35.『実用刀』の視点から「末古刀の時代」を考える
日本刀の長い歴史の中で、最も『実用性』が重視されたのが戦国時代(=末古刀)なので、妙な表題になってしまったが、真意をご理解頂くために若干、言い訳を述べさせて頂く。
『実用刀』の視点で日本刀を考えると時代的には、南北朝期と戦国時代の末古刀期が、まず、最初に思い浮かぶのが順当なところかと思う。確かに、大磨上無銘で大切っ先の身幅の広い南北朝期の刀や短いながらもがっしりとした造り込みの末古刀の注文打ちの優刀を拝見すると特にその感が強い。
それでは、何故ここで「末古刀」を『実用性』の観点から見直さなければならないか、と考えると後に登場する江戸期の新刀に比較して、同じような姿をしながらも戦国期独特の実用性に秀でた地金や刃紋、姿をしていると感じるからである。
実戦で、直ぐ折れる刀や曲がり易い刀ほど『実用刀』として、大きな問題点を内蔵している刀はないであろう。水心子正秀の「刀剣武用論」にも、新刀の大出来の刀が折れる話は頻繁に出て来るが、末古刀の折れた話は殆ど記載が無く、備前の古刀で丁字乱れの華やかな作(鎌倉時代の一文字か?)が、帯刀者が石段で転んで二つに折れた話が出て来るくらいである。
そういえば、末古刀では無いが、元寇の後、それまで、丁字の華やかだった一文字や長船鍛冶の刃紋が、地味な直刃調の小乱れや小互の目に変化しているのも実戦経験による実用性重視による同様の流れかも知れない?
末古刀の刃紋でも焼きの高い丁字刃や沸出来の皆焼等、実用刀としては首を傾げたくなるような戦国期の刃紋がない訳ではないが、概ね末古刀の関や脇物の刃紋の焼幅は尋常の作が多く、荒沸の強い作刀も殆ど見ない。
そこで、本稿では、戦国時代を中心に、当時の武士達が希求した日本刀の姿を考えてみたいと思っているので、お聞き頂きたい。
(日本刀が一番短かった時代)
長い太刀の時代が終って室町時代初期に刃を上にして帯びに帯刀する簡易的な「打刀」が出現、平和な時代がスタートしたがやがて京都を主戦場に「応仁の乱」が始まる。
応仁の乱の特徴は幾つかあるが、その一つに、足軽を始めとする徒歩集団による戦闘激化が挙げられる。腰の帯に差した打刀による「抜き即斬」の一挙動で攻撃に移れる簡便性が好まれて、一挙に「打刀」が全国に普及していったのである。
長さは、抜打ちに適した二尺二寸前後の短い物が主流となり、刀身が短くなった分、先身幅と元身幅の差が少ないガッチリした打刀姿になっていく。
特に、戦いがいよいよ激しくなった文明年間(1469~1486年)から永正年間(1504~1521年)の戦国時代前期の「打刀」は長い日本刀の歴史の中でも、最も短い日本刀の時代といっても過言で無い短さである。
当時の日本刀の平均的な長さは不明だが、当時の年紀の末備前の場合2尺1寸(約64cm)前後の寸詰まりの刀に出会う機会が多い。中には、極端に短い物もあって、現在の登録上「脇差」扱いの60cmを切る刀身も存在する。長い物でも2尺2寸(約67cm)を少し超える程度で、江戸時代の常寸の2尺3寸を超える刀の生産は少なかったようだ。
当然、末備前の茎も従来の太刀茎と異なり、極端に短くなり、拳一握り程度の長さに変化している。
もちろん、当時でも剛勇の士の注文した2尺5寸以上の長い刀が造られなかった訳では無いが、相対的に短い刀が全国的に生産された時期がこの時代だったのである。
いかし、末古刀全部がこのような短い打刀だけであったと誤解しないで欲しい。日本刀の本場、備前を中心に短い傾向が続いた末古刀も戦国時代後期の天文以降になると二尺三寸や五寸(約70~76cm)の長寸の刀が造られるようになり、茎もそれに伴って従来の短い茎から新刀期の刀の茎のような尋常な長さの茎に変化している。
(『末古刀』の時代は「備前伝」と「美濃伝」全盛の時代だった)
「打刀」が急成長した『末古刀』の時代は刀剣界で良く「五ヵ伝」と呼ばれる古くから伝わる作刀技法の中で、「山城伝」、「大和伝」、「相州伝」の三つの伝法が衰微した時代だった。
三つの流派共に伝系は維持しているものの、古い時代のような名工の数も少なく、作刀本数も室町時代後期には少なくなっていった。
その一方で、平安時代から続く「備前伝」と新興の「美濃伝」は、この時代隆盛を極めている。日本刀の量産地となった両国では刀鍛冶の数も増加して、作刀本数も「数打ち」の増加と共に驚異的な製作数に達したと想像される。
即ち、戦国時代の日本刀の主要製作地としては、備前と美濃の東西二ヶ国が代表的な量産地と考えて、そう大きな間違いではない『実用刀』の時代だった。
南北朝時代に「五ヵ伝」の中でも最も遅く登場した「美濃伝」は、戦国期になるとめきめきと頭角を現し急速に生産量を拡大していった。
「美濃伝」が急成長した理由には、いくつかの点があるが、美濃の関を中心とした立地条件の良さ(京にも近い日本の中央部に位置していた)と簡易的な大量生産に向いた製造工程が驚異的な供量を可能にした点に加えて、孫六兼元や和泉守兼定(之定)等の斬れ味で有名な刀工の登場もあって美濃伝は戦国の実用刀として武士達に広く認められる存在になっていったのだと想像する。
一方、東の「関」に対し、西の「長船」は、「打刀」の登場と共に、従来の太刀姿からその姿を大きく変えて戦国期の要求に対応している。時代に即応した姿の転換に関しては、古刀期の長船はピカイチだった気がする。
古来、「備前物」と聞くと腰反りの姿が美しい「太刀姿」を想像する愛刀家は多いと想う。鎬幅も「大和伝」に比べると狭く、鎬の高さも低い方で、地には、時代毎に特徴ある「映り」が立つ場合が多い。
しかし、これらの特徴が維持されたのも「応永備前」と呼ばれる室町時代初期とその後に続く前期の時代だけで、末備前と呼ばれる時代の備前刀は、大きく、その姿を転換している。
前述したように、元身幅と先身幅の差は小さく、重ねも厚くしっかりとした造り込みが末備前の注文打ちの特徴であろう。
現存する如何にも、物切れしそうな、長船鍛冶の注文打ちの祐定や貴光、清光の傑作を見ていると戦国時代の所持者が如何に愛蔵していたか容易に想像出来て、ほのぼのとした雰囲気にさせてくれる。
(「注文品」と「数打」)
末古刀を考える場合、「備前長船物」を標準に考えると覚えやすい印象がある。平安時代以来、長い伝統を持つ備前伝は、その時代毎に時代に適応した姿に変えて繁栄を続けてきたのだった。
前述したように新しく訪れた「打刀」の時代に於いても、時代の先端をリードして繁栄を続けている。
特に、この時代に、当時の武士達が有名刀工である「右京亮勝光」や「与三左衛門尉祐定」、「五郎左衛門尉清光」に特別に依頼して製作させた「注文打」で「所持者銘」のある刀は現代でも高い人気を得ている。
中には、赤松兵部少輔政則のように有力守護大名自ら軍陣の余暇に作刀する愛刀家まで出現して交流のあった当時の武将達(織田信長の先祖である織田大和守敏定等)の為に鍛えた刀が今でも残っている。
しかし、その反面で、足軽を含む下級武士である徒士層の増加に対応するための刀の大量生産品である「数打」も急速に増加している。数打は別名、「束刀」とも呼ばれ、輸出用も含めた安価で簡易的な造りの大量生産品で、一見、如何にも長船らしい刀ながら、何処か一級品と比較して、何処か違和感を覚える場合が多い。ご参考までに、「数打刀」の幾つかの特徴を挙げてみたい。
・注文品が「備前国住長船与三左衛門尉祐定」等と比較的長銘なのに対し、「備州長船祐定」
や「祐定」二字銘が多い。(但し、打刀の初期には注文打でも短い銘が一般的)
・流石に長船らしく良い姿ながら、良く見ると何処か細身で、重ねも注文品に比較して薄い。
・注文品の茎は打刀らしく短くともたっぷりとしていて、何処か重量感がある。
・見逃しがちなのが茎の造り込みで、数打は平肉も少なく何処か貧相でペタンとしている。
・華やかな刃紋の作でも匂口に叢があったり、沸や匂崩れが見受けられる物が多い。
所持銘のあるような長船の名品は鑑賞会で拝見するくらいだが、大傷の出た数打の長船刀は比較的容易に入手し易く、数口か試し斬りした経験もある。
その狭い体験範囲でお話しすると、刃紋の華やかな大乱れの備前刀よりも焼き幅の狭い直刃の刀の方が斬れる刀が多かった気がしている。地金も良く詰んだ地金よりも如何にも数打らしい、鍛えの雑なくすんだ地金で、匂口も沈んだ感じの刀に斬れる物が多かった。
また、時代的には、同じ末古刀でも室町時代前期に近い、やや時代の古い作の刀の方が数段、斬れ味は優れているように個人的には感じた。
(「脇物」鍛冶が台頭した時代)
この時代、従来細々と家内工業的生産を続けてきた地方鍛冶にも戦乱の激化と共に大きな需要が求められるようになったと想像される。
思い付くままに、その中の幾つかの鍛冶集団を南から順に挙げる。九州豊後高田の「平高田鍛冶」、備後国の「三原鍛冶」、大和の「金房鍛冶」、加賀、越中等の「北国鍛冶」、伊勢の「村正一門」、駿河の「島田一門」、相模の「小田原相州鍛冶」等々がある。
戦闘が激化したこの時代、長船や関の本場から供給だけでは十分な必要量を確保できず、諸国の戦国大名は領国内での武器製造を直接間接に支援しているし、桑名や島田などの交通の要での武器製造が促進されている傾向もある。
これらの末古刀は、鑑定会等では「脇物」等と一段低く見られる傾向はある物の「千子村正」のように現代でも人気の高い作者も多い。また、肥後の「同田貫一門」や大和の「金房一門」のように斬れ味で高名な一門も脇物の中には多い。
あるいは、関の「寿命」や薩摩の「波平行安」のように、語呂の良さから贈答品や元服の際のお祝い差しとして好まれる銘刀も生まれている。
しかし、「脇物」の刀の多くは、『実用刀』として評価される刀が多く、例えば、「平高田」等の刀は、名物の平鎮教作の「権藤」の薙刀等の傑作刀を除くと、どちらかと言えば、中下級武士用の実用刀としての存在感を感じる。
実際に戦国時代の高田の刀は、丈夫そうで曲がりそうも無い刀が多く、刃紋も長船や末相州、関をミックスしたような脇物然とした印象があるが、斬れ味は優秀な作が多い感じである。
また、以前出会った斬れ味の優れた一刀に「加州清光」の刀があった。二字銘なので明確に個銘は断定できなかったが、識者に見て頂いたところ明応頃の「二代清光」とのことだった。地金はやや黒く、柾がかった地金に白気心があり、刃紋も平凡な中直刃だったが、切れ味はそれまで斬ってみた長船や関の銘刀よりも格段に優れていて驚いた記憶がある。
「脇物」と呼ばれる地方鍛冶の作刀の中にも、この加州清光のような信じがたい斬れ味の日本刀があるから、日本刀の奥は限りなく深いと痛感させられる!
(世界の刀剣から見た「末古刀」の位置付け)
話は変わるが、15世紀後半のイタリアルネッサンスの時代、ヨーロッパの刀剣も大きく変化している。従来型の騎士の諸刃の剣を巨大化させたような両手使いの「ブロードソード」が出現する一方、剣身が細身で刺突に便利な軽いフランスで「エストック」と呼ばれる突き専用の剣が登場している。
この系統の剣は従来の剣が持っていた斬撃に対する機能を捨てて、突き専用の効果を強調した剣で、今日、我々がフェンシングの剣技を見た時の印象に近い使用法に徹している。
やがて、突き専用の剣は16世紀初頭には、「レイピア」として、全ヨーロッパに普及し始まるのである。
このようにヨーロッパでの刀剣は、多くの国々が存在していた関係で複雑多岐に発達するが、我国の場合、平安時代中期に出現した反りの有る太刀姿の延長線上で微妙に時代の要請を採り入れて実用性を加味した姿に改良され続けるのである。悪く言えば、保守的な民族であり、良く言えば、世界で最も完成度の高い刀剣を古代から使用している民族だった。
18世紀初めになるとヨーロッパ諸国では、片刃で反りのある騎兵用サーベルが普及するが、この原型はオスマン帝国のトルコ人を中心にイスラム圏で使用された「マムルーク型の湾刀」を東欧圏で模倣したのが始まりだとの説がある。
近代化を急ぐ明治日本の軍隊でも将校の階級の表象としてサーベル式軍刀が流行するが、その結果、日本軍は日露戦争でもサーベル外装の中味として、末備前や末関の刀を好んで使用したのだった。
このように近代化した軍隊のサーベルに於いても、遙か昔に製作された末古刀が、刀身として有効であり、実戦での実用に十分耐えうることを証明したのである。
逆に考えるとナポレオン戦争を経て、産業革命を経験したヨーロッパの軍隊が日本刀に近い形状の「サーベル」に到達したのは、幾多の変遷を経て近世になってからであったと考えることも出来る。
(現代人に「末古刀」を使用して貰うと)
それでは現代人に「末古刀」を使用して貰うと、どうなるか試してみたので、その一部をお話ししてみたい。
「末古刀」といっても前述したように、その初期では短い「打刀」が多い関係で茎も極端に短くなっているし、戦国末期になると寸も伸びて茎の江戸時代の両手使いの刀のように長くなるので、短い刀身に短い茎の場合と常寸に近い刀身に長い茎の場合の二つに分けてお話ししたい。
打刀初期の二尺から二尺二寸(約61~67cm)の長さの刀身では、現代の居合に慣れた剣士には、女性や弱年層を除くと物足りなく感じる人が多いようで、中には、刀身の短さから、「間合い」の調整に苦しむ人も時々居るようである。
しかし、実際に良く斬れる日本刀での試し斬り初心者にとっては、このやや短めの扱いやすい刀身は、失敗も少なく好ましいと考えられる。
但し、問題は、茎の長さで、茎が後世の江戸期の日本刀に比較して極端に短い場合、柄を頑丈に造る必要を感じる。例えば、ガタ付いた柄木や鮫の短冊着せの柄での使用は慎重にすべきであろうし、目釘のゆるい柄の使用は厳禁であろう。
その点、戦国時代後期の刀身が長めに変化した末古刀は、江戸期の刀身や現代刀に近いせいか、居合の型をやる上でもスムースに使用出来るようで、皆さんも安心して使われている様子だった。
但し、現代居合を習熟された方には、新々刀風の比較的長い茎の刀身が好ましいようで、末古刀の茎では、柄の中の茎の短さが、何となく不安で心配だとこぼされる練達者もいらっしゃる。
最も、実際に大傷の出た末古刀で試斬してみると、茎の極端に短い末備前前期の打刀の茎を別にして、十分に吟味した丈夫な柄を装着した場合、気にする必要は無いように感じる。
それに、「脇物」の無数の刀も含めて、「備前長船」にしても、「濃州関」等のこの時代の末古刀は、安定した斬れ味を保持していて安心して使用できる刀だと考えたい。
但し、「数打物」も含めて、相当数の研磨を経て、重ね、身幅が研ぎ減りにより極端に痩せた刀身の使用は危険性もあるので、用心するに越したことは無い。
最後に、個人的な印象を付け加えて終わりにしたい。長船と末関の「数打の末古刀」の両者で試し斬りしてみると、美術刀として世間一般の評価が低い末関の刀の方が、数打の備前刀よりも格段に斬れ味が優れていると感じる瞬間が多い!
どうも、ここら辺に、各地に普及した末関一派をベースに「新刀」が開花した背景が存在するように思えてならない。その点、古刀期の実用性を考える時、「美濃伝」とその背景の一つになった「大和伝」の重要性を忘れてはいけないと思う。
(参考資料)
1.入門日本刀図鑑 得能一男 (株)光芸出版 1989年
2.世界の刀剣歴史図鑑 ハービー・J・S・ウィザース
井上廣美 原書房 2015年