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49.中級武士の「差し料」

 このところ刀身の「形状」や「竹向きの刀」に関連して理屈っぽい話が多かったので、本稿では少し時代を遡って「江戸時代後期」の中級武士の「差し料」について少しリラックスできる内容の話をしてみたい。

 そうはいっても、どの時代についても、そうなのだが、日常生活に近い普通の一般常識的な事象に関する資料は意外に残っている量は少ない。

もちろん、特異な事件や珍しい人物の差し料の記録は多く残っているのだが、平凡な武士の差し料や自家に所蔵する一般的に名刀とは言えない刀を克明に記録した資料の数は想像以上に少ない。

 その為、本稿では想像も交えて常識的な範囲で書かせて頂くのでご容赦頂きたい。


 けれども、何の手がかりなしでは雲をつかむような状況に陥りかねないので、取り敢えず、手元にある江戸時代と思われる「外装付の刀」をベースにして、手元にある江戸時代の武士が刀剣の保存に使用した「刀箱」を糸口に、話を始めてみたい。


(中級武士の身分を想定する)

 取り敢えず、数万石程度の中規模藩の家中で、「七~八十石高」の当主ということで話を進めることにする。

 中級大名家の場合、城代家老クラスは数千石クラスが一般的だろうし、家老、中老クラスの高級家臣では、数百石も上の方から千石クラスではないだろうか?

一方「徒士」と呼ばれる下級藩士の石高は数十石も下の方であろう。以前、ある中規模の藩の城下町を散策した折にお聞きした徒士のご子孫の方のお話によると、徒士の家は「二~三十石」が多かったとお聞きしいているので、この上級家臣と徒士の間クラスが中級の家臣団になるのだろうと勝手に想像して話を進めたい。


そうはいっても、そのクラスは、形式的に「上士(騎馬に乗れる身分)」と呼ばれる身分層なので、勝手に「七~八十石高」の武士を想定して考えることにした。

この石高では、上士としての体面を保たなければならない一方、幕末の諸藩では騎乗するための乗馬を自家で飼う余裕のある家も少なかったという。


(外装付「差し料」の法量)

そのような侍の家に伝えられたと想像される江戸時代の物と思われる外装付の中級の刀が手元に数口あるので、取り敢えず、その法量から話を始めたい。

中身(刀身)の時代も長さもバラ付きが多く、これが江戸期の武士の差し料の平均値だと思っている訳ではもちろん無いが、後述する「刀箱」の内寸(長さ=約96cm)を参考に比較すると、ほどほどの値が出て来るのでは無いかと選んでみた次第である。

 残念ながら時代的には江戸時代も末期の物が殆どだと思われるが、講武所拵や突兵拵は含まれず、通常の黒の蝋鞘に黒の柄巻きの外装が四点の内、三点を占め、残りの一点は小粋な普段差しと思われる半太刀拵である。


       刀 身       拵の全長       刃 長        柄 長

一) 末関在銘      100.5cm     71.2cm      23.5cm

二) 太刀在銘      100.0cm     70.3cm      25.0cm

三) 無銘古刀       94.0cm     66.6cm      22.0cm

四) 新刀在銘       90.0cm     63.6cm      23.0cm


 さて、このままでは会話が進まないので、「刀箱」に登場して貰うことにしたい。


(「刀箱」の一例)

年紀銘がないので時代は不明だが江戸時代中期か後期くらいの物だろうと勝手に想像している「刀箱」が手元にある。

 割合しっかりとした造り込みで、表側は黒漆で塗装されており、今は壊れているが鍵が掛かるようになっていた。

寸法的には内寸で、


(長さ=約96cm) x (幅=約10.5cm) x (深さ=約20cm)


である。

この寸法だと上記の一)、二)の拵は収まらず、収納可能な刀は三)または四)となってしまう。即ち、この刀箱の元の持ち主を想定して考えを進めると差し料の長さは、最大2尺2寸台後半に成りそうである。


確かに、江戸時代初期の武張った時代には長寸の差し料を好む武士が多かったが、太平の世が続いた元禄、享保以降の江戸後期には、短くて軽い大小が多く好まれたので、このような短めの外装に合った刀箱が多く残っているのだと勝手に想像している。

実際のこの刀箱に2尺2寸前後の拵え付きの大刀と1尺5寸前後の中脇差を入れてみると、六口か七口入る容量になっている。

通常用いている大小は刀掛けに掛けてあるので、家宝の刀や予備の大小を考えると、この程度の収納数で十分だったようだ。

もちろん、大家や家老級の家では、このような刀箱では足りず、何段かの刀箪笥が常備されて大量の刀剣が収蔵されていたことは、もちろんである。

 それでは、余談になるが当時の中下級武士の所蔵刀に関する悩みに関して、少し触れてみたい。


(中下級武士の「蔵刀」の悩み事)

 武士である以上、世に希な名刀を所蔵したい想いは多くの武士達が胸に抱いていた。

過去の戦功によってご主君から拝領した名誉ある品のケースでは、ほぼ安全だったが、戦場で捕獲した名品や先祖の残した逸品の所有は中下級武士にとって予想外の悲劇を伴う場合が多かったのである。

 一言で言うと、世に聞こえた

    『在銘の名刀を所持するのは危険だった』

 のである。

 身分が低く、名刀であればあるほど、階級が上の武士から、


「貴殿所持の名刀を是非、拝見したい」


と執拗に声を掛けられるケースが多かったという。

これは、拝見に名を借りた献上あるいは譲渡への強要であり、石高に差があればあるほど、遠回しの恐喝に近かい圧力に晒される危険性が多かったのである。


藩内に有力な一門が存在すればまだしも、言い逃れが可能だが、下級武士の場合、おそるおそる上司の家に愛刀を持参しても、帰りに愛刀と共に訪問先の玄関を無事に出られるとは限らなかったのである。

 

「素晴らしい刀なので、もう少し拝見したい」


と声を掛けられると、何年待っても延々と返却されない場合が多かったという。

いうなれば、身分差を笠に着た強奪に近い、ただ同然の名刀献上に名を借りた略奪が行われる場合も少なくなかったのである。


 その為、家宝の名刀の存在は家族の中でも秘密にされ、当主と嫡子以外、門外不出の扱いの家もあったという。

 また、備前長船や相州等の人気のある刀身の場合、擦り上げて無銘にして所持するケースも多かったという。中には、ご丁寧に、無銘に加工した上、なかごを人気の無い「加州茎」に加工して名刀の生まれを隠して所持した例もあったという。


 それだけではなく、中下級の武士では、普段の差し料にも気を遣い、献上を強要される「在銘の古名刀」を避けて、地方作で人気の無い古刀や、新刀や新々刀の中位作を常用とした侍も多かったらしい。


(中級武士の日常の差し料を推測する)

家宝として秘蔵する名刀はともかく、中下級武士の通常の差し料は、ある程度の古刀や「新刀の中位作」程度が日常の差し料であり、中身の割には、恥ずかしくない外装を付けているケースが多かった。

 黒の蝋鞘に黒の柄糸で全体的に地味ながら、目貫や小柄笄に気を遣った外装が多く、中には当時高価だった身分不相応な親粒の目立つ鮫を使用した拵を所持した中級武士も存在したかも知れないと想像すると微笑ましい気がする。

 それともう一つ、当時の武士が注意した心がけに正月を迎える前の「柄の巻直し」がある。普段は良いとして年賀に上司の家を廻る際に手垢で汚れた柄のままで訪問すると上司や同僚に何を言われるか解らないのが当時の武士の常識であり、嗜みだった。

 師走が近づくと柄巻師の家は、どこでも大忙しになったという。


 それ以外でも、主君が江戸城に登る際や登城の日が天気の良い日ばかりと限らなかった。

雨や雪の日のお供には、刀身に汚れが発生しても泣かない程度の刀や脇差が選択されていたようだ。

有名な桜田門外で井伊大老が襲撃された折の護衛の彦根藩士の差し料の多くが、雪のため二流三流の刀が予想以上に多かったといわれるのも、そんな背景が考えられる。

 それから、もう一つ重要な外装に「半太刀拵」がある。この外装は、農地や山野を廻る仕事には不可欠な外装で、樹木や稲で擦れるケースの多い折りの外装には丈夫な半太刀拵が武士達に愛好されたという。


 その他の刀としては、自分以外の息子や弟分の差し料も準備しなければ成らないし、妻女の為のいざという時の際の差し料も準備が必要だった。

 当然、奥方は常用の短刀は所持していたが、仇討ちなどの非常事態には女性といえども袴を穿いて、相手の大刀と渡り合えるだけの大脇差や二尺を僅かに超える小太刀を腰に差し、薙刀を携えてことに臨んだのである。

TVの仇討ちのように、七~八寸の短い短刀を抜いて敵の大刀と渡り合う妄想は捨てて頂きたいものである。

 現代においても女子高生の薙刀と成人男子の竹刀剣道の試合では、勝率は常に薙刀女子に高いと聞いている。


 本稿では、自由気ままに中級武士の「差し料」について書かせて頂いたが、もっと広い知見をお持ちの方も多いと思うので、何時ものようにご助言とご批判を頂ければ幸いです。


 このところ刀身の「形状」や「竹向きの刀」に関連して理屈っぽい話が多かったので、本稿では少し時代を遡って「江戸時代後期」の中級武士の「差し料」について少しリラックスできる内容の話をしてみたい。

 そうはいっても、どの時代についても、そうなのだが、日常生活に近い普通の一般常識的な事象に関する資料は意外に残っている量は少ない。

もちろん、特異な事件や珍しい人物の差し料の記録は多く残っているのだが、平凡な武士の差し料や自家に所蔵する一般的に名刀とは言えない刀を克明に記録した資料の数は想像以上に少ない。

 その為、本稿では想像も交えて常識的な範囲で書かせて頂くのでご容赦頂きたい。


 けれども、何の手がかりなしでは雲をつかむような状況に陥りかねないので、取り敢えず、手元にある江戸時代と思われる「外装付の刀」をベースにして、手元にある江戸時代の武士が刀剣の保存に使用した「刀箱」を糸口に、話を始めてみたい。


(中級武士の身分を想定する)

 取り敢えず、数万石程度の中規模藩の家中で、「七~八十石高」の当主ということで話を進めることにする。

 中級大名家の場合、城代家老クラスは数千石クラスが一般的だろうし、家老、中老クラスの高級家臣では、数百石も上の方から千石クラスではないだろうか?

一方「徒士」と呼ばれる下級藩士の石高は数十石も下の方であろう。以前、ある中規模の藩の城下町を散策した折にお聞きした徒士のご子孫の方のお話によると、徒士の家は「二~三十石」が多かったとお聞きしいているので、この上級家臣と徒士の間クラスが中級の家臣団になるのだろうと勝手に想像して話を進めたい。


そうはいっても、そのクラスは、形式的に「上士(騎馬に乗れる身分)」と呼ばれる身分層なので、勝手に「七~八十石高」の武士を想定して考えることにした。

この石高では、上士としての体面を保たなければならない一方、幕末の諸藩では騎乗するための乗馬を自家で飼う余裕のある家も少なかったという。


(外装付「差し料」の法量)

そのような侍の家に伝えられたと想像される江戸時代の物と思われる外装付の中級の刀が手元に数口あるので、取り敢えず、その法量から話を始めたい。

中身(刀身)の時代も長さもバラ付きが多く、これが江戸期の武士の差し料の平均値だと思っている訳ではもちろん無いが、後述する「刀箱」の内寸(長さ=約96cm)を参考に比較すると、ほどほどの値が出て来るのでは無いかと選んでみた次第である。

 残念ながら時代的には江戸時代も末期の物が殆どだと思われるが、講武所拵や突兵拵は含まれず、通常の黒の蝋鞘に黒の柄巻きの外装が四点の内、三点を占め、残りの一点は小粋な普段差しと思われる半太刀拵である。


       刀 身       拵の全長       刃 長        柄 長

一) 末関在銘      100.5cm     71.2cm      23.5cm

二) 太刀在銘      100.0cm     70.3cm      25.0cm

三) 無銘古刀       94.0cm     66.6cm      22.0cm

四) 新刀在銘       90.0cm     63.6cm      23.0cm


 さて、このままでは会話が進まないので、「刀箱」に登場して貰うことにしたい。


(「刀箱」の一例)

年紀銘がないので時代は不明だが江戸時代中期か後期くらいの物だろうと勝手に想像している「刀箱」が手元にある。

 割合しっかりとした造り込みで、表側は黒漆で塗装されており、今は壊れているが鍵が掛かるようになっていた。

寸法的には内寸で、


(長さ=約96cm) x (幅=約10.5cm) x (深さ=約20cm)


である。

この寸法だと上記の一)、二)の拵は収まらず、収納可能な刀は三)または四)となってしまう。即ち、この刀箱の元の持ち主を想定して考えを進めると差し料の長さは、最大2尺2寸台後半に成りそうである。


確かに、江戸時代初期の武張った時代には長寸の差し料を好む武士が多かったが、太平の世が続いた元禄、享保以降の江戸後期には、短くて軽い大小が多く好まれたので、このような短めの外装に合った刀箱が多く残っているのだと勝手に想像している。

実際のこの刀箱に2尺2寸前後の拵え付きの大刀と1尺5寸前後の中脇差を入れてみると、六口か七口入る容量になっている。

通常用いている大小は刀掛けに掛けてあるので、家宝の刀や予備の大小を考えると、この程度の収納数で十分だったようだ。

もちろん、大家や家老級の家では、このような刀箱では足りず、何段かの刀箪笥が常備されて大量の刀剣が収蔵されていたことは、もちろんである。

 それでは、余談になるが当時の中下級武士の所蔵刀に関する悩みに関して、少し触れてみたい。


(中下級武士の「蔵刀」の悩み事)

 武士である以上、世に希な名刀を所蔵したい想いは多くの武士達が胸に抱いていた。

過去の戦功によってご主君から拝領した名誉ある品のケースでは、ほぼ安全だったが、戦場で捕獲した名品や先祖の残した逸品の所有は中下級武士にとって予想外の悲劇を伴う場合が多かったのである。

 一言で言うと、世に聞こえた

    『在銘の名刀を所持するのは危険だった』

 のである。

 身分が低く、名刀であればあるほど、階級が上の武士から、


「貴殿所持の名刀を是非、拝見したい」


と執拗に声を掛けられるケースが多かったという。

これは、拝見に名を借りた献上あるいは譲渡への強要であり、石高に差があればあるほど、遠回しの恐喝に近かい圧力に晒される危険性が多かったのである。


藩内に有力な一門が存在すればまだしも、言い逃れが可能だが、下級武士の場合、おそるおそる上司の家に愛刀を持参しても、帰りに愛刀と共に訪問先の玄関を無事に出られるとは限らなかったのである。

 

「素晴らしい刀なので、もう少し拝見したい」


と声を掛けられると、何年待っても延々と返却されない場合が多かったという。

いうなれば、身分差を笠に着た強奪に近い、ただ同然の名刀献上に名を借りた略奪が行われる場合も少なくなかったのである。


 その為、家宝の名刀の存在は家族の中でも秘密にされ、当主と嫡子以外、門外不出の扱いの家もあったという。

 また、備前長船や相州等の人気のある刀身の場合、擦り上げて無銘にして所持するケースも多かったという。中には、ご丁寧に、無銘に加工した上、なかごを人気の無い「加州茎」に加工して名刀の生まれを隠して所持した例もあったという。


 それだけではなく、中下級の武士では、普段の差し料にも気を遣い、献上を強要される「在銘の古名刀」を避けて、地方作で人気の無い古刀や、新刀や新々刀の中位作を常用とした侍も多かったらしい。


(中級武士の日常の差し料を推測する)

家宝として秘蔵する名刀はともかく、中下級武士の通常の差し料は、ある程度の古刀や「新刀の中位作」程度が日常の差し料であり、中身の割には、恥ずかしくない外装を付けているケースが多かった。

 黒の蝋鞘に黒の柄糸で全体的に地味ながら、目貫や小柄笄に気を遣った外装が多く、中には当時高価だった身分不相応な親粒の目立つ鮫を使用した拵を所持した中級武士も存在したかも知れないと想像すると微笑ましい気がする。

 それともう一つ、当時の武士が注意した心がけに正月を迎える前の「柄の巻直し」がある。普段は良いとして年賀に上司の家を廻る際に手垢で汚れた柄のままで訪問すると上司や同僚に何を言われるか解らないのが当時の武士の常識であり、嗜みだった。

 師走が近づくと柄巻師の家は、どこでも大忙しになったという。


 それ以外でも、主君が江戸城に登る際や登城の日が天気の良い日ばかりと限らなかった。

雨や雪の日のお供には、刀身に汚れが発生しても泣かない程度の刀や脇差が選択されていたようだ。

有名な桜田門外で井伊大老が襲撃された折の護衛の彦根藩士の差し料の多くが、雪のため二流三流の刀が予想以上に多かったといわれるのも、そんな背景が考えられる。

 それから、もう一つ重要な外装に「半太刀拵」がある。この外装は、農地や山野を廻る仕事には不可欠な外装で、樹木や稲で擦れるケースの多い折りの外装には丈夫な半太刀拵が武士達に愛好されたという。


 その他の刀としては、自分以外の息子や弟分の差し料も準備しなければ成らないし、妻女の為のいざという時の際の差し料も準備が必要だった。

 当然、奥方は常用の短刀は所持していたが、仇討ちなどの非常事態には女性といえども袴を穿いて、相手の大刀と渡り合えるだけの大脇差や二尺を僅かに超える小太刀を腰に差し、薙刀を携えてことに臨んだのである。

TVの仇討ちのように、七~八寸の短い短刀を抜いて敵の大刀と渡り合う妄想は捨てて頂きたいものである。

 現代においても女子高生の薙刀と成人男子の竹刀剣道の試合では、勝率は常に薙刀女子に高いと聞いている。


 本稿では、自由気ままに中級武士の「差し料」について書かせて頂いたが、もっと広い知見をお持ちの方も多いと思うので、何時ものようにご助言とご批判を頂ければ幸いです。


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― 新着の感想 ―
[一言] なるほど、まあ、名刀と言われるようなものもある意味厄介者ですからねえ。 そういう意味では取られる覚悟をしないといけないと。 後は、やはり年末は刀関係の装飾関係も大事ですね。 今年はコロナ…
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