42.東アジアから見た『日本刀』
東南アジアの諸国、ベトナムやタイ、インドネシアのそれぞれの首都の国立博物館を巡っていると予想以上に『日本刀』と推定される刀剣類の展示品が多い。それも、大小の日本刀よりは「長柄武器」として展示されている品に日本刀や長巻の刀身が利用されている頻度が高い印象だった。
確かに考えてみれば、タイなどでは古来インド象を有力な戦闘手段として利用していた関係で、象の上から攻撃できる長柄武器は、腰に差した刀剣よりも有利だったことだろう。日本の武士の必需品である大小の日本刀では接近戦以外役に立たなかった可能性が高いので、もっともなことだと思った。
3m以上の長柄の先に装着した大刀や長巻は象同士の戦闘時には丁度良い交戦距離を保てる有効な武器になったのであろう。
本稿では、東アジアの歴史から見た『日本刀』を中心に勉強してみたいと考えているが、残されている文献から東南アジアの諸国を残念ながら除外させて頂き、中国と朝鮮を中心に記述させて頂くこととする。
反りのある日本刀の原型が完成したのが日本の10世紀後半頃と仮定して、それ以降の中国や朝鮮半島の日本刀に関する記述で最初に思い付くのが「宋代」の欧陽脩の漢詩なのでとりあえず、その漢詩から始めてみたい。
(「宋代」に於ける『日本刀』の認知)
良く知られているように北宋仁宗から神宗期の政治家で詩人としても有名な欧陽脩の漢詩に「日本刀の歌」がある。彼の生年が1007年であり、没年が1072年なので、11世紀後半には宋の首都開封の士大夫社会には『日本刀』の存在は理解されていたと考えられる。
彼の「日本刀歌」の一部を次に抜き出してみると、
宝刀近く出ず日本国
(中略)
魚皮に装貼す香木の鞘
黄白間雑す鍮と予に銅
とある。
どうやら当時の太刀拵は後代の日本刀同様に「鮫皮の使用や様々な金属を用いた精巧な彫りの金具」が装着されていたと推定される。実際に欧陽脩が日本製の外装の付いた太刀拵を手にして、その印象を詩にしたと考えて大過ないと思う。
日本での詳細な記述に欠く当時の太刀拵が、 宋の首都開封の政治家であり詩人である欧陽脩によって愛玩された可能性を思うとどこか微笑ましい気がする。もちろん、欧陽脩は『日本刀』の優秀性に仮託して、中国で既に失われた古文の「逸書」が日本から入手できる可能性と希望を詠んだものと思われる。
彼の詩からも解るように当時相当数の日本刀が日宋貿易によって宋に渡っていることが解る漢詩である。
話は替わるが欧陽脩に近い宋代に成立した中国の兵書に慶暦4(1044)年に成立した「武経総要」がある。同書は軍事組織や陣法を含む軍事理論の総合書らしいが未読のため詳細は解らないが、どうやら日本刀を含む武器類には触れていないようだ。
(東アジアに於ける『倭寇』の活躍)
元のフビライが日本征服の為に二度に渡って派遣した日本征服の大軍だったが、「文永・弘安の役」共に鎌倉武士の活躍と急激な天候変化のために壊滅的な惨敗に終わっている。
もちろん、フビライのプライドを大きく傷つけた無敵のモンゴル軍の敗退は当然ながら三度目の日本侵攻準備となって現れている。しかし、同時期にベトナム(南越)に送り込んだ征討軍の大敗もあって、とうとう日本への再征は実現しなかったのである。
しかしながら、国土と領民を荒らされ、殺戮された北九州の島嶼部と沿岸の日本人にとって兵を送った高麗や中国の人々を許すことは出来なかったのである。
一方、元は大国の度量を示して、鎌倉幕府と対峙した交戦期間においても日元間の交易を禁止していない。
日本側も旧南宋地域との貿易は望むところであり、大きな利益の源であったが、異民族間の交渉がいつも順調に推移するとは限らなかった。増して、大戦争直後の高麗や元と日本の関係に於いてはである。
そこで登場するのが『倭寇』である。倭寇は当初、水軍を持つ九州を中心とした豪族達によって、日本に大軍を送り込んだ朝鮮半島の高麗王朝の海岸地帯に報復の為の兵を送ったのが『倭寇』の始まりだと考える説があるようだが、その実態は判然としない。
当時世界的に見ても、交易のための貿易船と略奪のための海賊船は表裏一体であり、西日本各地の「水軍」も、表の顔は交易船であり、一端紛争が始まると「海賊船」に変身するのが実情だったと想像される。
元寇に反発するように高麗王朝末期には九州各地の水軍集団が敵国である朝鮮半島南部各地の町や民家を襲撃して略奪する『倭寇』が頻発する。弓矢を主用武器とした高麗軍に対し、抜き身の日本刀を翳して肉薄する倭寇は朝鮮の人々にとって恐怖の対象以外の何物でも無かった。
いずれにしても『倭寇』は13世紀から16世紀に掛けて東アジアの沿岸地域に於ける大事件だったし、前期倭寇は上記のように朝鮮半島を中心に発生していて、しびれを切らした李王朝の第四代国王「世宗」も倭寇対策のために対馬に一万7千余人に及ぶ大軍を送っている。しかし、「応永の外寇」と呼ばれるこの事件だが、両者の戦闘を実見した中国人によると対馬在住の少数の武士達によって李朝の大軍は撃退されて早々に撤退している。
そして、後期になると倭寇の襲撃地域は朝鮮半島を離れて、更に遠距離の中国本土沿岸地域中心へと拡大していったのである。多分、「解禁策」をとる明国政府に対する現地中国人の反発と誘導により、より利益の多い明国沿岸部へと活動範囲を移したと思われる。
しかしながら本稿では倭寇全体の動向に触れるのでは無く、そこに登場する『日本刀』が活躍する世界を「倭寇図鑑」を中心にたどってみたいと考えている。東大の所蔵する倭寇図鑑は倭寇の活動の様子と倭寇鎮圧に出動した明軍の活躍と成果を生き生きと描写している貴重な資料である。
(『日本刀』の脅威を東アジアに広めた『倭寇』)
時代が進むと倭寇は主な略奪先を高麗から中国本土の中でも揚子江の河口周辺を中心に移し、益々跳梁を極めるようになったのだった。
半裸に近い日本人が長刀を振り回して脅迫・略奪を繰り返す恐怖は沿岸地帯の中国人に深刻な影響を及ぼしたのである。重武装の敵に対して日本刀はそれほど脅威では無かったが、非武装の民衆にとって日本刀の斬れ味は最悪の脅迫手段であると共に恐るべき効果を与えたのだった。手足や首を一瞬にして切り離し生命を奪われる恐怖は沿岸住民の間で瞬く間に伝染していったと考えられる。
当時の「倭寇図鑑」等に残る倭寇の絵姿を見ても、登場する倭寇は完全武装した日本の武士達では無く膝までも届かない短い着物一枚に刀を差し、槍か弓を持った貧民階層に見える倭寇が描かれている。
元々元軍に荒らされた北九州地域の報復の意味も大きかったもしれないが、交易失敗時の略奪の美味を倭寇は徐々に覚えていったと思われる。
それ以上に中国の沿岸部を略奪する美味を自覚したのは明国人自身だった。永楽帝を除き、太祖朱元璋も含めて「海禁策」による鎖国方針が徹底していた明にとって、従来の海外貿易によって生計を立てていた貿易商達は弾圧の対象以外の何物でも無かったのである。
当然のように後期倭寇も後半になると豊富な情報と資金を持つ中国人が主となり零細な日本人が雇われる形態に変形していったといわれている。中には、日本人に見えるように中国人が自ら月代を剃り、日本刀を腰に差した姿の似せ倭寇も急増していったといわれている。
一方、明の朝廷も室町時代になると幾つかの倭寇対策を実施している。その一つが大量の日本刀を明国が輸入して倭寇への武器の供給を圧縮しようとする対策だったが、果たして効果はあったのだろうか?
そんな中、海岸地帯の中国人に絶大な恐怖を与え続けた倭寇の日本刀に対して本格的に対処した武将が明の戚継光だった。
戚継光は脅威の『日本刀』対策として二つの良案を考え出している。その一つは、当然ながら長い日本刀よりも更に長い槍の使用である。
それは「狼筅」と呼ばれた。
狼筅は長い竹の先に槍の穂先を付けたもので、先端周囲の竹の枝を切らずにそのままにしている特異な形状をしていた。その、切り残した枝葉が味噌で日本刀の斬り込みに対し、敵(倭寇)を困惑させる効果が高かったものと思われる。
第二の改良点は、倭寇の得意とする鋭利な日本刀による斬り込み対策として、個人戦では無く複数人からなる集団戦法を徹底的に活用した点である。
戦闘時、一人の倭寇を狼筅やその他の武器を持った集団の明軍で包囲することによって、倭寇殲滅に驚くほどの効果を挙げたのだった。その様子は彼の著書「紀効新書」に図入りで記載されているが、所詮、「刀」は長柄武器の敵ではなかったのである。
戚継光の活躍により後期倭寇もやがて衰退し終演の時期を迎えるのだった。
最後に若干付言すると兵書としては明の軍学者茅元儀が天啓元(1621)年に編纂した「武備志」がある。同書の中には日本の陰流の刀法や李朝の双手剣法について触れた朝鮮勢法を記述したページもあり、如何にも中国人らしい広範な資料収集能力を感じさせる。
その点、太閤秀吉の「文禄慶長役」で『日本刀』の脅威に直面した李氏朝鮮王朝の朝鮮人の皆さんが日本刀の研究と対策に何ら興味を示さなかった点と大きな差異を感じる。朝鮮民族にとって中国は常に先生であり、列島に住む蛮夷が使用する武器は検討するに値しない低知能の民族が使用する劣悪な兵器だったのである。
『倭寇』の使用した日本刀を軽視したしっぺ返しは意外に早くやってきた。
豊臣秀吉による 「文禄・慶長の役」である。日本軍の持つ日本刀の恐怖に李氏朝鮮の臣民は日本軍の火縄銃による集中射撃と共に逃げ惑うことになるのであった。
その後、日本軍が得意とした槍や日本刀対策の一環として中国風の槍、剣、狼筅等の「六技」を記述した「武芸諸譜」が刊行されているが、所詮文官の気休め程度の内容で実戦部隊に活用されるレベルの充実した内容ではなかったのが、両班最優先の李朝政治の限界であった。
更に時代は下がるが、正祖の命令で編纂された兵書に「武芸図譜通志」がある。当時の東アジアの武術が整理されて記述してある点で貴重な本だが記載されている二十四の武術の内二十一は中国系を起源とする武術で、残りの三つが日本武術起源であり、最後の一つが朝鮮伝来とされる武術であった。
この両書は戦国時代の日本軍が得意とした接近戦や白兵戦対策を主眼とした良書だが、朝鮮半島では古来弓術と馬術による戦闘が重視されてきた関係で、一部の官僚から批判も出ている。
しかし、根本的に両班出身の李朝の高級官僚達にとって武技の訓練や他国との戦争準備を含めた軍事力の組織化は他人事だったようだ。
唯一、李朝の軍隊で採用されて実用化が進んだのは「日本式の火縄銃」くらいで、あれほど恐れられた『日本刀』に関しても何ら対策はおろか模倣による実用化さえ進められることはなかったのである。