27.小太刀考
一度小太刀を調べてみたいと思っていたが、いつまで経っても資料が集まらず、遂にしびれを切らして今まで解った範囲内で不十分ながら考えてみることにした。
何故今、小太刀を取り上げるのかというと、太刀の形状と打刀の形状変化を考える一助として、「小太刀」を追求してみる価値があるように感じているからである。
まず、「小太刀」の名称から考えてみたい。当然ながら太刀が日本刀の主流だった、平安、鎌倉、南北朝及び室町時代前半の時代の太刀に対応する用語である「小太刀」である点は容易に想像が付く。
「小太刀」とは、正常な長さの太刀に対して、やや小振りな太刀という意味なのであろうか! 太刀は、前にも述べたが南北朝期の大太刀を別格として除くと、各時代の平均的な長さは、2尺5寸から、2尺7、8寸(約76~85cm)の長さが主流になっている。
小太刀の長さに関する規定は無かったと思われるが、当然ながら、太刀よりも短い2尺前後、2尺1寸から2尺を若干切るような長さだったような気がする。その他に、少数ではあったが2尺以下の打刀も現存している。
それでは、用途は何かと言うと、これが余りはっきりしない。始めに、小太刀の用途を想像できる範囲で考えながら、色々と推論してみたいと思う。
(小太刀の用途)
最初に小太刀の用途で、考え付くのが、元服前の少年達の常用の太刀や武家の女性の緊急時の護身用の太刀である。鎌倉時代の武士が一家存亡の刻、少年や女性といえども鎧を身に付け、太刀を帯びて臨戦態勢を執ったと思われる。そうなると壮年で強力な体躯を持った武士と同じ長さと重さの通常の太刀を振り回すのは無理であり、実情は腰に小太刀を帯び、薙刀や弓矢を手に持って一族に力を添えたのでは無いかと想像されるし、水干姿の少年の腰には、長すぎる太刀よりも身丈に合った小太刀が良く合うと考えるが、如何であろうか。
第二の用途は、戦場に臨む家長を中心とした武士達の差し添えの太刀ではなかったのかという、想像である。腰の太刀を打折ったり、戦闘で手持ちの太刀を失う光景は平家物語を始めとする多くの戦記物語の各種の戦闘場面に描かれているし、戦場での消耗を予想して腰に太刀を二振り帯びる話も新田義貞の戦死の折りの描写等で記録されている場面も多い。
しかし、同じ長さの太刀を二振り左腰に帯びるのは移動時に相当の負担になるし、重い思いをしても弓矢が主戦力だった当時、無駄になった例もあったと考えられる。そうなると長い太刀二口よりは短いが相当に軽い上、緊急時の急場凌ぎになる小太刀を差し添えとして戦場に臨んだ武士達もあったのではないかと想像される。
その他の可能性としては、太刀は体面上身に付けなければならないが、長くて重い太刀がごめんだと考える、武士以外の貴族や神官等の階層が細身の小太刀を愛好した可能性も否定できないような気がしている。
更に、推測を拡大すると貴族層の通常の乗り物は牛車であり、牛車の中では、長大な太刀よりもコンパクトな太刀が好まれた可能性もあるのではないだろうか?
「古今著聞集」に内容は不明だが、「車刀」と記載がある。若しかしたら、牛車内部の扱い易い太刀として小太刀を用いた可能性もあると考えられるが、詳細は分からない。
そういえば、江戸時代の駕籠での護身用に、駕籠槍と称する極めて短い柄の槍を何点か拝見したことがある。全体の長さが駕籠内部に収まる程度の為、とても正規の戦闘に仕える武器とは思えないが、緊急時の咄嗟の防御には役立つかも知れないと思った。
牛車の中では、長い太刀よりも短い小太刀の方が抜き易いと思えるし、敵の一撃を小太刀で凌いでいる隙に、家人が敵との間に入って主を救ってくれる可能性もあったであろう。そんな想像もしてみたい。
その他に考えられる用途はないかと、手元に現在ある磨上ながら在銘の南北朝期の備前の小太刀を見ながら考えていると、どことなく数打ちに近い量産品の匂いがしているような気がしてならない。
戦闘が激化した南北朝の大争乱時代、従来武士では無かった農民を大量に動員して武器を支給する必要に迫られたのでは無いかと考えられる。その結果、備前の小反り系等の刀工に小太刀を大量に注文した事も発生したかと思われる。言うなれば、最下級の兵の為の官給品的な小太刀も有ったのではないだろうか?
(拝見した小太刀と斬れ味)
残念ながら、実際に拝見した小太刀はそう多くない。それも、全て、白鞘か打刀拵え入りの小太刀で、古い太刀外装付の小太刀は一口も経眼の機会が無かった。
残っている刀身の製作時期と外装の完成期が同一のケースが多いヨーロッパの刀剣に比較して、日本のケースでは、外装よりも中味の日本刀が古い場合が多いとヨーロッパの刀剣書が指摘している通りである。当に、太刀拵の場合、刀身の制作当時のまま外装が完存している例は希有であり、小太刀の場合、特に、その感が深い。
別の項で、詳しく述べたいと思っているが、ヨーロッパや中国を含む日本以外の諸国の刀剣類の場合、時代ごとの変化が大きく、古い時代の刀剣で今日でも綺麗に研磨された状態で残っているケースが少ない。逆に、その時代の刀剣が、外装と共に残存している例が多いのである。
その点、平安時代中期後半に姿の完成した日本刀は、約一千年に渡って、大きく形状が変化しなかった為、刀身は昔のままでも拵えが時代と共に変化して愛好され続けてきたのである。
今まで拝見した「小太刀」は長さ的に、2尺1寸が最も多かった。全体的な形状は、鎌倉最末期や応永備前の太刀を短くしたような姿の良い細身の太刀姿が大半で、生茎の元目釘の位置から2尺1寸の生寸法が推測される小太刀が多かった。しかし、現状では、大半の小太刀は江戸時代に磨上されて、1尺8寸以下の長目の脇差寸法に直されているケースが少なく無い。
残っている小太刀を見た数量がそう多くないので、断定的な事は申し上げられないが、五カ伝の中では、比較的備前伝が多かった印象がある。それも、長船の本流よりも小反系の作の比重が高かった感じがする。
実際に、手持ちの小太刀と共に、同じような寸法の末古刀の打刀を出して、比較の為、交互に斬ってみると斬れ味は打刀に比べて、やや思わしくなかった。
何と言っても、先身幅が狭く、姿的には好ましい太刀姿のスケールを縮小した感じの為、実戦には向かない印象だった。もちろん、この小太刀も南北朝中期の小反の在銘品で、室町期の脇差では無い。ここいら辺に、在銘の小太刀の残存数の少なさがあるのかも知れない。一方、戦乱の激しい時代、先身幅の狭いスマートな小太刀だけだったとも思っていない。
以前、応永年紀の同様の寸法の小太刀を持っていたが、先幅が7分近くと広く、斬ってみたい小太刀だった。無傷の年紀付在銘品だった為、試斬の機会を逸してしまったのが残念に思っている反面、貴重な美術品を傷つけ無くて良かったと安堵している。
小太刀と同じ2尺前後の大脇差の斬れ味では、戦国時代末期と新刀初期の時代の大脇差が最も使い勝手が良く、次いで、新刀前期の大脇差が良く斬れる印象がある。
但し、新刀前期の大脇差の場合、作者によって斬れ味に大きな差があるように私見では感じられる。最も、個人的に試した脇差の数が50口程度なので、断定的なことが申し上げられないのが残念ではある。
強いて言えば、大坂や江戸等の大都市の刀工の場合、無名の二流刀工の作に斬れる脇差が多いように感じられたし、地方の越前新刀や加州新刀、藤原高田等の地方鍛冶の中にも優れた斬れ味を示す脇差があるような気がしている。
全体的には、慶長年代に近い方の新刀初期の作に斬れる物が多く、寛永、寛文と時代が新しくなるに従って斬れない脇差の数が若干増してくるように感じる。
特に、戦国期の数打ち脇差と違って、新刀期の大量生産品は、刃紋ばかり煌びやかで、斬れ味の方は鈍刀の代名詞的な作が多い。
南北朝、室町期前半の小太刀に対して、打刀の完成期に近い天正や慶長、元和等の新刀期の大脇差は、地金の働きや刃紋の優雅さなどを別として、姿だけから見ると理想的な斬る姿を追求した形状をしていて実用的である。
(小太刀と武道)
古武道の剣術や居合の話で、小太刀が登場してくる場面は驚くほど少ない。その分野で高名な綿谷雪氏の「図説・古武道史」を読んでみても小太刀の項は存在しない。
漸く、富田勢源と戸田清元の項に、3尺の真剣を持つ相手に戸田清元が1尺9寸5分(59cm)の枇杷の木太刀で立合い、びくともしなかったと書いてある程度である。
中条流の名家に生まれた富田五郎左衛門入道勢源にしても、永禄三年の頃、美濃に遊んだ際、当時の国守斎藤山城守義竜の命により、関東鹿島の住人梅津某と立会った話が残っている位である。
斎藤義竜が富田勢源と梅津某の試合を求めた背景には、世間に高名な「中条流の小太刀」の実力を確かめたいと想いがあったものと思われる。その真意を忖度したのか勢源は、手近にあった短い薪の手元を革巻にして立会っている。
梅津は3尺4、5寸の長大な八角削りの木刀で対峙したが、悉く打ち負けて、額を朱に染めて敗退している。
このように剛力長身の上、長い木太刀を振るう相手を短い小太刀で制した同様の話が伝わっているので、富田流の祖富田勢源にしても戸田清元にしても、小太刀の名手だったことは事実であろう。戸田清元については、幾つかの異説がありはっきりしたことは解らないが、一説には、北条氏政に仕えた「一刀流元祖」としているし、小太刀で有名な「戸田流」も清元を元祖としているので、何らかの関係があるように感じられる。
そう考えると室町時代や戦国期の一部の武士には、戦場で使う太刀技以外の武技として、若干短い屋内用の小太刀技を兼修する流儀も広まっていたと考えられる。
その理由は、戦国期の武士にとって、戦場だけが命の遣り取りの場では無く、主君の屋敷でさえ、油断できない環境に置かれていたのであった。突然の上意討ちや闇討ちに対処できる武器は、座敷内でも帯刀が自由な短い打刀(脇差、小太刀の類)だけだったのである。小太刀、最大の長所は、その短さと軽さによる瞬速の抜き付けによる防御と攻撃の一体化で有り、最悪の場合、長い大刀で斬り付ける相手を短い小太刀のスピードで圧倒して、危機を脱する所にあったのである。
よしんば、主君の屋形内での突然の襲撃において暗殺に遭遇し、圧倒的多数を相手に斬り死にすることがあっても、武士としての名誉ある死に様を示す小太刀の働きこそ、嗜みある武士の心得だったのでは、無いだろうか!
江戸時代に入ると共に、流儀に小太刀技を含む門流を除いて、「小太刀」の実態が忘れられて行き、次第に新しい単語、大小の小の方である脇差と混同されて行った可能性がある。
その結果、本来、2尺前後と考えられていた小太刀の長さが忘れられ脇差全般と混同されてしまった可能性は否定できない。
脇差はご存知のように現在、長さ2尺以下、1尺以上と規定されている。江戸時代からの呼び方で、長い方から順に、大脇差、中脇差、小脇差と呼ばれているが、今日では、中脇差や小脇差も含めて小太刀と理解されている方も多い。
更に時代が進み、居合の発達と共に、太刀技の居合から、座り技の居合、脇差の居合と各流派によって研究が進み、技も進化して多様化して今日に至っている。現代まで大刀の型の他に、脇差の型を伝えている流派も多い。
但し、諸流派の脇差による型の演舞を拝見すると、使用されている脇差の長さは、1尺5、6寸(約45~49cm)の中脇差を用いられている。型をやる上で、打太刀と仕太刀の間合いを考えると中脇差の寸法が、最もやり易いのかも知れない。
練達者による脇差の応変な型を拝見していると江戸期の武士の嗜みが感じられ、大刀とはまた違った感慨に耽ることがある。
(太刀と小太刀)
「日本剣道形」の小太刀の形3本を拝見していても太刀に対する小太刀の構えの難しさを感じるし、親しい友人に2尺4寸3分(約74cm)の大刀を構えて貰って相対していると、2尺(約61cm)の小太刀では、何処か心許なく感じるのは、修練不足とこちらの技量が劣るせいばかりでは無いように感じる。
増して、構える脇差の長さが中脇差、小脇差と短くなるに従って、相手を攻撃する難易度は、練達者といえども急激に増加するであろうし、防御面では、更に難しくなって行く。
特に、巻き藁程度の試斬でも、1尺3寸(39cm強)の小脇差で斬った場合、両手使いの大刀と違って、力んで大きく振りすぎてしまい、斬った後、自身の前面が全く無防備ながら空き状態の残心になってしまった経験をされた方も多いと思います。
特に、硬い竹や木に対する試し斬りでは、どうしても余分な力が肩に入って力んでしまい、剣先が流れる傾向にある。その傾向は、脇差が短くなれば、なるほど、斬り終わった瞬間、無防備な自己を晒す可能性が大なのは、修練の不足と共に、脇差の長さに起因するケースが多い。
話変わって、室町時代の太刀と打刀の交代期の頃の名人、塚原卜伝の「卜伝百首」の中に、次の歌があります。
『今の世は太刀は廃るといいながら、刀も同じ心なるべし』
前出の綿谷雪氏の「図説・古武道史」を参考にさせて頂いて、この歌の心を少し考えてみたい。塚原卜伝は、2尺4寸(約73cm)の刀を通常差しにしていたが、何かあった折は、3尺(91cm)の長い刀を用いている。その真意は、戦国期に大流行した短い「打刀」ヘの警鐘ではないかと想像する。武芸者は、自身の力量の範囲内で、「太刀と同様に出来るだけ長い刀を用いるべきである」と卜伝は言いたかったと強くこの歌から感じられる。
脇差の長さも同様で、戦国時代終了直後の武士達の脇差は、幕府が、その規制に悩むほど長い脇差が多かったのである。中には、脇差とはいいながら2尺を越える長大な小刀を帯びている士も多く。幕府は、何度も脇差と大刀の長さの規制に乗り出している。
その結果、皆さんご存知のように、大刀で2尺3寸5分(約71cm)、脇差で1尺8寸(約54cm)以下の規定が徹底され、江戸時代中期の武士の小刀は、先に述べた中脇差寸法が、一般的になったと考えられている。
しかし、心得ある武士は、緊急時には、通常差しとは異なる長い脇差を携えて臨む心構えを忘れることは無かったのである。
中には、新撰組副長の土方歳三のように、脇差は小太刀寸法の1尺9寸5分(約59cm)を常用する勇士も幕末には現れたのである。