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37.『実用刀』の視点から「南北朝時代」の大太刀を考える

ここ暫く、「実用刀」の視点から、逆に少しずつ時代を遡って「日本刀」を考えてみている。前回が、戦国時代の「末古刀」を中心に考察したので、今回は、戦国時代同様に戦闘の激しかった「南北朝時代」の日本刀に触れてみたいと思っている。

刀の世界では、南北朝期の日本刀と聞くと「延文・貞治えんぶんじょうじ」型の長大で身幅の広い「大太刀」思い浮かべる人は多い。

もちろん、南北朝期といえども、尋常な長さの太刀が製作されなかったわけでは無いが、時代的な流行の特徴として「大太刀」を刀好きの人々が第一に挙げるほど時代的な特徴としての印象は強烈だった。


それでは、建武元(1334)年から明徳4(1393)年まで約60年間続く南北朝時代の中でも、「大太刀」が流行したのは、上記の様に真ん中頃の、延文年間(1356~1360年)から貞治年間(1362~1367年)の約20年間の極めて短い期間だったといわれている。

即ち、南北朝期約60年間と雖も「大太刀」が全盛だった訳では無く、鎌倉時代に続く常寸に近い太刀も諸国で多く製作されているし、南北朝後期には、小太刀も製作されている。

しかし、南北朝時代を通期で観察してみると「日本刀の形状としてのバリエーション」が、最も大きく振幅した時代だった。

それでは、「大太刀」とは、どの様な形状の太刀だったのか「大太刀」との最初の出会いからスタートしてみたい。


(南北朝期の「大太刀」との出会い)

周囲を圧倒する多くの「大太刀」との最初の出会いは、広島県の尾道から船で愛媛県の「大山祇神社」に国宝の名甲の数々を見に行った時だった。

全国の甲冑ファンが憧れる大山祇神社には、平安時代以来の河野一族を中心にした多くの有名武将(源義経や源頼朝)や天皇家(後村上天皇、護良親王)を始めとする甲冑や武具の奉納品が多数収蔵されている。

その量は膨大で、国宝、重要文化財クラスの武具の指定品の約4割を大山祇神社の所蔵品が占めるという豪華さである。

代表的な大鎧の指定品を挙げると、越智押領使好方奉納の国宝「沢瀉威・兜・大袖付」、同じく国宝の河野通信所用の「紺糸威大鎧」、同じく国宝の伝源義経奉納の「赤糸威胴丸鎧」、伝源頼朝奉納の国宝の「紫綾威大鎧」等、平安時代後期から鎌倉時代初期に掛けての時代を代表する名品の数は多い。

もちろん、この他にも大鎧、胴丸を始めとする貴重な時代の特徴を有する鎧兜の数が多く、中でも重要文化財に指定されている木曽義仲奉納の「熏紫韋威ふすべむらさきがわおどし胴丸」は、平安末期の現存する最古の胴丸として貴重な存在である。

このように「大山祇神社」の武具類の最も素晴らしい点は、平安時代後期から戦国時代に至る代表的な甲冑群と太刀、薙刀を始めとする武具刀剣類が併行して収蔵されている貴重さではないだろうか!

このように平安時代から戦国時代に至る広範囲な武具の収蔵機関は国内でも、そう多くない上、元寇時のモンゴル軍からの戦利品である兜や弓矢も収蔵されている。

このような武具の時代的な感動を与えてくれる全国の神社を含む空間は、そう多くない。直ぐに指を屈することが出来るのは、「春日大社」、「厳島神社」、「御嶽神社」、「櫛引八幡宮(青森県)」くらいであろうか!


さて、本題の大山祇神社所蔵の「大太刀」だが、同社の所蔵品の中で鎌倉時代の華麗な雰囲気を伝える護良親王奉納の国宝、「牡丹唐草文 兵庫鎖太刀拵」とほぼ同時代の貞治5(1366)年の年紀のある身長(同神社図録による)135.7cmの大太刀である。

もちろん、こちらの方も国宝で作者は大和の「千手院長吉」、後村上天皇の奉納品という。

この太刀の反りは4.8cmと高く、身幅も元幅4.1cm、先幅3.0cmと広く、横手下の幅でさえ通常の太刀の元幅に近い豪壮な大太刀である。重量軽減のためか棒樋が両面に彫刻されていて手持ちを考慮している。目釘穴2個。

ガラス戸越しに拝見しても健全で破綻の無い名刀で、その姿にしばしば見とれた記憶がある。

さて、話を「大山祇神社」の刀剣類に戻すと平安末期から戦国期に奉納された著名武将の大薙刀や野太刀だけでも相当の数に上る。

目に付くところを挙げると、源義経奉納の大薙刀(重文)、伝武蔵坊弁慶奉納の大薙刀(重文)、大森彦七所用の伝豊後友行(無銘)の大野太刀(国宝)、山中鹿之助奉納の石州和貞作の大太刀等々、大薙刀、大太刀だけでも枚挙に暇が無い堂々たる雄刀ばかりである。

この他にも古い時代の大太刀や大薙刀が多数奉納されており、その時代毎の雄偉でうぶな姿を今に伝えて、見る者に感動を与え続けている。


大山祇神社の千手院長吉の野太刀と共に思い出すのが、不思議なことに千手院長吉と同じ貞治5(1366)年の年紀がある日光二荒山ふたらさん神社の国宝「備前長船倫光」の大太刀である。

この二口ふりの野太刀は先に述べた「延文貞治姿」の大太刀の当に典型的な形状をしており、この時代を代表する傑作といって良い。

千手院長吉の太刀と同様に、この二荒山神社の倫光の太刀も126cmと長大な上、反り5.5cm、元幅4.4cm、先幅3.0cmと身幅の広さや形状も長吉に近似している。

刀身自身も備前物らしい地景が入って乱れ映りが立ち地沸が付いた健全な地金に加えて、草の倶利伽羅と梵字の刀身彫刻が更に美観を添えている。

それから、非力な我々が最初に心配になる大太刀の重量だが、資料によると倫光の重さは2.5kgらしい。


我々が居合に通常使用している現代刀の2尺3寸から2尺6寸の刀の重さが、800~900g前後であり、特注品の現代作の身幅の極端に広い豪刀でも、1.0~1.5kg程度から考えると、倫光太刀の2.5kgの重さは相当な重量といって良い。

もちろん、現存する大太刀の柄は長く、当時の長巻の柄に近い長さがあると推定されるが、両手の間隔を広く取って構えたとしても、戦場で使用するには相当の膂力の持ち主である必要を強く感じる。

そんな訳で、何時も南北朝期の大太刀を拝見して感じる点は、我々現代人には到底自在に振り回す動作は出来ないだろうという諦観である。例え、数回は振れたとしても、とても戦場で長時間敵を薙ぎ払う戦闘に耐えうるとは到底思えない代物である。

そのせいもあって、南北朝期に製作された3尺から長い物では4尺(91~121cm)を優に超える大太刀の多くは、後世、擦り上げられて常寸近くに短くされて本来の姿の上半分が現存しているケースが多い。

この時代の高名な刀工である備前の大兼光や長義等の名作でも、今日、現存する作品の大半は大きく擦り上げられて2尺3寸前後の打刀寸法になってしまい無銘や茎尻に漸く銘が残っている刀身が多い。

幸いな事に、この二つの長吉と倫光の大太刀は生茎うぶなかごのままで現存しているが、このような南北朝時代に製作された野太刀の健全な姿で残っている物は、これからも貴重な歴史遺産として大切に保存して行きたいものである。


(「実用刀」から見た「大太刀」)

ここまで、南北朝期に流行した「大太刀」について、印象に残っている「千手院長吉」と「備前倫光」の二つの太刀の寸法を含めた形状の概略を述べて来たが、そろそろ本題に戻って、「大太刀」の実用刀としての検討に入りたいと思う。

まず、製作面から考えると3尺、4尺の大太刀を容易に製作出来る刀鍛冶の数は、当時としても、そう多くなかったと思われる。材料面だけから見ても通常の太刀の二倍から三倍の準備が必要になる上、技量面でも例えば小振りの太刀の量産を得意とした備前の小反鍛冶程度の刀工では、不可能とは言わないまでも、作刀には相当な困難が伴ったと想像される。

その結果、「大太刀」の価格は常寸の太刀に比較して、極めて高価な物にならざるを得ず、下級武士に大量に支給できる武器というよりは、極めて少数の勇将や豪傑の表象的な武器とならざるを得なかった点は、各種の軍記物の記述からも覗える。


 次ぎに、「大太刀」の使用上の問題点を考えてみると、その扱いにくい長大な長さと重量がある。敵をその外見だけで十分に威嚇できる長大さと広い身幅を保有している事は、考えるまでも無く、常人が自由に扱える形状と重さを逸脱した姿になってしまう危険性が、武器の世界では、常に付きまとう。

三国志演義に登場する豪傑関羽雲長が自在に振り回した重さ82斤(後漢の頃の重量でさえ約18kg、後世ではもっと重い重量)の青龍偃月刀も物語の世界としては成り立つが、史実(この武器の登場は、宋代以降といわれている)としての存在感は低い。

それに、以前にも述べたが、4尺、5尺(約121~151cm)の長大な日本刀を造った場合、どんなに薄く造っても扱いやすい1.0kgや1.5kgの重量の範囲に納めることは至難であろう。もちろん、刀身の身幅を極力細く製作すれば、その限りでは無いが、身幅の狭い細身の大太刀など敵を威嚇する効果があるとは、到底思えないし、斬るという目的からも考えにくい。

その結果、延文・貞治期の大太刀は、やや刀身の重ねを薄くして、重量軽減のために上述の両刀もそうだが広い刀樋を刀身の両面に搔通しているケースが多い。しかし、その様な工作をしてみても、倫光の太刀の重量のように、2.5kg程度にはなってしまう。加えて、刀身の重ねを薄くする行為は、斬合いの際の打撃による、刀身の曲がりを発生しやすくなる危険性を伴ってしまうのである。


その結果、振り回しにくい大太刀が廃れて室町時代中期に振り回しやすい小振りの短い「打刀」が出現した経緯は前稿で述べた。

それに、全長が大太刀と同様の長さを持つ日本古来の武器の一つに、「長巻」や「薙刀」の存在がある。刀身は大太刀よりも遙かに短いものの、柄を含めた全長は、それ程、大太刀と違わない物も多く、逆に総重量は刀身の短い分、比較的軽く戦場での扱いは容易であった。

長巻や薙刀はひ弱な女子用の武器としても愛用され、江戸時代には武家の妻女の常備の武器として薙刀が定着している。

それに何といっても、多くの兵士に武器を必要とする大名や豪族層にとって、極めて高価な大太刀と違い、南北朝以降急速に普及した安価な「槍」の存在も大きかった。

満足に長い刀を仕上げられない未熟な鍛冶でも、数槍と称せられる足軽用の穂先の短い槍の鍛造は、それ程難しい作業では無かったと考えられるからである。


(「大太刀」が後世に残した物)

最後に、南北朝時代の「大太刀」が後世に残した影響について、少し考察してみたい。

大山祇神社や二荒山神社の名宝である大太刀のように、健全な生の姿で後世に残された「大太刀」の数は少なかったが、元先の身幅が広く、大切先の豪壮な「大太刀姿」は、戦国武士にも好まれて、大太刀の大磨上無銘の打刀として愛用されているし、大太刀の大磨上姿を写した末備前や末関の刀も多く伝存している。

しかし、何といっても南北朝期の姿が再現されたのが桃山時代から慶長期の初期新刀だった。丁度、南北朝期の大太刀を短くして、2尺3寸前後にした姿の慶長新刀は、南北朝期の大太刀の重ねの薄さとは異なり、比較的重ねも厚くしっかりとしていて、実用刀としての完成された姿をしている。

しかも、先身幅の広い刀身の切先は、中切先延びごころから大切先が多く、見た者に豪壮な印象を与える。

加えて、慶長新刀とそれに続く初期新刀の諸工には、斬れ味で高名な作者が多い。「鍛冶備考」の最上大業物や大業物の作者から何人かの刀工を引用すると以下の通りである。

肥前忠吉(初代)、そぼろ助廣、仙台国包、堀川國廣、和泉守國貞(初代)、加州兼若等がいる。


少し時代が下がった寛文以降の新刀では、慶長新刀の姿と大きく異なり、竹刀剣道の発達と共に、「反りが浅く」、「先身幅の狭い」、寛文新刀独特の形状に大きく変化して行き、次の延宝や元禄新刀では、優しい反りが加わって来る。

この南北朝期の大太刀の大磨上姿の「慶長新刀」に良く似た形状が復活するのは、実戦での使用が喧しく議論されだした幕末動乱期になってからであった。

「攘夷」が声高に叫ばれた激動の時代、豪壮な大切先の身幅の広い姿が多くの武士に好まれて流行した結果、清麿を始めとする優秀な新々刀工が多数出現したのもこの時代だった。

それでは何故、新刀初期と幕末期に南北朝期に近い形状の日本刀が流行したかとみると、平和な江戸期の武士達にとって日常身に付けている表象的な武器が「刀」だけだったからではないだろうかと思っている。

戦国期の余塵が残る慶長期と尊攘攘夷と開国が激突した幕末期に腰に差せる長さの「南北朝期の大太刀姿」が復活した一因が、そこにあるような気がしている。


ここまで、「南北朝期の大太刀」を実用刀の視点から考察を加え、更に、この時代の太刀姿が後世に残した影響も含めて考えてみた。

もちろん、冒頭で述べたように、南北朝時代といえども尋常な長さの太刀の生産量が少なかったとは思えないし、南北朝時代末期には備前の「小反鍛冶」その他を中心に常寸よりも短い2尺から2尺1寸前後(約61~64cm)の「小太刀」が生産されており、短い関係で生茎の健全な遺物も多い。

もう一つ南北朝時代の特徴を挙げるとすれば、この時代から短刀の長さが長くなっていった点を忘れてはいけない。良く鎌倉時代の短刀の長さを8寸5分(約26cm)と表現することがあるが、南北朝時代60年間に短刀の長さはドンドン長くなっていったようで、小脇差と呼んで良いほどの平造りの寸延び短刀が出現、応永期には今日、脇差と呼ぶ本造りの小刀も出現している。

要するに、南北朝時代の日本刀は、日本刀の長い歴史の中でも長さを含めて最も広範囲で多彩な形状の「太刀姿」が出現した時代だったし、後世の初期新刀や幕末の新々刀に与えた影響も極めて多岐に渡っていたのだった。


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