25.「打刀」の登場
現在残っている名刀について、前回、国宝を中心に概略を述べてみた。確かに、神韻漂うような「伝家の宝刀」となると、反りが深く踏ん張りの強い(元幅に対して先幅の狭い)太刀姿の古刀を、どうしても、思い浮かべてしまう。
古刀の中でも、如何に古い太刀の時代(平安、鎌倉、南北朝期)に『国宝級の名刀』が多かったかを書いたので、新刀好きの諸兄の顰蹙を相当に買ったのでは無いかと心配している。(笑い)
しかしながら、今日残っている日本刀の殆どは、太刀では無く、室町時代以降の「打刀」であり、時代的にも戦国時代(末古刀)から江戸時代を通じて製作された打刀は、日本人に最も身近な日本刀と言っても良いであろう。
友人の家の伝来品を拝見しても、在銘品の古い時代の太刀を見たことは、これまで全くと言って良いほど無かった。また、旧家の蔵刀を拝見する機会に恵まれて、相当数の大小を出して頂いた場合でも、新刀と末古刀が殆どで、それに、新々刀と無銘の中古刀が混じる程度が多かった。
今回は、前回に触れきれなかった室町時代から登場する「打刀」について、考えてみたいと思っている。「打刀」は室町時代に始まり、戦国時代、江戸時代(新刀、新々刀)を通じて、日本刀の主流の座を占めて、今日に至っている。
太刀に比較すると時代が新しいせいか健全な刀身が多く、長さも手頃で、持ってみても振りやすそうな感じの刀が多い。室町期の「打刀」で直ぐ思い出すのが、末備前の刀工群である。特に、末備前の俗名入りの刀は魅力に富む刀が少なく無く、姿の美しく、地と刃紋も明るく華やかな末備前の名刀を愛蔵されている諸先輩も多い。
そこで、本稿では、打刀の登場した室町時代から戦国時代末期までの日本刀について、逍遙してみたいと思っている。逍遙であるので、当然ながら脇道に入って迷う場合も、袋小路に入って困惑して元の道へ戻ってしまうケースもあると思うが、ご容赦頂きたい。
(太刀と打刀の違い)
刀に関する質問として多い質問は何かと、名刀展の展示説明員の方にお聞きすると、多い質問の一つに、
「太刀と刀の違い」
に関する話だと言う。
この質問は、小学生から始まって、年配者まで良く聞かれるらしい。その際には、
「太刀は、平安時代から南北朝期まで使用されていて、刃を下にして佩用し、拵えも足金物で腰に吊すのに適した拵えになっているのに対し、刀は、室町時代から始まり、着物の帯に刃を上にして帯刀するので、展示も太刀は刃を下にして展示、刀は刃を上にして展示してある」
と、説明すると、概ね納得して貰えるのだそうだ。
中には、
「展示してある太刀は長いのに、刀は、どうして、短いの?」
とか、
「現代刀に太刀と刀が、あるけれども、何処がどう違うのとか」
詳細の説明を求められて苦労する場合もあるらしい。その時には、
「太刀と刀の外装の大凡の違いを説明した上で、目釘位置の差をお話して、ご了解を頂く」
と、その人は言っていた。
確かに、同じ展示場に、太刀拵と打刀拵の両方が都合良く展示してあれば、説明者も助かるのだが、打刀の拵と違って太刀拵は少なく、古い太刀拵と室町期の打刀拵が、説明員に都合良く、並んでいるとは限らない。(笑い)
(何故太刀では駄目だったのか? ⇒ 打刀の登場の背景)
平安、鎌倉時代の武士達の代表的な戦場での姿というと、ご想像の通り、馬上の大鎧姿に太刀と弓矢を手挟んだ姿である。伝来の大鎧も太刀も高価な物であり、相当な豪家でも郎党全員に与える鎧や太刀に苦労したと思われる。
南北朝期のうち続く戦乱は、鎧も式正の大鎧から着脱が簡便で、製作の容易な「胴丸」や「腹巻」ヘの移行を促している。この傾向は、室町時代に入って更に加速された。
太刀の方も同様で、室町時代初期の応永期になると、軽快な「打刀」が製作され始め、徐々に下級の武士達から普及していったと推測される。
足利将軍家の権威と南北朝統一により一端収まったかに見えた戦乱も、足利将軍家の権威が確固として確立して三管領家(斯波、畠山、細川)や四職家(一色、赤松、京極、山名)に対する調整機能がしっかりと機能している内は、まだ良かったが、将軍家を筆頭に両管領家や四職家が東西両軍に分かれて闘争を始めた「応仁の乱」に至ると共に、収拾の付かない全国規模の争乱に発展。両陣営双方が兵力の拡大競争に走った時、従来存在しなかった最下級兵士が出現してきたのであった。
『足軽の登場』である。
応仁の乱を経験した、有名な東福寺の禅僧雲泉太極の日記「碧山日録」によると、「足軽は胴だけの鎧に兜も被らず、槍も持たず、唯、一振りの刀を頼みに敵陣に突入する(意訳)」と記録している。
この日記から、腹巻きだけの鎧に、籠手、脛当ても付けず、手頃で短めの打刀を存分に振るって暴れ回る足軽の姿が想像できる。騎馬による騎射戦が減って、徒歩による近接戦闘が増えた関係で、従来の下級兵士が持つ弓矢、薙刀等の主要武器の他に、打刀一本を頼りに奮戦する足軽が有力な戦力になりつつあったのである。
我国初めての大規模な内乱となった「応仁の乱」では、東西両軍共に、それぞれの領国から総動員で京に兵を集めた。両軍の動員数に関しては諸説があるが、一説には、東軍十六万、西軍十一万といわれている。
そうなると、動員した全ての兵に、従来通りの充分な武器弓矢、槍、薙刀の他に太刀を帯びさせる経済的な負担は、想像できないくらい過重な物となった。その結果、前述のように、「打刀一本」で戦う足軽の登場となったと思われる。
その点、武将級が所持する太刀に対して、中下級武士向きの「打刀」は、安価で大量生産向きであり、外装も簡素な木の鞘一本で済んだと考えられる。
その極端な例が、「束刀」と称される一群の打刀の量産品で、足軽などの最下級の兵士への支給品としては、理想的な武器だった可能性がある。
一方、「束刀」は、明国や李氏朝鮮を含む海外への輸出品としても有効な側面も持っていて、多い年には三万本を超える束刀を輸出している。
「束刀」は主に末備前を主に輸出されていたが、後には、備後の三原物や豊後の高田物も輸出に参加しているようだ。
更に、打刀が量産化に向いていた原因の一つが、刀の外装の簡略化に成功した点であろう。太刀拵えの場合、柄の縁頭金具はもちろんのこと目貫、鍔、大小の切羽、太刀緒を通す足金物二つ、鞘の鯉口、小尻の石突金物、鞘の後半に嵌める責金物等、多くの金属部品を必要とする。
それに対し、最も簡略な「打刀拵」になると、金属製の金具は、柄の縁金物一点で、頭や鯉口、小尻は角にして、場合によっては、鍔も省略した上、栗型も角では無く、木地で代用した物まで存在している。柄も木綿の平巻きやつぶし巻きにして目貫を省略した上、上から漆を掛けて、戦場での耐水性と耐久性を改善した実用本位の簡便な外装も多かった。
(日本刀が最も短かった時代)
ヨーロッパ中世の騎士の鎧や剣が、イタリアのルネッサンス期になると大きく変化したように、日本の場合も南北朝時代に最も長大化した太刀が、室町時代初期の応永頃になると鎌倉末期のような優しい太刀姿に変っている。
応永の次の寛正頃になると、太刀よりも若干短めの軽快な「打刀」の製作が増え始め、打刀の時代への移行が開始された。
その後、前述したように、「応仁、文明の乱」以降の戦乱の頻発と共に、「打刀」の生産数が増大して、「太刀」が少数派に転落している。
それだけ、日常生活の中で常住坐臥所持するに便利な、「打刀」が足軽だけで無く、下級や中級の武士層に浸透、普及したことを示している。
この時代の打刀の代表的な作品の一つに、備前、播磨、美作三ヶ国の守護であった赤松政則が、織田信長の曾祖父織田大和守敏定の為に自ら作刀して贈った、重要美術品指定の刀がある。長さ2尺8分(63cm)、良く沸えの付いた大互の目の刃紋で、反りが6分(約1.8cm)と深く、小振りながら華やかな打刀である。
この重要美術品指定の刀を見た居合関係の人は、一様に、
「短すぎる!」
「いくら何でもこの長さでは、戦いにならない」
と、おっしゃる。
この打刀の年紀は、「長享3年8月16日」で、西暦に直すと1489年に当たる。時代的には、応仁、文明の直ぐ後で、永正、大永の少し前の年代になる。永正といえば長船次郎左衛門尉勝光の永正9年紀の傑作の打刀があるが、勝光の刀は、更に短く、2尺1分(60.9cm)であり、現在の基準では、やっと刀の分類にギリギリ入る位である。
しかし、「応仁の乱」に続くこの時代は、実は日本刀が最も短かった時代なのである。
中には、2尺を切る、現代の分類では脇差に入れられている「打刀」も多い。末相州の彫りの有る傑作の「総宗」や「廣正」の脇差で、2尺に僅かに満たない良く詰んだ地金に冴えた刃紋の刀身を拝見したことが何度かあるが、当時としては、当然、「打刀」として製作された物と思う。
備前刀でも、同様に、2尺に欠ける長さの注文打の所持銘入りの佳作を拝見したことがあり、小板目の良く詰んだ備前らしい地金に小沸出来のゆったりとした互の目が印象的だった。
永正、大永頃のこの時代の刀は長いものでも2尺2寸強の刀が多いように感じる。もちろん、2尺3寸以上の打刀も無い訳では無いが、2尺3寸以上の打刀が本格的に登場してくるのは、次の天文から永禄の時代を待たなければならない。
それでは、短めの「打刀」が主流だった室町時代の刀剣製作の世界は、どの様な業界だったのか、軽く勉強してみたい。古刀と言うと良く、「五ヵ伝」の話が出る。「山城伝」、「備前伝」、「大和伝」、「相州伝」、「美濃伝」の五つの作刀伝法である。
しかしながら、鎌倉幕府の滅亡と共に、「相州伝」は衰えたし、戦乱の続いた京を中心とした「山城伝」も衰弱著しく、有力寺院に依存していた「大和伝」も室町期に入ると地方に移住者が増えて本国は衰微していった。
そんな中で、平安時代から続く「備前伝」と新興の「美濃伝」が、室町期の東西の刀剣有力生産地として活況を呈していた。
次に、室町期の大生産地、西の備前と東の関の概要を整理して見たいと思う。
(末備前刀の世界)
最初に、平安時代以来の日本刀最大流派の「備前伝」から考えてみたい。備前伝が最高潮に達した鎌倉時代、多くの流派が備前に発生したが、大動乱期の南北朝時代を経て、室町時代後期の戦国時代には、主流の「長船派」に吸収合併されて、備前刀と言えば、「備前長船」と呼ばれるまでになっ
室町時代に入っても備前刀は東の関と共に発展、繁栄を続け、次に述べるような注文品から束刀まで広範囲な刀を造り続けている。
その結果、備前長船には、守護大名クラスの最高級注文品から、武士の所持銘入りの刀、そして、明国、李氏朝鮮、東南アジア諸国への輸出用の束刀を含めて、各種各様の注文が全国から求められる事となった。
その各種雑多な注文に対応するために、長船では、高級ブランド品から、高級既製品、量産廉価品まで、客先の如何なる要望にも応えられる体勢が整備されていったと考えられる。それは、今残っている末備前の刀の茎の銘を見てもはっきりしている。末備前の著名工「長船祐定」銘を例に、4つの段階について略述してみたい。
1.備前国住長船与三左衛門尉祐定銘 ⇒ 俗名入り特別注文銘
2.備前国住長船祐定銘 ⇒ 注文銘に準ずる備前国住銘
3.備州長船祐定銘 ⇒ 量産数打ち銘、束刀銘
4.祐定二字銘 ⇒ 量産それも束刀に多い銘か?
1の俗名入りだが、このレベルの刀の場合、注文者である武士の名前、「所持者銘」も彫られているケースが多い。2の「備前国住」銘の場合、造り込みと出来で判断するしか無いが、がっしりしていて健全な刀身の場合、注文打ちである場合が結構あるようだ。
3番目の「備州長船」銘のケースでは、1、2以上に手慣れた鏨で、どの刀でも同じように見える専門の銘切師によって銘が切られていると感じられるケースの銘が多い。この場合、刀自体も、何処かスマートで、過不足が無く、刃紋の明確に見える刀身が多い。逆に見ると、刀身が何処か貧弱で、豪壮さに欠ける刀が多い。言うなれば、数打ちの束刀の可能性が高い。
4の祐定二字銘では、雑多な刀が混入しているようで、個人的には良く解っていない。長船の古刀あり、新刀ありの上、どう見ても長船には見えないような偽銘刀まである上、二字銘の脇差、短刀もすこぶる多い。
しかし、中には、短刀で「祐定」二字銘ながら、出来も良く健全で良く出来た注文打ちと思われる鎧通しの短刀と時代の古い「忠光」の短刀を拝見したことがあるので、二字銘だからと言って、軽視するのは危険である。
(「美濃伝」の勃興)
一方、末古刀の東の雄、「美濃伝」の場合、室町期の応永以降、急速に勢力を拡大していった伝法である。
刀剣趣味の人と「末関」の話をすると、和泉守兼定(之定)や孫六兼元(二代兼元)、兼常等数名の有名等工を除くと殆ど興味を示さない場合が多い。銘鑑の刀剣価格を見ても、僅かな有名刀工を除いて、位列も低く、価格も低く表示されているケースが殆どである。
末関を数振り持っている話をしても、
「見せて欲しい」
と、言われる場合は少なく、殆どの場合、
「次回、機会があれば見たいね!」
位の軽い会話で終るのが大半である。
これが、備前の古いところ、「一文字」や「初期の長船」を所持している話でもしよう物なら、話をすると良く自宅に押し掛けられて困るので、なるべく話をしないようにしていると、先輩が言っていた。
その位、「末関」の刀の場合、軽く見られているのが実態であろうか。
最後に、全くの私見で恐縮だが、付け加えておくと、どうも、備前の数打は外観的な姿の美しさと刃紋の良さを追求し、関の数打は外観よりも安価に造れて、斬れ味の良い刀を求めて作刀に励んだ印象を個人的には感じている。
それから、美濃伝の場合、はっきりと注文品と解る刀が思いの外少ない。同様に、美濃伝の大家山田栄先生やご子息の山田靖二郞先生が認めていらっしゃる同伝の完成度の高い刀も予想以上に少ないと感じている。
しかし、他の五ヵ伝の名刀と違い、美濃伝の名刀は比較的、気楽に斬る機会に恵まれる場合が多い。研磨前の薄さ錆の状態ながら、孫六兼元も和泉守兼定、疋定も試す折りに恵まれた。中でも気持ちよく斬れた(巻き藁だけの試しだが)のが孫六兼元だった。
孫六兼元は赤坂住だが、和泉守兼定始め多く刀工は「関」を中心に活躍し、戦国時代のこの地方の刀鍛冶の作品群を「関物」と一括して呼んでいます。刀の茎の銘も兼某と二字銘に切るケースが大半で、いちいち覚えていられないほど刀工数は無数に存在した。(笑い)
(実際に室町期の打刀を使ってみると!)
末古刀の打刀の多くは、2尺1~2寸(約64~67cm)前後の短い物が多く、永正前後の年代の打刀の中には、2尺(約61cm)を切る、現在では登録上「脇差」で記載されている刀もある点は上述した。
実際に、片手抜打ちで、この時代の打刀を使ってみると軽快この上ない使い心地である。短い割には、先身幅が広く、刀身もがっしりしていて、斬る時も安心していられる。
斬れ味も、実戦の時代の刀だけに、平均して良く斬れ、脇物の中にも斬れ味で有名な刀も多い。強いて欠点を挙げるとすると、第一に刀身の短さだろうか。江戸時代後期に著しく発展した今日の「居合道」の場合、両手持ちで使用する上、長さも2尺3寸5分~2尺5寸(約71~76cm)前後の刀が好まれている為、好適な刀とは思われない。
それに、当時の打刀が片手打ち用に造られている関係で、末備前刀など茎が極端に短い。そのせいか、新々刀風の長い茎の柄に慣れている現代人には、何処か違和感があって、柄を握った場合、心証的に整合が取れないところがある。
江戸時代の実証例でも、優勢だった武士が斬合いで、末備前の短い茎だった為に、柄が折れて、負けてしまった話もある位である。
しかし、その一方、南北朝以来の長大な刀を好む武士も多かったと見えて、剛勇の士の注文であろうか長い打刀も造られている。
以前、そう長い刀では無いが、文明頃の2尺5寸(約76cm)の反りの深い末古刀を二振り所持していたし、現在所持している2尺3寸(約70cm)の平高田の在銘の刀も磨上前の元の長さは、元目釘から推測すると2尺7寸(約82cm)以上ある豪壮な刀だったことが分かる。
この三振りの刀は全部、五ヵ伝の本国のものでは無く、脇物の刀だが、斬れ味から見ると末備前の数打ちよりも優秀な性能を示した。
脇差の斬れ味も戦国期の物は優秀な物が多く、数打ちであっても江戸時代の数打ちと違って、「箸にも棒にもかからない」ような、所謂、使い物にならない脇差にお目に掛かることは少ない。
現在まで、友人の所持する脇差を含めて、相当数の脇差で斬ってみた中で、記憶に残る斬れ味の脇差が数振りあった。
その中の一つは、美濃伝の菖蒲造りの脇差で、室町時代前半位に見える研ぎ減った刀身ながら、斬れ味は刀以上だった。
(備前刀と末関の斬れ味比較)
両方の伝法共に特注品の健全な打刀は、試したことが一度も無いので、備前も関も「数打ち」の刀の斬れ味比較とお考え頂きたい。
まず、手に持った場合の印象だが、上記の様に備前は、手持ちも良く、姿もスッキリしていて、刃紋も明るく、直刃も多いが小沸出来で丁字刃の華やかな刀も多く、万人向きの印象が強い。
一方、末関の刀は、疲れたような白気映りの立った地金が多い上、金は北国物程ではないが何処か冴えず暗い印象がある。刃紋も焼きの低い直刃や尖り刃の混じった互の目ながら、匂い出来で何処か華やかさに掛け暗く沈んでいる刀が多い。
特に両者で大きな違いがあるように感じるのが、鍛錬で、備前が独特の綺麗な肌をしているのに対し、美濃伝の方は、やや鍛錬不足を感じさせる仕上がりの肌が多い。
多分、想像だが、美濃伝の数打ちの場合、鍛錬回数を極力省略して作刀していたのでは無いかと個人的に思っている。
この20年程の間に、両者の数打ち十数振りを試し斬りする機会に恵まれた。両者の合計が十振りを僅かに越える数なので、備前と美濃の末古刀の斬れ味全般を判定するのは無理とは思っているが、両者の斬れ味について、私見を述べてみたい。
試した少ない範囲ながら、末関が圧倒的に斬れたのである。末備前も脇物の一般的な刀よりは斬れたのだが、関の刀の斬れ味と抜けには、大きく差を付けられた結果だった。
但し、備前刀の為に弁明して置くと、応永備前など室町前半の備前刀は良く斬れるし、前述のように、注文打ち等のしっかり造った末備前の打刀は試していないので、この結果は、割り引いてお聞き頂きたい。
同じ、末関の刀でも新古境の新刀期に近い関よりは、やや古い美濃伝の刀の方が斬れ味の点からは優秀な感じがした。
友人はその中でも、特に、宝徳以前の美濃刀を推薦していたが、一理ある見解だと私も思っている。