52.細身の『豊後刀』を再考する
前回、手持ちの「細身の刀」の印象について何点か触れさせて頂いたが、その後、「研ぎ上げた結果」スッキリとした地刃を観察することが出来たので、本稿では、もう一歩踏み込んで、この細身の大脇差の生まれに付いて探訪してみたいと思っているので、宜しくお願いしたい。
前稿、「試斬時」の印象では地刃不鮮明だったので、「末古刀」的な印象を記述させて頂いたが、再鑑した結果、素人目の感触ながら、『戦国期の平高田の豊後刀』ではないかと強く印象を受けたので、その内容を記述させて頂くことにした次第です。
上記のように判断した最大の原因は、以前、極めてよく似た在銘の『平高田の豊後刀』を所持していた背景があったのである。
(以前所持していた『平高田の豊後刀』の詳細)
以前所持していた細身の脇差も試斬りに使った今回の脇差と同様に棒反りの姿も今回の大脇差によく似ていたが、「平高田」の在銘品で、裏年紀は「明応8年2月日」とある若干刷り上がった作品だった。
法量は下記の通り。
刃 長 54.9cm(約1尺8寸1分)
反 り 0.3cm
ちなみに今回の脇差の法量を再録すると
刃 長 59.1cm(1尺9寸5分)
反 り 0.4cm
元 幅 2.65cm
先 幅 1.75cm
上記、在銘品の脇差は1寸5分ほど擦り上げられているので、元の寸法は、1尺9寸6分前後と思われ、今回の細身の脇差と復元した寸法を比較してみても、若干、長い物のよく似た雰囲気の刀身だった。
(地刃の形状・その他)
やや沈んだ如何にも末古刀らしい地金に、焼き幅の狭い直ぐ刃調の小乱れを焼いていた記憶に残る地刃の形状とも今回の細身の脇差の 『地金は小板目に杢目の混じり、一部流れていて、何処か「白気ている」ところを感じる。刃紋の焼き幅は狭めで、小乱れ主調に小互の目、小丁字が混じる。全体的に「こずむ感」があり、小切っ先の帽子の焼きは深く小丸に返る』点も、極めて似ているような気がしている。
最も似ているのが、「棒反り」の姿から来る『手持ちの感覚で』片手打ちに最適な形状のようにも感じられた。
いずれにしても、戦国期の末古刀として大量に生産されて使用された実用刀の一口だったのではないかと想像されるし、寸法から観ても雑兵か最下級武士の帯刀だったのではないかとも勝手に想像して楽しんでいる。
当時、この様な『数打ちの大量生産品』が、国内の雑兵用や「数打ち」の輸出品として大量に造られたという伝承も思い起こされる刀だった。
(再度、『寝刃』を合わせ直して試し斬りをしてみた)
再度の試し斬りには、手元にある1尺7寸余の反りのやや深い「末関」の脇差と比較して斬ってみることとした。
両者共に長年の「研ぎ減り」のためか、やや細身の現状となっている為、袈裟、逆袈裟共に一枚巻きの畳表を片手斬りで問題なく両断できたものの、水平斬りでは成功しなかった点は、遣い手の技量不足と反省すべきであろう。
逆に細身で反りの浅い分、袈裟、逆袈裟の連続斬りには「使い易い刀」である一方、腕力に自信の無い方、向きかも知れないと思った。
実際に相当数の巻藁を斬ってみて感じたのは、やはり、「横手から物打ちの身幅の狭さ」で、物打ちで、あと2~3mm欲しい感じがした。
次に、初心者の方に「反り」の点をお聞きしたところ、反りの大きな末関よりも、反りの浅い大脇差の方が「使い易い」との印象だった。
いずれにしても、この大脇差は戦国期の末古刀として大量に生産されて使用された実用刀の一口だったのではないかと推測される。
想像をたくましくすれば、槍や弓、鉄砲を主要武器とした雑兵か最下級武士の帯刀だったのではないかと考えられないこともないだろう。
以前にも触れたことがあるが、枕刀として常備する刀としては、常寸の常の差料よりも、起き抜けの状態でも対応しやすい、「軽量で短い大脇差」が好ましいと何かで読んだ記憶がある。確かに、素振りでは長大で重い刀身の刀を自在に扱っていても、屋内に踏み込まれた敵との「寝ぼけ眼での対応」を考えると、興奮して、鴨居に斬り付けない程度の大脇差の方が臨機応変の対応が出来るのかも知れない。
それに、侵入者に対して、一瞬でも早く「抜き打ち」対応出来る有利な長さとなると中脇差から大脇差が好まれたのも、納得できる気がする。
この大脇差には、外見的には「2尺2寸弱」に見える江戸時代末期の粗末な鞘の拵が付属しており、通常、指して歩いている分には、何ら外見的に問題なかったと思われる。
当主の雨や雪の日の濡れてもよい差し料でもあったかも知れないし、短い刀身から、「元服間もない息子」の通常差しかとも想像される。
いずれにしても、軽量で扱いやすい寸法の刀身は、参勤交代等の長旅にも向いていた可能性がある。しかし、いざとなっての「斬り合い」を考えると若干、心許ない刀身ではある。
江戸時代初期と幕末期の風雲な時期を除くと「太平の世」が長く続いた江戸期は、『通常の武士が差料を抜く機会が殆ど無い平和な時代だった』そんな時代の、自分が江戸時代に生まれた最下級の武士で、差料が表題の「大脇差」だったと考えてみよう。
短くて軽い差料の最大の利点は、『瞬時に抜きやすく、防御しやすい点ではないだろうか!』
増して、持ち主が日頃、『居合』を稽古していたとすれば、緊急時に十分対応できた可能性は高い。
一方、刀を抜いてから時間が経過するに従い、『常寸2尺3寸5分以上の長くて身幅の広い刀に対して、劣勢に回らざるを得なかった可能性が高かったかも知れない。
しかし、平和な江戸時代中期の武士の身に生じる可能性は僅少であり、自宅での手入れ以外で鞘から刀身を抜く可能性は低かったといわれているし、差料の大小も『軽くて短い物』に移行していったのが、そんな時代であった。
確かに、残っている江戸時代末期に常用された刀で、「常寸よりも短い刀」は、意外に多いかも知れないと思っている。