34.『実用刀』の視点から「江戸時代」の刀を考える
相当以前、四回目だったかに「武用刀の時代」をテーマにして、水戸刀や徳勝一門を中心にした江戸時代末期の日本刀の世界に少し触れたことがあった。
そういえば、その「武用刀」という用語にリンクする『実用刀』という単語が新々刀期に出現したことを思い出したので、少し、この言葉の周辺を調べてみたいと思っているので、お付き合い頂きたい。
『実用刀』という言葉の発端は、新々刀期の巨匠水心子正秀の著書、「刀剣実用論」から出たのかも知れない。
個人的には、新々刀期に武士や刀鍛冶によって真剣に日本刀の『実用性』が議論された結果、幕末の「武用刀」を生み出すことになった、母体となる言葉だったような気がしている。
明治の廃刀令後は、少し時代を飛んで昭和も戦前の軍国主義全盛の時代に「軍刀」に関連して、良く議論された用語の一つである印象が強い。
以前、昭和に入ってからの盧溝橋事件に続く上海事変や日中戦争での日本刀の実戦記録をまとめて出版した小泉久雄海軍大佐や成瀬関次氏の実戦での日本刀の「実用性」に関しては、数回に分けて述べさせて頂いた。
そこで、本稿では、時代を若干遡って、江戸時代約260年間の日本刀の実用性について、気になる点を振り返ってみたいと思っている。
(江戸時代前期の「新刀」の実用性を振り返る)
本格的な戦闘が終了した慶長以後の新刀初期の錚々たる刀工達の経歴を振り返ると、堀川國廣のように戦国末期から作刀を初めて桃山期を生きた刀鍛冶や越前康継や南紀重国のように徳川家康その他の戦国武将に仕えた気鋭の刀鍛冶が多い。
当然ながら新刀第一世代に属する刀工達の刀は、自身の作刀が戦闘で使われて、実戦での評価を聞くことが出来た可能性があるし、実際に戦場を駆け巡った家康のような武将達のめがねに叶った『実用刀』の作者でない限り、戦国大名に召し抱えられる可能性は少なかったと考えられる。
実際に「慶元新刀」と呼ばれる、この時代の刀を見ると南北朝期の大太刀を擦り上げたような、元身幅と先身幅の差が少なく、如何にも斬れそうな姿をしている刀が多い。
実際に新刀初期の刀(もちろん、傷身の二流品だが!)を使用してみても、斬れ味が優れている上、研ぎ減った古刀のように、刃筋を間違えても、そう簡単に曲がる危険性も少ない為、安心して遣える刀が多かった。
前にも、ご案内したように、古い時代の日本の美術品である新刀で試斬することをお勧めするつもりは全く無いが、大きな傷欠点を持つ、この時代の刀がもし手に入る機会があったら、ここ一番の時の試し斬り用として、手元に一口置きたいと密かに望んでいる。(笑い)
それでは、何時の頃から実用性を離れた外見を重視した刀が出現したのかを「大坂新刀」を例に考えてみたい。
大坂新刀と聞くと誰しもが最初に思い浮かべるのが、沸の働きの素晴らしい「井上真改」の刀や濤乱刃で有名な「越前守助廣」の名刀であろう。彼等以外にも大坂新刀には、初代和泉守國貞や拳型丁字で有名な中河内國助その他、多くの名工が揃っている。
しかし、不思議なことに大坂新刀の有名工の多くが、大坂でも二代目の刀工なのである。
越前守助廣の父は、「初代そぼろ助廣」であり、井上真改の父は、「初代和泉守國貞」であり、中河内國助の父は、「河内守國助初代」であり、「初代和泉守國貞」と「初代河内守國助」の二人は、堀川國廣の門人であることは良く知られている。
それでは、大坂新刀の名工の親子の作刀を実際に見てみると、何処がどの様に違うのか私見の範囲で申し訳無いが、比較して見た際の印象の概要を述べてみたい。
初代の刀は、何れの作刀を手に取ってみても、軽くバランスがとれていて手持ちが優れている刀が多い。特に、「そぼろ助廣」の刀は、小振りなものが多く片手抜打ちに最適の2尺前後から2尺1寸強(約61~65cm)の常寸からみると短めの刀が多かった。
ところが、二代目の刀の場合、一般論として、たっぷりとした造り込みで、長さも2尺3寸から4寸の常寸以上が多く、中には、注文打ちと思われる元幅1寸1分5厘(約35mm)で重ねも厚く、長さも2尺3寸5分(約71cm強)を超える重い豪刀に出会うことも多い。
全般的に、初代の刀が、丁字刃や互の目乱れの刃紋であっても、刃の焼き幅が、それ程広くは無く、直刃でも中直刃程度の尋常な焼き幅の実用刀が多く、堀川一門の初代和泉守國貞や河内守國助の刀にしても先身幅は尋常で姿も穏やかな作を多く拝見している。
一方、大坂新刀二代目の刀姿は尋常ながら、全体的に「刃紋」の華やかな焼き幅の広い刀が多く、刀身も健全で重ねも厚く、持った瞬間、初代よりも重く感じる刀が多い印象だった。特に、特別注文品と思われる刀身は、全体的にたっぷりしていて重量のある物が多く、非力な小生には、とても差料として使用することは難しそうな刀が多かったのである。
実際に、差料として、初代と二代では、どちらの刀を選ぶかと尋ねられたら、個人的には、残念ながら相対的に高額な二代の刀を抛棄して、迷うこと無く比較的安価な初代の刀を選びたいと感じている。(笑い)
それでは、実際に大坂新刀の初代と二代目の作刀で、どちらが斬れるか江戸時代の評価からピックアップしてみると次のようになる。
最上大業物 : そぼろ助廣
大 業 物 : 初代和泉守國貞、二代越前守助廣(角津田)
良 業 物 : 二代忠綱(一竿子)、二代越前守助廣(丸津田)
業 物 : 井上真改(二代)、初代河内守國助、二代河内守國助
このように、最上位の大業物に、「そぼろ助廣」、第二位の大業物には、「初代和泉守國貞」が居るのに対し、二代目の刀に対する斬れ味評価では、二代助廣の前期作の丸津田を除くと第三位の良業物や第四位の業物の評価が多い点に注意する必要がある。
しかし、ここで、最も『実用刀』の観点から留意して置きたいのが、二代目の津田越前守助廣の刀に対する厳正な評価であろう。父の初代そぼろ助廣は大坂新刀の中でも最上位の「最上大業物」の評価を得ているし、本人の作刀も若打ちの「角津田」が大業物の高い評価を得ているのに対し、大成期の人気の濤乱刃を焼いた刀に対しては、1ランク低い、「良業物」に評価を落としているところに、大平の世の刀の『実用刀』としての評価の一端を見るよう気がするが、如何であろうか!
刀匠の一代というと25年ないし30年前後と考えられるが、僅か、その程度の年代差で戦国期に準ずる実用刀から、大平の世の華美な濤乱刃や沸の華やかな魅せる刀へと大きく時代の要求内容が変わった明瞭な証拠であろう。
この傾向は、京鍛冶の刀も同様だったようで、伊賀の仇討ちで有名な荒木又右衛門の差料だった京の伊賀守金道(異説もある)の刀が相手の下僕の木刀を受けた際、途中で折れた話は有名だ。それでも、又右衛門は、差し添えの古刀、宇多國光2尺1寸余(約64cm)で戦って勝利している。
大坂新刀に比べると流石に、「江戸新刀」は、武家の総帥である徳川家の城下町だけに、大坂新刀の二代目と同年代の寛文頃になっても、武用を追求した長曽祢虎徹や斬れ味で有名な大和守安定等の武張った刀を打つ作者も多く、山野加右衛門尉永久等の「二つ胴」や「三つ胴」の試し銘の残る当時の刀も多い。
しかしながら、相対的に初期新刀は実戦での『実用性』を考えた場合、安心して使用できる刀が多いが、二代目、三代目の大模様の刃紋の刀を差料とするのは、遠慮した方が良さそうだ。
逆に、大坂の二流刀工の地味な刀や諸藩の抱え鍛冶の作でも、初代の作風を堅持している刀工の作刀は安心して使用できる印象である。
(「写し物」の流行と「刃味による業物評価」)
盛んだった新刀も延宝を過ぎる頃から退潮が始まり、江戸文化の花が開花した元禄時代や享保の頃には、一部の刀工を除いて衰退期に入った様子が顕著になり、注文も少なくなり刀工受難時代が始まる。
話は若干ずれて申し訳無いが、新刀後期から新々刀期に掛けて大流行した武具の一つに「復古調甲冑」がある。
これは、大平の世が続くにつれて実戦を離れた武士の間で、鎌倉期の「大鎧」や室町時代の「大袖付き腹巻」を懐かしむ風潮に迎合した「復古調甲冑」が大流行している。
特に、名だたる大名家や上級武士の間では、古い時代を再現した本毛引き威しの豪華な甲冑の製作自体が、その家の誇りともなっていった。
しかし、復古調甲冑の全てでは無いが、過去の実際の甲冑とは程遠い、胴丸に大鎧の栴檀・鳩尾板を付属させる等、古い時代の鎧を目標に作製した雰囲気は理解出来る物の、当世具足の様式が混入している甲冑など研究不足の鎧も復古調鎧の初期作には多く見られる。
同様の事が日本刀の世界でも起きていて、話題作りや販売優先を考えた「富士見西行」のような絵画的な刃紋を描くのに苦心したり、実戦にとても遣えないような、鎌倉時代の太刀の「一文字写し」や「来写し」等の細く華奢で深い反りの刀を鍛刀したりして、実用とは程遠い日本刀も現われている。
しかし、戦争が無い時代の甲冑と異なり、差料として日常的に使用する刀の古い古刀を写した華奢な刀は、予想以上に少ない。その分、吉原などへ行く折の佩刀としたのか、中味の割りには、外装の豪華な派手な物が多い。
そんな、泰平を謳歌する世相の中、武張った人気の一つに「据え物斬り」による刀の斬れ味の評価がある。実際に戦場で人を斬る機会が途絶した泰平の時代、自身の差料の斬れ味を知るには。この方法しか無かったといっても良い。
その結果、生まれたのが、皆さん良くご存知の「山田浅右衛門家」を初めとする「据え物斬り」による刃味を試す「試し剣術」の流行である。初代山田浅右衛門は宝永頃、二代浅右衛門は享保頃に活躍した人だが、この山田浅右衛門家の伝統は、江戸時代末期まで、連綿として続き、幕末期の武用刀の作者の中には、山田家に据え物斬りを依頼して、茎に、その結果を彫り込んで人気を博した「固山宗次」等の刀工も数多く存在する。
中でも、山田浅右衛門吉睦の著の「古今鍛冶備考」には、総計1,111名の刀工の刀の斬れ味を「最上大業物」、「大業物」、「良業物」、「業物」の四段階に分類して示している。
中でも、先に挙げたように大坂新刀二代目の津田越前守助廣の刀の斬れ味の分類で、前期作(角津田)、と後期作(丸津田)の斬れ味の相違を厳正に分けて記述してある点が極めて興味深い。同一作者の刀でも、製作の時期によって、素材が異なる場合もあったろうし、作刀方法が大きく転換したケースもあったと想像されるので、繊細な山田浅右衛門の観察眼に驚かされる。
同著の評価態度の厳正さから、今日でも日本刀の斬れ味評価では、「古今鍛冶備考」は最も信頼できる書籍では無いだろうか!
(「武家目利き」)
このような時代でも、実用刀を評価する人物が相当存在していたとの記録もある。その様な人材を「武家目利き」と呼んだ。
彼等は、実際に刀を使用しなくとも、刀の利鈍が見分けられる鑑定眼のある人物だったらしい。その中には、先に挙げた「古今鍛冶備考」の著者、山田浅右衛門吉睦も含まれている。幾らお試し御用の山田家当主でも、千名以上の多くの刀工の刀について、一刀匠当たり、十口の刀を試したとは、とても思えない。中には、二、三口しか試す機会に恵まれない刀もあった気がする。
そうなると長年の経験で、この刀工はこのレベルの斬れ味の作者では無いかと想定して記述した部分もあるのでは無いかと感じている。
それにしても、最上大業物13名、大業物84名、良業物210名、業物803名の選出は大変な作業だったに違いない。
その努力と大きな成果が日本刀史上で果たした功績は大きい。
そうなると諸藩から、試し斬りの技術習得の溜めに山田浅右衛門に入門して修行する武士も多かった。中には据え物斬りを行わないまでも、「観刀」によって刀の斬れ味を判定する行為を学ぶ為に、浅右衛門に厚誼を求める侍も多かったと想像出来る。
その様な「武家目利き」を従来からの刀剣の鑑賞上の位列鑑定を職責としていた本阿弥家の「刀剣目利き」と区別して、「武家目利き」と呼ぶようになり、やがて諸藩でも、その様な人材が重んじられるようになっていったと考えられる。
もし、今日、当時の「武家目利き」の方が生存していらっしゃれば、『実用刀』に関して多くの質問をしてみたいものだが、残念ながら実現する可能性は皆無なので、推測で申し訳無いが、一個人の意見も含めて、新々刀期の水心子正秀の活動を主とした日本刀の『実用論』に関して、整理して見たい。
(「水心子正秀」の登場と新々刀期の『実用刀論』)
泰平が200年近く続いた結果、停滞した刀剣界に登場したのが刀工でもあり学識もあった「水心子正秀」だった。
当時の美術的外観に主眼を置いた日本刀に警鐘を鳴らした水心子が著した「刀剣実用論」は、瞬く間に時人の人気を博して、多くの武士や刀工の賛同を得ることになる。
その中で、水心子は、華美な焼き幅の広い日本刀の想像以上の脆弱さを幾つもの実例を挙げて指摘しているが、水心子自身も若い頃に得意とした大坂新刀の名工津田越前守助廣写しの「濤乱刃」の大乱れの刃紋を中年以降は控えて、実戦向きの焼き幅の狭い備前伝等の実用向けの刀身の製作に切り替えている。
この水心子正秀の唱えた「刀剣実用論」については、百余名に及ぶ多くの水心子の門人達が師の教えに従っただけで無く、全国的にも多くの賛同者を得て、新々刀後期の大きな流れに発展している。
確かに、実戦を考えると日本刀は、
「折れず、曲がらず、良く斬れる刀こそ名刀である」
とは良く聞く言葉だが、実際に使用してみると初心者にとって日本刀は、実に良く曲がるし、水心子の指摘する「焼きの高い刃紋の刀は折れやすい」欠点を日本刀といえども持っていたのである。
幕末の諸藩の「刀試し」の記録からも試験する刀の斬れ味と同様に、刀身の曲がりにくさと折れ難さの3点を重点的に試している様子が覗える。それらを整理すると次のようになる。
・「五ヵ伝」の中では、鎬が高く、柾鍛えの大和伝の刀が最も丈夫で、
武用に適している。
・刀の形状は「鎬造り」のしっかりした物が良く、平造りあるいは、
平造りに近い形状の刀は好ましく無い。
・刃紋は、直刃か直刃に小乱れや小互の目が混じる程度の焼き幅
の狭い刃紋が好ましい。
・新刀期に大流行した「濤乱刃」等の大乱れの刃紋は、折れ易く、直
刃でも焼き幅の広い広直刃は好ましくない。
・刃紋の焼入で粗沸の付く刀は好ましく無く、僅かな小沸、あるいは、
匂い出来の刀身が好ましい。
・刃紋は明るい沸出来の物よりも、沈んだ匂い出来の方が、一般的
に良く斬れるとの意見が多い。
・鍛えは、板目に柾目が混じる程度の「本三枚」が良好である。
・茎の短い刀は、斬合い時に好ましく無い。
以上の項目をご覧になった方々は、何か拍子抜けした印象をお持ちになるケースも多いかも知れない。何故かといえば、以前に、「昭和刀」のところで述べた好ましい昭和刀に関する幾つかの項目と重なる内容が並んでいる為である。
これらの諸々の世相を背景として製作された江戸時代後期の刀が、「武用刀」であり、その中でも、尊皇攘夷を目的として、大きく上背のある異人を斬る為の長くて棒反りのがっちりした刀が「勤王刀」と呼ばれる幕末刀である。
この江戸時代後期の「武用刀」や「勤王刀」を拝見した際に、所有者の方にお断りした上で、軽く振ってみると、とても、現代人の我々には自在に使いこなす事が困難な手持ちの重い、重量のある刀が多い。
宮本武蔵の「五輪の書」にあるように、武蔵が理想とした、戦場で長時間、自由自在に振り舞わせる刀には、とても該当しそうに無い重い刀が、残念ながら幕末の武用刀や勤王刀に多いのである。
そのせいか、武用刀や勤王刀には、製作年代が新しい「新々刀」の割に当初の寸法から、2、3寸(6~9cm)擦り上げて、手持ちを改善したとみられる刀身を見かけることがある。
しかし、時代は「武用刀」の時代を通り越して新式銃の時代へと突入していったのである。戊辰戦争の頃の「ズボン差し」と呼ばれる刀をみると、2尺1寸前後の軽快な刀身が多くなっている。どうしても、ゲベール銃やミニエー銃を携帯、操作する関係で、武士と雖も短い刀身と軽快な外装の刀が好まれたと考えられる。
このように新々刀特有の形状を備えた幾つかの刀が登場して久々に活気を帯びた新々刀後期の刀剣界だったが、明治9(1876)年の太政官布告による廃刀令によって、日本刀の製作の衰退が始まり、刀工にとって長い暗鬱の時代に突入するのだった。
そして、日本刀にとって、最後の『実用刀』の時代が、先に挙げた小泉久雄海軍大佐の「日本刀の近代的研究」や成瀬関次氏の「実戦日本刀」が書かれた上海事変から日中戦争及び太平洋戦争の時代だったのである。そして、日本の全面降伏により『実用刀』の時代は、終了を迎えている。
しかし、戦後の「美術日本刀」の復活と居合道や抜刀道の人気もあって、近年、現代刀作家の中には試斬用の日本刀製作に情熱を傾ける方々も増えていると聞く。
誠に、喜ばしい限りである!




