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4.武用刀の時代

幕末期の刀について、色々と述べてきたが、今回は『武用刀』あるいは、『勤王刀』と呼ばれる一群の刀とそれに関連する風俗に付いて考えてみたい。

黒船来航以降、世の中が騒然として行くに従って、天下太平の時代の華奢で細身、外見だけ豪華な大小から、長く豪壮な刀身を鉄拵えの武張った外装に納めた武用刀が流行している。 

刀身自身の身幅も寛政頃の初期の新々刀に比べて、広くなり、切先も大切先が増え、長さも短い物で二尺五、六寸(約76~79cm)、長い刀では三尺(約91cm)を越える物まで出現している。南北朝時代にも同様の長い太刀は既にあったが、南北朝の太刀と大きく異なるのは、刀身の反りである。

道場剣術の竹刀業の発達により、防具を着用した試合で突きが多用された関係もあって、幕末の勤王刀の反りは極端に少ない。いわゆる棒反りになっている。当に、佐々木小次郎ではないが、帯刀姿は物干し竿を腰に差した様な姿だったと想像される。そのような幕末風俗を代表する姿に、『土佐の長刀』と呼ばれる言葉が残っている。

特に、幕末、京や大坂を闊歩した土佐勤党の侍達が長い刀を愛好した為に、そう呼ばれて今日に残ったのだろう。もちろん、この現象は土佐藩の藩士や郷士達のみの流行では無かった。諸国の国を憂える志士達の間で、大流行し、その影響が洋学を学ぶ者達の間でまで浸透していった様子は、『福翁自伝』等にも登場している。


■水戸の武用刀

そんな世情騒然たる中で、藩主自ら武用刀の製作に挑戦した藩が水戸藩であった。水戸徳川家は第二代藩主徳川光圀以来の勤王尊崇の家系であり、個人的にも武張ったことが嫌いでは無かった当主徳川斉昭、自ら藩工の直江助共を相手に作刀、更に自作の刀や脇差、短刀を将軍家や諸大名に贈っている。面白いことに、斉昭自作の刀に斉昭の銘を切った物を見た事は無いが、まるで時計の文字盤のような葵紋崩しの彫刻が中心に銘代わりに彫ってある。水戸家と親しい大名家には相当数が贈られたようで、今でも斉昭の刀が残っている家も多いのではないだろうか。葵紋崩しの彫刻のある刀は土浦市立博物館所蔵の土屋家の伝来刀の中にも数振り存在するので、展示会でご覧になった方も多いと思う。


さて、本題の水戸の武用刀であるが、前述の直江助共を初めとする関口徳宗、横山祐光、関善定近則等の多くの刀鍛冶が協力して製作に励んでいる。ある時期、幕末勤王党の総本山と目された水戸藩の造る『水戸刀』に対する需要が全国的に高まり、国元の水戸はもちろんのこと江戸小石川の水戸家上屋敷内でも大量に製作されている。

その上屋敷内の刀剣製作の中核を担ったのが、勝村徳勝とその一門の長勝、正勝等であった。徳勝一門の作刀数は他の水戸刀工の作刀数に比較して格段に多かったらしい。当時製作された徳勝銘の刀だけでも千数百振りに及んだと聞く。当然ながら、徳勝個人だけでは到底達成できない数で、徳勝工房作が相当数混ざっていると考えるのが妥当である。


以前、茨城県と千葉県の刀剣愛好家の方々と徳勝刀について会話した折に、

「徳勝の刀は出来の差が大きい」

「徳勝の傑作は新刀初期の大和伝の傑作、例えば仙台国包に迫る程だが、平凡な作は、新々刀の中位の刀にしか見えない」

と言われた記憶がある。

確かに、言われてみれば、徳勝が精魂込めて作刀した傑作と多数の弟子が製作工程を分担し、流れ作業で製造した刀では同じ徳勝の銘が切ってあっても作品の完成度から斬れ味まで相当な相違があるのもうなずける気がする。


そういえば、話が変わるが幕末の水戸藩では新しく出来た武用刀の荒試しが頻繁に行われていた。硬く太い樫の棒で正眼に構えた新作刀の側面を強打したり、巻き藁の試斬の他、堅物の鹿角の試斬も行っていた。そして、最後に『水試し』を行っている。川の中に胸まで浸かった使い手が、持った刀の平を思いっきり水面に叩き付ける過酷な刀の強度試験である。水は無抵抗のようだが、瞬間的な強圧下では全力で刀を拒否して、いい加減に造った凡工の刀は簡単に折れたと聞く。幕末の刀の荒試しでは、信州の松代藩で行われた清麿の兄の真雄の刀の荒試しが有名だが、水戸藩でも同様の厳しい試験が行われていた。


■徳勝一門の斬れ味

それでは、幕末武用刀の代表格水戸の勝村徳勝とその一門の刀の切れ味に関して、少し考えてみたい。

最初にお詫びして置きますが、私自身、残念ながら徳勝の刀で巻き藁や堅物の試斬をしたことが全くありません。和紙で斬れ味の雰囲気の一端を試した程度ですので、以下の話の殆どは聞き書きとお考え下さい。

徳勝の刀で畳表や竹を斬った方の話を総合すると大きく、二つに分かれます。一つは、

「徳勝は化け物のように良く斬れます」

「新々刀では最高の斬れ味ではないでしょうか!」

と、新刀の大業物に匹敵するような斬れ味とのご意見がある一方、

「丈夫さは理解できますが、申し訳ありませんが、斬れ味は中位の刀だと思います」

「連続で斬ると抜けが悪くてーーー」

との感想もお聞きしたことがあります。

確かに、少ない数ですが私自身も徳勝一門の刀数振りを試したことがありますが、おやっと思う程斬れる刀がある一方で、丈夫だけが取り柄のような中位の斬れ味の刀に出合った記憶もあります。曲がりには滅法強く、もちろん、この一門の刀で折れた刀の話も聞いた事はありません。


そこで、最初に考えてみたいのが徳勝得意の柾目の大和伝の斬れ味についてです。江戸中期から後期の初めに掛けて、刀の斬れ味に関する本が幾つか出版された。『懐宝剣尺』や『古今鍛冶備考』である。古刀から新刀までの多くの刀について斬れ味を評価した結果を、最上大業物、大業物、良業物、業物の四段階に分類した内容は皆さんが良くご存じの通りです。その中で、最上大業物になった大和伝の作者は十四名中二名、大業物八十四名中数名にしか過ぎませんでした。

個人的な印象かも知れませんが、斬れ味を評価された業物の作者は備前伝や美濃伝が多く、大和的の刀が他の伝法に比較して少ない感じが昔からしておりました。江戸時代にも大和伝の古刀は丈夫だが優れた斬れ味の刀が少ないとの伝えがあったと誰かは忘れましたが以前聞いた記憶があります。


最も、今日、残っている刀の全体の数量中では絶対的な数量が美濃伝や備前伝と比較すると大和伝は少数派の弱みもありますが、同じマクリ手法で作刀した場合、大和伝の柾目鍛えの刀は斬れ味が若干劣るのかも知れません。

もう一つ、徳勝の刀で抜群の斬れ味の優れた刀の製作方法は、本三枚で造られたとお聞きした記憶もあります。そこで、現代刀匠で徳勝の弟子の正勝系の藤野光正氏にお尋ねしたところ、同刀匠の試斬用の刀は全て本三枚で制作しているとの事でした。ここら辺に水戸の武用刀を代表する徳勝の刀を解明するヒントがあるのかも知れません。(笑い)


【参考文献】

1.銕の意匠―水戸刀と刀装具の名品―   茨城県立歴史館    1996

2.土浦藩土屋家の刀剣          土浦市立博物館    2002


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