3.新撰組は新刀が主力だった
幕末は、僅か百数十年前の現代に最も隣接する武士の時代なのに、意外に刀による近接戦闘の具体的な記録や現物が少ない時代に感じる。
その中にあって、比較不明瞭ながらも、新撰組に関してはファンや研究者も多く、相当数の新撰組隊士が使用した刀の作者も記録されているし、副長の土方歳三の所持刀のように子孫に当たる多摩の土方歳三記念館に残っている現物も存在する。
残念ながら新撰組局長近藤勇の虎徹の真偽は未だにようとして分からないが、近藤が会津公から拝領した三善長道の刀を所持していた事や故郷多摩に帰郷の際に手土産として会津の大和守秀国の刀三振を持参したこと等も解ってきている。
新撰組と言えば、壬生の前川邸の長屋門や八木邸の芹沢鴨暗殺の間を尋ねたことを思い出す。相当前の話だが、芹沢鴨が梅と共に暗殺された部屋からは、幕末当時、二条城の白い塀と櫓が、壬生菜の畑の向こうに良く見えたと案内の方から聞いた記憶がある。当時の壬生は、それほど人家の少ない田舎だった。
また、今回のテーマとは関係がないが、八木家の敷居の刀傷と家紋(三つ盛木瓜)を見ながら、案内の方に変な質問をした記憶も残っている。
「八木家は朝倉、浅井両家と何か関係があるのですか?」
と、それは、八木家の家紋が、朝倉家の、『三つ盛木瓜』だったからであった。驚いたことにその答えは、
「朝倉家が信長に滅ぼされた時に、八木家の先祖は越前から京の北の大原の方に落ち延びてきて、八木と家名を変え、少し時代が立って、徳川家支配が始まった頃に、もう大丈夫だろうとこの壬生の地に土着して郷士になったのです」
であった。
戦国時代の八木家は、堂々たる上級武士だったのである。京都の町は奥が深く、戦国の戦乱に敗れた諸家の子孫の方々が郷士や有力な町人として、江戸時代を過している場合が結構多い。ちなみに浅井家の家紋は朝倉家の三つ盛木瓜に良く似た『三つ盛亀甲』である。
これも、テーマとは全く関係が無いが、三つ盛亀甲の銀の家紋の付いた軍刀を持っていたことがある。中身は、無銘ながら、出来の良い末備前が入っていた。そして、斬れ味も直径4cm程の木の枝を音もなく切断する冴えた物だった。
今回は、新撰組が、幕末の斬撃戦に使用した刀を中心に、斬り合いによる刀の損傷状況も含めて、残っている記録を辿りながら勉強してみたいと思っている。
■新撰組隊士の刀
幕末最強の武闘集団新撰組の刀を調べてみれば、実際に近接戦闘に使用した刀の実態が解るかと、何冊かの本で調べてみた。
第一に挙げなければいけない刀が、新撰組局長近藤勇の差料で池田屋事件の際、大活躍した虎徹であろう。近藤自身、事件後の故郷多摩への手紙の中で触れているように、正真の虎徹と信じていたようだが、現代では、真っ赤な偽物説が主流になっている。
最も、当時から、この虎徹の真贋については多くの議論があり、中には、まるで現物の近藤虎徹をを見てきたような話まである。
「刀身は、幕末の名工源清麿の作で、虎徹の銘は偽銘切りで名高い『鍛冶平』こと細田直光が切った刀だった」
という、もし、清麿作ならば、実兄の真雄の刀と共に実戦を目指して作刀しているので、きっと、剛強な近藤が手紙で満足感を述べているような強靱で優秀な斬れ味を示した可能性は高い。しかし、残念ながら、未だに近藤が池田屋事件で使用した虎徹の真偽は不明である。
それからもう一つ、近藤が大坂の鴻池家から謝礼に貰った本物の虎徹があったが、近代の災害で、誠に残念ながら焼身になってしまったと聞く。虎徹の他にも、新撰組局長として後半、近藤は相当数の所蔵刀が有ったと思われるが、判明しているのは会津公から拝領した陸奥大掾長道と播州藤原宗貞位であろうか。長道は会津虎徹とも呼ばれる高名な鍛冶であり、宗貞は大坂の助広門下の延宝頃の刀工である。
副長の土方歳三のケースでは、幸いなことに、会津公から拝領した会津兼定の刀や親しい間柄だった佐藤彦五郎へ贈った越前康継の刀が痛みの少ない外装も含めて残っている。
しかし、土方の方も池田屋事件当時の差料の会津十一代兼定二尺八寸や脇差の堀川国広一尺九寸六分の噂は近年、聞こえてこないので、度重なる戦闘で消耗してしまったのかも知れない。
これから見ると土方は当時の現代刀である新々刀の会津兼定の愛好者で、初期の戦闘で活躍した二尺八寸の長い兼定を損耗した後も、信頼できる会津兼定二尺三寸一分の十二代兼定を差料と愛用し続けたと考えられる。
天然理心流一門の中で、最も天性に恵まれていたと評判の高い沖田総司は加州新刀の長兵衛清光を愛用していた。突き技を得意としていた総司としては、古刀に比較して反りの浅い新刀清光は使い心地の好い刀だったのであろう。
総司に関しては、『菊一文字則宗』の伝説が付きまとっているが、これは、全くの虚説のように感じる。白河藩士の師弟、それも下級武士の子としては、加州清光程度が妥当な差料であろう。
強いて、拡大解釈をすれば、京都での活躍によって、一番隊隊長の業績評価も上がって、収入も多くなった時点で、新刀で中心に菊と一文字の彫刻のある刀、例えば、『二代山城守国清』の刀を求めて、大切にしていた可能性はある。二代国清ならば、時代が寛文で寛文新刀と呼ばれる反りの浅い刀を多く造っているので、突きを得意とした総司の愛刀としても矛盾の無い刀に感じられるし、俗に菊一とも呼ばれているので、如何であろうか?
剣客揃いの新撰組の中でも、猛者で聞こえた永倉新八と斉藤一は命冥加にも維新後も長生きして、天寿を全うしている。刀は新八が手柄山氏繁、一が池田鬼神丸国重と伝えられていて、両者ともに関西の刀であった。水心子正秀が『刀剣武用論』の中で新刀の大出来は折れ易いと警告しているが、氏繁も国重も余り大暴れしている刃紋ではなかったのかも知れない。
池田屋の近接戦では、新八の氏繁の帽子は折れ飛んでいるし、一の国重は小さな刃こぼれが無数に生じている。永倉新八は自身の『新撰組顛末記』の中で、実際の斬り合いにおいて、横面狙いを実戦では最も多用していると記している。瞬速の横面打から変化して、胴払い、小手打ちと瞬転する新八の技の前に、相手はがっしりと自分の刀で受け止めることも出来ずに敗退していった感じがする刀の使用状態である。
新撰組諸隊士の中で、最も高価な刀身を所持していたのが、藤堂平助で、江戸新刀の上総介兼重を佩刀としている。大名藤堂家のご落胤説も伝えられる藤堂だが、差料から見ても可能性があると考えられ、あながち否定できない説に感じる。
山南敬助の岩城升屋事件での使用刀は、播州住人赤心沖光と伝えられているが、手元の銘鑑にはその名前が無いので銘鑑漏れの刀か創作の可能性も考えられるが、誰かお教え頂きたい。
以上のように、新撰組の主な隊士の所持していた刀だけ見ても、新刀が多いことに気が付く。当時の現代刀の新々刀や古刀の所有者も少なく無かっただろうが、池田屋事件を初め、新撰組の京都での近接戦闘の殆どは江戸時代前期に造られた新刀で多く戦われたと私は思っている。
■鎖帷子が生死を分けた
骨董市に行くと刀の鍔等と共に鎖帷子が並んでいる。鎧や兜、槍等と違ってかさばらず、持ち運び易い為、並べる方も簡単で骨董市向きかも知れない。そのせいか、新撰組ファンの多い昨今、甲冑と違って安価な鎖帷子は結構売れて行くらしい。
新撰組隊士は、戦闘の際、胴には鎖帷子、頭には鉢金、手足には小手、脛当てを付けて、厳重に武装して近接戦に臨んでいる。更に、その上から剣道の竹胴を付けて防御力を大幅に向上させていた。
昔、鎖帷子の断片を入手して、巻き藁台の上に置いて斬ってみたが、以外に強靱で、部分的には斬り込めたが、全体が切断できなかった。また、竹胴と同じ、良く乾燥させて数年経った真竹の太い物を斬ってみたが、私の腕では上手に両断できなかった。
この経験から、鎖帷子は槍、鉄砲には弱いが、刀の切り込みには相当な防御性を発揮すると考えている。もちろん、刀の斬撃による打撲傷や骨折を防ぐ効果はかなり低いと見て良い。寺田屋事件では藤堂平助が鉢金を打ち落とされて、その後の戦闘で頭に深手を負って、戦闘途中で後ろに下がっている。
新撰組関係で有名な鉢金は、土方歳三記念館が所蔵する文久三年八月十八日の『七公卿落ち』と呼ばれる政変で使用した鉢金と手甲である。現物は未見ながら写真を見ると裏面には『土方義豊』の所持銘もある上、表面には数条の刀傷と思われる傷がある。特に正面の二条の傷はやや左袈裟気味の明瞭な傷で、斬り合い相手の刀を直に正面から額で受けた土方の精神力に圧倒されそうだ。
敵意が全く無い相手と刃引をしていない真剣を使って、組太刀の型をしていても、終了した後に大きな緊張感が残る。この土方の鉢金の傷が実戦の傷だとすれば、幕末の勤王、佐幕両派の武士達の胆力には、現代人には少なくなった偉大な精神力を感じる。
鎖帷子に関しては、幕末をテーマとする各地の記念館や博物館の幕末コーナー等に結構展示されているので、見ている方々も多い。実物の鎖帷子は半袖の物と長袖の物が大半で、何となく新撰組の使用した鎖帷子は半袖式の物が多いように感じるが如何であろうか?
実際に長袖式を着込んでみると、想像以上に刀は振りにくいと聞いた。その点、鎖帷子と小手が分離したタイプでは、実戦でもスムースに動けそうである。
土方の鎖帷子も半袖式の物で動き易そうである。その他では、土方の義兄斉藤彦五郎が近藤勇に贈った鎖帷子が知られているが、残念ながら現物とおぼしき物は現在確認されていない。
このように、新撰組が京に於ける幾多の闘争において、鎖帷子や鉢金、手甲、脛当てを使用した事実は、少ない現物や多くの伝承に依って明らかである。
新撰組が名を挙げた池田屋事件でも、集まった勤王の志士達と新撰組隊士の間に大きな気力の差があったとは思えない。しかし、激闘を覚悟して池田屋の屋内に侵入した新撰組と突然のご用改めに驚く酒気をおびた志士達との精神的な落差の他に、鎖帷子、鉢金で厳重に武装した上、更に手槍まで用意して精神的に余裕を持って闘争に入った新撰組と普段着のままで、腰の大小のみで戦わざるを得なかった志士達との間に想像以上に大きなギャップが存在したと考えるのが自然であろう。
たとえ、軽装の武装であっても、戦場においては、大きな差になって跳ね返ってくると聞く。先の大戦で実戦経験のある人の話では、鉢巻き一枚でも場合によっては精神的に違うらしい。
坂本龍馬暗殺事件の報復に海援隊や陸援隊が動いた天満屋事件がある。この事件では、紀州藩士の護衛を新撰組が依頼されていた。その際、護衛の一人、斉藤一は背後から背中を斬り付けられているが、鎖帷子を着込んでいた為に幸いにして命が無事だった例もある。
このような種々の話を拾っていくと今日、現存する鎖帷子や鉢金の多くが幕末を含む江戸時代後期の製作のような気がしてくるから不思議である。今まで、それほど多くの鎖帷子や鉢金を見てはいないが、江戸初期まで遡るような現物は甲冑が素人の私でも数は少なく感じた。中には、寛永通宝の鉄銭を縫い込んだだけの簡単な着込もあったが、そんなものでも、近接戦では、持ち主の貴重な生命を守ってくれたと思われる。
■幕末は新刀の実戦場だった
このように新撰組の使用した刀や戦闘状況を調べてみると徳川の太平の世を謳歌した時代に製作された多くの新刀(江戸時代初期から中期に製作された刀)が実戦で試された最大の機会が京洛の闘争を初めとする戊辰戦争の激闘だった。
新刀を用いた新撰組の緊迫感に溢れた実戦内容に関しては、永倉新八の書いた第一級の歴史資料『浪士文久報告記事』が残っている。特に、池田屋事件の記事は読んでいるこちらに惻々と伝わってくる何者かがある。この記録に関しては木村幸比古氏の新撰組戦場日記が原文と対訳になっていて読み易かった。その他では、同じ永倉新八からの口述筆記をまとめた新撰組顛末記や有名な子母沢寬の新撰組始末記等の三部作があって、我々に有益な情報を与えてくれる。
新撰組の優れた剣客としては、沖田総司、斉藤一、永倉新八の三人が有名だが、これらの資料から現代の我々が最も実態が容易に思い浮かべられる新撰組の剣客は永倉新八である。
永倉は実戦では、横面や胴、小手が得意だった。池田屋でも相手の肩先からの袈裟を多用し、志士の一人へは胴へ一刀をおくっている。一説では、下段から相手の打ち下ろす刀を跳ね上げた瞬間、上段から打ち下ろす技に冴えがあった永倉であった。
竹刀剣道では切れ味の良い鎬技は難しいが、幕末の高度に発達した剣術者の間では、刀の鎬を利用して相手の刀の斬撃方向を微妙に変えてしまう鎬技が発達している。
要は、自身の肉体に向かってくる相手の危険な剣先を己の肩幅から外せば、安全になる訳なので、日本刀の特徴である鎬を使って、微妙に方向性を変えながら、更に、相手の刀が鎬に当たった反動を利用して敵の頭部や頸動脈、肩口の筋を攻撃する優れ技であった。
これは、伝えられる沖田総司の連続突きと共に甲冑を着用した戦国期の斬り合いでは未発達の刀術であった。永倉や沖田の刀と同じ作者の手柄山氏繁や加州新刀の清光の刀は数振拝見して記憶があるが、古刀に比べて反りも浅く、鎬技や突き技には向いていると感じた。
その反面、永倉が使用した氏繁の作刀には大互の目乱れが多く、水田国重程ではないが、折れ易い印象の新刀で、池田屋の乱戦で切っ先が折れているのも解るようなきがする。
このように、新撰組では、新刀を多くの隊士が実戦で用いた結果、永倉、沖田初め使用した刀が切っ先や中程の部分で折れる体験があった。しかし、不屈の永倉は、相手の長州志士の刀を奪って池田屋の後半戦を戦い通して無事生還している。負傷としては小手の隙間に敵刃を受けたのか手の平に軽傷を負ったくらいだった。
折れず、曲がらずの日本刀と言われるが、世界の刀剣の中でも薄く鋭利に造られた日本刀、特に、新刀、新々刀は折れ易かった。新撰組と同じ頃の幕末に起きた外国人の殺傷事件でも、現場に刀身の先半分が残っていたケースがある。例えば、当時の開港地の一つの横浜町三丁目で起きたロシア海軍士官殺傷事件でも、殺人現場に長さ6、7インチ(約18cm)の刀の先が落ちていた。
新撰組では、以上の様に多くの隊士が江戸前期に製作された刀である新刀を主に戦っている。もう少し拡大して解釈すれば、幕末の近接戦は新刀にとって初めて大量に実戦投入された機会と理解しても、そう、大きな間違いでは無いと思う。
もちろん、新々刀の会津兼定を愛用し続けた副長の土方や新撰組の初期の局長である芹沢鴨の差料の古刀三原のように新々刀、古刀の愛好者も相当数存在したのも確かである。
【参考文献】
1.新撰組戦場日記 木村幸比古(編著・訳) PHP研究所 1998.10.22
2.閃光の新撰組 伊東成郎 新人物往来社 2006.6.20
3.幕末異人殺傷録 宮永 孝 角川書店 H.8.3.30