32.「目釘穴」と「目釘」
日常の居合や抜刀の練習に当たって、柄からの目釘の抜け落ちに神経を使っている方は多いと思う。
しかし、その割に、使用している愛刀の目釘を抜いて柄、鎺を外して、頻繁に鎺下を含む刀身を手入れしている方は少ない気がする。増して、手入れの途中でしみじみと茎の目釘穴に見る方は少ないと思うので、今回は、通常余り気にしない日本刀の「目釘穴」と「目釘」について考えてみたい。
日本古代の刀剣が中国や朝鮮半島の強い影響下に発達したことは、奈良時代に於ける「唐大刀」や「高麗大刀」、そして、「唐様大刀」の表現からも推察される。
当時、唐製の大刀や朝鮮半島の高麗製の大刀の舶載品は、大刀の最上級品として大切に扱っていたようだし、唐や高麗の大刀の写し物も上級貴族達にそれなりの価値を持って扱われたと考えられる。
当時の名剣の茎はというと、今日まで伝存する古い時代の大阪四天王寺の「丙子椒林剣」や旧正倉院御物の「水龍剣」等の掛通し孔は茎尻にあって、真っ直ぐな刀身と共に茎の形状も今日の日本刀と大きく異なっていた。
しかし、平安時代後期に反りの有る日本刀が出現して以来、「毛抜形太刀」を別にして、日本刀の目釘穴は茎の区寄りに開けられるようになり、その基本は現代まで伝統として守られている。
また、古い時代の金属製の目貫と一体となっている目釘の材質や形状は別格として扱うことにして、日本刀が出現した比較的早い時代から一般に目釘として、「竹目釘」が用いられている可能性が高い気がする。もちろん、小型の剣や短刀で金属製の表裏から嵌め合う目釘が用いられる場合も往々にしてあるが、ここでは除外して話を進めたい。
それでは、最初に日本刀の茎に開けられている「目釘穴」の直径から始めよう。
(「目釘穴」の直径)
取り敢えず、手持ちの刀で恐縮だが、太刀と刀、脇差と短刀を時代別に十一口取り出して、長短二つの日本刀の目釘穴の直径を測ってみた。
古刀の場合、残念ながら若干磨上られてしまい目釘穴が複数開いている物もあるが、基本的には、「元穴」と考えられる穴の形状を測定した。
残念ながら試料数が少ない上、手近な刀で間に合わせたので、日本刀の平均値には程遠い数値ながら、参考値とご理解頂いて許容頂ければ有り難い。
太 刀 (備前、鎌倉時代末期) 6.8mm
古 刀 (末関、永正) 6.5mm
新 刀 (伯耆守汎隆) 7.3mm
新々刀 (薩摩刀) 6.7mm
現代刀 (昭和58年紀) 6.8mm
古刀短刀 (山城、南北朝) 7.4mm
古刀脇差 (伯耆、室町初期) 6.5mm
末古刀脇差 (備後、明応) 5.4mm
末古刀短刀 (長船祐定、天正) 5.8mm
新刀脇差 (山城、延宝) 6.5mm
新々刀短刀 (豊後、寛政) 5.0mm
刀の場合、明暦頃の伯耆守汎隆が7.3mmと大きめだったが、その他の目釘穴の直径は各時代共通の6.5mm~6.8mmで、ほぼ均一化していた。
計測した試料数がもう少し多くないと結論は出しにくいが、今まで拝見した多くの刀の茎穴も大体目測ながらこの位で、7.0mm以内が多かったように感じる。
意外だったのが、実用刀として時代的に真っ盛りの末関の刀の目釘穴が、計測した五口の中で最も直径が小さかった点である。この関の刀は、「良業物」に指定されている刀工の作で如何にも二つ胴位は裁断しそうながっしりとした刀身ながら、一番細い6.5mmの目釘穴だった。
逆に考えると戦国時代の刀工達も、これを使用する戦国武将も目釘穴の寸法は、実用的にこの程度が好ましい寸法と考えていたのかも知れない。(笑い)
また、最も大きな目釘穴の刀が新刀期の伯耆守汎隆の刀だった点も意外だったが、そういえば、鑑定の基礎段階で同じ新刀の南紀重国の目釘穴は大きいと教えを受けた記憶があるので、妙に納得してしまった。
南紀の刀は実際に茎を拝見しても、7.0mmを超えそうな、やや大きめの目釘穴に感じた。次回機会があれば、所蔵者の方にお断りして計測させて頂きたいと思っている。
さて、刀と違って短い短刀や脇差の方は、上記の様に予想以上に目釘穴の直径にバラツキが大きかった。戦国時代の明応年紀の脇差や天正年紀の祐定の短刀の目釘穴が意外に細い6.0mm以下だったのも驚いたし、中古刀の短刀の目釘穴の大きさの7.4mmにしても、普段大して意識していなかったが、裸の茎を並べてみて初めてその大きさに気付く迂闊さだった。(笑い)
やはり、平均的には太刀や大刀よりも刀身が短い分、若干、細い目釘穴が開けられている印象だった。
中でも、新々刀の寛政年紀短刀の目釘穴の5.0mmは時代の違う短刀を数口並べてみても異様に細い印象が強かった。関ヶ原が終って泰平が二百年近く続いた世相を如実に示しているように感じられて、まるで新々刀期の槍の目釘穴を見ているような感じを持ってしまった。
しかし、そうとばかり言えないのは、何年も前に戦国期の島田の短刀を拝見した際に採って置いた押し型を再確認して見たところ、目釘穴の直径は押し型なので断定は難しいが、5.1mmと新々刀のこの短刀と同様の細い目釘穴だった。どうも、古い時代から、短刀では細い目釘穴もあったようである。
(日本刀の拵と「目釘穴」の位置)
こうして見ると鎌倉時代から江戸時代末期までの日本刀の目釘穴の大きさはそれ程大きく変化せずに来ている印象が強い。拵えによる目釘穴の位置の多少の変化はあったものの、目釘穴の直径は平安から鎌倉時代に既に一定化していたと考えられる。
鎌倉時代前期に実戦で用いられた来歴のある国宝の「狐ヶ崎為次」の太刀をガラス戸越しに拝見しても、二つ開いている目釘穴も後の時代の太刀の目釘穴と比較して極端に大きく開けられているようにも見えないので、茎反りの形状は別にして鎌倉時代には目釘穴の定常化が進んだものと思われる。
太刀拵と後世の打刀拵の目釘穴の違いは、良く指摘されるように刃区、棟区から下に指約4本下がった位置に目釘穴が開けているのが太刀で、指3本の位置にあるのが打刀であると聞いている。その差異の原因は、太刀拵の鍔、切羽と打刀拵の鍔、切羽の構成の違いによるもので、詳細は別の機会に譲りたい。
一般的な日本刀の拵と呼ばれる「打刀拵」の完成期は戦国時代から桃山時代であろうか。日本刀の歴史の中でも戦場での過激な使用と使用後の手入れが最も頻繁に繰り返されたのが、この時代だったと考えられる。
その点、竹の目釘一本で刀身を簡単に柄から外すことが出来、手入れ後の装着も容易な日本刀の拵は武士にとって実戦場での、「機能性から見て」も好ましいものだったと考えたい。
桃山時代に天下人豊臣秀吉や徳川家康の下に参集した全国の大名達や麾下の重臣達は、多くの優れた刀や拵を相互に実見、理解する機会に恵まれたと考えられる。更に、徳川幕府による武家社会の統一は日本刀の拵の均質化を促進させたと理解したい。
この時代、戦国期に使用された古い時代の長い太刀や豪刀が多く磨上られている。世に言う「天正磨上」や「慶長磨上」である。これらの戦国末期から江戸初期に掛かる磨上の茎の目釘穴の位置も一定化している。
たまに短刀や小脇差で、鍔を用いない合口拵の外装が付属していたと思われる刀身の目釘穴が、区から指二本の位置に開けられているケースもあるにはある。また、逆に、新々刀の幕末の拵が付属する短刀で目釘穴が茎尻近くに開いている品を見て驚いた記憶もある。どうも、何物にも通常とは異なる例外はあるようだ!
(「目釘」)
「目釘竹」と聞くと真っ先に思い出すのが、京の「石清水八幡宮」の目釘竹であろうか。
先輩に聞いた記憶では、八幡宮の「神符」と共に江戸時代は「目釘竹」を将軍家に献上していたようだし、授与品として参拝の武士達にも「目釘竹」を授けていたとの由、もちろん、授かった侍達も珍重して使ったし、参拝した武士から贈答品として国元の武士へ贈られる場合もあったようだ。
石清水八幡宮だけで無く、武勇祈願で霊験のある神社では、「目釘竹」を授与する神社も多存在したと伝えられている。中でも、武士の多い江戸では目釘竹を授与する神社が相当あったと想像されるので、ご存じの方がいらっしゃったらご教示頂きたい。
目釘竹に使用する適材は、真竹の三年物で、冬至の頃に伐採して三年間良く乾燥させてから用いるのが良いと伝えられているが、心得ある武士は椿油などの植物性油を染み込ませて丈夫にしてから差料の柄に入れていたとも聞いている。また、目釘竹の手入れに使用する油は空気中で固まらない「不乾性油」が良いとされる。不乾性油の代表例としては、椿油や菜種油、オリーブ油があるが、武具の世界では椿油が好まれて使用された。
江戸時代の伝説の一つとして、侍の中には懇意な豆腐屋に頼み込んで、油揚を挙げる油鍋の上の空間に竹を2~3年釣り下げておいてもらい、十分油が浸透した竹を大事に目釘に加工した逸話をお聞きしたこともある。
その他の目釘竹に用いて好ましい例として記憶にあるのが、百年以上経った藁葺き屋根の囲炉裏の上部に位置する藁屋根を支えていた竹組の中で、良く囲炉裏の煤が当たった処の真竹の黒く変色した部分を使用すると丈夫でもあり、長持ちするとの説がある。
その話を聞いた直後に偶然入手出来たのが、幕末に建築された百数十年前の農家を解体した折りに出てきた表面が真っ黒に変色した真竹だった。
友人が持ってきてくれた真っ黒く変色した竹を目釘に加工するために小刀で削ってみると、信じられないかも知れないが堅い中にも弾力が十分に残っていて驚いた記憶がある。それ以来、10年以上、愛刀の目釘竹として使用している。
それでも、まだ、長さが30cm程残っているので、友人から要望があれば少しずつ差し上げて喜ばれている。




