栞里のしおりー4ー
真っ白な空間だった。辺りには文字通り何もなく、視界の全てを白が覆い尽くしていた。
そんな空間でただ一つ、自分の存在だけがぽつんと在る。ここは、どこなのだろう。疑問に思うものの、自分が今立っているのか浮いているのか、それすらもわからない。不思議な感覚だった。
周りを見渡すが相変わらず何もない──と思ったのも一瞬。瞬きをした次の瞬間、目の前に自分ではないもう一人の存在が現れていた。
「ふむ、寝ている時にしか会えないというのは不便なものじゃの」
そいつは視線を真っ直ぐ俺に向けて喋っている。周囲の白に溶け込んでしまいそうなほど、その存在も上から下まで白かった。白い髪、白い装束。肌の色とこちらを見つめる二つの双眸だけが浮いているようだ。
「……ここは夢の中なのか」
眼前に立っている少女の姿をした神様の言動と、辺りの非現実的な光景からすぐにその事を理解した。目の前の神様は頷いて言う。
「そうじゃ。前に私が明の体を自由にできる事は話したな。私と明の間には、言葉で説明するのは難しいが精神的な繋がりがある。故にこうして明の夢に現れ、話す事が出来るのじゃ」
よくわからんがそういう事らしい。神様ってやっぱりなんでもできるんだな。
「そうなのか。……で?」
こうして神様直々に俺の夢に出てきたという事は、何か言いたい事があるのではないだろうか。当然の疑問に俺は問いかけた。
「で、とは?はっきり申せ」
「……ん?俺の言いたい事が分からないのか?心読めるんだろ?」
神様は合点がいったように頷くと、続けて頭を振った。
「ここは現実でないせいか、明の心は読めないようじゃ。これはこれで新鮮じゃの」
「新鮮って……」
興味深そうに俺を見る神様。心なしか楽しんでいるようにも見える。何を考えているのかさっぱりわからん。
「だから、俺の夢に出てきたってことは何か言いたいことでもあるんじゃないのか?って聞きたかったんだよ」
「おお、なるほどの。いや、特に用は無い」
「そうか、なるほど──って、は?」
漫画であればどでかいクエスチョンマークが浮かんでいるであろう俺を、神様が不思議そうに見つめる。
「なんじゃ、そんな阿呆のような顔をして。どうかしたのか?」
「いや、どうかしたじゃなくて……え?用事、無いのか?」
「ないぞ?」
思わず頭を抱える。本当に何で俺の夢に出てきたんだ。多分この神様がいなければこんな真っ白なつまらない夢じゃなくて、もう少しマシな夢が見れたんじゃないだろうか。
「……じゃあ何で俺の夢に出てきたんだよ」
「お主が去ってから暇でな。話をしに来ただけじゃよ。私と会話が出来る存在など、稀じゃからな」
要はただの暇潰しらしい。その答えを聞いた俺は身体中の力が抜けていくようだった。何を言われるか無意識に身構えていたらしい。全く。
「そんなに暇ならどこか散歩でも──っと、悪い、失言だった」
思わず口にしてしまった言葉を慌てて取り消す。この神様の自由を奪ってしまったのは他でもないこの俺なのだから。それが間接的とはいえ。
「よい。……明よ、お前は生まれてから死ぬまで、誰とも会話をする事がない光景を想像できるか?」
突然何を言い出すのかと思えば、いまいち理解出来ない。取り敢えず言われた通り想像してみようとしたが、そんな光景は俺には想像出来るはずもなかった。
「無理だ。でも、何でそんな事を?」
神様は少し目を伏せて、静かに呟く。
「──百年」
「……え?」
唐突に告げられた数字に困惑する。そんな俺の様子を見ながら、神様は続けた。
「私が最後に他者と言葉を交わしてから、先日初めて明と言葉を交わすまでの時間だ」
「──なっ」
そこまで言われれば理解せざるを得ない。この神様は、俺と話すまで百年間喋っていなかったという事だ。それは一体、どれほどの孤独をその身にもたらすのだろうか。それこそ想像出来なかった。
「ごく稀にいるのだ。憑依体質の者や霊感が強い者が。そういった者は、何かの拍子で私を認識し、言葉を交わす事も出来る。しかし、それは本当に偶然。一度言葉を交わし、以降二度と私を見る事すら叶わない事が殆どだった」
何も言葉を返せず、ただ黙って神様の話を聞く。神様はふと俺の目を見ると、僅かにその目を細めた。
「初めてなのじゃ。私がこうして普通に会話が出来る存在は。明が初めてなのじゃ」
「……そうか」
自分とは違う次元の存在。人間ではない存在を前に、何故か俺は親近感を覚えていた。それはきっと、雲の上の存在だと思っていた目の前の神様が、人間と変わらない心の持ち主だという事が分かったからだろう。そうでなければ、こんな風に寂しそうな微笑を浮かべたりはしない。
「まあ……わかった。そういう事ならいつでも夢の中で会ってやる」
「そうかそうか。まあ、嫌だと言われても勝手に来るがな」
思わず頬が引きつる。相変わらず偉そうな神様だ。
「おお、そうじゃった。私の名前は思いついたか?」
それまでの儚げな神様の雰囲気は何処かへ消え去り、代わりにワクワクという擬音が似合いそうなほど瞳を輝かせて神様が俺を見る。
「あ、ああー。いや、もう少しで思いつきそうなんだ。後一日待ってくれ」
神様の視線が痛い。まさか、何も考えていなかったなんて言えるはずもない。今心が読めなくて良かったと心底思う俺であった。
「むぅ。仕方ない、明日また来る故。その時に聞くとしよう」
神様はそう言うと、俺から少し離れて微笑みを浮かべた。
「そろそろ明の身体が目覚めそうじゃ。今日はここまでじゃな」
辺りの白が先ほどより眩しい。意識が目覚めそうなのは感覚でわかった。
「ああ、またな」
それだけ言葉を交わし、間も無く白の光が眩しさを増した。俺と神様は光に包まれて──。
*****
「うーん………………」
「どうしたの、兄さん?」
朝のリビングで俺と明奈の二人は朝食を摂っていた。俺が思わず出してしまった唸り声に、隣に座った明奈がトーストをかじりながら反応した。
「ちょっと考え事。……んー」
俺の返答に明奈は不思議そうに首を傾げ、牛乳の注がれたコップを手に取った。そんな明奈を尻目に、俺はトーストを咀嚼しながら思案に耽る。
何を朝からそんなに頭を悩ませているのかと言えば、答えは一つしかない。例の願いの神の名前だ。目が覚めてからずっと働かない頭を捻って考えていたのだが、さっぱりだ。全く思い浮かばない。ここは一つ明奈に聞いてみるとするか。
とはいうもののなんと聞けばいいのか。願いの神の事を一から説明するのは手間だ。しばらく思考を巡らせてから、俺は口を開いた。
「なあ、明奈」
「ん、なに、兄さん?……んくっ、んくっ」
牛乳を飲みながら目をこちらに向ける明奈。いい飲みっぷりだ、なんてどうでもいいことが頭に浮かんだ。
「もし明奈に子供が出来たら、なんて名前をつける?」
「ぶーーーーーーーーーーーっ!!!」
口に含んでいた牛乳を盛大に明奈が噴き出した。おいおい、汚いな。テーブルが真っ白じゃないか。人ごとのように思っていると、母が何事かと台所から駆け付けた。
「まあまあ、大丈夫?明奈。ほら、これで口拭きなさい」
母が懐から取り出したハンカチを明奈が受け取る。明奈はなぜか顔を真っ赤にしながら俺を睨んでいた。
「な、な、なに言いだすの兄さん。急に……こっ、こども……とか」
「……?そんな恥ずかしがることか?」
明奈は思ったよりそういった話に耐性がなかったということだろうか。まだまだ子供だな。……なんて言ったら殴られそうなので口に出すのは自重する。
「んんっ……はぁ。なんでそんなこと聞くの、兄さん」
口周りを拭き終った明奈が若干恨めしそうな目を俺に向けて問う。
「いや……ただの好奇心だよ」
神様も見た目や中身はそれほど人間と変わらないのだから、人の名前であることを前提に質問したかったために先ほどのように明奈に問いかけた。なんて説明しても理解は得られなさそうなので、俺はそうお茶を濁した。
「ふーん……。でも、そんなのその時になってみないとわかんないよ。私あらかじめ名前決めてるわけじゃないし」
「まあ……そうだよな。変なこと聞いて悪かった。忘れてくれ」
結局、俺一人で考えないといけないのか。……まあ何とかなるだろう。そう楽観的に思考を切り替えて、ひとまずこれ以上命名のことについて考えるのをやめた。
「なあに?朝から。今から子供のこと考えてるなんて、明もしっかりしてるじゃない」
テーブルを拭き終った母が茶化すような口ぶりで言う。全く余計なお世話だ。
「そんなんじゃないっての。そろそろ時間だから出るか、明奈」
「うん。ごちそうさま、お母さん」
そういって立ち上がりかけた俺たちに、追い打ちのように母が口を開いた。
「ああ、早くあなたたちの子供がみたいわあ。お母さんとお父さんが元気なうちに孫の顔を見せて頂戴ね」
そんな母の言葉に、俺は肩をすくめ、明奈は顔を赤くすることで返事をしたのだった。
*****
四時間目の授業の終了を告げるチャイムが鳴り響く。俺は突っ伏していた身体をゆっくりと持ち上げた。ああよく寝た。
「もう、明くんまた寝てたの?今日結構大切なところやってたよ?」
昼食の準備をしている生徒の喧騒に包まれた教室の中、栞里が俺の元までやってきた。
「げ、まじか。栞里、ノート貸してくれ。頼む」
「あはは……はい、どうぞ。そう言うと思って余分にノートとっておいたから」
そう言って栞里は手に持っていたノートを俺に手渡した。
「ありがとう栞里!……ん?でもなんで俺が寝てるって分かったんだ?」
俺と栞里の席はすぐ近くだが、栞里の席は俺の右斜め前なので普通に授業を受けていれば俺の姿は目に入らないはずだ。
「え、それは明くんが寝てるとこ見たから……って、いや、たまたまね?ぐ、偶然!」
「そうなのか。まあいいや、さんきゅな」
「う、うん。返すのはいつでも大丈夫だよ」
なぜか慌てたように答える栞里を怪訝に思いながらも、受け取ったノートを鞄にしまう。
「よう二人とも。飯食おうぜ」
弁当を右手にぶら下げた十梧が栞里の隣に立つ。昼食はこの三人で摂るのが日課になりつつあった。
なりつつ、というのも栞里と礼華が喧嘩するまでは俺と十梧の二人で昼食を共にするのが恒例だったからだ。最初のうちは随分気まずかったのを覚えている。元気のない栞里を当たり障りのない会話で励ましていた。
今ではもうこれが普通の光景だが……ふと思う。これは慣れていいことなのだろうかと。栞里はそれまで礼華と一緒に昼休みを過ごしていたのだ。栞里が礼華と過ごしていないということは、きっと礼華は一人で昼休みを過ごしているのだと思う。あいつ友達少ないからな。
「ん、どうした明。まだ寝ぼけてんのか?」
「なわけなかろうが。俺、ちょっと用事があるから先飯食っててくれ。多分すぐ戻る」
黙っていた俺に軽口を叩く十梧をあしらい、俺は席を立った。用事というのは昨日部室で拾った例の栞の件だ。
まあ部活の時に渡せばいいのだが、早めに渡してやったほうが礼華も安心するだろう。
「あいよ。早く戻ってこいよ」
「先に食べてるね」
俺の机で昼食の用意をし始めた二人に背を向け、足早に教室を出る。
俺たちの教室は一組の教室で、礼華は隣の二組の教室にいるはずだ。因みに日岡高校は一年から三年まで、それぞれ五組まである。
他の組の生徒の席の位置なんてはっきりとは覚えていないが、礼華の席は確か一番後ろの列だったはずだ。
「……いないな」
廊下に面した窓から二組の教室の中をざっと見渡すが、礼華の姿はない。まあこれは予想できたことだ。
礼華が居そうな場所で考えられるのは後二ヶ所。図書館と部室だ。だがまだ昼休みは始まったばかりなので、礼華は昼食を摂っているはず。となると飲食禁止の図書館ではなく部室に居る可能性の方が高いだろう。
そう考えた俺は二組の教室を離れ、部室へと向かうことにした。
教師に見られても咎められない程度の速さで廊下を進み、突き当たりの角を曲がろうとしたその時だった。少し遠くから何やら騒がしい声が聞こえる。──まずい。
「綾羽さま、困ります!あまり校内を出歩かれては、他の生徒達がまた騒ぎを起こしてしまいます!」
「もう、いいじゃないの結梨。私だってここの生徒なのよ?」
「綾羽さまはもう少しご自身が特別な存在だという事を自覚して下さい」
「そうやって特別特別って。いいわよ、そっちがその気なら私だって好きにやらせてもらうもの」
「あ、綾羽さま!」
廊下の角から様子を覗き見すると、案の定向こう側から先輩が歩いてくるのが見えた。先輩の隣を歩いて居るのは東条結梨。結梨さんは先輩と同じクラスで、お目付け役のような存在だ。
いや、ようなではなく実際にお目付け役なのだ。先輩がこの日岡高校に入学する条件が、結梨さんと行動を共にする事らしい。
結梨さんは九条院家の分家の出らしく、端的に言うと先輩と同じお嬢様だ。短めの髪はさらさらと歩みに合わせて揺れ、先輩に負けず劣らず整った顔立ちには品の良さが表れている。先輩といい結梨さんといい、明らかにこんな普通の高校に居るような存在ではなかった。
「いいのよ、結梨。無理についてこなくても」
「そういう訳にはいきません。綾羽さまある所に私あり、です」
「せめて御手洗いにまでついてくるのは遠慮してもらえないかしら……」
先輩がげんなりした様子で結梨さんに向かって言った。なかなか苦労してるみたいだな。
なんてぼんやり観察していたら、段々と先輩がこちらに近づいてきた。辺りを埋めている野次馬のごとき生徒達が先輩の通る道をあける様子は、かのモーゼの十戒を見ているかのようだ。
「……ん?」
「どうしました、綾羽さま」
「いや、そこにあっくんの気配が……」
──なんでわかるんだよ!!
思わず顔を引きつらせ、心中で叫ぶ。もはや超能力の類じゃないのかアレ。
先輩と廊下で遭遇すると大変な事になるので、今まで必死に避けてきたのだが今回はまずい。このままだと間違いなく先輩と鉢合わせする。
「あっくん……ああ、彼の事ですか。なるほど、彼に会いに行こうとしてるのですね」
「あら、よくわかったわね。今度あっくんを探すのに協力してくれない?」
「まあそのくらいお安い御用ですが……」
止めてくれよ結梨さん。納得してないで早く隣の先輩を止めてくれ。お安い御用で俺が御用になるのは非常に困る。
そうこうしているうちに先輩はこちらに近づいてくる。もう少しで鉢合わせしてしまう。どこか隠れる場所は──。
「……あら、私の勘違いだったみたい」
「そのようですね。……これで二年一組の教室まで行って彼が居なかったら、大人しく諦めてくださいね」
「しょうがないわね。わかったわよ」
間一髪、間に合った。すぐ近くに清掃用具ロッカーがあって本当に助かった。ロッカーのわずかな隙間から外を覗き見ると、目の前を先輩たちが通るのが見える。そのままたっぷり二分ほど経過してからロッカーの外へ出た。
「……あぶなかった……」
思わぬハプニングだった。栞里と十梧にすぐ戻ると言った以上、これ以上時間を無駄にする訳にはいくまい。気を取り直して部室へと向かうことにする。
それにしても、どうして先輩は俺にあそこまでちょっかいを出してくるのだろうか。疑問というか、不可解だ。機会があれば聞いてみよう。何かの腹いせとかだったらたまったもんじゃないしな。
……とはいうものの、全く身に覚えがないのでその可能性は低いだろう。初めて先輩に会った時はあんな風に悪戯好きだなんて思ってもみなかったしな。
もしくは結梨さんに聞いてみるのもいいかもしれない。ついでにからかうのは控えてほしいと先輩に強く言ってもらうように頼んでみようか。先輩が聞き入れるかどうかは疑問だが。
そんなことを考えながら、俺は時間のロスを取り戻すべく部室へと急いだ。