アンナ
「うっ。げほっ。ごほっ」
激しく暴れる渦の中から、アージェスはどうにかして抜け出そうともがいていた。何とか顔を出すものの、波に飲まれ苦しくなる。息が続かない。水仙人は必死に魔法力を使い続けていた。
どうあっても、ここから出さないつもりか。
もしかしたら、溺れる直前まで待っているのか。
「けほっ」
口から白い泡が出る。
意識が保てなくなってきた。
しかし水仙人の方も疲れが見えてきた。
渦の勢いが弱くなっている。
そして魔法は消え、アージェスは地面の上に倒れる。
「げほっ、げほっ」
飲み込んだ水を吐き出す。
体はまだ、しばらくは言う事を聞かないだろう。
水仙人も、息を切らして膝をついていた。
「わしも、はあ、年を取ったものじゃ……。もう少し持つと思ったがの。じゃが、多少はダメージを与えられたかの……。はあはあ……」
そんな水仙人に対して、アージェスは悪態をつく。
「このジジイ、よくも……」
「ほう。体は動かないのに、減らず口は叩けるようじゃの」
「黙れよ。動けるようになったら、てめえなんか叩き斬ってやる……!」
「物騒な物言いじゃな。王子様じゃったら、もう少し綺麗な言葉使いもできるじゃろうに。お主も人の子じゃの」
「な……に!?」
「完璧な王子には、なれていないという事じゃ。やはり、心のどこかに、寂しさを抱えていたのじゃろうな……」
「黙れと言っている! 俺は、ダーク帝国王子、アージェス・サタンだ!」
「アージェス!」
急に強い口調で、誰かが叫んだ。
首をそっちに向けると、美衣子が眉を吊り上げている。
ファイヤーストーンは、輝きを増している。
「アージェス。そんな事を言っては駄目! お母さんが悲しんでいるわ!」
「黙れ! 俺の母親は、もういないんだ!」
「いいえ。もう一度あなたに逢いに、今ここにいるわ!」
「何……!?」
しかしいくら目を凝らしても、母の姿は見えない。
「はったりか。どこにもいないじゃないか!」
「ちゃんと耳を澄まして。ほら、聞こえるでしょ」
確かに、微かに声が聞こえる。
懐かしい、聞き覚えのある声が。
(アージェス……)
「ま、まさか」
(アージェス。わたしの、アージェス……)
アージェスは身震いした。
間違いなく、母は、アンナはここに来ている。
水仙人がにこやかに美衣子に歩み寄った。
「みーこ。やったようじゃな。アンナさんとやらを良く探し出したの」
「はい! 水仙人様。しかし、姿は見えないのですか?」
「案ずるな。みーこよ。これを使うのじゃ」
水仙人は服のポケットからある石を取り出す。
それはかつて、サイーダが持っていた石だった。
「それは、魂の石!」
「そうじゃ。さあアンナさんとやら、お前さんの思いは、まだファイヤーストーンの中にいるのじゃろう。出て来て、この石に触れてみなされ」
ファイヤーストーンの光が、水仙人の手のひらの石に向かって伸びた。
「な、何をする気だ。うっ……」
「アージェス。無理をするでない。お前さんの体は、まだ思うように動くまい。もう少し、そこで見ておれ」
体を起こしてファイヤーストーンの光を消そうとしたアージェスを、水仙人が諭した。
光が石に触れる。
瞬間、光は人の形に変化していく。
輝きが消えた時、そこにいたのは、実体化したアンナの魂だった。
その美しい母の姿。
アージェスの記憶の底にある、あの優しかった母そのものだった。
アンナは美衣子と水仙人に一言礼を言うと、アージェスに近づく。
「アージェス……」
母の笑顔は、眩しかった。
アージェスは、逃げ出そうとする。
が、水仙人、そして綾乃に痛めつけられた体は、そう簡単に動かない。
「くっ、こんな時に、体が……」
「すまんな。お前さんの動きを封じるには、ああするしかなかったのじゃ。そうすれば、お前さんもゆっくり母親と話ができるじゃろう」
「余計な事を……」
「そう言うでない。さあ、アンナさん」
「はい」
「く、来るな。止めろ」
「嫌よアージェス。わたしはあなたの母親だもの」
アンナは、アージェスの前に座った。
そして彼の手を握る。
魂の石の力で実体化した魂は、普通に生きている者に触れる事が出来るのだ。
「アージェス……。大きくなったわね。わたしの記憶では、まだほんの小さな子供だったのに」
「うっ」
母の手は温かい。
だが息子は怯えていた。
闇が、自分の中で暴れている闇が、母に危害を加えるかもしれないから。
「アージェス。可哀想に。闇の洗礼を受けて、自分ではどうしようもならなくなっているのね。でも、あなたは本当は優しい子。わたしは、知っているわ」
ポタリ。
アンナの涙が手に落ちる。
その温もりが、アージェスに伝わって来た。
「あ……」
心の闇を、溶かしていく。
自然と、涙が溢れてくる。
小さな頃みたいに、もう一度甘えてみたい。
「母、さん……」
「アージェス」
母と子の視線が合う。
アンナは両手でアージェスの体を抱きしめる。
アンナの胸に顔をうずめる形となったアージェスだが、それが今は心地いい。
もう一度逢えたら、どんなにいいかと思っていた。
アンナと別れ、いきなり見知らぬ城に連れてこられ、最初はどうしたらいいのか分からず、泣くばかりだった。
母が近くにいない事に、違和感を覚えていた。
回りを見ても知らないものばかり。
アルビネットに、自分が父親だと告げられ、アンナはもう死んだのだから、これからはここで暮らすんだと言われても、ピンとこなかった。
やがてその意味を理解した時、母を見殺しにして自分と引き離した父親に恨みを抱いた。
監視の目をすり抜け、逃げ出したいと何度も思った。
しかし城での生活に慣れ、父親との距離が近づくにつれ、その感情も薄れていく。
育ててくれた事に、恩も感じていた。
いつしか、自分はこの国の王子なんだと自覚した。
した、つもりだった。
心の片隅に、やはりいつも、母が眠っていた。
忘れる事などできない。
「アージェス、逢いたかった」
「うん……」
抱き合う親子の光景を、美衣子達戦士は優しい眼差しで見つめていた。美理子は、穏やかな表情のアージェスを見て嬉しくなる。
(良かったね。アージェス)
これで彼の中の闇が治まれば良かったのに。
ゴゴッ。
「!!」
黒いものがうごめき出す。
完全に闇は消えていない。
アージェスは母の身を案じた。
「母さん、俺から離れて!」
「えっ、アージェス!?」
アンナの魂を軽く押す。
やっと思い通りになった体で、母と距離を取った。
体を包む闇は、煙状に広がって行く。
戦士達は身構えた。
ジースや動物トリオも、戦える状態に戻っている。
綾乃の傷も美理子によって癒された。
アンナは息子の側に行こうとする。
「アージェス……」
「来るな、母さん!」
アージェスはアンナを拒否し、闇に耐えていた。
もう嫌だ。
戦いたくない。
だが、彼の意思とは反対に、闇は大きくなる。
やがて、彼の目は正気を失い、もう一人の意思が現れた。
「アンナよ……」
「あ、あなたは……」
アージェスの声じゃない。
低く、威厳のある声。
アンナの魂は怯えた。
「ま、まさか」
それは、綾乃も良く知っている男の声。
自分が長年仕えた国王。
その名はアルビネット・サタン。
ついに、その男が現れた。
しかも、アージェスの意思を封じ、その体を介して。
戦士達に、緊張が走った。




