栞里のしおりー1ー
どうして私は、いつも一歩を踏み出せないんだろう。
どうして私には、一歩を踏み出す勇気がないんだろう。
いつもそうだった。失敗が怖いくせに、肝心な時に一歩を踏み出せない。今まで何度それで失敗してきたか。──大切なものを失くしてきたか。
自分のせいで起こしてしまった失敗を取り戻すための一歩すら踏み出せない。そんな自分が心底嫌いだった。
神様、居るならどうかお願いします。私に、一歩を踏み出す勇気を下さい──。
*****
「………………んん」
頬を撫でる朝の冷たい空気が俺を眠りから覚めさせる。ぼんやりとした視界の中、枕元に置いてあった目覚まし時計を見ると、いつも起きる時間より三十分ほど早い時間だった。
どうせ三十分後にはアラームが鳴る。それまで惰眠を貪ろうと寝返りをうった。布団の中は天国だ。自らの体温によって温められた布団が俺を起こすまいとその温もりでもって俺を離さない。
ああ、なんて暖かいのだろう。この瞬間がずっと続けばいいと、割と本気で思う。だが、少し寝苦しいのはなぜだろう。温かいのは確かなのだが、温か過ぎる気もする。少し汗もかいてきた。暑い。
朝の冷たい空気でこの謎の寝苦しさを中和しようと、俺はおもむろに布団を剥がした。
「……すー……すー……」
隣で明奈が寝ていた。
「…………」
謎の寝苦しさの正体は、俺の寝床に明奈という温もりが追加されていたことが原因のようだった。……なんで俺の布団に入ってんだよ。
「……兄さん……寒い……」
布団を剥がされた明奈が瞼を閉じたまま眉を寄せて抗議するように呻いた。
「……はぁ、明奈、起きろ。ここは俺の部屋で、俺の布団だ。寝るなら自分の部屋に戻って寝ろ。俺は暑いんだ」
一向に起きる気配のない明奈に向かって言うものの、聞いているかは微妙なところだ。
しばらく様子を見ていたが、寒さに耐えかねた明奈が布団を引っ張って離さなかったので俺は諦めて少し早い起床とすることにした。
全く困った妹だ。時々こうして寝ぼけて俺の布団に入り込んでいることがある。流石に治ったかと思っていたのだが、どうやら明奈のこの悪癖はまだ治らないらしい。
俺の安眠を妨害されて迷惑なことこの上ないのだが、平和な日常が戻ってきたのだと感じてしまえる程度には明奈が入院していた間の時間が堪えているみたいだ。
思わず苦笑してしまった俺は、再び規則正しく寝息を立て始める明奈を起こさないように制服に着替える。
顔を洗うために部屋の外に出た俺は、短く深呼吸をした。
──本当に、戻ってきたのだ。俺の日常が。
*****
その後何事もなかったかのように明奈も起床し、身支度を整えた俺と明奈は朝食を済ませ一緒に外へ出た。
今日から明奈も一緒に登校する。本来はこれがいつもの習慣なのだ。明奈が入院してここ一か月は俺一人で家を出ることにずっと慣れなかった。慣れるのもごめんだったが。
「ふっふふーん、ふふふーん」
鼻歌を歌う明奈の足取りは上機嫌そのものだ。久々の学校で浮足立っているのだろう。細いゴムでまとめた短いツインテールがぴょこぴょこと上下していた。
そんな明奈の様子を微笑ましく眺めながらしばらく歩いていると、道の端に誰かが立っているのが見えた。
「ふふっふふーん、ふふ──ふんっ」
先ほどまでの明奈の上機嫌がどこかへ逃げ出していった。代わりに明奈の顔に不機嫌そうな表情が浮かんでいる。ほんと露骨だなお前。
「おはよう、明君、明奈ちゃん」
そういって微笑むのは藤崎栞里。この光景も見慣れたものだ。なぜか明奈は栞里のことを毛嫌いしているのだ。理由は未だに教えてくれない。まあ、本気で嫌っているわけではないと思うので、そういうものだとして俺も栞里も受け入れている。
「おはよう、栞里。ほら、明奈も挨拶しろ」
「……おはようございます」
しぶしぶといった様子で挨拶をする明奈に栞里は苦笑した。
「明奈ちゃん、久しぶりだね。ほんと、良くなってよかったよ。そうだ、これ」
言いながら栞里は手に提げていたカバンからラッピングされた小さな包みを明奈に手渡した。
「これは?」
明奈が不思議そうな顔をして栞里に尋ねた。
「私からの退院祝い。お守りだよ。明奈ちゃんがこれからも元気でいられるようにって」
それを聞いた明奈は包みを手にしたまま何かを言いたげに口を開きかけたが、すぐにそっぽを向いてしまった。
「こら、明奈。ちゃんと言うこと言わないとだめだろ?」
見かねた俺が口を出すと、明奈はばつが悪そうに栞里に向き直った。
「あ……あ、ありが、とう」
わずかに頬を染めた明奈は、それだけ言うとすたすたと先を歩いて行ってしまった。全く素直じゃないな。
「ごめんな、栞里。あいつ照れてんだよ」
「ふふっ、大丈夫だよ。いつも通りの明奈ちゃんで安心した」
栞里は本気でそう思っているらしく、明奈を見つめる目は優しかった。明奈にあんな態度をとられても栞里が平気でいるのは、ちゃんと明奈のことを分かってくれているからだろう。なんだかんだで誤解されやすい明奈には貴重な友人だと思う。女同士というのは時として男の理解できない所で分かりあうことができるようだ。栞里が一方的に明奈のことを分かっているだけかもしれないが。
「もうほんとに明奈ちゃんは大丈夫なの?無理したりしてない?」
俺たちの前を少し離れて歩く明奈の背を見やり、栞里が心配そうに呟いた。自分の妹のことをここまで心配してもらってなんだか嬉しくなった。全く、明奈の奴いつかバチが当たるぞ。
「ああ、大丈夫だよ。精密検査してもらったけどどこも異常はなかった。それどころか前より元気なくらいだ。……信じられないけどな」
入院するまでの明奈はもっと病弱な印象だった。だから俺は明奈がなんだか心配でいつも目を離せなかった。事実、頻繁に体調を崩していたのだから俺が目を離せなかったのも仕方あるまい。
だが、今の明奈からはそんな病弱の気配は微塵も感じられない。前を歩く明奈の足取りは以前のような頼りないものではなくしっかりとしたものだった。今までの明奈が嘘だったかのようだ。
「……神頼み、してみるもんだな」
「まさか、ほんとに叶っちゃうなんてね。噂は本当だったんだね」
呟く栞里に俺は頷いた。その噂を聞いたから俺は白髭神社へと向かったのだ。ただ、あんなみょうちくりんな神様がいるなんて聞いてなかったしあまつさえ代償を要求されるなんて思わなかった。願いが叶ったとかいうやつは皆あの神様に会ったのだろうか。何かしら代償を要求されたのだろうか。誰か身近な所にあの神社に行って願いが叶ったというやつがいれば話を聞いてみたいものだが。
「明君?」
「あ、ああ、どした?」
「ううん、急に考え事してるみたいだったからどうしたのかなって」
そういって俺の顔を窺う栞里。ほんとに人の事を良く見ている。だからこそ明奈と付き合っていけているのだろうが。
「いや、何でもないよ。白髭神社、確かに願いは叶ったけど行くのがめちゃくちゃ大変だった。遠いし階段は長いし。今も足が筋肉痛なんだ」
「あはは、それは大変だったね。あんまり気軽に行けそうな場所じゃないんだね。だからこそご利益がありそうな気もするけど」
全く持ってその通りだ。あのくそきつい階段は参拝者に対する試練だとしか思えない。とんでもないところに神社を作ったものだ。
「──兄さん!遅い!」
ずっと前を歩いていた明奈が振り返り、不満そうに声を上げた。自分から先に行ったというのに、難儀な妹だ。
「悪い悪い!けど明奈も病み上がりなんだから無理するなよ!」
明奈に向かって俺が言うと、明奈はべー、と舌を出してすたすた先を歩いて行ってしまった。可愛げのないやつめ。
「元気が有り余ってんだな。何よりだ。明奈に置いてかれないようにちょっと走るか」
「うん。もうすぐバス停だしね」
俺と栞里は互いに頷きあうと、明奈に追いつくべく駆け出した。間もなく明奈に追いつくと、明奈を挟んで俺と栞里は並んで歩いた。左側に俺、真ん中に明奈、右側に栞里。いつもの定位置だ。
そのまま他愛のない雑談を交わしながら歩いているとすぐにバス停に着いた。そこには既に先客が待ち構えていた。
「よっ。……って明奈ちゃん!ほんとに久しぶりだな。ああ、退院おめでとう」
そう俺たちに声を掛けたかと思えば心底驚いた様子でこちらを見るイケメンの名前は八木澤十梧。十梧は栞里と同じく退院祝いを用意してくれていたようで、カバンの中から少し大きめのラッピングが施された包みを取り出し明奈に手渡した。
「何をあげたらいいか分かんなかったから、とりあえずうちの店で売ってるクッキーにしといた。手抜きで悪いけど」
「いえ、ありがとうございます!十梧さんのおうちのお店、すごく人気店なのにこんな簡単に貰っちゃってなんだか申し訳ないです」
言って明奈は十梧に向かって軽く頭を下げた。
明奈の十梧に対する態度は普通そのものだ。というより、栞里に対する態度がおかしいだけなのだが。栞里にもこうやって接することが出来ればいいんだけどな。
そういえば割と失念しがちなのだが、十梧の家は菓子店を経営している。店と自宅が一体なので店の規模としてはそこまで大きいというわけではないが、その人気ぶりはこの街では名の知れたものである。
なんせ、店の前には行列が絶えず午後三時には店の品物が全て完売してしまう程だ。本当に混む時だと昼頃には売り切れてしまうこともあるらしい。
それを知っていれば、今十梧が明奈に渡したこの菓子がどれほど入手困難なものなのかが分かるだろう。俺も食いたい。
「いいなー、十梧くんちのお菓子。私も食べたい」
「あげないです」
明奈のつれない態度に栞里はわずかに微笑んだ。俺も食いたい。
「……兄さんにはあげてもいいよ?」
俺の心を読んだのか、明奈は俺を見て笑みを浮かべた。
「いや、いいよ。それは明奈の退院祝いだ。俺が食べるわけにはいかない。食べたいけど」
「ふふ、どっちなの、もう」
食べたいのは本心だが今述べたことも俺の本心だ。それに、十梧が許してくれないだろう。
「そうだぞ、これは特別なんだ。明奈ちゃんの退院祝いって言ったら親が特別に持たせてくれた。食いたきゃ店に並んでくれ。俺だってなかなか食わせてもらえないんだから」
十梧の親は自分達の作る菓子に対して誇りがあるらしく、それは誰に対しても変わらないようだ。それこそが人気店たる所以ともいえよう。まあ、もちろん息子である十梧が一番その菓子を口にする機会が多いだろうというのは疑いようがないが。
「明奈ちゃんが羨ましいから今度私も並びに行こうかな。最近行ってなかったし」
「ああ、栞里はうちの常連だからな。父さんと母さん、喜ぶと思うぞ」
栞里はよく十梧の家の店に行っている。実は栞里以外の学校の連中も多く行ったりしているのだが、俺はやはりあの長蛇の列を見ると並ぶ気になれないのだった。ちなみに、十梧目当てで店に来る輩も少なくない。非常に腹立たしいことだ。
「明奈ちゃんもまた気が向いたら来いよ。うちの親、明奈ちゃんお気に入りだからさ。ケーキの一つくらいサービスしてくれるかもな」
「あはは、ぜひ。今度行かせてもらいますね」
こうしていつものメンバーでいつものように雑談を交わせることが、今の俺にはとても幸せなことのように感じられた。当たり前のことがこんな風に感じられるなんてな。驚きだ。
「ん?どうした明?ぼーっとして」
「いや……幸せってこんな身近にあったんだなって」
「……?頭でも打ったか?」
失礼な。なんてこと言いやがる、イケメンのくせに。イケメンが関係あるのかは知らんが。
そんなこんな話をしているうちにバスがやってきた。俺たちが通う日岡高校行きのバスだ。明奈は日岡高校に隣接している日岡中学校に通っている。日岡高校は中高一貫なのだ。明奈は今中学三年生なので、来年は俺たちと同じく日岡高校に通うことになる。明奈は早く来年にならないかと以前言っていた。俺たちと同じ学校に通えるのが楽しみなのだろう。
目の前にバスが停車し、ドアが開く。俺たちはバスに乗り込みいつものように学校へ向かうのだった。
*****
日岡高校前にバスが到着し、車内にいた俺たちを含む生徒が続々と降りていく。人の流れに乗って俺たちもバスを降りた。
「じゃあ兄さん、また放課後ね」
「ああ、またな」
そう言って明奈は俺たちの向かう方向とは反対の方へ歩いて行った。
「明奈ちゃん、ほんと見違えるくらい元気になったな。驚いたよ」
歩き去る明奈の背を見ながら十梧が呟いた。栞里も十梧の言葉にこくりと頷いていた。
「ああ、本当にな。……ここだけの話、明奈は本当に危ない所だったんだ。もういつ明奈の呼吸が止まってもおかしくないってくらいに」
俺の言葉に十梧と栞里が思わず息を飲むのが分かった。俺もふとその時の事を思い出し、一つ大きく息を吸って、吐いた。
「奇跡だよ。明奈があんな風に完治して、それどころか前よりも元気になるなんて。神様が叶えてくれた奇跡なんだ」
ちょっと詩的な発言に聞こえるかもしれないが、俺が口にしたのは紛れもなく事実だった。
言葉通り、書いて字の如く、あの神様がそんな奇跡を叶えてくれたのだ。まあ、そんな事を言った所で誰も信じないのは言わずもがなだが。
「奇跡だってのには同意するが……明、変な宗教とか嵌るなよ?」
割と本気で心配していそうな目で十梧が俺を見る。安心しろ、既に変な宗教どころか変な神様に捕まっている。
「当たり前だろ。そんなもんに嵌るかっての」
「もし明くんが変な宗教はまっちゃっても、私がちゃんと目を覚まさせてあげるから安心してね」
栞里が微笑みながらそんな事を言った。栞里にまで心配されてしまった。そんなに信用ないのだろうか。全く。
「……でも、少し前までの明くん、もしかすると本当にそんな事になりそうなくらい元気なかったから。明奈ちゃんの事はもちろん心配してたけど、明くんの事も同じくらい心配してたんだよ」
そう言って俺を見る栞里に、俺は思わず言葉を失った。……そうか、俺は側から見てそんなに心配をかけさせてしまうほど落ち込んでいたのか。今更ながらに気付かされた。
「……ありがとな、栞里」
栞里は困ったような顔で笑った。
「ふふ、昨日もそう言ってお礼言ってたね。……どういたしまして」
昨日とは違って、栞里は素直に俺の礼を受け入れた。また栞里を困らせてしまっただろうか。たとえそうだとしても、やはり礼は言わなければならなかっただろう。
「なんか、明らしくないな。お前がそんな素直になるなんて」
「お前も栞里と同じ事言うのかよ!……別に捻くれてるわけじゃないんだ、礼だって普通に言う」
なんとも不本意な十梧の言葉に、十梧を軽く睨む。十梧はそんな俺の視線を軽く流し、微かに笑った。
そのまま三人でいつものように談笑を交わしながら歩くといつの間にか校門の前に着いた。丁度登校ラッシュの時間帯、辺りには生徒が溢れている。
そんな生徒の波の中、見知った顔が俺たちが歩いてきた道の向かいから歩いてくるのを発見した。
「よう、礼華。おはよう」
「…………おはよう」
そう言って大して視線も合わさず、無愛想に挨拶を返したのは相沢礼華。俺たちと同じ二年生だ。
「おはよう」
「…………」
十梧の挨拶に、頷きだけ返す礼華。首元に巻かれたマフラーで口元が隠れているため、鋭めの視線を向けられるだけでは何だか睨まれているようにも感じる。
だが十梧はそんな素っ気ない態度をとられても、特に動じる事はなかった。何故なら、これが相沢礼華という人間だと知っているからだ。
礼華は端的に言えば人見知りなのだ。あまり笑わず、全体的に鋭さを感じる整った顔立ちもあって誤解されやすいタイプの奴だった。
「………………」
「………………」
立ち止まった礼華と何も言わないままだった栞里の視線が交差する。ふと、二人の間に何とも言えない気まずい空気が流れるのを感じた。
そのまま栞里は視線を逸らし、礼華も言葉を発する事なく校舎へと歩いて言ってしまった。
赤の他人が今の光景を見ても少し首を傾げるだけだったはずだ。しかし俺はどうにもいたたまれない感覚に思わず溜め息をついてしまった。
「……まだ、だめなのか」
「…………うん」
悲しげな表情で目を伏せる栞里。俺はそれ以上栞里に声を掛けることが出来なかった。
十梧もそんな栞里を見て、小さく溜め息をつく。
「……早く行こうぜ、教室の暖房が恋しい」
おどけたように十梧が言ったのは、恐らく栞里に気を遣ったのだろう。俺も十梧に頷き、校舎へと歩く。
俺たち三人が教室へと辿り着くまで、栞里は何も喋らなかった。