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日頃運動しない僕は、シャトルランでもてる体力を使い果たしてしまっていた。体育の次の授業は数学だったけれど、僕のノートに数式が書き込まれることはなく、代わりに非常に奇怪な模様が紙面を覆いつくしていた。どうやら鉛筆を持ち続けたまま、僕はずっと首を単振動させていたらしい。
ヘトヘトだった僕に対し、神垣麗衣は元気で活力みなぎっていた。目が覚めた一瞬、ちらりと彼女の方をみやると、彼女の手はせわしなくキーボードを打鍵していた。無論、楽器のキーボードではない。パソコンのキーボードだ。
織風高校では、基本的に何をしても咎められない。日本の法に則っている限り、いかなる行いも学校側から文句をつけられないのだ。ここは自由を標榜する。もし、ある行為が迷惑なら、それを自分達で止めさせるなり罰するなりすればよい、というのが校風なのである。一応、目安として生徒会による「原則」が定められているものの、原則はあくまで原則であり、当然のことながら絶対のルールではなかった。ゆえに、彼女が授業のノートをパソコンでとっていたとしても、いや、パソコンで動画をみていたとしても、キーボードの打鍵音や動画の音声が他の生徒に迷惑をかけることなければ、一切ケチをつけられないのである。
この時、彼女が書いていたのは、実は数学のノートではなかった。
「授業中考えていたのだけれど、四条は事前に問題を知っていたという線はどうかしら?」
昼休み。彼女は僕を屋上へと誘うと、いきなりそう言った。
「まあ、それは十分にあり得そう」
「というのも彼、天才ではなさそうなの」
神垣麗衣が独自の情報網とやらで入手した情報によれば、あの金髪のイケメンはスポーツ馬鹿だったらしい。小学生時代、サッカーに関しては都選抜にも選ばれるくらいだったらしい。
「彼の元同級生に会って話とか聞けないの?」
「それが、彼、帰国子女なのよ。アメリカのセレスティア中学校からこっちに来てるの。だから同級生と会うのは難しいわ」
「うーん、それだと素直に彼がどうやって問題を入手したのか考えたほうがよさそうだね」
「で、ここの教師で問題をリークしそうな人物を洗い出してみたの。ちょっとこれを見て」
ノートパソコンの画面を見せてくる。
「音楽の折角先生、数学の枡町先生、保健の成瀬先生ね。個人的に怪しいと思うのは」
「なんでその三人なの?」
「なんとなく。勘ってやつ?」
「勘って……」
「とりあえず、次の授業、音楽でしょ。探り入れるわよ」
「え、いきなり!?」
「そうよ。悪い?」
「いや、まあ別に……」
「じゃあ、そういうことで」
そう言うなり、彼女は屋上を出る。
「何を考えているのか全く分からないお嬢様だ」
僕は肩をすくめながら音楽の授業の準備をすることにした。
折角先生は、音楽教師であるにもかかわらず白衣を着ていた。
「でも、それが似合ってんだよな」
と言ったのは、隣に坐する銀髪イケメン、ハルトだ。
「ハルトはこういう人が好みなの?」
「おや、君もそういうこと言うんだね。確かに美人だが俺の好みじゃないな。ちなみに俺の好みは……」
どうでもいい。しかし、ハルトの言う通り、折角兎角先生は白衣が似合う女性である。年齢は、教師高齢化の中では珍しく二十代、生徒との年齢が近いことから親しみやすく、人気がある。それに授業もクラシック音楽を聴くだけという楽単だ。
「ちょっとそこ、話聞いてるか?」
ギク。どうやら授業に関係ないことを考えているのがばれたらしい。
「聞いてませんでした」
折角先生はにやりと笑った。
「それは当然だ。まだ話していないからな」
皆が笑った。僕も笑った。ハメられたようだ。
「さて、授業を始めるとしよう。今日は、バッハのシャコンヌを鑑賞したいと思う」
バッハのシャコンヌとはこないだこないだばかりだ。バッハは説明不要の大作曲家で、ドイツの3Bの一人に数えられる(残りは、ベートーヴェン、ブラームス)。シャコンヌとは、変奏曲の一種で。同じ低音のパターンを繰り返す。ベースが繰り返されるので冗長的になりがちだが、そこをいかに料理するかが作曲家の腕の見せ所。低音が一定であることは、逆に言えば構成面では強固であるという事を意味する。バッハのシャコンヌは、ヴァイオリン一艇で宇宙を描いたとも言われる、クラシック音楽史の中でも燦然と輝く金字塔なのだ。
「今日は五十分の授業で三つの演奏を聴いてもらう。それらを比較してレポートを書けば、期末考査の点数に十点加えるから期末考査で手抜きしたい奴は今のうちに書いとけ」
ミルシテインとハイフェッツとシェリングの演奏。どれも超有名な演奏なので全部CDを持っているし、何十回も聴いている。僕は聞き終わる前にルーズリーフにレポートを書き終えてしまった。余談だが、この曲はいろいろな作曲家によってピアノ用に編曲されている。ブゾーニ版は本当によくできているので、聞くことをお勧めする。
授業後。僕と神垣さんとで折角先生に話しかける。
「先生。ちょっと話があるのだけれど」
「神垣か。なんだシャコンヌを弾いてくれるのか。ヴァイオリンなら音楽室のを使ってよいぞ」
「違うわ。私はヴァイオリニストじゃなくてピ・ア・ニ・ス・ト。そうじゃなくて、あなた八組の担任でしょ?」
へえ、そうなのか。さっき言ってくれればいいのに。
「そうだが。それが君たちに関係あるのか」
先生は疑いのまなざしを向けてきた。それはそうだろう、こんな意図不明の質問をしたら誰だって疑問に思う。
「それが大ありなのよ。金髪で授業ほとんどサボってる奴いるでしょ?」
「四条のことか?」
「そう。彼、なんで学校来ないのに受験したのかしら? 義務教育はもう終わり、というか、彼は帰国子女。わざわざ日本に戻ってきて受験、そのまま帰国子女のアドバンテージを生かして生きていくならわかるのだけれど、欠席ばかりするのって変だと思わないかしら?」
「彼には彼の事情があるのだろう。私の関知するところではないがな」
「関知しないんですか? 担任なのに」
僕のツッコミに先生は目を伏せながら答えた。
「彼については……私も正直よくわからないのだよ。一人暮らしだという事はわかっているのだがな。彼はほとんど家に帰っていないらしいのだ」
「家に帰っていない? それは妙ね。だって彼は登校していないのだから、家に帰ることはできないはず」
「そうなのだ。私も疑問に思っていてね。人を見た目で判断するのは良くないと承知なのだが、金髪だからね、つまりはその――」
「夜にバイクでも乗り回してるとでも?」
神垣さんの問いに先生はほんの少しだけ頷いた。あまり肯定したくはないのだろう。
「長話は以上だ。早くしないと次の授業に遅れるぞ」
「そうですね。今日のところはこれまでにしておきましょう。またの機会にお話ししましょう」
音楽室を出てから、神垣さんは何やら考えているようで、眉間にしわが寄っていた。美しい顔が台無しである。そして、話しかけにくい。
「ねえ、どう思う?」
と思ったら向こうから話しかけてきた。
「何を?」
「折角先生のこと。彼女が四条に試験問題を漏洩したと思う?」
僕個人としては、そうは思えなかった。いかにも真面目そうな先生だし、言葉も慎重に選んでいる。一周回って演技した結果がこれなら、アカデミー女優賞でも取れそうな大した名演技だが、その可能性よりは、単に普通の真面目そうな音楽教師だと考える方が妥当であろう。白衣を着ているのはよくわからないが。
「そうね。私も彼女がリークしたとは考えられないわ。それよりも重要なのは、彼がずっと家にいないということね。彼は何をしているのかしら? これは張り込みをするしかないわね」
彼女の両目がギラリと輝く。やる気満々なのは別段構わないのだけれど、僕もやらないといけないんだよなあ。
その日の夕方、僕は実家へと帰った。
「おかえり」
母の言葉ではない。姉の明美の言葉だ。残念ながら母と会話することはおそらくもうないだろう。事実上の絶縁状態である。これは比喩ではなく、現実そのままであった。僕は理不尽な理由によって母と同居することすら許されない。
若かりし頃の父と全く同じ容姿。たったそれだけの理由で僕は嫌われていた。姉がいることから分かる通り、僕は無理やりできた子ではなく、一応父と母の愛の結晶ではある。ただ、僕が生まれた後の父の行いがまずかった。「仕事のためしばらく帰りません」というメモを残して本当に帰ってこなかった。恐らく生きてはいるはずだ。毎月母と姉と僕の口座――もう財産は三人別々なのだ――に相当の額が振り込まれているから。別に浮気していると、僕は思わないのだけれど、母はそう信じて疑わないようだ。
父の職業は何でも屋。本人は「私立探偵」と称しているけれど、実際はどんな仕事も引きうける何でも屋。なまじ器用貧乏だからどんな仕事をやらせてもうまくこなすらしい。僕としては執事あたりが向いていそうな気がする。今のご時世、執事がどれくらい需要あるかわからないけれど、園田さんがいることだし絶滅はしていない。
完全に放任主義の母僕を放っておくから普段実家にいることはない僕だけど、月に一回は顔を見せなくてはいけない。そのためにこうして実家へと帰ったのだ。
顔を見せに帰るだけなので、さっさと母に会いたいところなのだが、生憎母は仕事中である。彼女はピアノの先生をしている。おかげで僕も姉もピアノに関してはかなり上達した。僕も父そっくりの顔になるまではそれなりに可愛がられてピアノを教わっていたのだ。今は当然母が教えてくれないので、現在の師匠は姉である。
「ただいま」
そんなわけで、あまり「ただいま」な感じはしなかった。
「ねえ、まだ母さんが仕事終わるまで時間があるし、ピアノ弾いていかない?」
姉は僕よりピアノがはるかにうまい。音大を出てピアニストかピアノ教師になるかと思われ――教授陣にはピアニストとして嘱望されていたそうな――ていたのにもかかわらず、カフェのマスターをしているのだからよくわからない。姉弟特権でありがたくタダで利用させてもらっているけど、なんか才能と努力を無駄にしている気がする。
「いいよ」
僕らはアップライトピアノがる二階へと移動した。一階のグランドピアノは母がレッスンで使用しているので使えないので、アップライトで我慢するしかない。
久しぶりに我が家の階段を上り、アップライトピアノがある防音室に入った。アップライトピアノは若干ほこりをかぶっていたが、いくつか鍵盤を押した感じ、音程もくるっていないしコンディションはよさそうだ。
「バッハのシャコンヌ、練習してる? ちょっと弾いてみてよ」
「アップライトだからうまく弾けないかも」
「そーやって言い訳するのはダメよ。プロならどんなピアノでもうまく弾けないといけないの」
「僕プロじゃないし、攻防は筆を選ぶんだよ」
「いいから早く弾きなさい」
舌戦は僕が一本取ったと思うけど、姉の前で弾くのは緊張する。いつも、一つ褒めながら五つは問題点を指摘してくる。
集中するために深呼吸。鼓動がよく聞こえる。けれど、それじゃあうまく弾けない。自分の音だけが聞こえるまで精神統一する。そして、弾きだす――
―――
――終わった。少し疲れた。この曲十五分くらいかかるのだ。割と長い。
「うんうん、だいぶ良くなった。ミスもかなり少ないし、脱力もできてる」
いつも通りまずは褒められる。
「ただ、全体的にあっさりしすぎ。もっとこんくらい表情つけなきゃ。ちょっとどいて」
そう言って弾きだす。おかしい。一日中カフェのマスターやってて練習できていないはずなのに、そんなことを微塵にも思わせない。まず、ぼくと音の厚みが違う。同じ楽器を使っているはずなのに、全く別の楽器のように思える。
姉はコンクールでは勝てない、と言われていた。王道、正統、伝統。そういったピアニズムとは無縁な我流。母からテクニックだけ学んだと言い切る。好きなピアニストはフランソワ。独特の解釈で早逝してから何十年たっても忘れ去られることのない、伝説のピアニストだ。
「こんな感じ」
変幻自在の強弱、テンポの揺れ。こんなに揺さぶられたら、誰でもうっとりしてしまう。
「こんなうまく弾けないよ」
「いいから弾いてみなさい」
今度は先ほど緊張していない。力みが取れて自分の音がよく聞こえる。姉の演奏の模倣ではないが、緩急強弱を大げさにやってみる。不自然ではない程度にカンタービレ。
「いいじゃない。その調子よ」
姉のレッスンをこうしてすること三十分。いよいよ母の仕事が終わり、ご対面。
「ただいま」
「……」
いつもそう。母は僕の方を見ることもないし、返事もない。
「じゃあ、帰るね」
「待ちなさい」
珍しい。僕は呼び止められてる間に玄関まで歩いていて、というか靴を履き始めていたが振り返った。
「何?」
「あんた、神垣麗衣と付き合ってるの?」
待て待て待て待ってください。どこがどうなったらそうなるんですか。そもそもどこでそんな情報得たんですか。僕の内心は疑問符に支配されていたが、それを外に出すわけにはいかない。あくまでポーカーフェイスを装う。
「学校で少し話すだけだけど。なんで彼女のこと知ってるの?」
「そんなの決まってるでしょ。彼女、私の弟子だから、時々話すの」
なるほど……って、マジですか。衝撃のカミングアウトである。
「そう……なんだ。へえ」
「あのさ、彼女と関わらないでね。あんたと関わって彼女の才能が無駄になったら音楽界の損失だから」
若手ピアニストとして名を馳せる神垣麗衣。その師匠が母だとは。神垣さんは僕の姉弟子あるいは妹弟子にあたると言ってもあながち嘘ではないのか。
「話はそれだけ?」
「ええ。早く帰っていいわよ」
「そう。じゃあ、また今度」
僕は実家をあとにする。姉さんが帰り際に何かプレゼントを渡してくれた。包装されているものの明らかに本だ。厚さは一センチ程度のA4サイズ。
「家に帰るまで開けちゃだめよ」
何が入っているのだろう。期待で歩調を速めながら自宅へと戻る。すっかり空は闇に包まれ、満月が輝く周辺だけ不気味な明るさを保っていた。
帰宅して開封すると、楽譜だった。なぜかヴァイオリンの。僕はヴァイオリンは全く弾けないし、そもそもヴァイオリンなんて持ってないんだけど。
「麗衣ちゃんとうまくやるのよ。応援してるわ」
なんてコメントが。
なぜ連弾の楽譜じゃなかったのか。姉さんが楽譜を間違えたのだろうか。
今度直接訊くか、と諦めて僕は夕食の支度をしたのだった。