った臨床心理学の権威だ」
またとんでもない繋がり方をした、と思う。十五年前の事件の被害者の父親が阿比留岩雄であり、事件の内容も殺した人間の肉を食べるという今回の事件と非常に類似している。こうも今回の事件と繋がりがあるとさすがに偶然とは思えなかった。
「阿比留岩雄は娘を孫に殺されたって事ですか・・・」
「何もと救いがない事件だよな。阿比留岩雄はこの事件以降、それまで出ていた公の場から姿を消し、研究に没頭していた。そして数年前突然大学を辞め消息を絶っていたがまさか地元でNPO法人を立ち上げていたとはな」
資料に目を落とす。娘の名前は逢坂菜摘、母親が離婚して旧姓に戻ったとなれば阿比留菜摘か。娘はその後医療少年院に送られた後の消息が不明となっている。いくら不可抗力とはいえ母親を殺害し、その肉まで食べるという行為をしたのだから医療少年院に送られたところで更生は難しいかもしれないし出来たとしても事件の記憶が強すぎて社会では生きていけないだろう。何度も改名して今もどこかで生きているのかもしれない。とにかく今回の事件とかなり似ている点や関係者も共通していることから何らかの関係がある、もしくはこの事件がきっかけかもしれないと思う。
「あ、佐々川さんの方は何か分かったんですか?」
「あぁ、俺はあの後三船のカフェの常連だった尼崎という男を調べていたんだが、今日は職場の動物病院を無断欠勤していた。確かに獣医師として勤務しており仕事ぶりも真面目だったそうだがな」
「このタイミングで無断欠勤とは、何か分かりやすいですね・・・とにかくこの尼崎という男を追いましょう」
鷲島は荷物を抱えて走り出す。佐々川はしばらくホワイトボードを見つめていた。何か引っかかることがあるのか、佐々川が人の声に耳を貸さずに考え込む時は大体何か引っかかっている時だ。
「しかし不思議なことに三船千佳子も碓氷保も虐待をしていたという噂は聞くが虐待をした痕跡はないんだよなぁ」
佐々川さん!と鷲島の呼び声に我に返り急いで鷲島の後を追う。
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「悪いが、もう君には付き合いきれない。君とは金輪際会わない。帰ってくれ」
そう話すのは阿比留岩雄、臨床心理学の権威であり、虐待を無くす会の会長であり、そして十五年前の凄惨な事件の被害者だ。阿比留は自宅のリビングで誰かと話している。相手は俯くままで顔をあげようとはしない。しかし、阿比留の常連もう会わないという言葉で肩を震わせ息を荒くする。阿比留はそれを見ても構わず話し続ける。
「そういう反応もやめてくれ。これだから異常者は・・・っ?!」
阿比留の言葉が突然途切れ、言葉にならない呻き声をあげる。首には電気ポットを使用するための延長コードが巻かれていた。延長コードは首に深く食い込み、阿比留の肉を締め上げ気道を塞ぐ。呼吸を止められた阿比留は呼吸をしようと息を吸うが空気が入らない。ミシミシと音を立てて骨が軋み、そして枝が折れるような軽い音を立てて阿比留の首の骨が折れる。それを最後に阿比留の意識はふっと闇に落ちた。
力が抜けた阿比留の身体を見てまだ息を荒くしているその人はしばらく遺体を見つめ、ふと遺体に抱きつく。罪悪感からか嗚咽を漏らしながら鳴き声をあげる。そしてその人は遺体を浴室に運び出す。そしてキッチンから包丁を取り出して遺体の服を脱がせ、腹部に突き立てる。
「食べなくちゃ・・・・・・寂しくないように・・・食べなくちゃ」
包丁が皮膚を破り筋肉を抉り、血が吹き出す。その夜、阿比留の家では肉を切る生々しい音と何とも言えない匂いで満たされていた。