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40.『江戸時代の刀の実用性』とは!

ここまで、日本に於ける戦場の主力武器である「弓矢」や「槍」、「火縄銃」、そして防具である「甲冑」の変遷と、それに対応する『日本刀』の形状の時代的な変化と『実用性』について触れて来たが、今回は視点を変えて、『江戸時代の刀の実用性』について触れてみたい。

最初にお話ししたいのが、『刀』を主役とした将軍家を初めとする武士の「交際儀礼」である。


(重要な「武士の交際儀礼」と『刀』)

戦国時代までは、敵将を討ち取った際には、その所持する刀や兜を証拠として添えて首実検に供する習慣があり、火縄銃や槍のように主要武器と評価されないまでも、名刀は身分を明らかにする表象の一つとして大きな存在感があった。

桃山時代なると、信長や秀吉がそれまでの加増に替わる表彰行為として、名物茶器や名刀の授与を殊勲時の有効な勲功顕彰の手段として大いに活用している。

その流れは江戸時代に入っても変わらず、家康や歴代将軍家と有力諸侯間に於ける名刀の贈答合戦は、家門浮沈の背景もあって驚くほど頻繁に行われている。

その様子は「徳川実紀」等の当時の記録を見ても名刀の贈答が如何に重要な交際儀礼だったかが理解出来る。


また、各大名家での蔵刀の管理状況を見ても、「刀番」によって厳重に分類・保管されていた様子が窺える。因みに一般的な大名家の所蔵刀は次のように分類されていた。


一.伝家の宝刀(先祖伝来の家宝の刀や有名武将からの名誉の下賜品)

二.将軍家に献上できるクラスの名刀や大名同士で贈りあえる良刀

三.上級家臣への報償用の刀(結構良い古刀が多かった)

四.下級家臣への下賜用の刀(中位作や藩工作の新刀や新々刀の刀)

五.城備えの常備刀(槍、薙刀と共に数百振単位で大量に保有)


泰平の時代が続くと、各大名家にとって、「正宗」や「貞宗」の名刀を所持することはステータスであり、家格を高める手段の一つでもあったのである。また、功績のあった家臣に対する戦国時代以来の重要な下賜品でもあった。下賜された家臣も刀の茎に切り付け銘や象嵌銘を入れて、自身の忠義と主君の恩情を記録するケースも多かった。

五の常備刀は、銘と共に番号を記入している物が多く、地元の藩で幕末作成したなかごに数字の入った薙刀等も、結構な数を拝見している。

また新撰組幹部への会津藩からの下賜品の刀を見ても、当時の現代刀である新々刀期のお国鍛冶の会津兼定等の刀が多かった。


(「補助的武器」から「表象」へ)

 実戦が長く無かった時代、将軍家を初めとする武士のステータスシンボルとして輝いたのが「大小の拵」であった。腰に大小を差すことによって、武士である誇りを保つと共に節義ある行動をとるように戒める習慣が「武士道」として定着している。

現在残っている日本刀の大小の拵を見ても、最も多いのが江戸時代に造られた「式正の拵」と呼ばれる黒一色の外装の別名「殿中差」である。

この基本は、諸大名が江戸城に登城する際の儀礼用の差料で、祝儀、不祝儀や将軍家への献上品の刀などの拵も、この黒一色の外装が添えられる。それは、将軍家から下賜される拝領刀も同様であった。

鞘は黒の呂色塗り研ぎ出しで、大刀の鐺は一文字、小刀の鐺は小丸に仕上げてある。柄は白鮫で包み、黒の柄糸で菱を大きめに巻く。縁金具は赤銅身磨地や赤銅魚子地しゃくどうななこじに各家の家紋を彫った物が多く、頭は水牛の角で造る。一番目立つ目貫は豪華な後藤物が多く使用され、中には金無垢の目貫を用いた拵えも多い。鍔は赤銅磨地の「献上鍔」と呼ばれる鍔を使用し、全体を現代の礼装のように黒一色で統一して荘重な拵としている。


この様式は江戸時代前期には確立して、幕末まで変わらなかったが、各藩共にこの様式を国元でも蹈襲しているケースが殆どだった。

即ち、藩主の居住するお城に家臣達が登城する際は、裃に黒一色の裃差を指して上がる慣習が時代と共に一般化している。

そうなると富裕な重臣層はともかく、下級武士である「徒士」などの場合、最低限、黒塗り鞘で黒の柄巻の略式の大小は一組所持していないと公用にも差し支えることになるのだった。

また、江戸時代中期以降になると諸藩の経済状態が困窮した関係もあって、藩領内の豪商や豪農に対する献上金の返礼として、苗字帯刀を許す例が急速に増えているが、その際の帯刀の拵も黒一色の略式の大小拵であった。


このように、実用性の殆ど無かった江戸時代の大小だったが、外見的には、上は将軍家から、下は普段刀を差さない苗字帯刀を許された豪農や豪商まで、拵に豪華や質素の差はある物の黒一色の統一された拵が用いられたのだった。

では、その実用性はというと、「武士階級」という一つの身分の表象に過ぎず、経済力の裏付けを伴う階級制度では無かったのである。

以前、ある藩の三十石高の徒士の家と名主層である中規模以上の農家の幕末の蔵書や資産を比較してみたことがあったが、格段に有力自作農の方が豊かな暮らしをしている印象だった。

それに、苗字帯刀を許された家が、通常大小を差していたかというと実情はそうでも無かった。祝儀や不祝儀等の重要な行事の折や登城などの際はともかく、刀は邪魔な存在でしか無く、日常帯刀の習慣もなかったのである。

それは、幕府の御家人や諸藩の藩士にしても同様で、お役務めの折はともかく、隠居すると小脇差や短刀一本で近所に行く姿は良く見られたようだ。


(時代と共にドンドン邪魔になる『刀』)

戦国期、補助的な武器の位置に転落しかけた『刀』だったが、平和な江戸時時代の到来と共に武士階級を代表するステータスシンボルとしての地位を確立していく。

城中で火縄銃や槍を振り回す訳にもいかないが、自慢の刀装具で飾った差料をこれ見よがしに顕示しても、周囲から苦笑される程度で大目に見られたのだった。

それ以上に、平和の進行と共に、武張った侍の長刀は厭がられ、侍達の刀は一定のルール内の長さ(常寸二尺三寸)に限定されるようになっていく。

そうなると長くて重い「豪刀」よりも華奢で軽い刀を好む武士達が増えるのも人情で、元禄期の新刀等では、細身で軽い刀身に豪華な金具が目立つ外装も出現している。

更に、江戸時代後期になると、家代々の刀を短く擦り上げて軽くしたり、外装は常寸の二尺三寸ながら、中味の刀身は、二尺一寸前後の短く軽い刀身にしているケースさえ、出て来るのだった。


特に、城中で常に差している脇差は、短い方が、鞘当て等の問題を生じ難い関係もあって、時代の進行に従い短くなっていく傾向を示している。

試みに、一尺三寸(約45cm)の脇差と一尺八寸(約55cm)の脇差を差して正座、書き物をしてみると一尺三寸の小脇差が極めて修まりが良かったし、更に短い、1尺1寸(約33cm)弱の「寸延短刀」を用いたところ、柄の長さも短くかくなった関係で、更に動作が容易になった所をみると、幕末に短刀が大流行した一端も解るような気がした。

このように、大平の世と共に『刀』は、武士のステータスとしての地位は維持していたものの、『実用面』では、急速に不要の存在に近付きつつあったのである。

そんな中、最後まで武士階級にまとわりついた凄惨な刀の『実用性』が「切腹」であった。


(「切腹」と「介錯」)

では、実際に江戸時代に最も刀が使用されたのは、「島原の乱」や幕末以降の争乱を除くと「刃傷」と「切腹」、「斬罪」だったと考えられる。

城中での刃傷や知合い同士の会話に激高しての刃傷の場合、比較的刀は少なく、脇差での斬り付けが事例としては、多いように感じる。

短い脇差での切り付けは失敗するケースの多く、確実に相手を仕留めようと決死の覚悟を決めた場合、急所に対する突きで相手の命を奪っている。

どうしても、脇差の場合、一尺五寸(約45cm)前後と短いため、余程踏み込まないと相手の急所に到達出来ず、かすり傷程度で終るケースも多かったと推測される。

我々が脇差で竹を斬る場合でも、個人的な意見で申し訳無いが、物打ちよりも若干刀身の真ん中に近い方で斬る方が、確実に竹を両断出来た経験がある。増して、脇差よりも短い短刀の場合では、それこそ、鎺元で斬るくらいの気持ちで斬り付けないと成功は難しいと精神論的には感じている。


さて、「切腹」の場合の詳細は、その分野の著書に譲るとして、切腹の際に使用する脇差や短刀は、切腹者の差料の小刀が用いられるケースが多かったようだ。

「介錯」の場合も、当人の差料の大刀が使用されるケースもあったようだが、介錯人に指名された武士の差料が使用される場合もあった。その場合、「研ぎ代」として、なにがしかの損料が支給されたと聞く。

切腹の介錯は、成功して当たり前であり、万一失敗すると一生陰で誹謗されるため、誰しもが好まない役目であった。その関係もあって、どの藩でも、上士が行うことは少なく、下級武士である徒士の役目だったようで、上士が介錯を行うケースでは、切腹する当人の名誉のため、親友とか親族が自ら進んで難役を引く受ける場合が結構多かったのである。


さて、「斬首」の場合、藩の多くは奉行所その他に備え付けの「常備刀」を用いていた。正確な記憶が薄れているので申し訳無いが、西国のある藩の斬首用の常備刀二振の長さを読んだ記憶があるが、両方共に二尺一寸か二寸(約64~67cm)で、存外短かった。

清朝末期に清国で斬首に使用した青竜刀を拝見した記憶でも、計ったわけではないが65cm位の印象だったので、斬合いと違い、動かない人間の首を落す一定の動作を考えると、やや短めの刀身の方が扱い易かった可能性は高い。

斬首の際の音を聞いた地元の老婆の記憶によると「濡れ手ぬぐいを空中ではたく」ような、「バッシ」とする音に聞こえたとの伝承を仄聞している。


(最後の活躍「サーベルの刀身としての日本刀」)

明治の「廃刀令」と共に実用的な日本刀の存在は大きく否定されたが、官吏の佩刀と軍人の「サーベルの中味としての刀」の存在が残った。

近代陸軍による日清日露の戦いに於いても、日本刀仕込みのサーベルは大活躍して、昭和軍刀へと繋がることになる。

明治期、大名家の人々が不要になった伝家の名刀をサーベルの刀身として用いて出征した刀を数振拝見しているが、何れも素晴らしい名刀であった。

中でも擦り上げられて無銘ながら、「福岡一文字」極めを初めとする鎌倉時代の古名刀は、どれも素晴らしい出来の刀だった。

どうやら、戦勝後、持ち主は無事帰還されて、後年、大正か昭和になって白鞘に納められ、今日まで保存されたと想像される。

これらの古名刀を拝見していると、貴重な日本刀が現代まで残ったことに感謝すると共に、日本刀の『実用の時代』が遠い過去になった印象を心に強く感じるのだった。


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