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所要時間

作者: 鷹参

およそ七年ぶりだった。

私はしばらくの間、仕事の都合で再びこの駅を利用することになった。

改札を抜けて駅舎の階段を降りる。

夏の猛烈な熱気の中で私は足を止めた。

駅前の様子はいくつか店が変わってはいるが、大きな変化は見受けられない。

そして、あの信号の向こう側。

建物の間の路地に入り、すぐ角を曲がって、そこから徒歩七分。

それがあのハイツへの順路だった。


当時、私はここから徒歩七分ほどにある一軒のハイツに住んでいた。

古びた建物だったが1LDK・バストイレ別で、作りはしっかりしていたように思う。

敷金無し。周囲の環境も便利で立地を考えれば家賃は安く、一人暮らしには良い物件だった。

けれど私は一年と経たずにそこを出た。

転居の本当の理由は、誰にも話したことがない。

親しかった友人には「前から住みたかった町にたまたま良い物件が出た」と答えた。それは半分本当だが、他に言えなかった理由がある。

私は少しでも早い期間で仕事が終わるよう願いつつ、訪問先のビルを目指して歩き出した。



「あらあら、どうもご丁寧に。ありがとうねえ。こちらこそ、よろしくお願いしますねえ」

引越し祝いを手に挨拶に伺うと、二〇一号室のおばあさんは明るく迎えてくれた。隣の人は不在だったので、このハイツで最初に挨拶に伺った住人だ。人生で初の一人暮らしで、人生初の引越し挨拶になる。

おばあさんはここに住んで二〇年にもなるそうだ。

このハイツ周辺のこと、どんな店があるかなどを教えてくれて、何か困ったことがあったらいつでもどうぞと言ってくれた。なかなか面倒見のいい人のようでうれしくなってしまった。玄関口での立ち話は少々長くはなったが、いい気分で階下の住人へ挨拶にいける。

そう思っていると、おばあさんはまったく同じ朗らかな口調で私に問うた。

「最寄り駅までは。どのくらいかかるかしら」

私は最初、この質問におかしさを感じなかった。

ご老人なので普段歩かないから、若い自分ならどれくらいで駅に着くのか聞いてみたかったんだろうと思った。

物件情報では最寄り駅まで徒歩七分と書かれていたが、たいていは実際よりも短めに書いてある。実際歩いたら七分ではたどり着けなかった。だが、私は道に慣れればそのくらいで行き来できるだろうと思っていたので、

「そうですね。物件情報通り七分。でも、急いだら六分で行けるかもしれません」

そう答えると、なぜかおばあさんは安堵したように息を吐いた。


おかしいと思ったのは次の部屋へ挨拶に行った時だった。

一〇二号室の男性は伸びた髭と長い髪で、顔のほとんどが見えなかった。部屋は薄暗くカーテンが引いてあるようだった。くたびれたTシャツを着ていて、饐えたような汗の匂いがした。到底、日常的に外出をしている様子ではない。日曜だから在室していたのではなく、普段から引きこもっているのではないか。

それでも同じハイツの住人になのだからと我慢して、ぼそぼそとした喋り声のその男性と挨拶を交わし、すぐに次の部屋に行こうとした私に、彼は聞き取りにくい小さな声で聞いてきた。

「……最寄り……まで……どのくらい……かかる」

よく聞き取れなかったが、駅までって言ったのか。

おばあさんと同じ質問か。

そんなことも忘れてしまうくらい長く閉じこもっているだろうか。どうやって生活しているんだ。不健康極まりないと思いながら私は、自転車ならゆっくり行っても五分でしょう、と答えさっさと辞去することにした。


一〇三号室にはご夫婦と小さな息子さんが住んでいた。ご主人は背が高く一目見たら忘れられないようなモデルさんの如くハンサムな男性だったが、穏やかな話し方で奥さんも普通の女性だった。息子さんはまだ小さく、ごく普通の家庭に見えた。

引越し祝いを渡して挨拶を終えた。さあ。不在だった住人への挨拶は後にして、部屋に戻って荷物の片づけをしようと私は思った。

すると、その小さな子は私に向って口を開いた。

「えきまでどのくらい」

どう考えればいいのか。このハイツでは引越してきた人に、最寄り駅までの所要時間を尋ねる伝統でもあるのか、何かの冗談なのか。

私はかがんで彼と同じ目線になった。無表情のままじっと私を見ている。大人にそういうように言われたのか。

ここの住人たちは新しく越してきた自分をからかっているのだと思った。意味は分からないが、一風変わったジョークなのだろうか。

甚だしく不快というわけではないが、それならば。

「そうだねえ。最寄り駅までは。七年かな」

私はそう言いながらご夫婦を見上げた。

ご主人は大きく目を見開き、顔色が目に見えて真っ青になった。

奥さんはわなわなと震えだし、今にもくずおれそうだ。

小さな男の子だけが、そんな大人たちを静かに見上げている。


その日以来、私は一〇三号室のご主人を見たことは無かった。


そこから始まった一人暮らしは予想と全く違っていた。

初めての一人暮らしだ。自由だ。大人になった気がした。友人を呼んだり、彼女ができたら尋ねて来てくれるだろうか等々。

そんな空想は、私の心を湧き立たせていたのものは、ワクワクした気持ちはすっかり消え失せてしまっていた。

あの一〇三号室の奥さんはパートか何かで忙しそうで、たまにちらりと見たことはあったが、ときに恨めしそうに、あるいは憎しみのこもった目で一瞬私を見るだけで、挨拶を返してくることもなかった。男の子は公園で一人で遊んでいるのを見たことがある。

駐輪場所には一〇二号室の男性の名前で真新しい自転車があった。たまに無かったりするので、外出するようになったのだろうか。

二〇二号室の住人は引っ越し祝いと挨拶状をポストに入れておいたら、お礼の手紙が来たが直接は会わずじまいだ。

二〇一号室のおばあさんは変わりなく朗らかに私への世話を焼こうとしてくれたが、それでいて他の住人に関してや、あの質問について聞こうとすると答えてくれないし、あからさまに話題を避けてしまう。

そうなるとしまいにはただ鬱陶しさだけを感じるようになって、私は二〇一号室の住人を避けるようになった。分かったことは、意外にも最初の印象よりとても健康な老人だということだけ。外出している姿を遠くに見かけたことがあったのだが、おばあさんは成人男性くらいの速さで歩いていた。

姿を見ないか、よそよそしいか、避けらているか、うっとうしいか。

そのようなハイツの住人で唯一まともなのは、一〇号室の会社員の男性だった。

普通に引越しの挨拶をすることもできたし、会えばいつもにこやかに微笑んでくれる。ただし彼は耳が聞こえない聾唖者で、会話は一度もない。


私はそのハイツでの暮らしに居心地の悪さを感じていた。

そして、自分が何か間違ったことをしたような気分で過ごしていた。

その原因はわかっているが、納得できないでいる。

なぜなら私は引越しの挨拶に出向き、彼らのからかいにちょっとした返しをしただけ。

所要時間七年と答えただけなのだ。

このハイツの人達が転入者に行うおかしなジョークらしき行為にのっただけだ。

けれど、どうして一〇三号のご主人を一切見かけなくなってしまったのか。

たまたま生活のリズムが違うだけ。

あるいは単身赴任。

そのそもあの質問はなんなのか。

住人へもっと問い質したい気持ちもあったが、私はそれをすることを躊躇った。

その躊躇う理由が自分でもわからなくて、またそれがそこで暮らし続けることを厭わせる。

結局、私がしたことは、なるべく早く引越そうと決めたことだった。



相手先に挨拶を済ませ、ビルを出ると私は駅に向かう。眩むような日差しにすぐに吹き出す汗を、ハンカチで拭いながら。

ここでの仕事は今日で終わった。

駅のホームから電車の到着を告げるアナウンスがかすかに聞こえてくる。

あの電車には間に合わないが、すぐに次の電車は来る。それに乗ればもう私がこの駅を利用することもないだろう。

この階段を昇れば--

その時、駅前の広場に日傘をさした母親と息子らしい二人が並んで立っているのが目に入った。

彼らは信号のある横断歩道を挟んだ向こう側の、路地をじっと見つめていた。あのハイツへ行く道だ。

路地に入ってすぐ角を曲がって、そこから徒歩で七--

私の目にその角を曲がって、ふらりと路地に現れた男性が映った。

背の高い男性の姿が猛烈な夏の大気に揺らぐように現れていた。


私は駅の階段をいっさんに駆け上がっていた。

音が無くなってしまったかのように静かで周りの風景が遠い。

震える手でICカードを掴み取り出し、認証部分に押し付けながら開閉バーをこじ開けるようにして走り抜けた。

閉まりかけたドアから強引に電車に駆け込み、席に倒れこむように座った。

息が苦しい。

列車がゆっくりと加速をして、駅から離れていく。

たった一度挨拶しただけの人物を、七年後の今も覚えているわけではない。

たまに見ただけのその家族も、ずいぶんと変わってしまっているだろう。

だから、私はただ急いで電車に乗っただけなのだ。

そう自らに念じながら、呼吸を落ち着けようとする。

それでも車内への駆け込み乗車はやめましょうというアナウンスが、随分遠くから響いているように聞こえ、心臓は激しく鳴り、目眩と体の震えは収まらない。

私は、ついさっきの仕事先での会話を思い出していた。

会社から急にかかってきた電話へ、相手にことわってから出ると、急なトラブルでこの後すぐにある場所へ向かって欲しいと言われた。

この後は休みの予定だったのだ。

結局はすぐに向かわざるをえないのだが、私は苛立って思わず言っていた。上手く電車と飛行機を乗り継いでも十時間はかかる場所なんだぞ、今からだと現地に行くだけでもどれだけかかることか、わかっているのか、と。

社との連絡を終え、声を荒げてしまったことも相手に詫びる。その人は恐縮する私を和ませるためか冗談で応えてくれたのだろう。

私に向ってにこやかに告げた。

たいへんだねえ、行くだけでも十年もかかるなんてなあ。


電車に乗って数分は経っているはずだ。

この電車は各駅停車で、次の駅までは数分とかから無い距離だ。

間もなく次の駅へ到着すると云うアナウンスが、もうすぐ聞こえるはずだ。

しかし私の耳には何も聞こえて来ず、ただ、自分の激しい動悸と目眩と体の震えだけしか感じられなかった。

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