一話
六月。その日は雨が降り、嫌な暑さと湿気が入り混じった気持ち悪い目覚めだった。
埼玉県警の刑事である鷲島亮は支度をして玄関に向かう。子供と妻の足音が玄関まで聞こえてくる。見送りに来てくれるのだろう。息子はもう小学六年生であり来年からは中学生だ。元気な盛りであり家も狭くなってきたと感じる事が増えてきた。そろそろ引っ越してもいいかもしれない。その為には刑事として頑張らなければ。そう意気込んだ夫の背中に妻の鷲島千聖と息子が声をかける。
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
少し寂しそうに笑う千聖と息子を見て申し訳ない気持ちになる。刑事という仕事柄、帰りが遅くなることもあるし事件があれば泊まり込みも珍しくない。そんな寂しさを家族に強いてしまっていることに罪悪感を感じながら、妻と息子なら大丈夫と言い聞かせる。
「行ってきます。学校、頑張れよ」
息子の頭を撫でてやると息子は嬉しそうに笑い部屋の奥に向かった。そして妻を見て言う。
「今度、みんなで旅行行こう。行きたいところ考えよう」
妻は寂しそうな顔からいつもの嬉しそうな笑顔に変わる。それ見て亮は安心して家を出る。外はジメジメした嫌な空気だった。雨がビニール傘に打ち付けられ、音を立てる。その音を聞いて何だか不安な気持ちになりながら、曇天の雨の中を歩いていく。
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六月二十日/午前十時/埼玉県熊谷市荒川河川敷
夏になると天気予報で必ず名前が挙がる日本一暑い町として知られる熊谷市。気温が高い中の雨はそれはもう気持ち悪くて仕方がなかった。埼玉県警の鷲島亮と班長の佐々川正義は荒川河川敷の橋の下に来ていた。埼玉県警に連絡が入ったのは午前九時頃。熊谷市荒川河川敷の橋の下に青いビニールシートに包まれた死体が発見されたという連絡だった。所轄警察署からの応援で県警から多くの捜査員と共に派遣された。
鑑識による現場検証が終わり、捜査員達が現場に入る。
「佐々川さん、今日も怠そうですね。帰って休まれては?」
「バカ言え。俺はやる気十分だよ。ていうかこのやる気のない顔は生まれつきだ」
鷲島と佐々川のいつものやり取りをしながら規制テープを潜り現場に向かう。一人の捜査員かこちらに向かってくるのが見えた。
「お疲れ様です!熊谷警察署の皆野です!あの、よろしくお願いします!」
「お、おぉ。よろしくお願いします」
新人刑事なのだろうか。皆野の元気な声に押されながら鷲島と佐々川は皆野に案内される。
遺体にはビニールシートがかけられており、捲る前に合掌してからビニールシートを捲る。捲った瞬間、異臭が鼻の奥をついた。
「うっ・・・こりゃ酷いな・・・どうなってるんだ?この状態」
「バラバラなのは分かりますけど・・・それ以上に・・・」
三人はハンカチで口と鼻を抑えながら遺体を見る。
遺体は両腕、片足、頭が胴体から切り離されており、胴体は何か刃物で腹部を切り開かれていた。内蔵の損傷が激しく、人間がやったとは思えない様な状態だった。まるで何かに食い散らかされたように。皆野は今分かっている事を話す。
「この近くに住むホームレスの男性から見たことの無いビニールシートから異臭がすると知らせを受けた近所の人が通報して発見しました。正直遺体の損傷が激しすぎて身元はもちろん、死因も断定できていない状況です」
「だろうなぁ。身元がバレないように意図的にやったのか、それとも・・・」
「それとも・・・何です?」
何か言いかけた佐々川に疑問を投げかけるが、佐々川は忘れろとだけ言い皆野の案内に連れられ車に向かう。鷲島は遺体を見て、どんな人物が、どんな気持ちでこんな事をしたのだろうかと考えるが、理解できそうにないのでやめた。
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六月二十日/午前十時半/熊谷警察署捜査本部
事件発生からすぐに捜査本部が熊谷警察署に置かれ、署長の指揮の元捜査が進められることになった。県警本部の管理官からの指示を受けて捜査会議が進められていく。
「被害者の身元が判明しました。被害者は三船千佳子、二十七歳。熊谷市内のマンションに一人暮らしをしており、同市内のカフェの店員をしています」
「身元がわかったのか?どうやって?」
署長の問いかけに発言した所轄の捜査員が答える。
「遺体発見の通報を受けたのと同時刻、熊谷市内のマンションの一室から異臭がするとの通報を受けており、駆けつけた警察官が中を調べたところ、大量の血痕が浴槽内に確認されました。その血痕と発見された遺体の血液を照合したところ、血液型、DNA共に一致しました」
捜査員の発言が終わると、前の壁にプロジェクターで室内の写真が写される。浴槽内には大量の血痕が付着しており、ここで犯人が遺体を解体したのは明らかだった。
「犯人は被害者を自宅マンションの部屋で殺害、浴槽内で解体し河川敷に遺棄した、ということか」
そこまで言うと今度は鑑識が立ち上がり発言する。
「あともう一つ、同じ血痕がキッチン、フライパン、プラスチック製の食器皿、ナイフとフォーク、からも検出されました・・・」
そこで会議室がどよめく。浴槽内なら解体した、という事で理解はできるが、キッチン、フライパン、食器・・・それではまるで犯人が・・・
「それは・・・食事をしていた、ということか?」
その問いには鑑識も捜査員も答えられず、黙っていた。見えている事実を受け入れたくない、もしくはそうと決まった訳では無いという思いからなのか。しばらくの沈黙を破ったのは管理官だった。
「今回の殺人はかなりの異常性を感じられる犯行です。被害者に相当な恨みを持った人物の犯行かもしれません。被害者の人間関係や過去などを徹底的に調べてください。解散!」
誰もが嫌な気持ちを抱いたまま捜査会議が終わった。
鷲島と佐々川は会議室を後にして遺体が保管されている部屋に向かう。
「恨みを持つ人間ですか・・・一体何があったんですかね」
佐々川はその言葉を聞いて少し顰め面をした。
「鷲島、お前はおかしいとは思わなかったのか?ならまだまだだな」
「勝手に決めつけないでください。確かにおかしいとは思いました。どうして血痕や行動の跡を残したのか、ですよね」
本来、犯人はその犯行を隠すために血痕は洗い流し、部屋を片付けるなど自身に繋がる証拠は隠すものだ。だが、今回の犯人はそれ等の隠す気配が一切ない。というより見つかっても問題は無いと犯人が言っているような気がした。
「それに、遺体を河川敷に遺棄しているのに犯行現場は隠していない。矛盾していないか?」
「つまり、犯行を隠したいというのと犯行を隠すつもりは無い、という二面性が犯人にはあるってことですか?」
そういう事なら幾つか可能性は出てくる。そういう二面性の心を持つ人間か、それとも二つの相反する心を持つ複数犯か。どちらにしろ厄介な犯人であることに変わりはない。
犯人も千差万別で、中には自分の犯行を世間に知らしめたい、もっと見て知って欲しいという思いからわざと凄惨な現場を残す人もいる。しかし今回の犯人は自分の所業を見せたい、と言うよりは現場の処理はさほど重要では無いので単純にやらなかった、と言うような感じがした。それよりも犯人にとってやらなければいけないこととはなんだったのだろうか。
「っていうか何で今さら遺体の保管されている部屋に行くんですか?死因もまだ鑑定中ですよね?」
「んー?今遺体を調べてるのは昔からの知り合いでな。見た目はヨボヨボの爺さんだが、腕と観察眼は飛び抜けてる人だ。もしかしたら既に何か分かっているのかもしれないと思ってな」
あの遺体の状態から何か分かるとは思えないので早く被害者周辺の聞き込みに行きたいところだったが、佐々川に半ば強引に連れられているので逃げられない。
「あれで分かるんですかね」
「遺体から汲み取ってやれることは全部汲み取る。それがあの人の仕事だからな」
そんな会話を続けていると少し薄暗い廊下にたどり着く。何処の警察署に行っても遺体を保管する場所は暗くて薄気味悪い所だな、と感じる。だからと言ってめちゃくちゃ明るいのも変だが。目の前の扉を開けると、軋んだ音が部屋の中に響く。真ん中に手術台のような台があり、その上に灰色のシートが被せられていた。奥の机を見ると誰かが書類を作成していた。その背中に佐々川は声をかける。
「おう、浦部さん!来たぞー」
浦部と呼ばれた男は声に反応して振り返る。眼鏡をかけた顔はシワだらけで白い無精髭を生え散らかしている。白衣を着ていなかったら本当にホームレスにしか見えない男だった。浦部は佐々川を見るとシワだらけの顔をさらにシワだらけにして笑った。
「佐々川くんか。全く、こんな所に来るとは物好きだよな君も」
「お互いですよ。それより何か分かりました?」
佐々川の問いかけには答えず鷲島の方を見る。鷲島はハッとして自己紹介をする。
「すみません、遅れました。鷲島亮といいます。佐々川さんの下で色々指導してもらっています」
「あー、君が鷲島くんか。どれ、佐々川くんは大変だろう?教え方下手そうだし。昔から犯人には暴力でしか語ってこなかった人だからねぇ。殴られてない?」
「え、いやぁ、殴られてはないですねハハハ・・・」
隣の佐々川は少しバツが悪そうに顔を背ける。このやる気のない佐々川が昔は熱血刑事だったのか、と思うと今に至る過程を知りたいという興味が湧いてくる。それをしたら本当に殴られそうなのでやめておくが。
「老人の世間話の相手をしてる暇はないんですよ。その・・・三船千佳子の遺体から何か分かりませんか?」
「老人の話を聞いてくれないと拗ねるぞ?」
そう言って台の前に移動し、グレーのシートを捲る。遺体は発見当時よりは洗われているので綺麗だが、死斑は全身に出ており、やはり良いものでは無かった。切断された部分は全て元の位置に並べ変えられており、右脚を除くと人の形になっていた。腹部は縫合され発見当時の凄惨さは無かった。
「死因は恐らく窒息死。首の切断部分が真ん中より少し胴体よりだったので、見てみたら紐状の圧迫痕があった。絞殺だろうな」
佐々川が首に顔を近づける。鷲島は避けていたが、佐々川と浦部に催促されたので渋々首に顔を近づける。生々しい首の切断部分には血が固まっており、幸い縫合されていたので断面を見ることは無かった。確かに首には青黒い線が首を一周するようについていた。
佐々川は遺体から顔を離すと浦部を見て聞いた。
「他には何か?」
「切断されたこと、腹部を切り開いて内蔵をぐちゃぐちゃにしたこと以外は特に・・・あぁ、そうそう。内蔵の状況を調べていたんだが、膵臓だけが見当たらなかったな」
「膵臓?どうしてそれだけ・・・」
そこまで聞いて三船千佳子の部屋の状況を思い出す。血痕が付着したキッチン、フライパン、食器・・・
そこまで考えてから佐々川を見ると佐々川も同じことを考えていることを察する。
「浦部さん、一つ、変なことを聞いてもいいですか?」
鷲島は浦部に前置きをして疑問を投げかける。浦部は何だ、と言うような顔をする。
「人間が人間の肉を食べることって有り得るんですか?・・・食べたらどうなるんですか?」
浦部はそれを聞いて少し考えた後、遺体の状態や佐々川達の顔を見て納得したような声を上げてから、鷲島の疑問にゆっくり答える。
「人間が人間を食べる文化はいわゆるカニバリズムとして存在はしていた。しかし、それはあくまで文化的行動であり、好き好んで食していたわけじゃないだろう。カール・デンケは経済的な理由からだった。だが、中には性的な理由で好き好んで食していた者もいる。ミルウォーキーの食人鬼、ジェフリー・ダーマーがいい例だな。まぁ要するに人間が人間の肉を食べないのはその必要に迫られていない、その行為に嫌悪を感じてるだけで、それらが無くなれば私達は平気で食べるだろうな。豚や魚も食べてるんだから」
それはそれで違うだろう、と思うがそれは人間の身勝手な理由なのだろうか。人間が生きるため、他の生物を殺して食す。それは当たり前にやっているが必要に迫られれば・・・そこまで考えてやめる。
「でもやっぱりあってはならないですよ・・・そんなこと」
「それで、人肉を食すとどうなるのかは?」
佐々川の問いにも浦部はゆっくり答える。
「基本的にはいいことは無いねぇ。内蔵には菌やウイルスが充満しているし、ちゃんと加熱しな限りはね。それにプリオンによって脳がスカスカになる可能性もある。わざわざ食べる人なんていないよ」
浦部の答えを静かに聞いていた鷲島は部屋を飛び出す。佐々川はまた今度ゆっくり、と浦部に声をかけると鷲島を追う。急ぎ足で歩く鷲島を佐々川は止めるが振り払われてしまう。
「落ち着け、鷲島!」
「落ち着けるわけないですよ!さっきの話が本当なら、犯人はわざわざする必要のない食人をして、満足してるんですよ?!そんなやつが今野放しになってるんです!黙っていられるわけない!」
「だからって焦ったらやつの思う壷だ!落ち着け!」
あまり聞いたことの無い佐々川の怒号に鷲島は歩みを止める。あまり感情が出ない佐々川も声を荒らげているのは、犯人に対する怒りか。それとも何も出来なかった自分への怒りか。どちらにせよ佐々川がいつも以上に事件に対して真剣だということがわかった。
「・・・俺たちの仕事はなんだ?焦って守るべき人達を恐怖に陥れることか?違うだろ、俺たちの仕事はどんな事件、犯人と対峙しても常に冷静さを忘れず犯人を捕らえて真実を導き出すことだ。それが事件解決に繋がる。違うか?」
息を荒くする鷲島の肩に手を置き、ゆっくりと語りかける。捲し立てるのではなく、一言一言ゆっくりと奥まで響くように。鷲島の頭に冷静さが戻り、自分の先程の行動を振り返る。
「すみません・・・焦って周りが見えてませんでした」
「ま、それだけお前も真剣ってことだ。その事件に向き合う姿勢だけは立派だと思うぞ。それで空振りしちゃ意味無いけどな」
いつものやる気のなさそうな声で励ます佐々川を見て昔、熱血刑事だったのは本当なのかもしれないと思う。もしかしたら、先程鷲島に放った怒号くらいの気持ちがいつも心の中にあるのかもしれない。いつも以上に事件に対して真剣ではなくて、いつも真剣なのだ。それが表に出ないだけで不器用なだけなのかもしれない。昇進よりも事件解決を優先する。本来あるべき刑事としての姿は佐々川みたいな人物かもしれない、そう思い佐々川の背中を追う。
「よし、まずは三船千佳子の職場に向かうぞ」
「はい!」
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熊谷市万平公園の目の前にあるカフェが三船千佳子の職場だった。鷲島と佐々川が行くと既に店の前には熊谷警察署の皆野が来ており、やる気に満ちた顔で待っていた。
「お待ちしてました!もう話はついてますので聞き込みしましょう!」
「あれ、皆野さん他の勘取りじゃ・・・」
「よく分かりませんけど、お二人と聞き込みを行うようにと異動しました!」
要するにこの元気さが他の勘取りでは邪魔になって飛ばされたのだ。厄介なのを押し付けられるのはいつものことだ。何せ佐々川が少し厄介なやつとして認識されているからだ。厄介なものには厄介なものを合わせる。どんな化学反応を起こすのかは想像ができなかったが、今の鷲島にとっては皆野のやる気はとても勇気付けられた。
カフェには店長と思われる女性、バイトの女子高生二人がいた。
「お忙しいところ失礼します。埼玉県警の鷲島です。こちらは佐々川・・・」
「熊谷警察署の皆野です!先程も話した通り!」
店長達が少し押されているのを見て皆野に少しテンションを落とすように合図をする。皆野が大人しくなったのを確認して店長達に向き直る。皆一様に緊張していた。幸い他の客がいなかったので話しやすい環境ではあった。
「店長の佐東です。こちらはバイトの子達です」
店長に紹介され、それぞれ頭を下げる。バイトの女子高生に至っては目が赤くなっていたので泣いたのかもしれない。
「早速ですが、こちらで働いていた三船千佳子さんについて・・・もう話は聞いていると思いますが・・・」
「千佳子さんは殺されるような人じゃないです!何かの間違いなんです!」
「そうです!あんなに良い人が!」
「ちょっと、あなた達は裏に行ってて・・・!」
取り乱すバイトの女子高生を店長の佐東が裏のスタッフルームに連れていく。あの信頼ぶりだと本当に良い人だったのだろう。キッチンの奥にある白い扉の向こうで何やら話した後、佐東が出てくる。佐東もどこか疲れているような顔をしていた。鷲島達の前に立つと改めて顔を合わせる。
「すみません、彼女たちと三船さんはその・・・姉妹みたいな関係だったみたいで、三船さんも彼女たちを妹みたいに可愛がってたので・・・」
「あ、いえ、こちらも配慮が足りませんでした・・・彼女たちは大丈夫ですか?」
「はい、奥でとりあえず休ませてます。今日は客もそこまで多くはありませんし、今なら大丈夫です」
店内を見回す。少し狭い店内に置かれたテーブルとカウンター席には一人も座っていなかった。報道でも名前が出されてしまっているので常連なんかは三船千佳子の事を知ってる人もいるので行きづらいのかもしれない。天気も怪しく雨も降りそうだったのでそういうのも関係しているのかもしれない。
佐東に奥の席に座るように促され、鷲島と佐々川は隣同士、向かいに佐東が座る。皆野は座るように何故か立っており、熱心にメモを取ろうとしている。
「三船千佳子の交流関係について何か知りませんか?恨みを持つ人間がいたとか・・・」
先程の女子高生達の反応を思い出し、恨みを持つ人間のところは少し声を落として聞く。まだ扉の向こうにいるのだ。聞こえでもしたらさらに深く傷を抉ることになってしまう。その気遣いに気付いたのか佐東は少し頭を下げてから話す。
「交流関係については、正直分かりません。よく自分のことは話してくれる人でしたが、友人とかのことはさっぱり・・・ただ彼女たちの反応を見て理解してくれたらと思いますが、三船さんはとても面倒見が良くて信頼される人です。恨みとかは・・・」
そこまで言って顔を伏せ肩を震わせているのが見えた。佐東も店長と従業員としての関係の中でとても信頼していたのかもしれない。もしかしたら仕事以外でも交流があり、その関係の深さ故の涙か。佐東が落ち着くのを待っていると店の扉が開き客が入ってくる。佐東は顔を上げると目元を拭ってすぐに笑顔で接客を始める。佐東はその客の顔を見ると少し表情を強ばらせ、注文をとり、キッチンに戻ってくる。その表情に気付いたのか佐々川がすかさず聞く。
「何かありました?」
「え、あ、いえ、さっきの交流関係について・・・なんですけど」
その客から見えない位置に佐々川のみ移動し、聞こえないように静かに話す。奥の席の客三人が全員移動してヒソヒソ話してたら怪しまれるだろう、と佐々川に止められ鷲島と皆野は渋々席に座る。少ししてから佐々川が戻り、佐東が商品をテーブルに運んでいく。佐々川が座るのを確認すると鷲島と皆野は身を乗り出し佐々川に詰め寄る。
「何かわかったんですか?!」
「お前ら、落ち着け・・・ちゃんと話してやるから」
そう言われ水を飲むように促される。水を一気飲みして佐々川の話に耳を傾ける。佐々川は怪しまれない程度に佐東が接客している客の男の方を一瞥して話す。
「今佐東さんが接客している男なんだが、数ヶ月前から店に顔を出すようになったらしい。それだけなら普通の常連だが、どうやら三船千佳子に執拗に迫っていたそうだ」
そこまで聞いて鷲島はその男を見る。歳は三十代前半だろうか。整った顔立ちに眼鏡をかけており見た目は知性溢れる感じだ。耳を傾けても言葉遣いも丁寧であり物腰も柔らかい。だが、その内側に何か溜め込んでいることはよくある。外面が良い人ほど何かを我慢していることが多く、それが爆発して凶行に至ることもよくある。データなんかは無く、ただの佐々川の経験談だが。
その執拗な行動が叶わぬ恋からなのかは分からないが、タイミング的に見て事件に関わっていることは間違いない。鷲島と皆野はそう考えていた。
「話を聞きましょうよ。執拗に迫っていたその行動がエスカレートした可能性だってあるじゃないですか」
「ほら、落ち着け。まだそんな確証を得られたわけじゃないだろう?まぁ話を聞くのは賛成だがな」
佐々川はコーヒーを飲み干すと佐東が接客をしていた男の元へ行く。鷲島と皆野はまた佐々川に止められ、後ろでしっかりと話聞いているように言われる。男は佐々川の存在に気づくと少し不審な顔をして会釈をする。
「ちょっと、お話よろしいですか?」
他の客が来る可能性もあるのでスーツで隠すように内側で男にだけ見えるように警察手帳を見せる。男は手帳を見ても特には動揺せず、逆に納得したような顔をして承諾する。
「あの、なんでしょう?何かしました?」
「この店で働いていた三船千佳子さんに執拗に迫っていたという話を聞いたんですが、本当ですか?」
「・・・そんな事してません。常連として話をしていただけです・・・ちょっと失礼」
男は簡単に答えるとスマホが鳴ったのに気が付き、そのまま外に出て電話に出る。佐々川は席に戻ると先程と同じように迫ろうとする二人を手で制する。
「何とも言えないな。ただ執拗に迫っていただけで殺人に繋がる証拠はない」
「そんな呑気なこと言ってていいんですか?少しでも繋がりそうなら問い詰めた方が・・・」
「任意同行しても同じだ。こちらも何も掴めていない以上無闇矢鱈に動くべきじゃない」
佐々川の淡々とした声に正論を言われ鷲島は黙ってしまう。皆野も何か言おうとしていたが何も思いつかなかったのか何も言わなかった。すると後ろから一人の女性が話しかけてくる。それは先程取り乱して奥に連れていかれたバイトの女子高生の内の一人だ。佐東と客がいないのを確認すると、静かに口を開く。
「あの、千佳子さん・・・三船さんなんですけど、近々結婚するって言ってました」
「結婚・・・ですか」
正直有力な情報とは言えなかった。これから結婚する相手が新婦を残忍にころすとは思えない。何か主枠がない限り。鷲島達は女子高生の話を聞き続ける。
「それでこれも噂何ですけど・・・・・・三船さんは結婚相手の連れ子を虐待してるって・・・そんな事絶対にないと思いますけど・・・」
「虐待ですか?つまり結婚相手の男性はバツイチ子持ち・・・」
それが何か繋がるとは思えないが三人は一応頭の片隅に置いておく。
「その話は誰に聞きました?」
「えっと・・・三船の知り合いっていう男の人からです。名前とかは分かりません。初めての方でしたし、その後は一回も来ていません」
鷲島は佐々川と皆野を見て女子高生に柔らかな笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。この情報は絶対に無駄にはしません」
「あの、三船さんはそんな人じゃありません・・・殺されるような人じゃないです!だから・・・犯人を捕まえてください」
先程と同じように肩を震わせているが、泣き崩れるたりはせず時分で奥に戻っていった。被害者が殺されて悲しむのは遺族だけではない。少なからず被害者と関わったことのある人達の心にも深い傷を負わせる。どんな理由があろうと、必死に生きても未来を奪われることがあってはならない。女子高生の言葉を胸に刻んだ三人に佐東が恐る恐る声をかける。
「あの・・・」
「あ、すみません。あの男性にもう少し話を聞いたら我々も失礼しますので・・・」
「いえ、そのお客様なんですけど・・・どこかに行ってしまったみたいで」
少し申し訳なさそうに話す佐東の横のテーブル見る。先程の男が座っていた席のテーブルには注文した商品分の料金が置かれていた。鷲島と皆野はいそいで外に出て辺りを見回す。しかし男の姿はない。二手に分かれて走り回るがもう男を見つけることはできなかった。店に戻ると佐東が頭を下げてきた。
「すみません!私がもっとちゃんと見て報告していれば・・・」
「そ、そんな・・・頭を上げてください。全て我々の不注意が招いたことです。謝ることなんてありません。それより、バイトの女の子達と佐東さん自身の傷を癒すことに専念してください」
佐々川が必死に頭を下げる佐東をオロオロしながら宥める。
店を後にした鷲島達はその後、三船の婚約相手の男性の元へ話を聞きに行った。男性は号泣しながら話してくれたが、あまり有力と言える情報は得られなかった。
捜査本部の熊谷警察署に戻った鷲島達は一旦情報を整理する。
「三船千佳子については正直恨まれるようなことはなさそうですね。どんな人にも優しくて常連になる人も多かったみたいですし」
皆野はホワイトボードに貼られている三船の写真を見る。集合写真の一部だが、満面の笑みだった。
「やっぱり今日逃げたあの男が怪しいですよ。やましい事がなければ黙って逃げることはないはずです。それに執拗に迫っていたのが片想いからならその不満が爆発して犯行に至った可能性だってあります」
「あの男については今後も探すとして、虐待の方はよく分からなかったな」
バイトの女子高生から聞いた噂を婚約相手の男性に聞いたところ、それは無いと言いきった。子どもにも確認したかったがまだ学校の時間帯だったので確認できなかった。男性が三船と婚約したいから隠している可能性もあるが、鷲島はそんな事は思いたくなかった。深くため息をつき、時計を見ると既に午後九時を回っていた。すっかり外も暗くなり他の捜査員達にも疲れの色が見えてきた。佐々川は立ち上がると皆に休息を取るように呼びかける。それぞれ欠伸をしたりコーヒーを飲みに行ったり一服しに行ったりと散り散りに去っていく。
「鷲島、お前も今日は休め。気張りすぎだ」
そう肩を叩かれ、佐々川も奥に消えていく。鷲島はめを強く瞑ると筋肉が固まっていたのかじんわりと暖かくなり解れる感覚に襲われる。少ししてからスマホに手を伸ばし妻の千聖に電話をかける。数コールの後、千聖は電話に出た。
「ごめん、今日は帰れそうにない。秀斗はもう寝たか?」
「うん、もう寝てる。ニュース見たけど大変な事件なんだね」
「あぁ、しばらくは帰れないかも・・・いつもごめん、なるべく早く・・・」
「いいの、気にしないで。みんなの為に走る貴方を見てそこに惚れて結婚したんだもん。あなたが今もみんなの為に走ってるなら私は帰ってくるのを待つだけ・・・・・・気をつけてね」
電話を切る。仕事がらとはいえいつも孤独を強いてしまっている。息子の秀斗とも遊べていない。早く帰りたいがだからといって事件の捜査の手を抜く訳にはいかない。千聖と秀斗なら分かってくれる、そう言い聞かせて鷲島は目を閉じる。意識がゆっくりと落ちていく。