29.『成瀬関次氏』の実戦日本刀3部作を読んで
日本古来の装束や江戸期の公家文化について何時もお教え頂いているO氏より、昭和17年出版の『成瀬関次氏』の貴重本「随筆日本刀」を頂いたのは、まだ春浅い頃にご一緒したイタリアレストランでのことだった。
成瀬氏は、戦前戦中の日本刀研究家であり、戦後の美術日本刀とは異なる、「実戦日本刀」の観点で研究を進められてきた方である。
同氏の代表作に、「戦う日本刀(昭和15年)」、「實戦日本刀譚(昭和16年)」、「随筆日本刀(昭和17年)」の三部作がある事は、刀好きの間では良く知られている。「戦う日本刀」、「實戦日本刀譚」の2冊に関しては、以前ザッと読んでいたが、「随筆日本刀」は、今日まで未見だった。
現在まで読んでいない貴重本をレストランのテーブルの上に、さりげなく置かれた時には、心の中に微妙な振動が生じて、不思議な、何処か温かい感情がこみ上げてきたことを覚えている。
早速、帰宅後の深夜から読み始め、翌日も朝から読み続けて、昼過ぎには一気に読了してしまった。
誠に、友人とは有り難いもので、未だに感謝に堪えない。
折角、成瀬関次氏の戦前の著作に久し振りに触れることが出来たので、今回は、新軍刀制定後の大陸戦線に於ける成瀬氏の実体験記録を中心に、昭和前期の軍用日本刀について再度考えてみたいと思っている。
(「上海事変」の勃発と日本刀への見直し)
昭和7(1932)年1月に起きた「上海事件」は、後年の満州事変と共に国際外交優等生日本への西欧の見方を一変させる大事件だった。
当初、上海に上陸した海軍特別陸戦隊を小兵力と見た国民党軍は大兵力を投入して日本の陸戦隊の潰滅を図ったが陸戦隊諸隊の活躍と艦隊等からの支援によって、国民党の意図は成功しなかった。
この時の「上海特別陸戦隊」の日本刀の実戦記録をまとめて出版したのが、小泉久雄海軍大佐が翌年の昭和8年に上梓した「日本刀の近代的研究」である。
小泉大佐は、当時、日本最高の刀剣団体だった「中央刀剣会」の所属であった関係もあり、愛刀家としての基本姿勢で、約一ヶ月半に及んだ同事変の日本刀の実戦記録をまとめている。
その中で同大佐が聞き取り調査した刀を見ると殆どが、古刀、新刀の中堅所で陸戦隊の皆様もしっかりした実用刀を携えて、事変に望んでいる様子が推察出来る。そこで、同氏の著作の中から、斬れ味が「極メテ良好」と記された刀を中心に次に取り上げてみることにしたのが、次の各刀工の刀である。但し、坂倉関正利の鍛冶名は無かったのだが、備考に、「抜打ちにて即死」との記載があるので、片手斬りによる斬れ味だろうと想像して、勝手に加えてみたリストが次の通りである。
古 刀 : 関兼正、坂倉関正利、相州綱廣、村正、加州清光、大永銘盛光、備前高平
新 刀 : 和泉守来金道、肥前吉国
これらの刀を見ると応和頃の備前高平は別として、殆どの刀が室町時代後半の戦国期から新刀期の刀匠の刀であり、中でも坂倉関の正利や加州清光、和泉守来金道の刀は、業物として著名だし、村正の刀も斬れ味では定評があり、実戦向きとうなずける刀ばかりである。
確かに、同氏の聞き取り調査範囲は成瀬氏と大きく異なって狭く、記載された刀工の数も少なかったが、当時の愛刀家が見て実戦刀として安心できる刀のピックアップであり、同大佐の日本刀への深い造詣が感じられる刀銘ばかりであった。
中には、村田刀に関する記述もあるが、古い村田刀の評価が、まあまあだったのに対し、新しい村田刀に関しては、同大佐は低い評価だった。確かに、量産型の後期の村田刀は、丸鍛え、油焼入で刃紋も無く、一般的な評価も低いのでやむをえない結果かも知れない。
成瀬氏との違いでは、成瀬氏は中国大陸出征時の写真に映る長い刀身の佩刀からも察しられるように、武術家としての側面をお持ちだった方のように感じられるのに対し、小泉大佐は、上記のように愛刀家としての姿勢がハッキリしている印象が顕著であった。
時代的にもシナ事変や太平洋戦争勃発前の限定された地域紛争だった上海事変の調査内容であり、調査検討された範囲も狭く、大量生産された昭和刀が出現する前の時代を考慮して理解する必要がありそうである。
この他に、戦前の日本刀研究者として日本刀の材質と鍛造方法を研究された名著として、東大名誉教授の俵国一先生が書いた「日本刀の科学的研究」がある。大変良い本で、今日でもこの内容を大きく凌駕する研究書は少ない気が私見ではあるが感じている。
(シナ事変に始まる新軍刀時代)
軍刀面では上海事変の2年後、明治制定のサーベル式軍刀から、日本風の太刀型式の俗称「94式軍刀」が制定され、更に、我我が今日良く見る、昭和13年制定の「98式軍刀」が出現している。
両軍刀の違いは、佩用の為の佩環が太刀式に2つ付いているのが、94式軍刀で、サーベル式に1個なのが98式軍刀である。この他にも下士官用の95式軍刀や第二次世界大戦末期の昭和18年制定の「3式軍刀」等があるが、実見する軍刀の9割程度は、98式で占められている印象である。
成瀬氏も述べておられるように、シナ事変前半の戦場に於ける軍刀の中味は多彩で、相州正宗や長船長光と伝えられる伝家の宝刀も戦場に持ち出されたと聞く。しかし、生死の解らない最前線での名刀の使用は、各界から疑問が出されたらしく、随時選別して内地(国内)に送り返すようシナ派遣軍内では指導されたという。
シナ事変以降、明治制定のサーベル式から日本古来の太刀様式に変更された新軍刀外装も完全では無かったようで、成瀬氏も、幾つかの改善点を指摘しておられる。
特に、「柄」の強度不足と「目釘」周辺の脆弱性に上層部の注意を喚起をされたい様子が、氏の文章の間から感じられる。
その他、刀身に関しては柄折れに関連して、茎の短い刀に関する問題点があり、陸軍内部でも検討事項として挙がっていたようだ。
確かに、末古刀や大磨上の古刀茎の場合、極端に短い茎があり、激闘時には柄の途中から折れる危険性があり、後年に制定された「3式軍刀」では、刀の茎の長さも留意されようだし、目釘穴も2個が推奨されたようだ。
(「日本陸軍」が最も恐れた軍刀の欠陥?)
これから推測でお話する内容は、明確な論拠が有る事項では無いので、予め、ご諒承頂いてお読み頂きたい。但し、シナ事変以降の帝国陸軍の「軍刀」に関連する動きを総合的に観察すると全く筋違いの推論でも無いと思っている。
成瀬氏は著書の中で、軍刀及び軍刀外装に於ける多くの問題点を指摘された。しかし、中国戦線での多くの実戦経験者から出された日本刀式軍刀の使用時の最大の不満(改善要望事項)は、戦闘時の衝撃で発生した「刀身の曲がり」だったのではないかと推測している。
日本刀は意外に繊細な兵器で、「刃筋と手の内」が一致して使用される場合、信じ難いくらいの斬撃効果を発生させる。その一方、相手に対し刃筋を誤ったり、手の内が狂った状態で使用すると実に容易に大きく刀身が屈折して、その後の使用に適さなくなる。
全速力で前進や後退を繰り返す実戦場では、道場での試合と異なり、練達者でも刃筋を合わせにくい不安定な抜刀が頻繁に繰り返されたとしても不思議は無いと思っている。
以前、寝た状態からの抜刀や匍匐状態からの抜刀をやってみたことがあったが、極めて抜きにくく、相手に対して刃筋を合わせにくいものだと感じた。また、ここ20年程は、地面すれすれの短い巻き藁を気楽に両断しているが、練習を始めた頃は、地面を斬りそうで長い刀では不安だった。(笑い)
このような経験から推測すると新軍刀の実戦結果から陸軍が最も衝撃を受けた事項は、古刀、新刀を問わず日本刀の多くが実戦で曲がるケースが多発した件だったと思われる。
刀として斬れる、斬れないは重要だし、刃毀れのし易さも問題だったが、実戦での刀の折れや曲がり程、眼前の敵が必死の形相でこちらを殺そうと青竜刀や銃剣を翳して迫る戦場では、困惑する事態は無かったと考えられる。
鋭利な日本刀も折れてしまえば、弾倉に全く残弾の無い銃と同じで、無力に折れた軍刀の柄をタダ握っている以外無用の長物だし、斬り損じて曲がった刀ほど、武器として無力で、扱いにくい物は無かったであろう。
「日本刀は折れず、曲がらず」というが、実際の試斬では、初心者の皆さんは実に良く曲げてくれる。古刀など初心者の方に三ヶ月も貸すと信じがたい程、何回も曲げてくれて、最悪の場合、「腰の抜けた刀」になってしまう。
この実戦での日本刀の曲がりを陸軍は重要視したようで、新規製作の軍刀に対し、「墜撃試験」を実施している。この試験は、10kg以上の錘を数10cmの高さから落下させて刀身の曲がりを観察、合否判定を出す過酷なテストで、刀匠の中には、この検査を忌避して、陸軍受命刀工を辞退した鍛冶も多かったと受命刀工のお弟子さんから伺ったことがある。
この当時の陸軍受命刀工の刀を数口、初心者用として使用してみたが、確かに腰が強く、相当の刃筋違いの状態で斬っても、殆ど曲がることは無かった。
試し斬り経験の少ない、初心者が使用した時に危険な日本刀の曲がり具合が大きな刀を製作年代順に挙げると次のような、
古刀 < 新刀 < 新々刀 < 昭和軍刀
の順番となる。
鍛刀してから長い歳月を経ている古刀が最も曲がり易く、昭和前期に造られた軍刀用刀身が、最も曲がりに対する耐久性に優れていた。但し、昭和刀でも素延べや半鍛錬刀の場合は、ケースバイケースなので、使用者の皆さんのご判断にお任せしたい。
これまで、相当数の「94式軍刀」や「98式軍刀」、「3年式」の外装付軍刀の刀身で、中味が昭和軍刀の刀を友人と共に入手して斬ってみた経験からお話しすると、成瀬氏のご指摘のように柄や鞘には色々と申し上げたい点も多いが、斬撃時の刀身の曲がり発生の可能性に関しては、長い日本刀の歴史の中でも最も曲がりにくい刀身だったと思う。
特に、陸軍受命刀工の平肉の適度に付いた2尺1、2寸(約64=67cm)の刀身は耐久性があり、初心者に斬らせても極めて曲がりにくく、試斬入門用としては最適な刀の印象がある。
強いて欠点を言えば、「折れ、曲がり」を意識して作刀した関係か、斬れ味が新刀に比較して今一つの刀が多いくらいであろうか!
しかし、それも若干平肉を落として研ぎ、寝刃を数度に分けて慎重に合わせると新刀の並作程度の斬れ味になる感じの昭和刀が多かった。
これまで、昭和、戦前期の「軍刀」に関して成瀬関次氏の著作を中心に述べてきたが、戦場における各国陸軍の最小戦闘単位での装備状況を略述してみたい。ここで、何故、そうするかというと国際的な当時の各国の武器装備を挙げることによって、武器としての昭和軍刀の位置を明確にしたいと思うからである。日本人に最も欠けている問題点の一つが、非常時の相手と自分双方に対する正確で冷静な比較と問題点発生時の対処方法の準備不足を特に、昭和軍刀に感じるからである。
(昭和前期の各国歩兵分隊の装備)
終戦までの昭和前期の20年間は、日本刀に関して最期の実用化模索の時代だった。
世界的に刀剣は、各国軍人の実戦用武器から儀仗用礼装の一部として尊重される程度に存在価値は低下していた。唯一、実戦用に配備されていたのは、ポーランドやソ連軍の騎兵隊の急襲攻撃時のサーベル位な物であった。
日露戦争から第一次世界大戦当時サーベルを常用していた各国陸軍も、士官の持つ拳銃と併用する兵器としての性格が強かった上、指揮刀的な運用が平時の一般的な姿だった。
一次大戦が終ると先進的な各国は、次の戦争に備えて、戦車、航空機の開発に邁進する一方、身近な陸軍士官や下士官、兵用の兵器、小銃や短機関銃、拳銃の改良と性能向上に努力している。独陸軍を例にとると歩兵用の標準小銃は、一般的な7.92mmモーゼルKar98k小銃だったが、拳銃は有名なルガーP.08に続いて、ワルサーP.38を開発、全軍に支給しているし、32発入り箱形弾倉を持つ短機関銃Mp38/40は大量に生産されて新国防軍、親衛隊を始め全軍に装備されていった。
その結果、独陸軍の最小戦闘単位の分隊レベルでも、第二次世界大戦の最優秀機関銃と評価の高いMG34あるいは、MG42機関銃を中核に、近戦用のワルサーP.38と短機関銃Mp38/40、中長距離射撃戦用のモーゼルKar98k小銃が機能分担する形で、優れた戦闘単位を構成していた。
英国や米国の歩兵分隊も同様であった。太平洋戦争で日本軍と対峙した米国を例にとると、各国が同大戦で使用した中で最も強力な口径0.45インチのコルト・ガバ―メントを装備したし、近接用武器としては、同じ0.45インチACP弾を使用したトンプソン短機関銃や、その形状から「グリース・ガン」と呼ばれたM3短機関銃を装備している。米軍の主幹小銃は、半自動ライフルとして有名なM1であり、将校用としては、拳銃の他に日本式の軍刀では無く、軽量短銃身のカーバインM1を支給している。中核機関銃としては、30口径のブローニング軽機関銃と列国の中でも一際大口径の50口径ブローニング重機関銃を用いている。
以上の中でも、ドイツ軍のMG42機関銃やアメリカ軍のM2重機関銃は、現在でも基本的な設計を維持して使用されている長寿命の兵器の一つである点に留意頂きたい。
さて、本題の日本軍の装備だが、明治以来の士官のサーベルを新型の昭和軍刀に変えたくらいで、大きな変化は無かった。士官が所持する拳銃は従来通りの個人調達の為、同じ隊の中に14年式拳銃所持者も居れば、ヨーロッパ製のブローニング愛好者もいて、雑多な状態であった。その為、戦場での拳銃弾補給一つとっても英国や独のように統一のとれた補給体系を構築していた軍と異なって、難しい問題が内在していたのである。
更に、抜刀による「白兵切り込み戦」に精神的な自信と敵軍に勝る優位性を過信していた帝国陸軍は、士官のみならず、第一線の最小単位での実質的な命令者である下士官の軍刀佩用を推奨している。
即ち、上海事変、シナ事変の段階での日本陸軍や海軍陸戦隊は、明治38年制定の38式歩兵小銃と各士官が持つ個人購入の拳銃と士官、下士官佩用の軍刀に依存した装備で戦っていたのである。昭和16年の日米開戦以降の太平洋戦争でも、小隊規模での支援機関銃や短機関銃、迫撃砲の装備率は驚くほど低く、大規模砲撃戦以外の近接戦闘でもフィリピン、沖縄での米軍との戦闘で一方的な劣勢のまま敗戦を迎えている。
敗戦時、降伏した日本軍将校の軍刀が地面に延々と置かれた映像を見る時、真実を直視せず精神論だけ鼓舞した民族の末路を思い知らされると同時に、今次大戦で失った100万本以上の日本刀の文化的な損失の大きさを感じずには居られない。
(成瀬氏の見た「実戦日本刀」とは!)
さて、本項の本題に戻って、成瀬関次氏の上記の三部作の記述の中から、「実戦日本刀」に関して、個人的に気になった部分を勝手にピックアップしてみたのが、次の3項目である。
1)古刀の刀身は粘っこい。刃の働きなど関係ない。軍隊に必要な刀は「粘りの強い刀」であり、新刀の中にも多く有る。
2)適度な粘っこさと刃先の硬度があれば、一枚鍛えで良い。洋鉄を赤めて延し、焼きを入れただけの刀でも、物によっては良く切れる。
3)戦中戦後を通じて悪評の高かった「昭和刀」に関しては、焼きの深い例外物を除くと実戦で何ら問題が無かったと戦場の実態を率直に記述している。
確かに、実際に斬ってみると粘りのある刀身で、焼刃が適度な硬さを持っている刀は、末古刀に最も多く、継いで、初期新刀に多く存在するように感じた。
その様な刀は、斬った時の手に伝わる衝撃も柔らかく、連続して斬り続けても疲れを感じない刀が多い。
二番目にご指摘のあった素材に粘っこささえあれば、素延べの刀でも良く斬れるとのご意見については、その様な刀身の昭和刀に対する経験数が極めて少ないので、なんとも申し上げようが無い。強いて感想を付記するならば、経験した少数の昭和刀の範囲の中で、2口の素延べと思われる刀の斬れ味は、優秀だったし、もう2口の同様の昭和刀の斬れ味は最低だったという、相反する結果だった。しかし、刃筋を大きく間違えた際での曲がり発生の問題では、大きな問題を感じなかった。正式鍛錬された昭和刀に関しては、同氏の言う、焼きの深い例外物を除いて問題が無いとの御意見にも同感である。
成瀬氏の三部作を読了した印象では、同氏は、軍刀として「備前清光」の刀を推奨されているような二アンスを感じた。
(愛刀家の見方と武道家の視点)
GHQの施政下での文化財としての日本刀保存の必要性からでた歴史的遺産である「美術日本刀」は、誠に日本人らしい微笑ましい表現だった。多くの日本刀研究者や愛刀家が、この表現を盾として日本刀保存に尽力された功績は誠に大きいと思う。
しかしながら、上海事変から終戦までのこの時代を現在から振り返っても、日本刀の実戦使用に関する最期の科学的な努力が国民の総力を挙げて? チャレンジされた時代だった気がしている。
加えて、中国大陸を中心として古刀、新刀、新々刀、昭和刀を含む多くの新旧日本刀が実戦場で試された記録は、今日に於いて誠に貴重な資料だと思っている。
今回取り上げた成瀬関次氏の三部作を始め、成瀬氏の著作よりも少し早い時期の小泉久雄海軍大佐の「日本刀の近代的研究」や俵博士の「日本刀の科学的研究」等の戦前出版された日本刀に関する研究書を想うとき、近代での日本刀研究の国民的なピークが昭和前期だったようにも思えてくるから不思議である。
ここで、もう一度、小泉大佐風の「愛刀家の見方」と成瀬氏風の実戦的な「武道家の視点」に関して、再度、お復習いしてみたい。
成瀬氏の中国戦線での尉官待遇軍属として軍刀修理班に所属して、無数の損傷軍刀を修理、観察した貴重な経験は、今後、再び現われる事の無い記録である。しかしながら、同氏も書かれているように、刀身自身の損傷は、斬撃時の衝撃による曲がりを除くと意外に少なく、問題発生の多くが柄と目釘穴周辺に集中している結果となっている。
刀身の素材や作刀技法に関しても同氏は、「素延べ丸鍛え」でも、適度に熱処理されて、焼刃が施された刀身に関して、問題無しとされている。この実戦上での経験から実感した感覚は、実に貴重な内容を含んでいるような気がするが、現代の「美術刀愛好家諸氏」が、お聞きになったら、怖気を振るう内容であろう。
一方の小泉大佐は、当時の主な愛刀家の殆どが参加していた有名刀剣会「中央刀剣会」の会員としての視点を基礎として、見解を述べられているように感じる。
同氏は愛刀家らしく、戦後生まれの美術刀剣愛刀家と同様、玉鋼を素材として本鍛錬で、心金の入った日本古来の古刀、新刀を至上の物として評価している印象がある。もちろん、同氏の頭の中には、「鍛冶備考」等に記載の業物位列も整然と収まっていたと考えたい。
一方、素材、鍛錬方法はともかく、実戦での使用結果を最も大事にした成瀬氏は、一枚鍛え(丸鍛え)のスプリング刀であっても、優れた素材で適切な下地加工と適度な焼入がされた刀身に関しては、実戦結果の評価を重要視して、否定はしていない。
この点、切れる古刀、新刀を中心に評価している小泉大佐とは大きな差異がある。
(「素延べ丸鍛え」の昭和刀に対する評価)
良く昭和軍刀に対する悪評の一つに、「素延べ丸鍛え」の似非日本刀等の表現を聞くことが多い。確かに、昭和前期に造られた各種軍刀の中には、本鍛錬以外の特殊鋼刀も多い。思い付くままに名前を挙げてみると、
村田刀、造兵刀、満鉄刀(興亜一心刀)、振武刀、群水刀
等々がある。
これらの軍刀の出発材料や加工内容も様々で、スェーデン鋼その他の洋鋼、ステンレス鋼が素材の物から、電解鉄やニッケル、クロム、マンガン等を混入させた特殊鋼刀まである。
鍛造過程を見ても、機械ハンマーを用いていても正式鍛造に近い加工方法の物から、素延べ、丸鍛え、油焼入による刃紋の無い軍刀まで、多種多様の刀が存在していたらしい。
しかし、これらの詳細を分析探求することが本項のテーマでは無いので、「素延べ丸鍛え」の昭和前期の軍刀に対する成瀬関次氏を中心とした評価を整理して見たい。
成瀬氏は、著書の中でも述べておられるが、「素延べ丸鍛え」の日本刀に嫌悪感を以て居られなかったようだし、適度な焼入と熱処理が成された刀は、素延べでも実用上全く問題が無いと想っておられたようだ。「素延べ」で直ぐに思い出すのが、戦前の源良近刀匠だが、同刀匠のステンレス洋鋼を用いた一枚鍛えの刀に関しても、悪い評価をされていない。但し、経験による適度な焼入、焼き戻しが絶対必要なようで、結果として、成瀬氏の言う、「ねちっこい」地金になっている必要があるようだ。良近刀匠の刀を戦前に試し斬りした方々の評価は、どなたも悪くなかったようだし、斬れ味を評価されて、戦前の宮城衛士の佩刀は同刀匠の刀が採用されたという。
「素延べ丸鍛え」の日本刀が出現した原因の一つに、満州などの極寒地で、焼刃の華やかな大坂新刀等が折れる事故が多かったと聞く。刃の眠い古刀は良いとして、焼き幅3分以上の沸出来の新刀は冬の満州では持ち歩くのは危険だったと抜刀道の中村泰三郎先生からもお聞きしたことがある。
確かに、「満鉄刀」にしても、電気製鋼で造った硬鋼パイプの中に、純鉄の丸棒を挿入して、電気炉で焼入して製作したらしいし、斬った人の話では、中直刃の出来だったが斬れ味もそう悪く無かったと聞いている。一度、「満鉄刀」の斬れ味を試して見たいと希望しているが、未だその機会が無く残念である。
満鉄刀以外の造兵刀その他の「丸鍛え」で「油焼入」の刃紋の無い刀に関しては、「登録証」が公布されないこともあって、試し斬りをした経験が無い。
どうも、実戦刀を探求された方々の多くは、「素延べ丸鍛え」に関して、成瀬氏を始め肯定的な意見の方々が多いように感じる。もちろん、適切な素材の選択と焼入、その他の技術的な完成度を持つ製作過程を経た日本刀という条件を満足した刀ということではあろうが!
また、中には古刀の多くは、「丸鍛え」であり、新刀の有名刀工中にも「丸鍛え」の作刀を残している刀匠も多いと主張される研究者の方もいらっしゃる。
この辺の議論は、これからも多くの日本刀研究者の大きな研究テーマの一つとして厳然と存在し続けると考えられる。
しかしながら、愛刀家の一人ではあるが研究を専門としている訳では無いので、「素延べ丸鍛え」の可否と日本刀鍛刀手法に於ける位置付けに関しては、ご専門の研究者の方々にお願いすることとしたい。
さて、最近、新しい視点からの日本刀への探求に関連する出版物や会話に出合う機会が多く、心楽しい時間を過している。ここ数ヶ月で拝見した中にも、鉄の自家製たたら炉の話や日本刀の科学について書いた本2冊に遭遇したので、(参考資料)の4、5に挙げて終わりにしたい。
(参考資料)
1.實戦刀譚 成瀬関次 昭和16年
2.戦う日本刀 成瀬関次 昭和17年
3.随筆日本刀 成瀬関次 昭和17年年
4.人はどのようにして鉄を作ってきたか 永田和宏 講談社 2017.5.20
(永田式たたら炉の記述が面白く、自家製鉄を目指す方には参考になるであろう)
5.日本刀の科学 井上達雄編著 日刊工業新聞社 2017.1.30