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39.『実用刀』から見た「太刀」から「刀」への形状の変化

前稿では、残念ながら平安時代の太刀まで遡ることは出来なかったが、『実用刀』の視点から時代毎の日本刀の特徴と、その得失を考察してきた。

本稿では、反りのある「太刀」が歴史上に登場してから、「打刀」が完成の域に到達した初期新刀に至る日本刀と各時代の戦場に於ける主力武器を比較しながら、日本刀の実用性について触れてみたいと思っている。

昨今、古代以来、直刀の時代も含めて戦国時代中期の鉄炮伝来まで、日本の戦闘武器の主力が「弓矢」であった指摘や、更に、鉄炮の普及により、戦場に於ける日本刀による戦死者や戦傷者の数が大幅に減っているとの順当な指摘も多い。

しかし、武士にとって、「日本刀」は平安時代以来、最も身近にある護身用の武具であり、「伝家の宝刀」の言葉もあるように、最後まで身近にある武士の精神的な支柱でもあったのである。

加えて、今日でも日本特有の文化財の一つとして、世界に誇る揺るぎない地位を保持していると信じたい。


確かに、平安中期の武士の登場と共に優れた武者の戦場での資質の第一は騎乗からの弓射が巧みで、確実に敵を倒す実力を持つことが勇者の要件とされてきた。

続いて、南北朝時代以降、急速に戦場の主力武器となっていったのが「槍」であり、室町時代中期には、弓矢と肩を並べる地位を槍は確立している。

更に、天文年間に日本に伝来したとされる「火縄銃」は、その普及と共に日本の戦場の様相を一変させて、天下統一を促進する要因の一つとなっている。その結果、我が国は戦国末期から桃山時代には、大航海時代の西欧と肩を並べるほどの小銃保有大国となったのである。

このような時代ごとの戦場の主力武器である「弓矢」、「槍」、「火縄銃」等と比較しながら、日本刀の実用性の変化について学んでみたいと考えている。


(古代の戦場の主役「弓矢」と日本刀)

平和で長かった縄文時代に比較して、弥生時代に入ると闘争が各地で繰り広げられている印象が強い。骨に食い込んで石鏃や鉄鏃の残っている弥生時代の遺骨や甕棺に埋葬された首の無い遺骸を見ると、その時代の闘争の激しさを如実に感じるし、佐賀県の吉野ヶ里遺跡の柵列や壕を見ても、当時の人々が自身や集団の保全に膨大な労働力を注入していた様子が窺える。

当時は、自然木を削った丸木弓だったが、それでも、世界でも珍しい「和弓」独特の下が短く、上が長い、上下非対称の合理的な特徴を既に持っていたようだ。

やがて、古墳時代の到来と共に、大陸から騎乗の習慣や諸刃の「剣」や片刃の「大刀たち」が伝わり、身を守る武具としての「挂甲」や「短甲」も登場する。

時代の進行と共に製作に手間の掛かる剣は廃れ、奈良時代には、片刃の大刀たちが主流となり、鎧も挂甲を基本とした改良が進んでいったと想像される。

平安時代中期、「武士」の登場と共に反りの有る「日本刀」が登場するが、戦場での「弓矢」の優位性は変わらず、八幡太郎義家を初めとする騎射に優れた勇者が人々の称讃を浴びている。しかし、その当時も太刀は、弓に比べると控えめな補助的な武器に過ぎず、近接戦での馬上同士の擦れ違いざまの戦闘での使用や、戦闘後半での最終決着で用いられる程度だった。


騎乗での抜刀を考えると左手で馬の手綱と弓を落ちないように握り、右片手で太刀を振るって相手に擦れ違いざまに斬り付ける状況が想像される。そうなると馬上同士の関係では、太刀は少しでも長い方が徳だし、斬り付けた後の衝撃の緩和と敵からの速やかな離脱を考えると腰反りの強い初期の太刀姿が納得出来る。即ち、古名刀好きが憧れる、先身幅が狭く、重心が手元にある優美で古典的名刀の姿である。

もちろん、古い絵巻物等を見ると大鎧を着た武者の傍には、胴丸を身に付け薙刀を持った徒歩の従者が従っているが、飽くまでも馬上で弓を引く武者が戦場の主役であり、徒歩の従者は補助的な存在だったように感じられる。この時代、戦場の主役である騎馬武者の有力な武器は、弓矢と腰に佩いた太刀の二つしか無かったのである。


最有力の武器である「弓」の形状も時代と共に大きく変化している。平安時代末期には、従来の丸木弓に比較して、反発力を高めて貫徹力を増した「伏竹弓ふせだけゆみ」が登場したし、更に、弓の木部の前後を竹で挟んだ強力な「三枚打弓」が造られている。

室町時代になると更に、中央の木部の外側を竹で包んだ「四方竹弓」も登場して、和弓の貫徹力は強力になっていき、火縄銃の到来と共に、和弓と種子島の混用が戦場の飛び道具の一般的な配置となって、そのまま、江戸時代に移行するのであった。

即ち、平安時代から鎌倉時代に掛けての戦場では、太刀は主力武器である「弓矢」に次ぐ重要な武器として活躍し、南北朝時代には時代を象徴する長大な「大太刀」も登場している。

けれども、「槍」の登場と共に太刀の活躍の場は急速に縮小し、小型で扱いやすく先身幅の増して頑丈な「打刀」に変化するのだった。


(新しい主役「槍」の普及)

「槍」は鎌倉時代最末期には戦場に登場(菊地槍)しているようだが、本格的に大量使用されるようになったのは、室町時代になってからの感じがするが如何であろうか!

更に、応仁の乱以降、「槍」は戦場の主力武器の地位を徐々に確立して、戦国時代を代表する武器の一つになっている。

新兵器、火縄銃の伝来以降も武田家や上杉家、そして関東の北条家等では、長柄槍を主力とした部隊編制が実施されている。通常の武士の持ち槍の柄の長さが、7尺から9尺(約2.1~2.7m)前後であるのに対して、家によっては2間や3間(約3.6~5.4m)、あるいは、それ以上の長柄の槍を足軽槍隊の主要武器として装備して戦場に臨んでいる。

そうなると実戦面での短い日本刀登場の機会は激減して、

「武将が馬上で刀を抜くようならば、負け戦だ!」

との表現も残っている位で、大将を守る部隊の殆どが散逸し、槍を持って攻め込んでくる敵に対し、武将自ら太刀、あるいは打刀を抜いて斬り合うのは、討死寸前の最後の瞬間であったろう。

その良い例が、桶狭間の戦いに於ける今川義元で、腰の名刀「宗三左文字」を抜いて戦っているが、敢え無く織田勢によって討ち取られている。


戦場に於ける「槍」重視の傾向は、火縄銃伝来以降も大きく変わらなかった。

この傾向は、鉄砲隊の編制を重視した織豊系諸大名でも同様で、鉄砲隊と槍隊の混用が桃山時代の諸大名の標準的な編制となっていった。この銃と槍のミックスによる軍隊の編制は、当時のヨーロッパも同様であり、西欧の軍隊と大きく異なる所は騎兵隊を重視したヨーロッパ諸国に対し、日本では乗馬による敵陣への急襲を重要視していなかった点にある。

その原因は、幾つか考えられるが、当時の日本の馬は今日から考える以上に小さい上、馬の弱点である蹄に蹄鉄を打つ技術も確立していなかった点が挙げられる。

それに、戦国期の諸大名の軍隊に於ける騎乗者の比率は、一般に一割から二割で、武田軍と雖も、その範囲内だったといわれていて、西欧のように独立した騎兵隊を編制した例を我が国では聞かない。

それ以上に、西欧人から見て奇異だったのは、馬上の有力武将級の武士が、戦闘が激しくなると下馬して、徒歩戦を好む傾向があった点である。その原因は槍の普及と槍術の発達により、馬上での戦闘よりもかちでの戦いの方が武功を立てやすい傾向があった為と思われる。

その流れは、古からの「○○の弓取り」という褒め言葉に変り、「槍一筋のお家柄」等の槍使いを賛美する表現の出現によっても理解出来よう。

ここで、忘れてならないのが、製作に高度な技術とある程度の製作期間を必要とする日本刀に対し、穂先、約4寸5分(約14cm)程度の数槍は、製作も容易であり、未熟な鍛冶でも十分製作可能な利点があった点である。要は、刀剣産地を持たない地方の大名の未熟な抱え鍛冶でも短期間に十分な数量の「槍」の供給が可能だったのである。


(新兵器「火縄銃」の登場)

「火縄銃」の伝来に関しては時代的に諸説あるようだが、少なくとも天文年間以降、全国的に「火縄銃」は諸大名に浸透して、戦国時代の戦術を一変させる効果があったことは確かである。

全国的な普及の底辺を支えたのが、堺鍛冶や国友鍛冶による種子島の量産化であった。逆に考えれば、サンプルさえ有れば、高精度な火縄銃を量産できる技術的基盤が日本には存在していたのである。

東アジアの火器の先進国である明国や李氏朝鮮では、大砲の量産化が進んでいた反面、種子島のような高精度の「小銃」の普及は、大きく遅れていたのである。

後年、両国では日本の種子島は飛ぶ鳥をも落す「鳥銃」と呼ばれて恐れられたのだった。そして、文禄・慶長の両役以降、両国では日本製の火縄銃を模倣した鳥銃が製作されるようになったのである。

豊臣政権が全国支配を確立した桃山時代から江戸時代初期に掛けての諸大名の火縄銃装備率は非常に高く、西欧諸国並だったと推定されている。

仮定の話で恐縮だが、当時の東アジアで西欧諸国の軍隊と正面切って戦える数量と精度の火縄銃部隊を保有する国は、我が国だけだったと想像しても、それ程大きな過ちを犯すことにはならないと考えたい。

当時の日本人は、日本刀に於ける優れた鍛造技術をベースに高精度の火縄銃の量産化に成功しただけで無く、大砲を除く戦術的な部隊運用に関しても、ヨーロッパに遜色の無いレベルの軍隊を短期間に完成させたのだった。


槍に加えての種子島の登場と共に日本刀の実用性は急速に低下して、戦場に於ける日本刀同士の斬合いによる戦死傷者の比率も大きく低下している。

この時代の特徴的な日本刀の一種に、組み討ち用の「鎧通し」がある。通常の脇差や短刀と違い鎧の右脇に柄を下向きに指す鎧通しは、相手の鎧の隙間を刺して敵に致命傷を与える武器として有用であったし、敵の首を搔切るのに用いられたという。

また、太刀の使用例が減って、打刀による大小の常用が進むと「天正拵」と呼ばれる江戸時代の大小の前身とも見られる拵が出現、流行している。

さて、次ぎに若干余談ながら、日本の「甲冑」の大雑把な推移と日本刀の変化を採り上げてみたい。


(時代毎の「甲冑」の変遷と日本刀)

東洋人が想像する西洋の中世騎士の典型的な姿は、馬上、大きな防御用の盾を左手に持ち、右手に長いランス(槍)を構える姿であり、勇猛な北欧のヴァイキングも丸い頑丈な盾を前面に保持しながら、右手に剣や斧を振りかざして突進する姿が一般的なイメージであろう。

その点、日本では従者の持つ大型の固定式の盾はともかく、馬上の武将も麾下の武士達も防御用の手持ちの「盾」を使用しない状態で、無防備に近い鎧に弓を持っただけで戦場に登場している。その分、平安時代に完成された「大鎧」の左右の袖は大きく、馬上敵陣に突入する際の盾の代わりとなっていたのだった。

しかし、時代の進行と共に徒歩戦の機会が増えてくると、前述したように重くて大きい大袖は太刀打ちや槍を用いる際の負担となったし、馬上では大きな草摺に保護されていた大腿部が徒歩戦では露出して戦傷の一因となってくるのだった。

その結果、室町期に入ると大鎧は廃れて、より簡便な「胴丸」や「腹巻」が従来着用しなかった上級武士用として登場、大将級も大袖や広袖を付けて着用するようになって、刀も太刀から短い打刀へ移行している。

やがて、大鎧では無防備だった大腿部を保護する佩楯も登場して、戦国時代後期には、「当世具足」と呼ばれる活動的ながら、全身を隈無く覆う甲冑が出現している。

そして、槍が武門を代表する武器の主役になった戦国期から桃山時代には、極端に小型化した「当世袖」や全く袖を欠いた当世具足が登場している。それは、実用的に、その方が好ましい実戦の結果が選択した当然の帰結だったのであろう。

戦国後期の天文や文禄頃になると、従来の短い2尺1、2寸の打刀は廃れて、2尺3、4寸の長めの刀が登場している。

堅牢な当世具足を断ち切れるように身幅が広くなり、切先も中切先が伸びごころに変化している。その結果、なかごも若干長くなって、新刀茎に近い寸法になっていったのである。

その後、「慶長新刀期」を迎え、桃山時代の気風を繁栄した南北朝期の大太刀を擦り上げて使い易くしたような姿で、地金も垢抜けた日本刀が出現している。

この桃山時代から江戸時代初期に掛けての「初期新刀」は、世の中が安定期を迎えたこともあって、実用的ながら、何処か末古刀と異なる明るさと新鮮さを内に秘めている印象を人々に抱かせるのだった。


さて、ここまで、日本に於ける戦場の主力武器である「弓矢」や「槍」、「火縄銃」、そして防具である「甲冑」の変遷と、それに対応する『日本刀』の形状の時代的な変化と『実用性』について触れて来た。

しかし、記述しながら「弓矢」や「槍」、「火縄銃」、「甲冑」の変遷それに関する対応のみでは、何処か「日本刀」の変化に対する大きなポイントを見逃しているような気がしてならなかった。次稿では、大きな歴史の流れに埋もれてしまった日本刀の『実用性』に関する時代毎の日本民族の反応と言うと大げさすぎるが、表面には顕著に出ていないものの時代的な要求に適応すべく正面から向き合ってきた刀匠達の隠れた努力の変遷を探ってみたいと思っている。


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