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26.戦国時代後期の「打刀」

日本刀好きの皆さんが広く読まれている本の1つに、鈴木眞哉氏の「刀と首取り」がある。この中で同氏は、戦国期を含めた戦勝傷の殆どが、鉄炮傷や弓矢による負傷であり、それに次いで多かったのが槍傷だと述べられている。更に、応仁文明の乱から島原の乱までの死傷者の中の刀傷の比率を201点の資料から調査された結果、3.8パーセントと示しておられる。

戦時中に日本刀に関して高名だった成瀬寬次氏にしても戊辰戦争から日中戦争に至る戦役で白兵戦を経験した古老や現役軍人に尋ねた結果でも、所謂、「鍔迫り合い」は無かったと述べておられたと思う。

確かに、古代以来、日本人の主力武器は、「弓矢」だったし、火縄銃(西洋式のマスケット銃)が伝来してからは、鉄砲が戦場で有効な最大の武器になっている。洋の東西を問わず、多くの場合、遠距離戦用の武器の優劣と戦意が戦場の勝敗の前半を決めてきたし、近接戦では、近世まで、槍あるいは長柄武器が最終戦闘の局面を決定したケースが東西共に多い。


そこで、今回は、戦国時代後期の当に戦国の群雄による天下争覇真っ盛りの時代から、信長、秀吉、家康による天下統一の時代の「打刀」に焦点を当てて、当時の刀鍛冶の生活や分布、日本刀の中で最も短かった永正前後から戦乱の激しかった元亀、天正時代の打刀はどう変わったのか? 

そして、桃山期の名将達が戦場でそれ程役に立たなかったはずの打刀をどの様に愛好し、差料としていたのか、その刀身と拵について考えてみたい。


(戦国時代の鍛冶小屋)

以前から、戦国時代の刀鍛冶の住まいと仕事場を知る機会があれば、楽しいと空想していた。この方面では、江戸時代の刀鍛冶の生活について、福永酔剣氏の「刀鍛冶の生活」(1995年)が出版されている。しかし、戦国期の長船鍛冶や関鍛冶の生活に関する詳細な記録を寡聞にして、未だ読んだ記憶が無い。

そこで、戦国期、桃山期の住居に関する本でも無いかと探していたところ、ぴったりの本に出会ったのである。(株)昭和堂から出版された丸山俊明氏の『京都の町屋と聚楽第――太閤様、御成の筋につき』である。特に、P65~始まる「、第二章、戦国時代の間取りが、町屋にもなり百姓家にもなり」がとても参考になった。中でも、京都近郊の『片土間・床上二室』の項は、心に響くものがあった。

詳細は省くが、京都近郊の「洛中洛外図」から引用した百姓家は、間口3間、奥行き2間程度の規模で、『片土間・床上二室』の間取りで、町屋と同様の構成だったようだ。床上二室は板の間で食事や生活空間と寝室に用いられた納戸から構成されていたと想像される。

一方の土間は、炊事や作業空間として利用されていたようで、門口から背戸口に抜ける「通り庭」としての機能も兼ね備えていたと思われる。


そこまで読みながら夜中、布団の中で、思わずうなずいてしまった。相当以前だが、「広島県立博物館:ふくやまミュージアム」の「草戸千軒遺跡」のコーナーを見学した折りに、同遺跡の鍜治古屋を復元したコーナーがあってことを、すっかり失念していたのであった。

おぼろげな記憶では、幅3間半、奥行き2間の細長い住居兼鍜治小屋の建物で、掘立柱に土壁、屋根は板葺きだったと記憶している。内部は左右二つに分かれており、土間が鍛冶場、板敷きの空間が家族の生活空間のこじんまりした家であった。

若しかしたら、このような狭いながらも機能的に充実した空間が、当時の刀鍛冶の一般的な製作現場だったのかも知れないと再認識した次第である。

もちろん、長船鍛冶の本流の文明、長享頃の勝光や宗光は先祖以来の豪族としての側面を持っていたので、このような鍜治小屋で作刀していたとは思えないが、長船の数打ち鍛冶や末関鍛冶の多くが作刀していた空間は、この「草戸千軒」の鍜治古屋のような工房だったと個人的には思っている。

同博物館の草戸千軒の出土品の中には、「太刀鎺」も一点、展示してあった。


相当以前、老刀匠と室町時代から江戸初期の刀鍛冶の話をした折りに、伺った内容だが、

「最高の鍛冶職が刀鍛冶で、次が槍鍛冶、最も腕が劣るのが矢の根鍛冶」

だと。

草戸千軒の鍜治小屋のような所で、コツコツと矢尻や槍を造っていた鍛冶も戦国時代には多かったろうと想った。

関東の後北条氏に使えた槍鍛冶や矢の根鍛冶も多数存在したと考えられるが、その殆どに関して、記録も伝承も残っていない。

それでは、古来、日本人が誇る日本刀が戦場の補助兵器としてしか機能しなかったのかも含めて、この項と次の新刀の甲で私見を述べてみたいと思っている。


(戦乱の激化した元亀、天正時代の打刀はどう変わったのか?) 

 永正前後の「打刀」は、日本刀史上の中でも最も短い刀だったと指摘した。しかしながら、戦場には、常に最新の武器だけが投入されているとは限らないことも日本史を読めば、理解頂けると思う。

例として、氏神として尊崇されている大きな神社には、殆どの場合、一族からの優美な甲冑や刀剣、弓矢等の武器武具が多数奉納されている例が多い。これは、崇拝する神への奉納品ではあるが、一面、緊急時の武器庫としての役割も担っていた。

一族の死命を制する合戦では、より多くの兵と出来るだけ多くの有利な武器を戦場に送り込む必要があった。

そう考えると、当時の現代刀である短い2尺2寸前後の「打刀」と南北朝期の3尺(91cm)を越える大太刀や鎌倉時代の2尺7、8寸(約82~85cm)の太刀が同一戦場で遭遇した場合、お考え頂きたい。

当然ながら体力に自信があれば、長い武器の方が有利であることはもちろんであるが、現実には、あれほど流行した南北朝期の延文、貞治頃の大太刀が室町時代に入って急速に衰微している事実一つとっても容易に理解できるように、当時の鍛錬を詰んだ武士といえども余り長い刀の使用は、長時間の戦闘で急速に体力を奪われ、最後は討ち死にするに至る原因となった可能性が高い。

そうなると最新流行の短い打刀が優勢かとみると、どうも、そうでは無かった気がする。実戦での実証例が未見なので、はっきりとは申し上げられないが、2尺2寸前後よりも、僅かに長い2尺3、4寸(約70~73cm)、あるいは、2尺5寸(約76cm)の刀が、天文や元亀天正頃に登場してくるのである。

その差、僅かに1寸~3寸(3~9cm)、しかし、この僅かな長さの違いが戦場での生き死を決定付ける大きな差になった可能性は高い。

そうなると戦国末期から、桃山時代に掛けて通常の武士の好む「打刀」の長さが、2尺3寸から5寸に集約して行ったと考えても、そう大きな間違いでは無いような気がする。現実に、当時の年紀を茎に彫った打刀の遺物も多い。

「いやいや、2尺3寸から5寸の長さの太刀は、応永頃も含めて多く残っており、全く新しい刀の登場では無い」

と、おっしゃる方が出て来る可能性も否定できない。(笑い)

その場合、応永年紀の2尺5寸の備前の太刀と天正頃の2尺5寸の末備前の打刀を二振り、並べて比較して見ると一目瞭然だが、応永備前の太刀の先幅はほっそりしていてスマートなのに対し、天正時代の刀は、先身幅も広く、切っ先も伸びごころで、やや重ねが薄く、如何にも斬れそうな姿をしている。

前にもお話ししたように、同じように鍛えた地金の刀の場合、先身幅が広い方が、斬れ味は優れていると考えて、大きな間違いでは無いような気がしている。同じ長さの日本刀でも、太刀姿のスマートな先幅の狭い形状の刀よりも実戦向きの戦国末期の打刀の方が、刃物としての実用性に富んでいると考えられる。


(実戦での打刀の活躍)

それでは、時代と共にやや寸法の伸びてきた刀や永正頃の短い打刀を使用して、戦国末期の武士達は、どの様な活躍をしたのか探してみたい。

最初に挙げた鈴木眞哉氏の「刀と首取り」に述べられているように、戦場での死傷者の中で、刀傷の比率は小さい。しかし、緒戦の飛び道具の戦闘に続いて、槍などの長柄武器による接近戦が起きて、そこで、勝敗が決する場合も多いが、最後の激闘の段階で刀が終局の勝負を決めるケースが全く起きなかった訳では無い。

打刀同士が激しく激突して、大きな刃毀れや曲がり、時には、一方の刀身が折れる最悪の事態も戦場で起きた可能性があったことも否定できない。けれども、残念ながら消耗品だった当時の打刀は、大きく破損すれば、直ぐに戦場で物と考えられる。しかし、中には、戦場での斬合い時の傷があっても、その家の先祖の武勲の証として、大傷を残しながら大切に保存されてきた刀や脇差もあったであろう。

我家にも脇差であるが、物打ちに大きな切り込み傷の二ヶ所ある大磨上無銘の山城伝と思われる中直刃の1尺4寸弱(約42cm)がある。江戸後期の外装が残っており、柄の親鮫や使用されている金具を見ても相当大切に江戸時代は扱われていたようだ。


さて、本題の方だが、三つの例を挙げて「打刀」に対する当時の人々の感覚を推測してみたい。最初に挙げるのは、末古刀の代表選手、孫六兼元の刀で、「青木兼元」と呼ばれている重要美術品の来歴に関する話である。

長さは、2尺3寸3分(70.6cm)、反り5分(約1.5cm)、兼元二字銘で、大板目の地に柔らかい三本杉の刃紋を焼いている。良く兼元というと尖り互の目の三本杉の刃紋だと主張する人がいるが、識者の間では、どちらかというと頭の丸めの草の三本杉の刀の方が有名な二代兼元の作が多いと言われている。青木兼元の帽子も美濃系らしく乱れ込んで地蔵になっている。

この刀が大活躍した年代と場所は、元亀元(1570)年の有名な「姉川の合戦」で、所持者の青木民部少輔一重は、この兼元を振るって、越前朝倉家の勇将真柄十郎左衛門直隆の子隆基を討ち取っている。

真柄父子は大太刀を豪快に振って周囲の敵を稲わらの如くなぎ倒すことで有名であり、父直隆は5尺余(1.5m以上)の太郎太刀を、子十郎隆基は4尺7寸(約1.42m)の次郎太刀で奮戦するところを遭遇した青木一重が子の隆基を幸運にも討ち取った武勲の記念品で、「真柄斬り兼元」と呼ばれている。

後で述べるが、秀吉も孫六兼元を愛用したように、当時の現代刀美濃物の中でも、兼元や兼定の刀は、織田徳川両家の士を始め武田家臣等の諸国の勇将、豪傑に愛用され、戦場で活躍している。


次の例は、短い打刀でも活躍できたのか、どうかについて選んでみた。

秀吉の出兵した「文禄、慶長の役」に参加した武将太田一吉の家来に「大河内茂左衛門尉秀元」という武士がいた。

大河内秀元は、若い頃、京の吉岡流を学んで剣術の奥義を極めた人らしい。吉岡流といえば、宮本武蔵の相手役として有名だが、武蔵と対決した確実性の高い古記録は残っていない。

流祖の吉岡憲法は一説では、小太刀の一流を考え出した人物とも聞く。当時、越前の戸田勢源が小太刀使いの名手として名声があったが、吉岡憲法もまた、小太刀技に通じた使い手だったのであろう。後年、吉岡一門の一人が、無礼のあった京都所司代の侍を相手に脇差で奮闘して切り死をしているので、どうやらこの一門には、小太刀技の伝統があったようだ。

小太刀と言えば、どうも、現代人は、小太刀の長さを誤解しているようなので、ここで、少し私見だが述べてみたい。2尺5~6寸(76~79cm)の長さが普通だった太刀の時代、年少者や女性、あるいは、通常の武士が戦場で二本目の太刀を帯びる場合、どうしても、長く、重い普通の太刀では問題があった。その解決法として登場したのが、通常の太刀より短い「小太刀」と呼ばれる太刀であったと考えられる。長さが正確には分からないが、2尺2寸~2尺1寸(約67~64cm)以下の短い太刀を差したようで、中には、2尺以下の更に短い太刀もあって、後年、磨上られて、江戸時代には脇差として使用された例も多い。

手元の所蔵品の小太刀も現在は磨上られて脇差寸法になっているが、元目釘の位置から推測すると本来の長さは、2尺1寸だったと考えられる。

この結果から考えられる室町時代の武士が考えている「小太刀」の寸法は、2尺1寸前後だったのではないか思われるが、如何であろうか?

もし、そうだとすれば、長い太刀や長い打刀を愛用する剛力な武士達は別として、小柄で身丈に合った2尺1~2寸の短い打刀を常用する侍が学ぶ剣術の流派としては、小太刀技を指導してくれる戸田流、吉岡流などの流派は理想的な入門先だったのではないかと想像するが、如何であろう。


吉岡流の小太刀技を学んだ成果か、どうか判然とはしないが、朝鮮の役の南原城の戦い(慶長2年)で大河内秀元は2尺1寸(約64cm)の短い打刀を使用して、馬上の敵四騎を次々と切り落としている。

その他にも秀元は、打刀を振るって難敵を何度も討ち取っているし、その間、肉薄して戦う近接戦の故か、己の兜を斬り割られたり、籠手に斬り込まれたりと生死紙一重の危ない戦いを朝鮮の役で繰り返している。

この辺の記事は、先に挙げた鈴木氏の同書の後半で取り上げられているので、詳しくお読みになりたい方は、同書をお読み頂きたい。

更に、詳細を知りたい方は、「朝鮮物語」あるいは、「大河内茂左衛門記」と呼ばれる秀元自身が後年に書いた貴重な記録があり、幕末の嘉永2年に版本として出版されているし、まだ、未見だが、1970年版の京都大学文学部本もあるらしい。(ご参考まで)


 さて、秀元の使い慣れた短い2尺1寸の「打刀」を使っての活躍はその後も続き、明国からの援兵を相手に秀元は仲間と共に刀で力戦している。

秀元は、打刀の使い方として、「片手打」、「諸手切」を臨機応変に使い分けて、勝ちを得ていったと考えられるが、長い長巻でも難しい馬上の敵を短い打刀で切り落とす秀元の妙技が、古流として今日まで伝承されていればと思わぬでも無い。

江戸時代の常寸から考えると遙かに短い打刀ながら、秀元のような熟達の士が使うと短さを感じさせないから不思議である。そんな秀元でも、何時も楽勝とはいえず、前述のように兜に斬り込み傷を受けるような相当苦しい戦いもしているが、無事、主君太田一吉と共に朝鮮から帰国している。

その後、今回の話の種の「朝鮮物語」を記述、長命な秀元は江戸時代の寛文年間まで生きて高齢で没したようだ。


次に考えてみたいのが、家伝来の鎌倉時代の名刀を所持して、戦場に望んだ武士とその後の名刀に関する後日談を追ってみたい。

これは、「奥羽永慶軍記」にある話だが、越後の上杉謙信の麾下の本庄越後守繁長が版図拡大を図って、当時、内訌状態にあった出羽の国、現在の山形県庄内地方に侵攻、庄内の有力者酒田の東禅寺筑前守と十五里原で戦った際の出来事である。

大敗が決定的になった東禅寺勢の中から、本庄勢の味方と称して、手に首を提げ、本陣の床几に座る繁長に近寄った武者がいた。

東禅寺筑前守の弟、同名右馬頭だった。右馬頭は突然、手に持った首を投げ打つと同時に本庄繁長に抜打ちで執念の一刀を斬り付けたのであった。

躱す暇の無い本庄繁長の兜に、右馬頭の振りかぶった相州正宗2尺7寸の大業物が直撃、兜の正面右寄りの筋四つを斬り削っている。しかし、無念にも敵を逸した東禅寺右馬頭は、その場で繁長の近習に討ち取られ、正宗の名刀も本庄繁長の分捕り品となってしまった。

この時の本庄繁長の兜は現在も残っていて、見た方も多いと思う。兜は、六十二間星兜で鉢金正面右寄りに言い伝えの通り、右馬頭無念の刀傷が残っている。一念を込めて斬り込んだ東禅寺右馬頭の一撃だったが高度な鍛錬と間数の多い兜の強度は優秀で、実物を拝見するとそう大きな傷にはなっていない。「奥羽永慶軍記」では、『重長が冑は二つに砕けて、太刀先内にぞ入りにける』と書いているが、現物の星兜の傷を見る限り軽度の刀傷であり、記述とは一致しない。多分、勇敢に戦って討ち死にした右馬頭に対する筆者の哀悼を込めた文飾であろう。

この兜は、「上州明珍」と在銘で、今の群馬県で造られた名冑である。関東各地で戦国時代造られた明珍や早乙女の六十二間筋兜や星兜は名品が多い。

その中でも、日本刀の強烈な斬撃にも良く耐えた実例として本庄繁長の命を救ったこの兜は貴重な歴史的遺産であり、更に、我々現代人が自分の眼で歴史を確認出来る幸せを感じさせてくれ名冑である。


一方、正宗の名刀は、この後、所持者が目まぐるしく変わる。正確には分からないが、本庄繁長から、上杉景勝、豊臣秀吉、徳川家康、そして、紀州徳川頼宣へ伝えられ、江戸中期からは将軍家の所蔵になったようだ。その間、本庄繁長の分捕りを記念する名物として、「本庄正宗」の呼称が与えられ有名になっている。

「奥羽永慶軍記」にはこの正宗の太刀の長さを2尺7寸としているので、天下人の誰かの所有の段階で、大きく磨上られて2尺1寸5分(約65cm)の打刀寸法に短くされた物と思われる。

多分、生茎うぶなかご、在銘だったかも知れない正宗の太刀を自分の使い勝手の良い短い打刀寸法に直すところが、如何にも天下人の所行なのかも知れない。こんな所に、過渡期の太刀の行方と変遷が感じられる皆さんも多いのでは無いかと思う。

名物となった「本庄正宗」の刀も昭和20年までは国内に現存していたが、進駐軍の没収に会い、現在では行方不明となってしまっている。

多分、アメリカ国内に現存すると想像されるので、一日も早い再発見を経て、日本の愛刀家の眼に触れる機会が訪れる瞬間を期待した。


(日本刀に最後を託す戦国期の武士の精神性)

戦国期の武士達ほど、生きにくい世の中を生きた人種はそう多くない。戦場で主君の為に死ぬことが義務付けられている反面、信頼しなければならない主君から、「上意」の名の下に突然、闇討ちにある危険性も高かったのである。

高名な一文字の名刀に、国宝、「岡田切り」吉房の太刀がある。この刀は、信長から子の織田信雄のぶかつに伝わった福岡一文字盛期の丁字刃が華やかな刀で、長さ2尺2寸8分(69.1cm)、反りは7分(2.1cm)と深い。

岡田切りの由来は、小牧長久手の寸前、豊臣秀吉と険悪な仲になった信雄が、重臣の岡田助三郎重孝が秀吉に内通していると疑い、伊勢長島城に岡田を呼び出し、誅殺した時に用いたので、この呼称がある名刀である。

疑心暗鬼の横行した戦国時代、主君といえども信用できなかった。最後に頼れるのは、常に帯びている大小の打刀か座敷の中では、脇差か短刀しかなかったのである。岡田重孝最後の時も前差一口だったという。同じ、斬られるにしても、武士らしく勇戦して斃れたいと戦国時代の武士は常に思っていたのであろう。そうなると、手近な最後の武器は、打刀の大小か、最悪の場合、短い脇差一口だったと可能性が高く、当時の武士が己の差料に高い精神性を求めたり、自己最高の芸術性を加味した拵えを造らせたりした心境も諸賢は理解されよう。


(桃山期の武士達が差した打刀とその拵とは!)

ここまで来ると当然ながら、戦国最末期や桃山時代の武士達が差した「打刀」と付属する「打刀拵」を知りたいと思うのが、当然であろう。

所が、ヨーロッパの本でも指摘されているように、日本の刀の場合、外装の製作年代と刀身の製作年代が合わない場合が、極めて多いのである。江戸期の大名家の拵えに平安や鎌倉時代の古い太刀が入っている場合も多いのと同様に、戦国時代に造られた末古刀の打刀の外装で、現在、残っている拵は予想以上に少ない。

今まで、この時期の打刀拵で、まとまって見たのは、東京国立博物館の「打刀拵」展で見た、法隆寺西円堂の奉納品三十数点位が、まとまって室町時代の庶民の刀の外装を拝見した数少ない機会であった。

確かに、この時代代表的な拵として、有名な「明智拵」等があるが、同様に残っている庶民や下級武士の拵は驚くほど少ない。

「束刀」と同じように、最低限の簡易的な外装を付けた既製の打刀拵は、刀身は別として、時代の服装や求められる外装の変化と共に急速に消滅してしまったと考えられる。

江戸時代に入ると戦国期の外装は徐々に交換されて、登城指の黒の呂鞘の大小や野歩きの半太刀拵に変身していったと考えられる。


まず、「打刀」の方から探してみると高名な山中鹿介が差し添えにした2尺1寸2分(約64cm)の備前長船祐定の刀がある。茎には、「山中鹿介脇指剣也 鯰江左京亮所持之」とあるので、戦場で山中鹿介が太刀なり、長い打刀を差した指し添えとして、祐定の打刀を帯びていたものであろう。当時、戦場に望む武士は、大刀が折れた時の用心に、2尺以上の脇差を帯びる習慣が多くあったようなので、山中鹿介もそうしていたのであろう。

先程、「青木兼元」の所でも触れたが、当時の現代刀「孫六兼元」愛好者の一人に、豊臣秀吉がいる。豊臣秀吉は古今東西の名刀を多く所有したことでも有名だが、秀吉というと直ぐ出て来る大小拵に「朱塗金蛭巻き大小拵」がある。この桃山期を代表する華やかな拵の実物をご覧になった方も多いと思う。中には、この絢爛豪華な魅力のある拵を明治以降、忠実に再現して造られた方も多いと聞く。

桃山らしいこの拵の大刀の中味は今、お話したように「孫六兼元」で、小刀は無銘の美濃物の薙刀直しが収められている。

諸大名の拵にもその家の家風や初代の好みによって色々ある。当時の現代刀である室町時代の打刀を愛好した大名に細川忠興がいる。忠興が愛用した「和泉守兼定」や「加州の信長」の刀は有名だが、それ以上に、兼定や信長の拵えに茶人でもあった忠興の美術的なセンスが大きく働いている。

世に言う「肥後拵」である。中でも、和泉守兼定の外装である「歌仙拵」と呼ばれる「腰刻黒漆研出鮫打刀拵」の出来は素晴らしく、後世の規範として多くの人の憧れとなった。


一方、徳川家康の遺愛刀で東照宮に納められている国宝の「助真拵」は、その名称の通り、中味は鎌倉期の備前福岡一文字助真の太刀である。家康は、どちらというと当時の現代刀である末古刀よりも鎌倉期の太刀を少し磨上げて打刀寸法に改造した刀に、一見質素ながら品の良い外装を付けて常用している。

最後に、駿府で死ぬ時に身近に置いた「三池」の刀の拵も「助真拵」と同様に、堅実な中にも隙の無い雰囲気を漂わす名拵えである。


反対に、桃山時代の自由奔放な拵えを好んだのは、毛利家当主の毛利輝元や前田利家であろう。輝元が、「陣刀」の大小として造り厳島神社に奉納した「漆絵大小拵」の鞘尻は大小共に大きく膨らみ、帯刀するのに苦労しそうな上、夜襲などの緊急時を考えると武士の差料として好ましい姿には見えないと個人的には思っている。柄も異様に長い上、古い時代の太刀の柄の反りを写したのか、先端が極端に反っており、抜き打ちにも、諸手使いにも不便そうであった。

この拵えを始めて見た折りに、

「この拵の人は、天下人の器では無い」

と、痛感した。

前田利家を代表する「雲龍蒔絵朱漆大小拵」は、若い頃から、歌舞伎者、婆娑羅者と呼ばれた利家らしい派手で、大振りな拵である。大刀の拵の全長は、116cmと記録があるので、当時としても相当大振りであり、遠目も利家と分かる拵だったと思われる。


一方、名刀、それも生茎の古名刀の太刀を数多く所蔵した上杉家の場合、長目の外装でありながら、品の良い拵えが多い。

中でも「山鳥毛一文字」や「高木長光」、「姫鶴一文字」の外装は、古風な独特の鍔の無い合口拵の打刀拵が残っていて好事家の興味を惹いている。

その他の打刀拵も関東管領家以来の伝統か、古風な中にも品位を感じる拵が多く残っている。


(室町時代二百年の打刀)

 銘を指表さしおもてに切った作刀は、鎌倉時代後期から散見されるが、本格的な「打刀」の登場は、室町初期の応永頃といわれている件は、先に述べた。その後、片手打ちに便利な形の打刀が完成したのが永正前後であろうか? 長さも2尺1~2寸、茎の長さも片手一握り程度と短い姿が、末備前鍛冶によって完成されたと考えたい。

しかし、戦乱が益々激しくなるに従って、「片手打ちにも諸手使いにも両用で使える打刀が求められていった」、その結果、戦国時代末期の天文から天正頃には、寸の伸びた2尺3寸~5寸の江戸時代の常寸に近い打刀が登場している。


一方、作刀の領域でも大きな変化が起きたのが室町時代であった。「五ヵ伝」と呼ばれる古くから続く刀剣生産地の内、相州、山城、大和が衰微し、三ヵ伝の鍛冶達は伝手を頼って地方に移住、地方鍛冶として、その伝法を伝えている。

備前伝の長船と関の美濃伝は室町時代を通じて隆盛を誇っていたが、長船鍛冶は天正18(1590)年の吉井川の大氾濫により壊滅的な打撃を受けてしまい、多くの優秀な鍛冶を失った結果、残った美濃伝が主役となって「新刀」の扉を開くことになるが、詳細は事項に譲りたい。


外装的にも、室町時代後半の永禄、天正の頃から中級や下級武士はもちろんのこと上級武士層の殆どが「打刀拵」の大小を腰にするように変化したと考えられる。

江戸時代と違って、各大名始め武士達の個性が顕著に表れた時代、金ぴかの拵を帯びる者、古風な真っ黒の合口拵の大刀を差す者、金具のしっかりした半太刀拵えの大小を常に帯びる者と上記の様に個性豊かな時代であった。

拵の中味も鎌倉時代の磨上在銘の太刀だったり、南北朝の大太刀を大きく揚げた無銘の打刀だったり、当時の現代刀である備前長船祐定や孫六兼元の刀等、千差万別、個性豊かな時代であった。 

しかし、そんな中にも時代は進化しており、永正頃の短い刀から2尺3寸を越える長い打刀へと集束しつつあったのである。それも、応永期の先の細いスマートな2尺3寸前後の太刀姿とは大きく異なった南北朝期の大太刀を磨上たような、身幅が広く中切っ先伸びごころの強い姿にまとまりつつあったのが、桃山時代であった。


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