いつも通りの、日常は。
ピピピピ、とけたたましい目覚し時計の電子音で跳ね起きた。慌てて時計を叩きアラームを止める。どうやら音量調節をミスっていたらしい。
「ふぁあ…………」
大きな欠伸が俺の口から漏れた。久々によく寝た気がする。何しろ、最近はずっと明奈の事が気掛かりでまともに睡眠も取れていなかったからな。
ベッドから降りてカーテンを開け放つ。朝日が寝起きの目に眩しかった。
今日、明奈が退院する。それがとても待ち遠しい。何なら今すぐにでも病院に行きたいくらいだ。まあ、行っても明奈に追い返されるだろうが。
「…………さむ」
いつもよりやけに冷え込んだ朝の澄んだ冷たい空気に身震いする。いかんいかん、早く着替えて支度をしなければ。
今日は月曜日だ、また一週間学校に行かなくてはいけない。学校から帰ってくる頃には明奈も家に居るだろう。退院パーティとかやった方がいいんだろうか。となるとまずいな、何も用意をしていない。
学校帰りになんか買って帰るか。あいつ何が好きだったっけ。
と、そこまで考えて俺は苦笑してしまった。いつの間にか明奈の事ばかり考えてしまう。我ながら困ったものだ。
だが今日くらいは許してほしい。ずっと気掛かりで仕方なかった明奈が完治して、退院までするのだ。これを喜ばずして何とするのか。
「…………」
とはいえ流石にそろそろ着替えないと遅刻してしまう。休み明け早々遅刻なんてしたら笑い者だ。
俺は寝巻きを脱ぎ捨てて壁にかけてあった制服に着替えた。冷えた制服が肌に冷たく、再び身震いをしてしまう。
早く下に入って暖を取ろう。そう思い足早に部屋を出て階段を降り、一階のリビングへ入った。
リビングの食卓には既に俺の分の朝食が用意され、向かいの席に父、神前弘明が座っていた。
「あら、おはよう明ちゃん。ご飯用意できてるわよ」
と、母の神前結衣が台所で洗い物をしながらそう言った。
「ああ、ありがと母さん」
礼を述べ、用意されたトーストとベーコンエッグの前に座り朝食にありついた。
テレビを見ながら食べていたところ、ふと新聞を読んでいた父が口を開いた。
「……明、今日は何の日か分かるか?」
神妙な顔つきで俺を見ている。俺は至って真面目に頷いた。
「……もちろんだろ、父さん」
いつもと違う父の雰囲気に、俺もにわかに身構えた。父の言わんとしている事は分かっている。そう──。
『明奈が退院する日!!』
朝の食卓に馬鹿二人の声が轟いた。俺は父と顔を見合わせ、抑え込んでいた喜びを解放した。
「ついにだ!明奈が帰ってくるぞ!」
「どうしよう父さん!やっぱパーティとかした方がいいんじゃないか!?」
「そういえばそうだな!よし、今日はケーキを買ってこよう!もちろんワンホールで!」
「父さん、明奈が好きなのはチーズケーキだからな!ショートケーキとか買ってくるなよ!」
「当たり前だ!そうだ、名前とメッセージ付きのプレートも用意して貰おう!」
などと、暫くやんややんやの大騒ぎをしていると、母がパンパンと手を叩いて声を上げた。
「遅刻するわよ」
時計を見る。確かにそろそろ出ないとまずい部分に時計の針が到達していた。
「………………」
「………………」
無言になりひたすら朝食を食べ始める俺と父。母はそれを見て小さく一つため息を吐いた。
「これじゃ明奈が帰ってきた時が思いやられるわ……」
全くだ。今より大騒ぎになるやもしれない。主に俺と父の所為で。
だがこれ程喜ぶのも当然なのだ。誰もが明奈の事を諦めかけていたのだから。
母はああ言っているものの、内心では相当喜んでいるはずだ。昨日なんて病室で泣いてたんだからな。
明奈が治ったのは本当に奇跡としか言いようがない。そう考えるとやはり俺は、あの妙に態度のでかい願いの神に感謝しなければならないのだろう。
「じゃあ、行ってきます」
「ええ、行ってらっしゃい」
一足先に用意を済ませた父がリビングを出て行った。おっと、俺もそろそろ出ないとな。
「ごちそうさま。俺も行ってくるよ」
「気を付けて。そうだ、今日は寄り道しないで帰ってくるのよ」
昨日の事を言っているのだろうか。確かに昨日は神社に行くために出掛けてたからな。しかし今日は特に予定もない。安心して直帰できる。
「分かってるよ。じゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ソファの辺りに放ってあったカバンを取り、リビングを出る。
そして俺は慌ただしく家を出たのだった。
*****
「──じゃあ、明奈ちゃんはもう大丈夫なんだね。良かった……」
心底安心したように胸を撫で下ろし、俺の隣を歩いているのは藤崎栞里。俺のクラスメイトだ。
栞里と俺の家は近い。一年の頃話すようになってから何となく一緒に登校するのがお決まりになっていた。いつもなら明奈も一緒なのだが、明奈が体調を崩して以来まだ一緒に登校はできていない。
今は栞里に明奈が回復した事を話していたのだ。明奈が体調を崩してからというもの、栞里はずっと明奈の事を気遣っていたし、お見舞いにも来ていた。
「ありがとな。明奈の事心配してくれて」
本当にありがたい。感謝を込めて礼を言うと栞里はくすぐったそうに微笑んだ。
「ううん、ずっと一緒に登校してたのに明奈ちゃんが急にいなくなっちゃったの、寂しかったし……。当然だよ」
「また明奈と仲良くしてやってくれよ。明日から多分一緒に登校できるから」
「うん。私も明奈ちゃんに退院祝い用意しておかなくちゃ」
そのまま他愛のない雑談をしながら歩いていると、いつも通学に利用しているバス停に着く。バスが来るまで後五分くらいか。遅刻の心配は無いな。
そう思っていると、俺たちが歩いてきた方向とは反対の方から見知った顔が歩いてきた。
「よっす。久しぶり」
「ああ、おはよう」
「おはよう、十梧くん」
八木澤十梧。栞里と同じく俺のクラスメイトだ。土日の二日間しか会っていなかっただけで久しぶりはちょっと大げさじゃないかと思う。
「明奈ちゃん……はまだいないのか」
いつもいるはずの明奈の姿がまだ見えないことに、少し心配そうに十梧が呟いた。
そういや十梧にはまだ明奈のことを伝えていなかったな。こいつムカつく程イケメンだからちょっとからかってやろう。
「十梧、聞いてくれ……。明奈が……」
努めて深刻そうに十梧に告げる。十梧は俺の顔を見て、困惑した様子を見せた。
「お、おい……まさか……」
十梧の眉目秀麗な顔つきが次第に歪んでいく。くそ、やっぱイケメンだわこいつ。イケメンはどんな顔してもイケメンなんだな。
隣をちらりと見ると、俺の意図を理解したのか栞里がそっぽを向いて肩を震わせていた。そんなに面白いだろうか。
「ああ……明奈は……」
「……いい、言わなくていいんだ……」
もう耐えられない、といった風で十梧が俯いた。駄目だ、俺も噴き出しそうだ。
「──完治したんだ!」
打って変わって明るい俺の声に十梧が目を丸くする。あ、この顔はちょっと面白いかもしれん。
隣でブフッ!っと何か噴き出す音が聞こえた。多分栞里だ。遂に耐えられなくなったのだろう。
「…………完……治?」
確認するように十梧が呟いた。まだ理解できていないのだろうか。自分が騙されたということに。
「ああ、完治だ。明日からまた一緒に登校すると思うからよろしくな」
俺が淡々と告げたところで、丁度バスが目の前に止まった。ドアが開き、栞里が口元を抑え笑いをこらえながら逃げこむようにバスに乗り込んだ。
「てめ、明!騙しやがったな!俺の心配を返せ!!」
くわっと十梧の目が見開かれ、俺に詰め寄る。俺は十梧から逃れるベく栞里に続いてバスに乗り込んだ。
「逃さん!」
十梧も後に続いて乗り込む。辺りを見回すと窓際に座った栞里が手招きをしていた。
俺は慌てて栞里の隣の席に腰を下ろす。
「栞里、助かった」
「ううん、すごく面白かったよ」
くすくすと笑いながら栞里が言った。
今座った席の近くは他の客で埋まっている。空いている席はだいぶ離れていた。十梧は悔しそうに後方の空席へと向かった。
「学校に着いたら覚えてろよ?」
「おー、怖い怖い」
バスのドアが閉じられ、低いエンジン音を唸らせながら発車した。
ようやく、以前の日常が戻ってきた気がする。少し前まではこんな風にふざける余裕すらなかった。
「……ふふっ」
ふと栞里が俺の顔を見ながら笑った。俺の顔に何か付いてるのだろうか。
「どうした?」
「……やっと、いつもの明くんに戻ったな、と思って」
「そうか……そうかな」
「うん。明奈ちゃんが入院してからずっと暗かったよ?」
少し驚いた。栞里は明奈だけでなく俺の事まで気に掛けていたらしい。自分では気がついていなかったが、心配をさせてしまっていたようだ。
「そっか……悪かったよ。心配かけた」
「そんな事ないよ!明奈ちゃん、大変だったんだもん。しょうがないよ」
「そう言ってくれるとありがたいよ。本当ありがとう」
「ふふ、そうやってお礼言ってばかりなのはいつもの明くんらしくないね」
そう言って栞里は俺をからかうように微笑む。確かに、こんな機会でもないとありがとうなんて普段言わないかもな。
「いいんだよ、感謝してるのは本当なんだから」
「そ、そう?えっと、じゃあ……どういたしまして?」
栞里が少し困ったように言った。あんまり納得してなさそうだがまあいいか。
直接明奈の事を救ったのは願いの神だが、栞里にだって感謝してしかるべきだろう。
「……なあ栞里、神様って本当にいると思うか?」
無意識にあの願いの神の事を俺は考えていたらしく、ふとそんな質問が口をついて出てきてしまった。
「神様かー、うーん、いると思うというよりいて欲しい、って感じかな。でも急にどうしたの?」
栞里が不思議そうな顔をして俺に尋ねる。
どうしようか、ここで正直にあの願いの神の事を言うか、誤魔化すか。少しの逡巡を経て、俺は口を開いた。
「白髭神社、って知ってるか?」
「ああ、あの願いが叶うっていう?」
「そうそう。……俺、昨日そこに行って来たんだ」
「へー……って、ええ!?」
栞里が驚きに目を見開いた。何をそんなに驚いているのだろう。
「白髭神社ってすごく遠いのに……わざわざ?」
なるほどな。確かに電車を何本も乗り継ぎしないと行けないような所だしな。実際、早朝に出発して帰ってきたのは夕方だったし。
「……俺も必死だったんだ。明奈の容態がもうどうしようもない所まできて、もう神頼みしかないって。すがるような気分で神社まで行ったんだ」
「そうだったんだ…………って、まさか……」
勘のいい栞里はもう予想がついたようだ。
「そんで願ったら……叶ったんだよ。その日に明奈は嘘みたいに元気になったんだ」
実際は色々大変だったけどな。一度死んだし。おまけに願い事したい奴を連れて来いとか妙な事言われるし。
「そんな……嘘みたい」
「だよな。俺も嘘だと疑ったよ。でも、実際明奈は治ったんだ」
これは疑いようのない事実だ。如何に現実離れしていようが、現実に起きている事なんだ。
「………………」
栞里は黙り込んで、窓の外を見つめている。ぼーっとしているのだろうか。
「…………栞里?」
「……へ?あ、ごめん」
俺が声をかけると栞里は窓の外から目を離し顔をこちらに向けた。変な奴だな。
「白髭神社か……私も行ってみようかな」
おっと、これは予期せずして早速あの願いの神の言付けを達成できるかもしれない。チャンスではないだろうか。
「栞里は何か叶えたい事があるのか?」
「えーっと……うん」
「どんなだ?」
栞里は一体何を叶えたいのだろう。興味があった。
栞里は何かを言いたげに俺の事をじっと見つめた後、小さくため息を吐いた。
「ひみつ。でも、いつか教えてあげるね」
「そうか……わかった」
なんだか拍子抜けだ。教えて貰えると思っていたのだが、ダメらしい。
まあ、いつか教えてくれるならいいか。気になるが気にしないよう努めよう。
そしてそのまま栞里と何気ない雑談をしているうちにバスは学校の近くの停留所に着いた。
俺と栞里、そして十梧はバスを降りていつも通り三人で学校へと向かうのだった。
*****
放課後を告げるチャイムが校内に鳴り響き、教室にいた生徒達は慌ただしく動き出す。大抵はこれから部活にいく奴らばかりだ。
「んじゃな、明。部活行ってくるわ」
「ああ、また明日な」
荷物をまとめた十梧が俺に声を掛けてきた。十梧はそのままそそくさと教室を出て行く。
十梧はサッカー部だ。イケメンでサッカー部とかモテる要素完備してるあいつはなんなんだ。腹立たしい。
実際、十梧はモテる。十梧とは入学以来ずっと仲良くしているが、俺はあいつが女子に呼び出される所を何度も目にしている。回数で言えばどのくらいだろう。おそらく両手の指では足りない。
恐ろしくモテる十梧だが、あいつは一度も告白してきた女子に対してOKを出したことがない。彼女がいるのかと思いきや、あいつは彼女はいないと言う。いろいろとわからない所の多い奴だ。
しかし理想が高いという訳ではないだろう。もしそうだったら俺がぶっ飛ばしてやる。
「明くん、どうしたの?」
ふと十梧の事で頭が一杯になっていた所に栞里が声をかけてきた。
「ああいや、ちょっと考え事。栞里もこれから部活だよな」
「うん。ほんとは私も早く帰って明奈ちゃんの退院祝いしたいけどね」
そう栞里は冗談めかして笑った。気持ちはありがたいが部活を休ませる訳にはいかないだろう。
「はは、大会近いんだから休んだら駄目だろ。明奈なら明日の朝に会えるからな」
栞里は大人しそうに見えて、実はバスケ部だ。はたから見てれば文化部にしか見えないが運動神経は抜群だ。少なくとも俺よりはずっといい。
そのギャップが意外に人気なのか、栞里も栞里で十梧には及ばないものの地味にモテる。ちくしょう、栞里と十梧にあやかって俺もモテないかな。これじゃ俺がなんか可哀想な人みたいじゃないか。
「……明くん?」
「……はっ、いや、何でもない。部活頑張れよ」
負の思考にはまりかけていた俺を栞里が怪訝そうな目で見ていたが、エールを送ると栞里は頷いた。
「うん。じゃあまた……明日?今日は早く帰るんだっけ?」
「ああ。無断欠席だから先輩には明日こってり絞られるだろうけど今日だけは譲れない。だからまた明日な」
かくいう俺も一応部活には入っている。アレが果たして部活と呼べるほどの活動をしているかと問われればいささか疑問ではあるが。
大体人数が少なすぎて存続の危機すらあるのだ。今更一人減った所で変わらないだろう。
「じゃあ部活行ってくるね。また明日」
「また明日。頑張れよ」
栞里が教室を出て行くのを見届けて、俺も机の横に掛けてあった鞄を手に取った。
早く行かないとバスが来てしまう。今は一刻も早く家に帰りたかった。
明奈はもう家にいるだろうか。精密検査は午前中に行われたはずなので、恐らく既に帰ってきているだろう。
俺ははやる気持ちを抑え、急いで教室を出た。
*****
「ただいまー」
現在時刻は四時を回ったところ。いつもより一時間半ほど早く帰ってくる事が出来た。
靴を脱いで、リビングに顔を出すと母が台所を忙しなく動き回っていた。
「あら、早いわね。父さんも今日は会社を早退するって言ってたからもうじき帰ってくるんじゃないかしら」
明奈が退院したのだ、母も今日は腕によりをかけて料理を作るつもりなのだろう。なんというか、いつもより気合が入っているのが伝わってくる。
「明奈は?」
「多分部屋にいるわよ。声、掛けてあげたら?」
「そうするよ」
やはり明奈はもう帰って来ていたようだ。
リビングの扉を閉め、二階へと向かう。明奈の部屋は俺の部屋の真向かいだ。母に言われた通り明奈に一声掛けようと、明奈の部屋の扉をノックした。
「明奈、いるか?」
しかし中から返事は聞こえない。寝ているのだろうか。
「明奈?入るぞ?」
扉を開け中にも足を踏み入れる。この部屋に入るのは一体いつぶりだろうか。
明奈が入院してから俺は一度も明奈の部屋には入っていない。勝手に入るのが申し訳ないのもあったが、何しろそんな気にはなれなかった。
だが今は違う。明奈は帰ってきたんだ。もう明奈の部屋の前で悲しみに暮れる必要も無い。
「………………?」
辺りを見回す。しかし明奈の姿が見当たらない。
間が悪かったのだろうか。トイレにでも行っているのかもしれない。
まあ今どうしてもというわけでは無い。取り敢えず制服脱ぐか。
そう思った俺は明奈の部屋をでて、自室に入る。
上着を脱ぎ、ベッドに放り投げようとした所で俺はその手をピタリと止めた。
「…………明奈?」
ベッドの上には寝そべったまま静かに寝息を立てる妹の姿があった。……何故ここで明奈が寝ているのだろうか。状況がよく理解できない。
「……すー……すー……」
そして何故明奈は俺の寝巻きのジャージを着て寝ているのだろうか。
いろいろとツッコミたい所だが、どうも熟睡しているようなので起こすのは忍びない。俺はため息を一つ吐いて、手に持ったままの上着をハンガーに掛けた。
いつもならこれでそのままジャージに着替えてしまうのだが、生憎そのジャージは今明奈が着ている。……ほんと何で俺のジャージ着てるんだこいつ。
仕方が無いのでタンスから適当な私服を引っ張り出した。今日はもう外出の予定は無いので、気を使って選ぶ必要もない。いや、一応退院祝いするしちゃんとしたものを着た方がいいだろうか。悩むな。
結局特に考えもせず手に取ったものを着ることにした。変に気を使う必要もないだろう。
ふとベッドに目をやる。明奈は相変わらず気持ち良さそうに寝ていた。しょうがない妹だ、まったく。
俺は苦笑しながら自室を後にし、リビングへと戻った。
「あら、どうしたの?まだ用意できてないから部屋にいていいのよ」
早くも戻ってきた俺を不思議に思ったのか、母が声をかけてきた。
「明奈が寝てたからさ。……俺の部屋で」
「あらあら。なら仕方ないわね」
母はそのまま退院祝いの支度に取り掛かった。
俺もする事が無いので、ソファに座りテレビを眺める事にした。といってもこんな時間なので面白い番組もやっていない。とてつもなく退屈な時間を過ごすのであった。
*****
誰かに頭を撫でられているような感触がして、ゆっくりと瞼を開ける。どうやら気がつかないうちに俺は寝てしまっていたようだ。
「おはよう、兄さん」
視線の先には明奈の顔がある。俺を覗き込むようにして明奈は微笑んでいた。
「…………?」
ふと顔の位置関係に違和感を感じ首を捻る。
「きゃっ、兄さん……急に動かないでよ」
頭の下に柔らかい感触。…………何故俺は膝枕をされているんだ。
「……いつから膝枕なんかしてたんだよ」
「ついさっきだよ。ここに来たら兄さんが眠ってたから、妹としての義務を果たしたの」
「膝枕がいつ妹としての義務になったんだよ……」
状況を理解したら無性に恥ずかしくなってきたので俺は体を起こした。明奈が何故か名残惜しそうな顔をしていたが気にしない事にする。
隣に座る明奈は白いニットワンピースを着ていた。どうやら起きてから着替えたらしい。
「お母さん、兄さんが起きたよ」
明奈が母に向かってそう告げると、母は台所から離れこちらに来た。
「ほら、早くこっち来なさい。もう用意できてるわよ」
そういわれ食卓に目を向けると、豪勢な料理の数々が所狭しと並んでいた。俺はだいぶ寝ていたらしい。
明奈がソファを立ちいつもの席に座る。俺も後に続いて明奈の隣に腰を下ろした。
目の前には既に父が座っている。寝ている間に帰って来ていたようだ。
母も用意がひと段落ついたようで、父の隣に座った。
「明奈、退院おめでとう」
父がにこやかにそう祝った。くそ、先を越されてしまった。
「俺からも、本当に退院おめでとう、明奈」
「おめでとう、明奈。ほんとによかったわ」
皆に祝福された明奈は少し恥ずかしそうに笑った。
「ありがとう。……何だか夢みたい」
ぽつりと明奈が呟いた言葉に、思わず微笑んでしまう。
一番大変だったのは明奈だ。それが嘘のように治ってこうして皆に祝ってもらっている事があまり実感できていないのかもしれない。
かくいう俺も、隣に明奈がこうして座っている事が随分久しぶりの事のように感じられた。
「さ、遠慮しないで食べて。今日は明奈の為にいつも以上に本気出したんだから」
「あはは、ありがとうお母さん」
いただきます、とみんなで合唱し料理を食べ始めた。
しばらくそのまま談笑しながら食事を進めていたが、ふと気になることを思い出した。
「なあ明奈。何で俺のジャージ着てたんだ?」
ピタリ、と明奈の手が止まる。ぎこちない動きで明奈の顔がこちらに向いた。
「え、えっと、何?兄さん?」
目が泳ぎまくっている。俺、何か変なことを言ってしまったのだろうか。
「いや、何で俺のジャージ着てたのかなって」
「あー、この肉じゃが美味しい!さすがお母さん!」
おい。今全力で話逸らしたぞこいつ。
別に怒ろうってわけじゃないんだから誤魔化す必要ないんだけどな。
「じゃあ、俺の部屋で寝てたのは何でだ?」
「あ、あれ?そうだっけ?寝ぼけてたのかも!」
もしかしてバレてないとか思ってたんだろうか。明奈はどこか抜けているところがあるからそう思っていても不思議ではないが。
「……言えない……兄さん成分欠乏症を起こしていたなんて……」
「ん?なんか言ったか?」
「何でもないよ?ほら兄さんも早く食べなよ。美味しいよ」
ぼそっと明奈が何か呟いたがよく聞こえなかった。仕方ない奴だな。
あくまでシラをきり通すつもりらしい。まあいいか。別にしつこく追求するような事でもないし。
「ほんとだ。美味いな」
「そんな褒めないでよ。お母さん照れちゃうわ」
食卓がこんなに明るい雰囲気なのは、明奈が入院して以来だ。明奈がいるだけで、こんなにも変わるものなのかと少し驚いた。
皆、明奈の事が心配だったのだ。当たり前といえばそれまでだが。
これも全て、あの願いの神のお陰であることを痛感せずにはいられない。俺が白髭神社に行っていなければ今ここに明奈はいなかったのだ。
明奈には、伝えた方がいいのだろうか。明奈が助かったのは白髭神社の願いの神のお陰なのだと。
「……どうしたの?兄さん」
「ああいや、……何でもないよ」
やはり、今は伝えなくてもいいだろう。きっと、いずれ伝える機会があるはずだ。
俺は願いの神の事を頭の隅に追いやり、再び箸を進める。結局、この日はいつもよりずっと長い間家族全員で食卓を囲ったのだった。