表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/52

9.脇差の斬れ味(一)

幕末の下げ緒風俗について、調べた結果や幕末の武士の習慣に従った居合での練習に関して何回か述べたが、本来の「日本刀の斬れ味」から若干、遠ざかっている感じがするので、今回は、新刀から新々刀、明治以降から現代まで製作された脇差の斬れ味を中心に少ない経験範囲ではあるが述べてみたい。


最近のユーチューブを見ると居合や抜刀の各流派の武道家の方々の多彩な試斬映像が放映されている。皆さん上手に斬られており、中には技前も華麗で視聴者を魅了する演技も少なく無い。中には、我々が到底及ばない美技を拝見して、終了後、感嘆する場合も多い。

脇差での試斬の観点から俯瞰すると、演武者の使用している殆どの刀は、常寸の2尺3寸(約70cm弱)から2尺5寸(約76cm)の大刀だが、脇差での試斬も少数ではあるが混じっている。

脇差でキレイに斬る程の人は、大刀での試斬を見ても安心して見ていられる方々で、刀の扱いや納刀の所作を拝見しても相当の熟達者と思われる。今回は、脇差の長さに着目して、調査資料を基に個人的な経験を含めて考えてみたい。


ご存じのように、現在、脇差の長さは、30cm以上、60cm未満と規定されている。

映像なので、はっきりとしないが、皆さんが主に使用している脇差の長さは、1尺7寸(約52cm弱)~1尺8寸5分(約56cm)程度の中脇差から大脇差に掛る長さの刀身が多いように感じた。 

脇差といっても刀に近い長目の脇差を使用されている事が解る。刀、脇差、短刀等の長さの異なる刀身で試斬されている方は、刀身が長いほど斬り付けは楽で、刃の通りも容易なことを自然に理解されていると考えられる。

しかし、片手抜き打ちを考えると2尺6寸(約79cm)や2尺7寸(約82cm)の長寸の刀の抜き打ちは、一般的な筋力の人では、難しく、相当の修練を必要とする。小生の経験でも、刀身のスピードを考慮すると腕力の無さも考慮に入れて、2尺5寸(約76cm)が限界と感じている。


そのような諸般の条件を考慮すると、「1尺7寸~1尺8寸5分の中脇差から大脇差に掛る長さの刀身」の使用は、確かに、片手抜き打ちを考えると順当な長さに感じる。

1尺4寸(約42cm)以下の小脇差や短刀(約30cm以下)での試斬は長さの影響で、極端に難しくなる傾向がある。もちろんこれは私見で、居合抜刀の熟達者においては、刀身の長さの差はあまり関係ないとも聞いている。


さて、話は変わって、江戸時代の武士の常用した脇差の長さは、どの様だったのだろうか?

試斬映像で見る1尺7寸~1尺8寸5分の長さと同様の長寸の脇差を常に帯びていたのであろうか? 

その点を脇差の長さに関して少し、調べてみた。


戦国時代、有力武将は戦場で糸巻き太刀を帯び、差し添えに打ち刀を差す場合が多かった。例えば、尼子家の豪傑山中鹿介の「山中鹿介差指剣也」と切り付け銘のある備前長船与三左衛門尉祐定の刀は、長さ2尺1寸2分(約64cm強)であった。

江戸期に入っても、戦国期が終ったばかりの武張った時代的風潮が主流の時代の武士の脇差は、長かったようで、大刀とさほど変わらない、1尺9寸(約58cm)から2尺1寸(約64cm)の長さの脇差を帯びて平然としていた話もある。当然なことに、脇差だけの城中でも長い脇差を振るった喧嘩沙汰は多かったが、太平の時代の到来と共に幕府から何度も禁令が出され、大刀と共に武士の脇差の長さも制限され、最終的には1尺8寸(約55cm)以上は禁止となった。


幕府が、脇差の長さ1尺8寸に拘った理由が知りたくて、以前、相当、昔だが1尺7寸(約52cm弱)の大坂新刀 、1尺8寸5分(約56cm)の江戸新刀、1尺9寸(約58cm)古刀の3種類の長さの脇差を用意して試斬したことがあった。

結果は、「やはり、少しでも長い方が楽であった」

当時の腕だと当然ながら、1寸5分(4.5cm)の僅差でも1尺7寸の脇差よりも1尺8寸5分の長脇差を選んで斬っていた記憶がある。当時の侍も城中で刀を抜く覚悟で登城する場合、斬り付けに失敗が少ない長めの脇差を選んでいる。

更に、追加して、1尺5寸(約56cm弱)の標準的な中脇差でも斬ってみたが、1尺8寸以上の大脇差に比べて、試し斬り時の本人の自信が格段に低下した記憶がある。(笑い)

僅か1~2寸の差で、仮標に対する試斬に望む安心感(心の余裕)が大きく違うのであった。

もちろん、この点は、練度の問題が大きく作用するので、皆さんには関係が無いことは、もちろんであろう。しかしこの点にこそ、幕府の意思があったように、斬りながら感じた。相手を確実に仕留めることが難しい長さの選択こそ、『武士の脇差は、1尺8寸以下』の規定に籠められていたように、当時、感得した記憶がある。


しかし、 武士の差す脇差の長さも太平の元禄・享保期を迎える頃には、徐々に短くなり、殿中や各藩の城中では、1尺5・6寸(約45~48cm余)の中脇差が常用されるようになった。現存する我々が多く見る拵付き脇差の中心寸法がこの長さである由縁ではないだろうか。


更に、新々刀期に入る江戸後期には、従来常用してきた家伝の脇差を若干、摺り揚げて1尺3・4寸(約39~42cm余)に短くして、差料にしているケースもあったようだ。これは、城中での上級武士との鞘当たり等のトラブルを極力避ける意味合いもあったかと感じる。

我家の手持ちの1尺3・4寸前後の脇差を数えてみると九振あるが、その中の在銘が二振、古刀の摺り揚げ無銘が五振、新刀の摺り揚げ無銘が二振である。越前新刀の摺り揚げ無銘は、少なくとも二度摺り揚げられていたようで、元は常寸だったのだろうが、雰囲気として、江戸中期と江戸後期に、二回、短くされたように茎の現状から窺える。


さて、今回、下げ緒の件で悩み、長さの違う脇差で種々の動作で斬ってみたが、実戦を考えると、やはり、脇差は長い方が好ましく感じた。新撰組や見回り組の隊士が万一の時を考慮して、刀に近い長目の脇差を常用していた伝承があるのも納得できる気がする。

しかし、幕末の武士社会では、長目の脇差よりも短刀や短めの脇差(寸延び短刀)が大流行している。有名な坂本龍馬の肖像写真でも、龍馬は脇差では無く短刀を差しているし、今に残る幕末の武士の写真で、短刀姿も多い。


やはり、江戸時代二百余年を通じて、武士の小刀は徐々に短くなり、究極の姿として短刀になっていったのだろう。もう一つ短刀流行の現象を生じさせた原因の 一つに、勤王刀を始めとする無反りで長大な幕末刀の流行があったように思う。常に外出時に大小を差さなければ成らない侍にとって、大小の重量増加は相当に負担になったはずである。その結果、長大な刀+短刀の使用によって、大小の総合重量が大きく増加せずに済んだ可能性があると考えるのは、考えすぎであろうか?


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ