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31.写真から見た「幕末日本刀の風俗」

先日、『オックスフォード大学所蔵 幕末明治の日本』と題する写真集を見ながら楽しい時間を過させて貰ったので、同書を種に少しばかり、幕末の武士の風俗と差料に関連する習慣について勉強してみたいと思っている。

同書の著者は、フィリップ・グローヴァー氏、編者は三井圭司氏である。著者は英国オックスフォード大学内にあるピット・リヴァース博物館の写真部門の学芸員で、同書には、徳川幕府が派遣した「第一回遣欧使節団」を始めとする幕末から明治初期の武士達の多くの写真が掲載されていて、我国の資料として貴重なだけで無く、当時、「極東」と呼ばれた日本に対するヨーロッパ諸国の印象や外交感覚が覗える資料としても貴重な気がする。

加えて、同書の場合、記録写真で重要性な登場する人物の氏名、役職、それに付随する撮影場所や写真家名、撮影期日、写真購入のルート等の詳細が記載されている点でも興味を惹かれた。それは、これまで多くの幕末明治初期の写真を多くの本で見てきたが、写真の説明が物足りないケースが多かったので、余計興味を惹かれたのかも知れない。

それでは、幕末史、特に武家の衣裳に詳しいご専門の方々から見ると、少々とんちんかんな内容になるかも知れないが、同書及びその他の幕末の写真が載っている幾つかの本を参考にして、「幕末の日本刀を中心とする風俗と拵」について観察を始めようと思う。


(幕府「遣欧使節団」の佩刀から武士の覚悟を考える)

「第一回遣欧使節団」の出発が日本の文久元年12月22日(西暦1862年1月21日)、帰国が、翌年の文久2年12月11日(西暦1863年1月30日)であった。この写真集には、同使節団及び文久3年に出発した「第二回遣欧使節団」のメンバーの写真も多く記載されているので、当時の武士の考え方と装束、佩刀が良く解る貴重な資料になっている。

「第一回遣欧使節団」の正使竹内下野守保徳、副使松平石見守康直、目付京極能登守高朗、組頭の柴田剛中の四人がパリで並んで撮った集合写真があるが、四人共、紋付に袴姿で、松平石見守の佩刀は太刀拵のようだ。残り三人の佩刀はというと通常の打刀拵に下げ緒を今日見るような「下貝の口」に結んでいる。

この副使の松平石見守康直と目付の京極能登守高朗が香港で撮った写真を見ても康直の大刀は太刀拵だし、小刀の方も殿中差の拵では無く半太刀拵を差している様子が分かる。

また、「第二回遣欧使節団」の正使池田筑後守長発のパリで撮った裃姿の写真や紋付に袴姿の映像を見ても、石見守と同様に大刀では無く太刀拵を大刀のように差しているし、脇差も康直同様半太刀拵の小刀を帯びている。

この他、「第二回遣欧使節団」に同行した外交官の田中廉太郎や蘭語翻訳方の西吉十郎、副使河津伊豆守祐邦の従者大関半之助の差料も通常の大刀拵では無く、太刀拵である点は、明瞭な映像から確認出来る。

この他、この二回の遣欧使節団の一員では無いが、当時、オランダに駐留していた日本艦隊首脳部の一員内田恒次郞の佩刀も太刀拵だったことが、2枚の写真から確認出来る。


戦国時代が終って江戸時代になっても上級武士の戦陣の正式の佩刀は太刀拵が多かったようだ。諸藩の上士階級の家々には、いざとなった折の佩刀として、戦陣用の太刀と裃殿中差用の黒呂色鞘の大小が備えられていた。

東北の中級大名の家の上士の家の言い伝えだが、武士階級が没落した明治以降でも、最後まで、戦陣用の太刀一腰と式正の大刀は手放してはいけないと硬く家訓として守られてきた話を聞いた記憶がある。昭和、それも戦後になって、その家がいよいよ苦しくなった時代でも、戦陣用の太刀は残して、打刀拵の大刀を泣く泣く手放したと聞いている。

このように、江戸時代の上級武士にとって正式の佩刀は太刀拵だったことが良く理解できる。その一方で、正副両使の全員の佩刀が太刀拵では無く、中には殿中差と推測される大小持参の武士も多く、諸事徳川幕府の威令が緩んできた幕末という時代を感じさせる。

戦国期の上級武将達が決戦の戦場で佩刀として太刀拵を帯びていた伝統が、完全では無いが守られてきた様子が、これらの写真から実感される。


この映像に残っている第一回、第二回の遣欧使節団は幕府が安政5年に西欧各国と結んだ「修好通商条約」の大幅な改正と延期の達成困難ともいえる使命を託されての遣欧だった。

遣欧使節団に任命されて、初めて西欧に渡ることになった正使、副使を始めとする武士達は、武士が戦陣に望む覚悟で出発したし、各自、最上級の礼式衣裳と佩刀を持参したことであろうことは想像に難くない。

その様子は、1864年パリで撮影された「第二回遣欧使節団」の幾つかの映像からも感じられる。一行の重要な行事の一つ大ナポレオンの甥、フランス皇帝ナポレオン三世に謁見の際、副使の河津伊豆守祐邦は日本から持参した甲冑を着用、太刀を佩き母衣姿で采配を手に皇帝の前に進んでいる。その他、第二回の遣欧使節に同行した田中廉太郎や西吉十郎のナポレオン三世に謁見時の衣裳が、平士の儀礼上の正装である「素襖すおう」に太刀拵であったと推定される点からも当時の武士達の覚悟の程は確認出来よう。

当時、最も西欧文明が進んでいたフランス帝国の皇帝ナポレオン三世との謁見時に、極東の小国日本国の使臣が、中世室町期の武士の正装である「素襖」で参上し、副使が300年近く前の戦国期の甲冑姿を披露した点に関して、「皇帝は大いに満足した」と伝えられている。これは、ナポレオン三世の大人の対応と受け取るべきかも知れないが、同時に日本使節の珍しい衣裳と礼儀正しさについては、多くのヨーロッパ人に関心と共に好感を持たれたようだ。

これら二回の遣欧使節団がパリやロンドンで撮った鮮明な写真によって、江戸時代末期の上層武士層の意識や衣裳、帯刀に対する考え方を鮮明に窺えることは嬉しい限りである。

甲冑姿で謁見に臨んだ河津祐邦の表情は、多分、皇帝との謁見が無事終了した後の撮影らしく、対面時の感動の余韻が感じられる当時としては珍しくにこやかに微笑んでいる。

田中光儀の方の写真は、当時の武士らしく謹直に正面を見据えていて、両者共に好ましい印象を見る人に与える。


(遣欧使節団の服装と大小)

太刀以外の刀の拵はと見ると、やはり、呂色鞘と思われる「大小拵」が圧倒的に多い。それも、柄を見ると縁、頭が揃い金具の略式の大小拵が大半のようであり、幕末という時代を物語っている感じがする。

大小拵以外では、半太刀拵と拵の全体が写っている映像が余り見当たらなかったので断定は出来ないが「突平拵」風の柄が多く写っている。これらの写真からは新しい時代を迎える武士達の進取の意識が感じ取れるように感じた。

一方、半太刀拵は戦国時代から遠くない江戸時代初期には良く使われていた様子が、屏風絵等からも理解されるが、旧幕時代、武士の野歩きに善く用いられたと聞く。

服装は紋付袴姿や羽織袴姿が多いが、佩刀の種類は多彩で文化文政期を経過した後の江戸後期の文化の豊かさの一端を覗けるような楽しさである。


その他で気になる点は、予想以上に小脇差や短刀を差した写真が多く、長い脇差を帯びている武士は、この写真集では殆ど少なかった。中でも第二回に参加した武士の一人、田中太一の短刀は、柄の様子から幕末に流行した刀身が8寸5分(約26cm)に満たない、極短い刀身が収まっていることを感じさせる拵だった。

中には同じ第二回の若い乙骨亘のように、紋付羽織袴では無く、シャツに蝶ネクタイを締めた上に着物を着て袴を佩いた士も居て、新しい西欧の風を吸収しようと懸命だった一行の一端が理解できる気がする。彼の場合、大刀は手に握っているが、腰に差している物は短刀では無く、若しかしたら扇子かと思われるが、ハッキリしない。

それから、写真に写っている武士達の大小の差し方だが、存外、皆さん自由に帯刀されているようだ。写真に写される関係で威儀を正し、緊張の面持ちで写っている侍も多いが、ヨーロッパ滞在も長くなり、リラックスしないまでも、日本で生活している時と同様の普段の帯刀状態と変わらない差し方に見受けられる映像も多い。

まず、脇差が身体の右半分に寄り、中には右側の体側よりも脇差の柄頭がはみ出している侍もいる。やはり、帯刀姿で最も美しいのは脇差の鍔が身体の中心に来て、柄の頭が身体の中に綺麗に収まっている状態なのが好ましい。

大刀を差した場合も同様で、大刀の柄頭が袴の正面に位置する状態が美しく見える。大小の関係では、大刀の鍔が、脇差の鍔に比べて若干、身体の前方に位置する様子がバランスとしては良いように感じる。

写っている侍の帯刀姿の多くは、好印象を覚える映像が大半を占めているが、大身の武士などの中には、帯と刀の栗型の距離が離れ過ぎているように感じる写真もあった。特に、それは、脇差に多く、敵に我が刀を抜き取ってくれと言わんばかりの平和な差し方だった。多分、想像だが、江戸初期の戦国時代生き残りの古武士が見たら怒り出しそうなだらしない帯刀姿だったと思っている。

大刀を差す角度としては、大身の武士が多かったせいか、平均的な「鶺鴒差し」が殆どだったが、中には、少数だが落とし差しに近い角度の差し方の武士が居なかった訳では無い。


その他、この写真集には、幕府の翻訳方として随行した有名な福沢諭吉を始めとする諸士の鮮明な映像が残されていて興味深い幾つもの点が観察出来る。

 福沢諭吉の写真では短刀しか見えず、他の遣欧使節団の侍達が、必ず大小を携えて撮影に臨んだのに対して、咸臨丸で一度渡米経験のある福沢諭吉の西洋事情に詳しい余裕のようなものが感じられる。特に、オランダで撮った福沢の写真は、テーブルに前屈みで肘を突いたリラックスした姿でマットレス上の足下も足袋である

福沢が万延元年の遣米使節団の木村摂津守の従者として参加した際、アメリカのサンフランシスコの写真館で同館のお嬢さんと一緒に撮った写真も良く知られているが、この写真の福沢も着流しで脇差も帯びていない庶民的な姿で映っている。

この折り、茶目っ気のある福沢は、帰国途上、ハワイを過ぎてから咸臨丸上で、同行の諸士に米国女性と一緒に写った写真を披露してうらやましがられた履歴がある。

この時のヨーロッパ各地での撮影でも、諭吉一人は、何処か同行の武士達の威儀を正した映像とは、一頭地抜き出た近代感覚を感じさせる写真を多く残している。


(幕末の武士達の佩刀の「下げ緒」を再考する)

次に、大小拵や半太刀拵の大刀の下げ緒の様子がハッキリと分かる写真が多い点に着目して観察してみることにした。

中でも、最も鮮明に残っているのが、高松彦三郎がパリで文久2年に撮影した写真で、出鮫の短刀を腰に差して、木瓜鍔の大刀を左手に持った姿で写っている写真の刀の下げ緒は綺麗な「下貝の口」になっている。

また、これは有名すぎる写真だが、徳川慶喜が椅子に座った姿で映っている後ろに、刀掛けに掛けた慶喜の佩刀が見えるが、この佩刀の下げ緒も「下貝の口」になっているので、当時の武士の常識として、正式の場合の下げ緒は、「下貝の口」に結ぶのが一般的だったことが理解できる。


さて鮮明な映像が多く残っている刀の「下げ緒」だが、下げ緒の結び方に関しては以前、少し触れたことがあったことをご記憶の方も多いかも知れないが、その折に下げ緒に関して述べたことを再度、確認も含めて挙げてみたい。

幕末維新期の当時の武士達の「下げ緒」の処理方法は、残っている映像から、概略、四つに分けられる。


(一)式正の「下貝の口に」結ぶ

(二)刀箪笥等にしまう状態に多い鞘に「巻結び」のまま腰に差す

(三)栗型からそのまま下げ緒を二つ折りにして「結び下げる」

(四)下げ緒をそのまま「鞘に掛け流す」


残っている映像的には、(一)~(三)が多く、(四)はどちらかというと伝承が多かったが、(四)の下げ緒をそのまま「鞘に掛け流す」と思われる映像も今回の写真集の中に有り難いことに収録されていた。

それは、石黒寬、二杉新助、重兵衛の三人がロンドンでの写真に写っていた。石黒寬の大刀の下げ緒は不鮮明だが、重兵衛の大刀の下げ緒は、鞘に結ぶことも無く栗型からそのまま長く下がっているので、大刀を差した折には、下げ緒を結ぶこと無く、鞘に掛けて後ろにそのまま垂らしていた可能性が高いと推測される。二杉新助の場合、単独でオランダで撮った写真が残っているが、大刀の下げ緒は、上に上げた(三)の栗型からそのまま下げ緒を二つ折りにして「結び下げる」方式である。

加えて、これは、明確では無いので断言出来ないが、太田源三郎がロンドンで撮った大小を差した状態の写真では、羽織の裾から下げ緒が覗いているので、これも、(四)の下げ緒をそのまま「鞘に掛け流す」方式であることが推測出来る。同様に淵邊徳蔵がオランダで写した際の半太刀拵の大刀の下げ緒も鞘に結ばずにいるので、これも帯刀の際は、鞘に掛け流して居たのではないかと思われる。

これらのことから、やはり以前述べたように幕末期の武士の大刀の下げ緒の処理方法は、四つのやり方があったようで、随時、個々人の好みで通常は対応していたと思われる。但し、正式の結び方としては、将軍家や高級旗本の佩刀を見ても(一)の式正のやり方の「下貝の口」に結ぶのが侍の常識だったと推定される。


我々が古老の諸先輩からお聞きしている「刀の下げ緒の結び方」に関しては、諸藩毎に厳しい規定も多く、使っている下げ緒の材質や色も藩によっては、上士と徒士、足軽で厳然たる差別があったと伝聞している。

しかし、今回の写真集その他で拝見した武士達の「下げ緒」に関しては、上に述べた4種類に分類できた。

これは、第一回、第二回の遣欧使節団の正副使はもちろんのこと使節団員の殆どが旗本であり、江戸風の洗練された刀の拵を帯び、下げ緒も江戸前風の扱いが基本として身についていた集団だった為と推測される。旗本も含めて、江戸在府の諸藩の侍達の共通概念として、衣裳や大小拵、下げ緒の結び方等に、国元とは異なる江戸風の共通概念が幕末には既に出来上っていたと考えたい。因みに、短刀及び脇差の下げ緒の先端は、皆さん一様に「茗荷結び」にしていた。

余談だが、中世的な封建国家の日本が、明治維新によって瞬時に近代国家に変身できた一端に、「参勤交代」による江戸での諸藩の交流と経済都市「大坂」での経済活動による共通認識が大いに基盤となった点を見逃してはいけないように感じている。


但し、何事にも例外はあるようで、第二回遣欧使節の目付に任命された河田相模守の従者として参加した高木留三郎がパリで撮った2枚の映像を見ると、その他の武士達とは違う、極めて興味深い差異が観察されたので、ご報告したい。

高木の大刀の下げ緒は式正の「下貝の口」に結んであるものの、今日の結び方と大きく異なり、下げ緒の端が鍔を向くようになっているのである。

通常、「下貝の口」に下げ緒を結ぶ場合、輪が鯉口方向に、下げ緒の端が鞘尻に向くように結ばれている。その方が、帯刀した場合も刀掛けに掛けた際も綺麗に整って見えるからである。

そこで、もう一度、他の幕末写真を見直して見ると、「下貝の口」の結び方の多くが現代と同じ、輪が鯉口の方を向き、下げ緒の端は鞘尻方向を向いていて、高木氏のような結び方は他に発見できなかった。

「下貝の口」を確認出来た幕末の武士の帯刀の映像の数が、そう多くないので以下は推論にしか過ぎないが、お聞き頂きたい。

一般の武士と違う結び方をした高木留三郎の「下貝の口」の場合、下げ緒の端が柄方向を向いている為、咄嗟の場合、左右どちらかの手で、鞘の下げ緒を右手、あるいは左手で瞬時に引き抜いたり、下げ緒と一緒に鞘ごと大刀を腰から引き抜くことが出来る利点があったのでは無かったかと思っている。

一般に「下貝の口」に結んだ下げ緒の端が、鞘尻方向を向いている場合、鞘の下げ緒を解く際、左手で下げ緒の端を握って後ろに引くことになる。そうなると、下げ緒の端を握った左手は鯉口から離れてしまい、即座に抜刀出来ない無防備な状態に置かれ、万が一、斬り込んでくる咄嗟の敵への対応も一呼吸遅れることになる。

その点、高木氏のように下げ緒の先端が鯉口方向を向いていると左手は鯉口に掛けて、何時でも抜刀出来る姿勢を保ちながら右手でゆっくりと下げ緒を前に抜き取ることも可能な訳である。

若しかしたら、何処かの剣術の流派内の心得かも知れないが、現状では残念ながら詳細は不明である。


その他、(三)の下げ緒をそのまま栗型から二つ折りにして「結び下げる」映像も多くの写真の中に含まれていた。それは、当時、常寸五尺少しだった下げ緒を二つ折りにして、短く束ねて、栗型から直接ぶら下げる「束ね下げ」とでも呼ぶ方法であった。

確か、以前調べた記憶では、宮本武蔵が好んで用いた方法と読んだ記憶がある。この手法は意外に多く、見た写真の範囲内で、約三分の一近い数にのぼった。

という事は、当時の日本の武士世界では、一般的な下げ緒処理方法だったのでは無いかと強く思った次第である。

何故かと言うと、風雲急を告げる幕末、道路上や城中での突然の敵襲ヘの対処を考える時、下げ緒は邪魔以外の何者でも無かった気がするのである。その点、栗型から下がった下げ緒は、緊急時の動作の邪魔にならず、様々の方向に対する抜打ち動作にも支障を生じない理想的な状態を保持できるからである。

明治~昭和初期の居合各流派の写真を拝見しても、殆どの流派の練習で、「下げ緒」無しで、修練を重ねている様子が多い。

突然の襲撃時に、現代居合のように「下げ緒」を袴の紐にゆっくりと結んで悠然と鯉口をくつろげる余裕は無かったはずである。増して、「下貝の口」や大名結びで栗型に結ばれた下げ緒ほど抜刀時に左手の邪魔になるやりにくい状態の下げ緒は無い。

その点、栗型から自然に下げた状態の下げ緒や鞘に掛け流している下げ緒は殆ど抜刀の邪魔にならないことは、実際にやってみると得心が行くと思う。


『オックスフォード大学所蔵 幕末明治の日本』と題する写真集を中心に同時代の写真集から得られた幕末の刀剣に関係する風俗、習慣は極めて多かった。

大刀の下げ緒の結び方に関して、従来感じていた四つの方法が併用されていた点が、ハッキリとした印象だったし、やはり、「下貝の口」が武士の佩刀の礼装時の代表的な下げ緒の結び方だった点も確認出来た気がしている。唯、今日の刀屋さんで良く見る「左右分かれ結び」は、残っている幕末の映像からは確認出来なかった。やはり、武士の下げ緒は緊急時、瞬時に解けなければならなかった為に、解きにくい結び方を江戸時代の武士はしなかったようにも思える。

最後に著者フィリップ・グローヴァー氏と編者三井圭司氏に大変失礼ながら、一言付言させて頂いて終わりにしたい。どうも、一般の人や外国人は武士の世界の太刀と大刀に関して、同一の物と見ている印象がある。

同書でも写真に太刀が写っている際も全て大刀と解説していて、刀好きな日本人の一庶民として物足りなさを感じた。


(参考資料)

1.外人カメラマンの見た幕末日本Ⅰ  小沢健志監修  山川出版  2014年


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