28.「太刀姿」と「打刀姿」が融合した桃山時代
「小太刀」ヘの寄り道が若干あったが、これまで室町時代に太刀に替わって登場した「打刀」について、元亀、天正の末古刀期までの変遷を見てきた。
次は、いよいよ桃山時代の「打刀」の登場である。全国の群雄が天下統一を目指して最後の闘争を繰り広げた結果、織田信長が京を中心とする日本の中央部をほぼ掌握した。しかし、突然崩壊した織田政権を巧妙に継承して、新しい時代を切り開いたのは信長の凡庸な子供達ではなく豊臣秀吉だった。
絢爛豪華な桃山時代を象徴するように、日本刀も長く続いた「古刀」時代を脱して、新しい刀の時代、即ち、「新刀」の世界に突入する。
新刀の祖は埋忠明壽だと言われている。明寿の刀で長いものは、相馬家伝来の重要文化財指定品の慶長三年紀のある太刀が一口あるだけで、残っている遺作の殆どは、平造りの短刀である。明壽の作風は、新刀らしい綺麗な地金に、相州伝風の小沸出来の湾刃を焼き、品の良い玉追龍などの埋忠彫りが添えられている。
西陣に住まいした明壽の弟子としては、子の重義を始めとする埋忠一門の他、芸州輝広、そして、主命により遠く九州肥前から入門した肥前忠吉がいます。
古刀期の刀工達に関しては、伝説上の住まいや活躍が伝わっているものの、名工といえども伝説は別として、確実性の高い実際の住居や墓石、文書が確認出来る刀工は極めて少ないのに対し、新刀期の巨匠達の場合、その活躍の場所が、京、大坂、江戸を始めとする大都市や大藩の城下町が多かった関係で、鍛冶屋敷跡等の鍛刀の痕跡や墓石等が、現物の刀以外にも多く残っていて研究者にとって幸せな状態が、往々にしてある。
今回は、埋忠明壽が最も信頼した弟子、「肥前忠吉」の古郷を訪ねて、佐賀市を散歩してみたので、最初に、そのご報告をしたい。
(肥前忠吉の住居跡と一門の菩提寺を訪ねて)
橋本新左衛門忠吉は埋忠明寿に入門する以前、肥前国高木村長瀬で鍛刀していたが、その技量と家柄(父祖は竜造寺家の重臣)を愛されて、佐賀藩主鍋島勝茂の命により京の埋忠明壽に入門している。
三年後、京での業成って帰国。一族、弟子を従えて長瀬から佐賀城下に移住している。忠吉が鍛治屋敷を設けた場所は、佐賀城の北側を東西に通っている長崎街道の西の外れ、長崎寄りの場所であった。
旧長崎街道の雰囲気は、忠吉鍛治屋敷の近くの昭栄町にある「のこぎり型家並」を始めよく残っている感じがする。のこぎり型家並とは、街道に面して平衡に家を建てず、僅かに角度を設けて家を建設した段差のある家並みである。この家並みの利点は、外敵の侵入時に家並みの陰に味方を忍ばせて待ち伏せ攻撃が出来る長所がある点で、群馬県沼田城下でも同様の構造の町並みが存在するので、江戸時代初期には、結構用いられていたかも知れない故人の知恵である。
のこぎり型家並から忠吉鍛治屋敷の周辺での長崎街道の道幅は、思いの外狭く、狭い所で二間、広い所でも往時は三間に満たなかったようで、現在でも殆ど変わっていないようだ。現在のメイン道路は、この旧長崎街道の直ぐ北側を走っている広い通である。
一門が移住当時、この場所の明確な地名は伝えられていないが、何時の頃からか忠吉の出身地の地名をとって、「長瀬」と呼ばれるようになったようで、現在は、佐賀市長瀬町と表記されていた。
表示によると、忠吉の鍛治屋敷の跡は、どうも、忠吉の長女の婿吉信の子河内大掾正廣が受け継いだようで、実子の二代近江大掾忠廣は、父の鍛治屋敷の向かい側に新しく屋敷を設けて鍛刀していたようだ。
これは、多分、初代忠吉が四十歳過ぎても男子が無かった為、長女の婿養子の吉信を後継者として考えていたところ、妾腹に後年の二代近江大掾忠廣が生まれた関係で、このようになったと想像される。
初代忠吉の墓は、鍛治屋敷よりは少し城寄りの伊勢町の真覚寺に有り、二代近江大掾以下九代までの墓石は、本庄江川に近い八戸二丁目の長安寺の本堂に向かって左側の墓地の整然と並んで建っている。両寺院共に浄土真宗の寺だが、初代忠吉と二代以下の寺が異なる理由に関しては、本堂前の案内には記されていなかった。
長安寺は長崎街道に面して建っている。本稿と関係ない余談だが、長安寺と鍛冶屋敷跡の中間やや長安寺寄りに龍雲院という曹洞宗の寺院がある。この寺は、佐賀武士道を論じて有名な「葉隠」の著者山本常朝一族の菩提寺であり、境内には、幼くして没した、愛する孫娘と娘夫婦の墓石と共に常朝の墓も仲良く並んでいた。
真覚寺は街道から少し入った場所のお寺であり、同寺の近くの現在のメイン通に面して、明治維新佐賀の英傑の一人で、「佐賀の乱」で悲劇的な最後を遂げた江藤新平の大きな墓石のある本行寺もある。
また、江藤新平が明治元年に造らせた差料は、肥前忠吉一門の後代の鍛冶、「肥前国藤原吉包」の刀で、刀身には三条実美公の和歌が彫りつけてあった。吉包の刀も新々刀ながら、斬れ味に関しては定評のある刀だと聞いている。
幕末、忠吉鍛冶屋敷跡の有る伊勢町周辺には、気鋭の藩主鍋島直大(閑叟)の命で建設された築地反射炉を始めとする佐賀藩の近代化に重要な施設が次々と建てられて、佐賀藩近代化の牽引役を担っている。若しかしたら、この場所を選択した理由の一つとして、橋本一門の存在があった可能性もありそうである。
鍛治屋敷から歩いて直ぐの日新小学校の敷地内には、反射の炉の模型が建っていて、往時を彷彿とさせる。この地の反射炉によって、上野の彰義隊との戦いや奥州戦争で活躍した、佐賀藩の誇る長射程の「6ポンド・アームストロング砲」が造られたのは、有名な話である。
ポンド・アームストロング砲の模型や臼砲は、十二年前に再建された佐賀城本丸御殿の大玄関横に据えられて、佐賀藩の反射炉の威力を感じさせている。
但し、本丸のアームストロング砲模型は、9ポンド砲で有り、上野戦争で活躍した砲は、6ポンド砲なので、口径が若干違う。6ポンド・アームストロング砲は、口径2.5インチ(63.5mm)、砲の全長60.125インチ(152.7cm)で、1,500m以上の長い射程と高い命中精度を誇っていた。
肥前忠吉一門の刀は昔から良く斬れると評判が高かった。先に挙げたように、鍛冶備考でも、最上大業物に初代忠吉と三代陸奥守忠吉、大業物に、二代近江大掾忠廣が入っていて、親子三代に渡って斬れ味で有名である。他にも一門の正廣が業物の評価を得ている。
後代でも、先に挙げた吉包等も、実際に斬ったことのある人の伝聞では、初代同様、良く斬れると伝えられている。
個人的には、肥前刀の中で、実際に斬ったことのある刀は、二代近江大掾忠廣の脇差だけなので明確なことは何も言えない。それも、脇差で試斬を始めた初期の頃の記憶なので、そこそこ良く斬れた程度の記憶しか無い上、当時の記録は、刀身の長さ位で、斬った結果のメモも残っていないだらしない実情である。(笑い)
(最も印象に残った新刀)
新刀と聞くと忘れられない刀がある。埋忠明壽と並ぶ新刀の巨匠、晩年、同じ京の堀川に居住して多くの一門を育成した通称堀川國廣の「山姥切國廣」である。
この高名な刀をご覧になった刀剣好きの方は多いと思うし、更に、探究心の旺盛な人は、「山姥切國廣」をご覧になった後で、本歌である長義の「山姥切」の刀を見に、名古屋の徳川美術館まで、遠路わざわざ行かれた趣味人も少なく無いと思われる。
この本歌の「山姥切長義」の刀と國廣の「山姥切國廣」の二口の刀が、並んで比較しやすいように展示される機会は殆ど無い。少し古いところだが、1997年、東京国立博物館で開催された特別展、「日本の刀」の展示会では、本歌の長尾顕長所持の長義の刀とその刀を写した國廣の長く井伊家に伝来した「山姥切國廣」の二つの名刀を同時にご覧になった方々もいらっしゃると思います。
長船長義の刀は、当時の足利城主長尾顕長が小田原に参府した折りに北条氏直から拝領した名刀で、それを国広が磨上げた際、同時に作刀した刀が、「山姥切國廣」といわれている。当に、相伝備前の傑作長義の作風が乗り移ったかのような覇気のある刀で、従来の國廣の作風を一変させた名品である。
それまでの國廣の作風は、末古刀そのままの何処か古刀風な地肌と刃紋だったが、長義の刀との出会いによって、新境地を開眼出来た國廣はこの傑作の写しの製作に心血を注いで、遂に完成させたのであった。
長さ2尺3寸3分(70.6cm)、反りは9分を越えて(2.82cm)深く、切っ先は当に南北朝期の大太刀のような大切っ先の豪壮な姿である。裏年紀は、天正十八年二月吉日とある。
この作刀で開眼した國廣は、翌年の天正十九年には京に戻り、一条堀川に定住して多くの弟子を育成している。その為、上記の様に、「堀川國廣」と通称されて、新刀の大流派堀川一派の祖となっている。
國廣、明壽を含めて、桃山時代の慶長、元和期に活躍した刀工達の刀を「慶長新刀」、または、次の時代の元和と合体させて、「慶元新刀」と呼ぶ。慶長新刀は、山姥切國廣のように南北朝時代の大太刀を使い易い当時の打刀寸法の2尺3寸から2尺5寸に擦り上げたような、身幅が広く、切っ先の伸びた、如何にも斬れそうな姿の刀が多い。
姿は古刀の大磨上姿ながら、一方、刀に使用されている地金は、新しい時代を象徴するように明るく綺麗になっている。
戦乱の続いた室町時代に創造された「打刀」は、戦国時代の成長期を経て、桃山時代の「慶長新刀」によって大きく開花、成長していくのである。
それでは、「山姥切國廣」を始めとする多くの「初期新刀」の規範となった大磨上の古刀姿について、少し考えてみたい。
(「慶長磨上」の古刀と新刀姿)
古刀好きの人に言わせると、
「古刀は、生、そのままの姿も美しいが、大磨上姿になって無銘の刀でも、バランスが良く取れていて、姿の完成度が高い」
と、良くおっしゃる。
確かに、刀趣味でも通に近い方の中には、在銘、無銘関係無しに古い古刀を愛好されている蔵刀家の方も多い。その中のある先輩に以前、その理由を聞いてみた折りには、「天正磨上」や「慶長磨上」の無銘刀には鎌倉期の名作が多いと、教えられた。
先に挙げた徳川美術館の「天正18年5月3日」の銘のある「山姥切り長義」も、「天正磨上」の典型的な刀の一つである。
南北朝時代や鎌倉時代の長い太刀を戦国末期の「打刀」と「打刀拵」が大流行した時代の「天正年代」や桃山時代の「慶長頃」に大きく磨上げて、「打刀」に直した刀が、「天正磨上」や「慶長磨上」で現在、重要文化財や重要美術品指定されている名刀も多い。
その様に古い時代の長い太刀が打刀寸法に大きく磨上られて諸大名を中心に愛好され流行し出したのが、豪華絢爛な時代の流れを感じさせる安土桃山時代だった。
当然、磨上られた名刀に付属する「打刀拵」も時代に合った華やかで歌舞伎者の武士に似合う拵や奇抜で異風な拵も出現している。その結果、地刃の働きが豊富で、大切っ先の豪壮なスタイルの南北朝期の大太刀の大磨上姿が流行して、当時の現代刀である「新刀」にも大きく採り入れられて、相州伝や相伝備前風の新刀が多く製作されたと思われる。
相州伝以外でも、備前伝の南北朝期の作や鎌倉時代の猪首切っ先の太刀等の磨上品は人気が高かった。信長も鎌倉時代中期の長船の開祖、「光忠」をこよなく愛していた関係で、今日でも、伝信長愛蔵の在銘、無銘の光忠の太刀や刀は多い。また、家康が愛用して日光東照宮に秘蔵されてきた「備前助真」の太刀も有名である。
さて、そこで、太刀を銘が無くなるほど大きく擦り上げて、「打刀」に直した姿に問題が生じなかったか、どうかという点である。
その点、全く問題は生じなかったし、擦り上げたお陰で、「打刀」として時代に合った機能に構造上、改善されている。
何故、そうなったかというと、鎌倉期の太刀姿の特徴として良く指摘されるのが、腰元で大きく反った「腰反り」と太刀独等の深い反りがある。所が、大きく磨上ることにより、最大の姿上の特徴の腰反りが殆ど失われてしまい、刀身全体の反りも平均的な反りに変化してしまう場合が多かったのである。
その様な時代的な変化を経験した南北朝期あるいは鎌倉期の太刀は、長さ2尺3寸から2尺5寸前後(約70~76cm)の時代に合った平均的な反りの「打刀姿」へと大変身したのだった。
これこそ平安時代から室町前期まで続く「太刀姿」」と室町時代二百年を通じて発展改良されてきた「打刀姿」の融合した「慶長新刀」特有の姿である。
ここに、「打刀姿」は完成期を迎えた。
それでは、今残る、元々の長さが長さ2尺3寸から2尺5寸前後(約70~76cm)の短い太刀は全く変身していないか、というと実情はそうでも無い。
今日、それらの打刀寸法に近い状態の太刀を熟覧してみると、腰元の反りや茎反り(なかごぞり)を後世、打刀に合うように伏せている太刀が多い。特に、茎の反りを打刀拵に合うように大きく伏せた名刀は予想以上に多いものである。
日本刀の大きな財産である平安時代から戦国時代まで作刀され、無数に残っている名刀を鏡として、当時の新刀初期の刀工達は作刀に励んでいたのである。
先に挙げた埋忠明壽、堀川國廣を始め京五鍛冶の一人越中守正俊や南紀重国、越前康継、尾張の相模守政常、そして、肥前忠吉等々、桃山期の多くの名匠達が古刀の名作を手本としながらも、古刀期とは違う、清新な傑作の数々を現在に残して置いてくれたことに愛刀家は深く感謝すべきであろう。
これらの名刀群は、時代も新しい為もあって、健全で有り、制作当時の生な姿が多く残っていて、在銘で茎穴一個が大好きな愛刀家にとっては、堪らない魅力を秘めていると言えよう。