栞里のしおりー2ー
放課後。栞里と十梧が部活に行き、一人取り残された俺もまた部活に行こうとしていた。
人通りの少なくなった廊下を歩きながら、ふと朝の出来事を思い出す。
ここ最近は栞里と礼華が顔を合わせることはほぼなかった。それが意図的に互いが互いを避けていたからなのか、ただの偶然なのかは分からないが。今日栞里と礼華が顔を合わせたのは本当に久しぶりだった。
どうしてこんなことになってしまったのか──。俺は思わずこぼれてしまうため息を抑えることができなかった。
詳しい事情はほとんど知らない。ただ、俺が二人の異変に気が付いたのは確か四、五か月ほど前の事だったと思う。
元々栞里と礼華は仲がとてもよかった。よく二人でいるところを見かけたし、あの人見知りの礼華にあそこまで仲良くしている友達がいるという驚きもあって、その頃のことはよく覚えている。
しかし、異変は本当に突然訪れた。ある日の朝、栞里がものすごく落ち込んだ様子でいつもの場所に佇んでいた。その落ち込みようたるや、栞里には冷たい明奈が思わず心配して声を掛けるほどであった。事情を聴くと栞里はぽつりと一言だけ漏らした。
礼華ちゃんと喧嘩した、と。
俺が知っているのはたったそれだけだった。栞里と礼華が何らかの理由によって喧嘩したということだけ。あの日、礼華を学校で見かけることはなく、後から聞いた話によると休んでいたらしい。
栞里に仲直りを勧めてもあまり芳しい反応は得られず、俺も二人の間の問題にあまり割り込むのは良くないという考えから二人の仲を取り持つようなことはしてこなかった。
だが──本当にそれでよかったのだろうか。二人が話すどころか、顔を合わせることもなくなってからもうずいぶん経つ。今日のようにたまたま顔を合わせたとき、二人の間に流れる気まずい空気を感じるたびに俺は後悔するのだ。俺は例えおせっかいだったとしても二人のためにもっと何かしてやるべきであったのではないかと。
とはいえ、今更俺に何ができるわけでもない。礼華は礼華でそのことに関して頑なに口を閉ざしているので、手の施しようがないのだった。
そんな無力感をため息に乗せて一気に吐き出す。今日はいつになくため息をついている気がする。いかんいかん幸せが逃げてしまう。
気を取り直して廊下をしばらく歩くと、やがて部室の前に辿り着いた。位置は校舎の一番隅。扉を前に立つ俺の右横にはいつもは開けられることのない非常口がある。外に目を遣ると少し離れたグランドでサッカー部がパス練習をしている最中だった。その中に十梧の姿を発見し、目で動きを追った。流石キャプテンというべきか、他の部員と比べて一目でわかるほど動きにキレがある。そしてそんな十梧を見物している多くの女子生徒の姿をグランドの端に認めた俺はそっと視線を目の前に戻した。
目の前には「文芸部」とだけ書かれた木製のプレートが紐に吊られてぶら下がっている。俺は深呼吸をして静かに扉をスライドさせた。
「こんにちはー……」
とりあえず無難に挨拶し、中に入る。部室の中は普通の教室の半分もない広さで、中央に会議室などでよく見かけるキャスターのついた白い長方形のテーブルが四つ、ぴったりと大きな長方形を作るように配置されている。
そのテーブルの前に置かれたパイプ椅子に腰掛けていつものように静かに本を読んでいる生徒がこちらを向く。切れ長の目に長いまつ毛、少し長めの黒髪が整った顔立ちと相まってよく映えている。──名前を、相沢礼華と言った。
礼華はこれまたいつものようにすぐに俺から視線を離すと、再び読書を再開した。礼華は、俺と同じ全部で三人いる文芸部の部員の一人なのだ。
そして、礼華の反対側の少し離れた位置に座っている人物が俺に視線を向けて微笑みながら言った。
「こんにちは──あっくん」
「……その呼び方やめてくださいって何度言ったらわかるんですか」
たった今あっくんとかいう頭の悪そうな呼び方で俺を呼んだ人物が、文芸部部長にして最後の部員の一人、九条院綾羽先輩だ。先輩という通り三年生で、腰まで伸びる髪と人形もかくやというほどに綺麗な顔立ちは見る者の視線を引き付けて離さない。町ですれ違えば誰もが振り返るであろう。そんな容姿もあって日岡高校内で最も有名な女子生徒だ。
「そうね、あっくんがどうして昨日部活に来なかったのかちゃんと説明してくれたらやめるかもね」
やっぱり。先輩はご立腹のようであった。どうせ説明してもやめる気はないのだ。かといって逆らえば何をされるか分かったものではない。大人しく従うことにする。
「……昨日は妹の退院日だったんです。どうしても妹の退院をいち早く祝ってやりたくて、それでこなかったんですよ」
「あら、妹さん退院されたのね。そっか、それなら仕方ないわね。あっくん、シスコンだもの」
「シスコン言うな!!」
瞑目し、クスリと笑う先輩。再び開かれたしっとりと濡れる瞳が俺の顔を映し、先輩は微笑んだ。
「いいわ、許してあげる。立ちっぱなしなのも疲れるでしょう、座って」
そういうと先輩はテーブルに置いてあった文庫本を手に取り読書を始めた。よかった、先輩はそれほど怒っていなかったようだ。安堵した俺は壁際に所狭しと置かれた数々の本棚から適当に本を引っ張り出し、いつもの席に座ろうとして──自分のパイプ椅子がないことにようやく気が付いた。
「なあ礼華、俺の椅子知らないか?」
先ほどから一言も発さずに読書していた礼華は顔を上げると、右手を本から離しある一点を指さした。
「……そこ」
礼華の指さす方向に視線をなぞらせると、そこは先輩のすぐ右隣だった。
「………………」
礼華はすぐに右手を戻し読書を始めた。……一体どういうつもりなのか。間違いなく俺の椅子をあそこに移動させたのは先輩だろう。
俺は特に深く考えることなく先輩の隣に置かれた自分の椅子を元の位置に戻すべく歩み寄り、椅子に手を掛けた。すると、先輩が俺の手に右手をそっとかぶせた。
「ダメよ、あっくん。今日はそこに座るの」
「…………はぁ、わかりました」
先輩の満面の笑みを見て、俺は抵抗が無駄なことを悟った。要はこれが昨日の無断欠席に対するペナルティなのだろう。先輩はよくこうして俺をからかうのだ。最初こそどぎまぎしたもののいい加減慣れた。俺は今日何度目かも分からないため息をつき、椅子に腰を下ろした。
座ることが出来たのはいいものの、如何せん先輩との距離が近すぎる。少し身動きをすれば腕が先輩に当たってしまう程の距離。おまけになんだかいい匂いまでする。読書に集中できなくなりそうなので俺は椅子を先輩から二十センチほど離して座りなおした。
「………………」
俺もやっと本が読める、そう思って手にしていた本を開こうとしたとき。
ずず、と椅子を引きずる音が聞こえたかと思えば先輩が再び超近距離にいた。
「………………」
何のつもりだろうか。怪訝に思いながらも俺はまた先輩から椅子を離して距離をとる。すると先輩も俺が離した距離以上に椅子を近づける。そんなことを繰り返し、俺はテーブルの端にまで追いやられ距離をとることができなくなってしまった。
「……あの、なんなんですか」
先輩に意味不明な行動の真意を問うてみる。先輩は相変わらず可憐に微笑んで言った。
「離れてしまった昨日の分の距離を今縮めてるの。昨日は一度もあっくんに会えなかったから」
「あんたは俺の彼女か!!」
彼女だったとしてもそんなことは言わないだろう。とはいえ並みの男なら先輩の微笑みと今の言葉だけで間違いなく落とされている。だが俺は違う。なぜなら先輩の俺に対する言動も行動も、全て本心ではないことを俺は知っているからだ。先輩は、如何にもお嬢様然とした見た目に反して大の悪戯好きなのだから。
「あっくん、抵抗しても無駄よ。あっくんがどれほど私から逃げようとしても、離れようとしても無駄。私はあっくんがどこにいようが必ずあっくんを見つけ出すわ」
「怖えよ!!」
重すぎる。そんな彼女はごめんだ。まあ、この先輩が彼女だなんて俺の身には余り過ぎる。なぜなら先輩は、本当の意味で高嶺の花なのだから。
九条院綾羽という女子生徒が日岡高校で最も有名な理由、それはその花も恥じらう容姿の所為などではない。もちろんそれもあるのだが──正真正銘のお嬢様だから、というのが一番の理由だ。
九条院なんて仰々しい名字からしてそれが窺えるが、九条院といえばこの街で知らない者はいない。昔は華族なんて呼ばれていた、由緒ある家系に生まれた一人娘。それが九条院綾羽という女子生徒だった。
はなから住んでいる次元が違うのだ。絵に描いたようなお嬢様とは彼女のような人の事を指すのだろう。そんな生粋のお嬢様がなぜこんな一般的な公立高校に通っているのか、その理由は俺も知らない。いろいろと謎が多いのも先輩の特徴だった。
「あっくん、今日は私と一緒に帰りましょうね。車で家まで送ってあげるから」
「謹んでお断りさせていただきます。妹と帰りますので」
黒塗りの高級車で下校なんて割と笑えない。畏れ多すぎる。それにそれを見た生徒たちに何を噂されるか分かったものではない。ただでさえ先輩と距離感が近い俺は噂の的だというのに。
「じゃあ妹さんも一緒に。一度話してみたいのよ」
「絶対嫌です。妹に何するつもりですか」
「む、何もしないわよ!あっくんのいけず」
そういって頬を膨らませて拗ねたようにこちらを見る先輩は、少し普通の女の子に見えた。普段は見るだけで育ちの良さが分かるオーラを醸し出しているのだが。
そうしていつも通り俺と先輩が狭い部室で騒いでいると──ぱたん、と本を閉じる音が響いた。
反射的に音の発生源に目を遣る。礼華が本を閉じた音のようだった。今読んでいる本を読み終えたのだろうか。そう思ったのも束の間で、礼華は本を自分の鞄にしまうとマフラーを首元に巻き始めた。
「礼華?どうした?」
「……帰ります。また明日」
素気無く礼華が返答し、そそくさと部室を出ていく。あっという間に俺と先輩は部室に取り残された。ふと壁にかけられた時計を見ると、時間は四時十五分。俺たちがいつも部室を出るのは五時なので、帰るにはかなり早い時間だった。
「……礼華さん、どうしたのかしら。なにか気に障ったかしら……」
俺たちが騒いでいたことを気にしているのだろう、先輩は視線を落として呟いた。
「……いえ、そうじゃないと思います。多分、今朝の事が原因だと思います」
「今朝?」
「はい……登校してくる時にバッタリ会ったんですよ。栞里と礼華が」
先輩は合点がいったように頷いた。少しだけ悲しげな表情を浮かべて、礼華が出て行った後の扉を見つめた。
「まだ……ダメなのね」
「みたいです。……なんとかしてやりたいですけど」
俺の言葉に先輩は無言で頷く。
「……でも、多分何もしてあげられないわ。私も、あっくんも」
先輩の言葉が、柔らかい棘となって俺の心に刺さる。歯がゆさに思わず唇を噛んだ。
そんな俺を見て気遣ったのだろうか、先輩の白くて細い滑らかな石膏のような手が俺の頭を撫でた。
「……あっくんは優しすぎる。そんなに背負う必要はないのよ」
「でも……あいつら、前はあんなに仲が良かったのに。それを知っているからなおさら今の状況がやるせないんですよ……」
先輩の手は相変わらず俺の頭に乗せられていて、反応に困る俺だったがその手を払うようなことは出来なかった。
「きっと、時間が解決してくれるわ。それを信じて待ちましょう」
「……そうですね」
そうであればいいと思うが、いったいどれほどの時間が必要なのか俺には見当もつかない。もうあいつらが喧嘩して何か月も経っているのだ。先輩の言葉を疑うわけではないがやはり心配なものは心配だ。
「…………で、いつまでこうしてるんですか」
なおも先輩の手は俺の頭に乗せられていて、それどころか慈しむような手つきで俺の髪を手櫛で梳き始める始末だった。これは流石に恥ずかし過ぎる。顔が赤くなっていなければいいが。
「せっかくあっくんに触れられるチャンスだもの。あっくん、普段私のこと避けてるんだから今くらいいいでしょ?」
げ、と思わず漏らしてしまいそうなのを辛うじてこらえる。この厄介な先輩に出くわさないよう避けていたことは、どうやら本人にはバレていたようだった。
「こういうことを人目も憚らずにやりだすから避けてるんですよ!ほら、礼華も帰ったし俺らも今日は早く帰りましょう」
「もう、仕方ないわね。あっくんがそう言うなら」
先輩は渋々といった様子で手を引っ込めると、足元のカバンを持って立ち上がった。先輩が素直に俺の言葉を聞き入れてくれたことに安堵し、俺も立ち上がる。
「……あら?」
部室を出ようと入り口まで歩み、扉に手を掛けた先輩が何かに気づいたように後ろを振り返った。一体何だろうかと思い俺も先輩の視線を辿ると、礼華が座っていたパイプ椅子の足元に何かが落ちていた。
「これは……」
俺は屈んでそこに落ちていたものを拾った。薄いプラスチックの板に見えるそれはカラフルな千代紙で縁取りがなされていて、四葉のクローバーの押し花が中央で存在を主張していた。上端にパンチ穴が一つ空いていて、ピンクの細いリボンが簡単に縛られている。どうやら、四葉のクローバーの押し花をラミネートして作った手作りの栞のようだった。
「多分、礼華の物だと思います」
「さっき落として行ってしまったのね……」
この栞には見覚えがあった。本が好きな礼華はいつもこの栞を使っていたように思う。間近で見たのはこれが初めてだが、作りがとても丁寧で作った人物の気持ちが強く込められているような、そんな気がした。そしてそれは使っている側も同じのようだ。栞の縁を飾っている千代紙はだいぶ擦り切れていて、持ち主が長く愛用していたことが一目でわかる。
「俺が明日渡しておきますよ。きっと礼華にとって大切なものでしょうし」
「ええ、お願いね」
この栞が礼華の作った物なのか、他の誰かから礼華が貰った物なのかはわからない。恐らく後者だと思うが、どちらにせよちゃんと返してやらないとな。
俺は栞を失くさないよう制服の内ポケットにしまい、先輩と共に部室を後にした。
*****
「それじゃまた明日ね、あっくん」
そう言ってひらひらと俺に手を振る先輩は、校門前に止まっていた見るからに高そうな黒塗りの車に乗り込んだ。運転手と思われる黒い礼服を着こなし手に白い手袋をはめた初老の男性がドアを閉じ、その男性も運転席に乗り込むと間もなく車は走り去っていった。
今時ドラマか何かでしか見ないような光景が今目の前で起こっているのだから驚きだ。改めて、先輩が自分とは違う世界に生きているのだと実感した。
先輩が帰ったのを見届けた後、俺はズボンのポケットから携帯を取り出した。俺が部活を終えるまで中学で時間を潰している明奈に連絡するためだ。
明奈は体が弱かったので部活には入っていない。つまり帰宅部なので学校が終わればすぐに家に帰れるのだが、困ったことに俺と一緒に帰りたいと駄々をこねるので俺が部活を終えるまで中学で勉強するなりなんなりして時間を潰しているのだ。こうして部活を終えた後明奈に連絡して一緒に帰るのがいつものパターンだ。
明奈に電話するために携帯を起動すると、SNSのメッセージが一件入っていた。栞里からだ。どうやら部活がいつもより長引きそうなので先に帰っていていいらしい。今日は俺もずいぶん早く部活が終わったので丁度いい。栞里に了解とだけ返信し、そのまま明奈に電話を掛ける。わずかワンコールで明奈は電話に出た。
『もしもし、兄さん?』
「ああ、今日は部活が早く終わったからもう帰れるんだけど、明奈すぐ出てこれるか?」
『うん、大丈夫だよ。……栞里さんは?』
「先に帰ってていいとさ」
『すぐ行くっ!』
やけに元気のいい返事と共にぷつりと電話は途切れた。ほんとにあからさまなやつだと思わず苦笑する。
携帯をポケットにしまいいつものバス停に向かって俺は歩き出した。校門からほんの数十メートルしか離れていないバス停はものの二分もかからずに辿り着いた。そのままぼーっと突っ立っているとテンポの速い足音がだんだん近づいてきた。音の方向に目を向けると──それは息を切らしながらこちらへと走り寄る明奈だった。
「あ、明奈!」
驚きに目をむきながら俺は明奈のもとへと駆け寄った。互いに走り寄る形になりながら俺の目の前で明奈が足を止める直前、その身体がこちらに倒れこんでくる。俺はあわててその身体を受け止めた。
「……っはぁ、はぁ……」
息も絶え絶えに明奈は俺に体重を預けてくる。その真っ白な顔色を見て、俺の背筋に冷たいものが走った。
「おい、明奈!大丈夫か!」
病み上がりなのにあんなに走って、明奈は大丈夫なのだろうか。冷や汗が頬を伝う。
「──すぅ、はぁ、すぅ、はぁ」
顔を俺の胸元に押し付けて深呼吸をする内に、明奈の乱れていた呼吸は落ち着きを取り戻していった。しばらくして明奈は顔を上げた。幾らか血色が良くなっていることに少し安心する。
「明奈、どうしたんだよ。大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよ。今栄養補給した」
後半が何を言っているのか理解しかねたが、ひとまず安心した。明奈はまだ退院して間もないのだ。以前より元気になったように見えるとはいえ、俺はまだ明奈の体調に関して完全に気を抜くことが出来ないでいた。
「なんで、あんなに急いでたんだよ。まだ病み上がりなんだから走っちゃだめだろ」
「えへへ、ごめん。一刻も早く兄さんに会いたくて」
腕の中で俺を見上げ、悪戯っぽく笑う明奈。まったくもって世話のかかる妹である。
「ったく──アホ」
「いたっ!」
軽いお仕置に明奈の額にデコピンをお見舞いする。明奈を解放してやると、額を抑えて後ずさりし潤む瞳で俺を見た。
「痛いよ兄さん!か弱い妹をいじめるなんて……私が目覚めちゃったらどうするの?」
「何言ってんだ……あのなぁ、お前が顔真っ青にして走ってきたのを見たときめちゃくちゃ心配したんだぞ。……お前がまた倒れたら……俺は」
「────」
また明奈が手の届かない所へ行ってしまいそうな気がしたのだ。明奈を失う事に俺が耐えられる筈もない。明奈は大切な──妹なのだから。
「ご、ごめんね兄さん。兄さんを困らせるつもりはなかったの。もう無茶はしないから、ちゃんと回復するまで走ったりしないから、だから……そんな顔、しないで」
伸ばされた明奈の手が、軽く俺の頬を撫でる。俺は驚いて明奈を見た。
「……どんな顔してた?」
「今にも泣き出しそうな顔。兄さんに泣き顔は似合わないよ。……大丈夫、私はもう元気だから」
言われて初めて気が付いた、というのは当たり前か。自分の顔なんて、鏡でもなければ見えないのだから。ただ、俺が明奈の前でそんな顔を見せてしまった事に驚いていた。
「そうか、そうだよな。ごめん、俺まだ明奈が入院してた間の時間が堪えてるみたいだ。お前の事が心配で仕方がない」
「ふふん、これぞ妹冥利に尽きるってやつかな。もっと私を甘やかしてくれてもいいんだよ兄さん。私はこれでもかってくらい兄さんの事甘やかしてるつもりだけど」
「……それだと俺も明奈もダメ人間になりそうだからな。俺はスパルタでいこうと思う」
「ひどーい兄さん。やっぱり……兄さん、私の事いじめたいんでしょ」
唇を尖らせ、明奈が不満そうに言った。びっくりするほど嬉しくない言い掛かりだ。
「……なに言ってんだよ」
「あいたっ!」
今度はさっきよりも力を抑えてデコピンを明奈の額に放つ。……どうやら、俺も明奈に甘いのかもしれない。スパルタにはなりきれないな。
「ほら、バスきたぞ。アホな事言ってないで帰ろうぜ」
「むー、アホじゃないもん。兄さんのアホ」
「知ってるか、アホって言った方がアホなんだよ」
「じゃあ最初に言った兄さんがやっぱりアホじゃん」
「なっ……!俺はアホじゃない!」
やいのやいの、そんなアホな会話を騒がしく繰り広げながら俺たちは停まったバスに乗り込むのだった。