50.『裁断銘のある刀』
最初にお断りして置くが、『裁断銘のある刀』や『注文銘のある刀』を今まで相当数拝見する機会に恵まれてきたが、『裁断銘のある刀』で竹や巻き藁を試し切りした経験は全くありませんので、そのような背景をご理解の上、お読み下さい。
強いて言い訳をすれば、業物位列にある「良業物」や「業物」の在銘錆身の刀や脇差何口かで巻き藁試斬を試みた経験があるくらいです。
そのような中で、表題の刀や脇差しについて、何か書くのはおこがましいことは十分承知してはいるのですが、愛刀家の一人として、一度は触れてみたいテーマだったので、本稿でチャレンジしてみることにした次第です。
実戦で日本刀の威力が容易に証明された時代と異なり、将軍家といえども容易に佩刀の「斬れ味を試す」機会に恵まれなくなった江戸時代になると、斬首した刑死人の死体で斬れ味を試す「試し斬り」が流行するようになっていった。
もちろん、一般の武士に刑死人の死体が容易に入手できる訳でもないので、必然的に、後述する通称「首斬り山田浅右衛門」等への試し斬りの依頼が集中していったと想像される。
それでは、最初に時代の流れからスタートしてみたい。
(時代の流れ)
江戸時代になると大きな時代の流れとして、刀が「戦場の消耗品」から、家代々の子孫に伝える「伝承品」へと変わっていっただけでなく、自家の武勲を証明する「伝家の宝刀」は、各家にとっても重要な名誉の証であり、何代にも渡って伝えられるべき傾向が時代と共に顕著になっていった点も大きかった気がしている。
先祖が武士だった何人かの知人の話でも、ある程度の家では、「我が家第一等の刀」とか、「礼装時の差し料はーーー」とか、代々決まっていたという。
そのため、新しい刀身を求めるに際しても、軽量で手持ちの良い差し料から長持ちする吟味された打ち卸しの刀が求められるようになっていったと推定される。
その傾向は新刀前期に制作された現在残っている刀身の形状からも、如実に感じられる。
手持ちの良い軽快さを感じる「末古刀」に対して、どこか新刀はタップリしていて、重量感を感じる刀身が多いのである。
それも、武張った江戸物よりも平和な京大坂物にタップリとした身が多く見かけるように感じるのは、私だけだろうか?
しかし、その反面、大多数の武士階級にとって、
『日本刀の最大使命は斬れ味にあり』
との観念は平和な時代を迎えても脈々と息づいていたのだった。
そうはいっても島原の乱以降、戦争が途絶した現状では、多くの武士達は「武技」を従来の戦場ではなく、剣術や槍術その他の「道場」で取得するようになっていく時代の趨勢だった。
その結果として、江戸を中心とした道場剣術の流行から反りの深い古刀姿とは異なる、日常使い慣れた竹刀や木刀に近い「棒反り」の『寛文新刀』が登場、流行している。
その点、新興都市江戸に下ってきた刀工、例えば、「江戸神田住兼常」の刀なども、地刃に関風が顕著なものの、姿は寛文新刀姿に近い作風も存在するので、江戸に集まった諸国の武士層の要望に応えるべく刀鍛冶諸工も武士の要望に極力答えるべく努力していた様子が、その時代の刀身形状からも覗える。
その反面、戦国時代には例えば、「美濃の刀」や「備前長船の刀」というだけで信用されて売れ行きも好調だったのだろうが、多くの刀鍛冶が集まった江戸に来た鍛冶にとって、新たな販路の開拓には大きな努力が必要だったと感じられる。
即ち、刀工の販路拡大の一手段としても、『注文銘のある刀』や『裁断銘のある刀』は重要な意味を持っていたと推定される。
(「試し斬り」の流行と『裁断銘』の登場)
人を日常的に戦場で斬る機会があった戦国期と異なり、自身の愛刀の斬れ味を実戦の場で試すことが難しくなったせいもあって、寛永以降、「試し斬り」の銘が増えている印象が個人的には強い。特に、寛文年間になると山野加右衛門永久、勘十郎父子や山田浅右衛門等の錚々たる「据物斬り」の名手が輩出するようになり、中でも歴代の山田浅右衛門は有名である。
「試し斬り」の名家として、山田家は代々続き明治期に至っているが、新々刀期には山田浅右衛門の伝系の子孫や弟子達が多く、「試し斬り」の斬り手として活躍している。
寛文、延宝頃の新作刀の『裁断銘のある刀』として有名な作者としては、著名な「長曽根虎徹」や「大和守安定」が居る。
その他、「最上大業物」や「大業物」に指定されている肥前初代忠吉や大坂のそぼろ助廣、会津の三善長道等の著名な新刀の作者も多く、現在でも愛好家垂涎の的となっている名品も多い。
実際の試し斬りの手法はというと、一番多く試みられたと推定されるのが、斬りやすい高さの土の段、『土壇』の上に刑死人の死体を一ツまたは、複数個重ねて置き、胸部や胴の部分を切断して刃味を試した結果を、「一ツ胴」や「二ツ胴」、「三ツ胴」として試した刀の茎に彫り込んだ『裁断銘』が見られる。
中には勢いが余って、下の土壇まで刀が切り込んだ「土壇払い」等を切り銘した茎もある。
明治以降は、さすがに、このようなことも行われなくなるが、代わりに蘇鉄の樹を斬ったり、現代では、木の台の上に、巻き藁を五本とか十本横に重ねて両断するケースが多く、映像をご覧になった方も多いと思う。
また、この時代の新作刀では、長い刀だけでなく、短い脇差や短刀での試し斬りも良く行われていたようで、これらの短い刀身の茎にも裁断銘が残っている場合がある。
そういえば、「山田流」では、試し斬りに際して、通常の外装の柄は使用せず、樫の木で制作した特性の「切り柄」を使用している。
切り柄の利点は、刀よりも短い脇差や短刀の試し斬りをする場合でも、切り柄の長さを長くすることによって、刀並に切り易く操作出来る長所がある点である。
そういえば、古刀の細身の大擦揚の脇差や短い短刀で「一ツ胴」や「二ツ胴」の裁断銘の残る刀身を拝見する機会があるが、切り柄を用いていることを考慮すると納得がいく気もする。
新々刀期になると「復古刀」を標榜して時代の刀を牽引した「水心子一門」や、「武用刀」を謳って有名な固山宗次や水戸の徳勝一門の作刀に試し斬り銘を良く見る。
(江戸新刀の注文品は手持ちが良い)
注文銘のある江戸新刀や地方の郷土刀を拝見していると、どこか、「手持ちの良い刀」が多い。特に、新刀前期の江戸新刀は古刀期の手持ちの良さを引き継いでいるようなところがあり、反りの浅い寛文新刀姿であっても、手の中にスッキリと収まるような印象を受ける。
一方、地方の大藩の城下町で作刀された「会津長道」の刀や加州新刀には、どこか、持っただけで斬れそうな印象の刀が気のせいか多い印象がある。
もちろん、肥前刀もその範疇ながら、東国の刀が実用に徹している作風なのに対し、どこか全体の作風が卓越していて、姿、地金、刃紋共に品位を感じる作品が多く、実際斬った方のご意見を伺っても、優れた切れ味を示したとのことだった。
「江戸新刀は手持ちが良い」と上記したが、正確に表現すると「大坂新刀」に比較して「江戸新刀」の方が気持ち実用性を追求した刀身が多いように個人的には感じている。
その点、江戸の場合、どこか戦国の威風が残っている大藩の江戸屋敷も多く、もしかしたら日本中で最も武張った刀を求める人士が集中していたのが、当時の江戸市中だったのかも知れないと勝手に思っている。
この時代の刀で実際に斬ってみても、「片手抜き打ち」使用時の軽快さが古刀に近い刀身が多い。加えて、同時代の大藩の城下町で制作された刀を拝見しても虚勢を張ったような重すぎる刀は少ないように感じる。
強いていえば、江戸新刀の茎の長さは、「古刀期の片手打ちの茎」を継承しているためか、若干、両手で振るには気持ち短めであり、特に、土壇で思いっきり振るには、通常の外装の柄よりも、上に述べた長い「切り柄」の方が向いている印象がある。
その点、新々刀期の刀の茎はタップリと長い物が多く、両手で持って、思いっきり振っても安心できる刀が多い。
それに、新々刀期の外装の柄自身が、前の時代の柄に比較して長い物が少なくないので、現在流行している「居合道」向きな印象が強い。
(たっぷりした刀が多い、「大坂新刀の注文品」)
江戸物の刀に比較すると京大坂の「注文打ち」の刀身は、脇差一つ手に持ってみても予想以上にタップリとして重ねも厚く重い刀身が多い感触がある。
実際に拝見した当時の著名刀の中でも、「初代丹波守吉道」、「二代河内守國助」の刀や「大和守吉道」の脇差は、重ね、身幅共に厚く広く、持っていてもズッシリとしていて、非力な小生にはとても長時間振り回せないような剛刀だった。
その他、記憶が定かではないが、二代「越前守助廣」の刀でも同様の作風の刀身に相当昔に接した記憶がある。
武用刀を求める武士階級の多い東都に比較すると富裕な町人の需要も多かった大坂や京都では、重ね身幅のタップリとした刀身に豪華な外装を備えた脇差拵が求められたのかも知れない。
そのせいか、大坂新刀の場合、数少ない体験からだが、二代目の有名刀工である井上真改や越前守助廣よりも初代の刀工の作品の方が、昔から手持ちが良く、斬れると伝承されているらしい。
その関係もあって、刀身の地金のきれいさと刃紋の華やかさでは、大坂物が江戸物と比較して一段リードしている印象が強い。井上真改の沸の華やかな直刃や越前守助廣の豪華絢爛な濤乱刃を拝見していると天下の台所と呼ばれた大坂の経済力と繁華さが目に浮かぶような気がする。
その点、有名な長曽根虎徹の名刀にしても、互の目の連れた穏やかな刃紋で、外見よりも斬れ味を最優先した虎徹の意思が伝わってくるような刀身が多い。
余談だが、実際に斬る刀では、直刃の刀と乱れ刃の刀を好む人の数は相半ばすると聞いているし、逆に、大坂で流行したような
『大乱れで乱れが鎬に掛かるほどの沸出来の豪華な刀身』
は、昔から、試し斬りの刀として好まれない傾向にあるとも聞いている。
どうも、同じ互の目の刀でも、噂では、沸出来の大互の目の刀よりも、匂い出来の小互の目の刃紋の刀身の方が利刀の可能性が高いらしい。
(「新々刀期」に於ける変化)
新々刀期になると日本刀独特の「両手使い」技法が武士の間で浸透した時代的な影響もあって、刀の茎が長くなった関係で、外装の柄も長い物が増える傾向が顕著で、極端に武張った「講武所拵」が登場している。
その一方で、小銃携帯時にも邪魔にならないような短い刀身に軽快な外装を施した「突兵拵」も出現している。
刀身的にも、新々刀期に制作された刀身の中には、結構、試し斬りを前提とした作り込みの刀や脇差に遭遇する機会がある。
では、何処が違うかというと、第一にその作者の通常の刀身に比較して、
『物打ちの身幅が、南北朝期や慶長新刀期のように広いケースが多い』
個人的印象だが、もう少し詳しく見てみると、先身幅が2.4cm前後の広めの刀が多い気がしている。
一般的な刀身の場合、先身幅で、2.0~2.3cm前後の刀が多い感触を持っていますので、それよりは、やや広めの刀を試し斬り用として製作したのかも知れません。
第二に断面の作り込みが、
『古刀期の美濃伝のように、鎬筋の位置が、やや棟寄りに位置する傾向があることである』
それから、これは気のせいかも知れないが、無地風の地金の多い新々刀期の刀工の刀でも、気のせいか、その刀匠の通常作に比べて、鍛え目が出ている作が多いように個人的には感じている。
要約すると
『慶長新刀体配で、茎が長く、両手で正眼に構えると安定感を感じる』
刀身が多い。
このように、『裁断銘』のある刀を多く拝見していると、想像以上に何度も「試し斬り」をしている刀も存在する。以前少し触れたが、「加州金沢住人藤原信友」の2尺2寸5分(68.3cm)の刀で、「二ツ胴、四ツ胴、中のおけすえ」を両三度も土壇払いしている鋭利な新刀がある一方で、新々刀の「天保8年紀の固山宗次」、2尺4寸5分2厘(約74.2cm)の大切っ先の刀のように、6人の斬り手が、20回以上試し斬りをしている業物も現存するから驚く他ない。
(参考文献)
1) 『左行秀と固山宗次その一門』 片岡銀作 平成12年




