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24.新春名刀散策

新春の穏やかな昼下がり、初詣に都内の大きな神社に行くと華やかな振り袖姿が参道の入り口から奥の社殿に続く参道のあちこちに見えて、何となく平和で華やかな雰囲気を味わえて、微笑ましくも心温まる感じがして良いものである。

以前、ベトナムの首都ハノイの文廟を尋ねた際にも、アオザイ姿の女学生と思われる集団を見て、平和と若い女性独特の爽やかさと民族文化の美しさに感動した記憶がある。

江戸時代、大名の奥方や姫君の周辺に仕える女性で、「別式べっしき」と呼ばれる女性の一群があったと聞く。女性ながらも袴を着用、大小を帯刀して高貴な女性達の警護に当たっていたという。

最近、「別式」では無いが、各地の居合道場で腰高に締めた袴に大刀を差して、型稽古に励む女性も増えてきた。中には、型の修練だけでは飽き足らず、奉納演舞などで巻藁斬りに挑戦して見事な技を見せる若い女性も多い。


それ以上に近年、多くなったのが、「名刀」を常時多数展示している施設、例えば、上野の東京国立博物館の刀剣室や日本美術刀剣保存協会、沼津の佐野美術館等々の展示施設での女性の急増である。特に、著名な「三条宗近」や「童子斬り安綱」等の名刀の前には、20代、30代を主とした若い女性層の観客が多い。

以前は、上野の東京国立博物館の刀剣展示室に行っても中年から熟年のおじさん達ばっかり(笑い)だったのが、全く様変わりした明るい雰囲気になってしまった。

先日も東京国立博物館の十一面観世音菩薩像の特別展を見に行ったついでに、刀剣展示室を覗いてみたら、やはり、数年前とは大違いで、予想以上の数の若い女性が一文字や長光の太刀を覗き込んでいた。

中には、刃紋と映りを観察しているらしく、立ったり、屈んだりして刀身からの反射光の見える角度を変えて熱心に見入っている女性も一人見受けられたので、思わず、微笑んでしまった。


(世に言う名刀とは!)

そこで、今回は、庶民からは遠い世界の世に言う、「名刀」について考えてみたいと思っている。「名刀」と言っ」について考えてみたいと思っている。

初心者の頃、先輩達に「名刀」について質問すると、


 ・第一に形が造られた当時の健全な姿を保っていて美しい事

 ・第二に地金が冴え冴えとしていて良く整っている事

 ・第三に刃紋に品位があり、刃中が良く働いている事

 ・伝来がはっきりしていて昔からの所持者が良く解っている事


等を教えられた。しかし、あの当時から相当の年数が経過したにも関わらず、第二、第三の内容を未だに完全に理解できず、路傍を彷徨っている現状なので、比較的素人でも分かり易い、第一の刀の姿を中心にこの度の会話をスタートしてみたい。


かといって、普通の一般家庭である我家に所謂、「名刀」があるはずも無いので、一般に出版されている入手し易い刀剣用参考資料の中から、名刀を紹介している一般的な書籍、例えば、学研の歴史群像編集部編「図説 日本刀大全Ⅱ」(2007年)を中心に引用させて頂きながら紹介を開始したいと思っている。


(日本刀の中で御物、国宝の最も多い時代)

名刀の姿の詳細に入る前に、真っ直ぐな古代の大刀たちは別として、所謂日本刀の形状が完成した平安時代中期から現代に至る長い日本刀の歴史の中で、「名刀」が最も多く出現した時代を探してみよう。

一般人には、どれが名刀か皆目見当が付かないので、手短に名刀を探すために、「御物」と「国宝」の刀のリストから製作年代を推測してみることにした。

その結果、「御物」と「国宝」が最も多い製作年代は、日本刀の長い歴史の中でも、平安から鎌倉時代の太刀であることが解った。

有名な「天下五剣」を含めて、御物、国宝に指定されている日本刀の殆どがこの時代に製作された太刀の名品といっても過言では無い気がする。


刀剣の世界で良く聞く古刀の、「五ヵ伝」も最も時代的に新しい美濃伝以外の大和伝、山城伝、備前伝、相州伝の四つの伝法も鎌倉末期までには全て出揃い、名工が競い合った時代、それが鎌倉時代中期から後期に掛けてであり、平安時代に創造された日本刀の太刀姿が完成したのが鎌倉時代中期と考えても大きな誤りでは無いと個人的には思っている。

名刀の素晴らしい刃紋や冴え冴えとした地金の表現は上記に述べたように極めて難しいが、日本刀の姿に関連する「刀身の長さ」や「反り」は、数値で表現できるので、室町時代から有名な「天下五剣」を参考に、この二つの数値をピックアップして、最初に考えてみたい。


(「天下五剣」の刀身の長さと反り)

幸いな事に昔から伝えられてきた「天下五剣」が何れも現存しているので、五口の太刀の長さ(刃長)と反りを取り上げて見よう。時代的には、何れも平安後期から鎌倉時代の太刀で、もちろん、打ち刀は一口も入ってはいない。


                 長さ(cm)    反り(cm)

1)童子斬り安綱     79.9      2.7

2)三日月宗近      80.0      2.7

3)大典太光世      65.75     2.7

4)鬼丸国綱        78.2      3.2

5)数珠丸恒次       81.1      3.0   


太刀や刀の長さに関しては古来、使用者の体格その他が大きく影響するので置くとして、製作年代が平安から鎌倉期の「天下五剣」の反りは、太刀の時代もあって、反りの中心が太刀の鎺元近くの腰にある、俗にいう「腰反り姿」で、反りも相当に深い9分(2.7cm)から1寸1分弱(3.2cm)の反りである。

今日、居合を修行されている方の愛刀の反りの平均は、5分(1.5cm)~6分(1.8cm)前後と何度かお伝えしているが、その反りから考えると天下の名刀、「天下五剣」の太刀の反りは何れも倍に近い深反りである。


平安期から鎌倉期に掛けての太刀は、馬上での擦れ違いざまでの片手での斬合いが多かったせいか、駆け抜けザマに斬っても太刀の深い反りにより、抜けが良く、切っ先に近い身幅も細く、持った感じが軽くなるような工夫が感じられる優美な姿をしている。

特に、平安時代の毛抜き型太刀など、刀身全体の反りは浅いが、腰元で折れるように深く反って独特の姿をしている。

しかし、この「腰反りの強い平安鎌倉期の太刀姿」こそ、古刀を愛好される趣味人が最も求めて止まない究極の日本刀の姿であると言っても過言では無い。

それでは、もう少し調査範囲を「重要文化財」まで広げて、前出の資料からこの時代の名刀の「長さと反り」をピックアップして探求してみよう。


(「国宝」、「重文」から見た平安鎌倉の名刀の姿)

それでは、もう少し、「国宝」、「重要文化財」指定品の多い平安、鎌倉期の名刀を取り上げて見よう。「大包平」は現存する名品の中でも第一等の傑作で、童子斬り安綱と共に日本刀の両横綱との世評が高いし、古今伝授行平と獅子王太刀は、如何にも平安時代の太刀を彷彿とさせる古雅な姿の太刀である。

鎌倉時代に製作された山鳥毛と大般若長光は姿も美しいが、それ以上に華やかで変化の飛んだ刃紋が称讃されている太刀である。


              長さ(cm)     反り(cm)

1)大包平        89.2       3.5

2)古今伝授行平    79.9       2.9

3)獅子王太刀     77.5       3.0

4)山鳥毛一文字    79.5       3.4

5)大般若長光     73.6       2.9


何れも名刀の名に恥じない、国宝か重要文化財の優美な姿の名刀ばかりであり、優美な姿の陰に実戦での使用に耐えうる長さと反りを持つ当時の武士達の好みが実感出来る太刀である。

長さで見ると、この中で、一番短い大般若長光で2尺4寸3分、最も長い大包平で3尺近い2尺9寸5分なので、現代人と異なり膂力に優れた当時の鎌倉武士達の嗜好から、長大な太刀を求めていた事が解るし、元寇の実戦で長い太刀を片手で軽々と振るう鎌倉武士の勇姿も想像できるような気がする太刀ばかりである。

一方、反りに関しては、この五口の太刀は「天下五剣」よりも全体的に反りが深く、1寸弱(2.9cm)から1寸2分弱(3.5cm)である。

以上、「天下五剣」を含めた十口の太刀から想像できる平安後期から鎌倉期の健全な太刀の反りは、9分(2.7cm)から1寸2分弱(3.5cm)前後の深い反りを通常持っていると考えて大きな間違いが無いように思うが、如何であろうか!


(名刀の先身幅)

それでは、長い刀身に反りの深い古名刀の場合の先身幅は、どの様になっているのだろうか?先に挙げた「天下五剣」と今挙げたこの五口の中から、五口の太刀の先身幅を正確では無いだろうが大体の時代順で次に示す。

                 先身幅(cm) 

1)三日月宗近       1.4 

2)童子斬り安綱      1.9  

3)古今伝授行平     1.7

4)大包平          2.5

5)鬼丸国綱        2.0

6)山鳥毛一文字     2.3

7)大般若長光       2.1


製作年代が平安時代と考えられる宗近や安綱、行平は大包平の2.5cm幅を別格とすると概ね研ぎ減りも有るせいか、1.4cmから1.9cmで6分3厘以下のスマートな細い先身幅であることが解る。

鎌倉時代の太刀である国綱、山鳥毛、長光の先身幅も平安期よりは広くなったものの、それでも、2.0cmから2.3cmで、8分以下の先身幅に収まっている。


結論から言うと平安時代から鎌倉時代の太刀は、江戸時代の刀に比較して、刀身は長く、腰反りが付き、反り全体も深い。刀身の元幅に対して先幅は狭く、元先の身幅の差が大きく如何にも時代を感じさせる優雅で凜とした姿をしている。

これらの国宝級の名刀群の究極の美を明快に説明する能力も鑑定眼も私には無いが、素人が見ても姿に美しい地金と静かで凜とした中にも働きの多い刃紋を併せ持つ古名刀は、多くの人々の心を一千年に渡って引き付ける魔力を秘めている。

最後に、余分な話を付け加えておく、長寸で反りの深い古名刀の太刀を持つ場合、注意を要する。反りの浅い江戸期の打ち刀や末古刀の反りと異なり、鞘から抜く場合も反りの深い分、慎重にゆっくりと抜いた方が安全だ。また、拝見を終って、鞘や刀枕に戻す際も、予想以上に早く刀身が倒れそうになるので注意が必要である。


(先幅の広い名刀:南北朝期)

平安時代から鎌倉時代の古名刀の場合、比較的、先身幅が狭いと述べたが、次の時代の南北朝期になると、この原則が大きく崩れる。

南北朝時代の代表的な太刀姿というと延文貞治期の身幅が広く、大切っ先で長大な太刀を思い浮かべる方も多いと思う。

名物の「へし切長谷部」や「義元左文字」の先身幅は広く、2.5cmと8分を越える幅広の刀身である。この両刀以外でも「にっかり青江」や「大兼光」、二荒山神社の「倫光」の大太刀等、大切っ先で先身幅の広いこの時代の太刀は多いし、コレクター間でも、備前兼光や長義の豪壮な太刀を愛蔵されている人も沢山いらっしゃる。


しかし、諸先輩に聞くと大太刀の場合、地金の良く冴えた刃紋の優美な刀は予想外に少ないと教えられた。長大ながら完成度の高い二荒山神社の倫光や大山祇神社の千手院の大太刀は別格で、刀身が長い分、何処か地金が緩んだ部分があり、破綻無く完存している本数は、意外に少ないだろうとのこと。

それ以上にこの時代の大太刀は、戦国時代末期から江戸時代に摺り揚げられて、常寸の打ち刀に短くしてしまった刀が多い。若しかしたら、身幅が広く大切っ先の無銘の刀をご覧になった場合、南北朝時代の古い刀である可能性が高いので、慎重に扱われた方が安全かも知れない。


(名刀でも製作年代によって違う評価)

 さて、南北朝まで来たが、次の室町時代に入ると「国宝の刀」がパタリと無くなってしまう。「国宝指定の名刀」は、時代的に平安鎌倉時代が主体で、それに南北朝期の名工が名を連ねるくらいであり、室町時代、即ち、応永(1394~1428年)以降の刀工の国宝に指定品を国宝リストから発見することは出来なかった。

次に、重要文化財の日本刀だが、国宝122口に対し、指定品790口と数量的に6倍を超す指定品があることが解った。これだけの数の指定品がある重要文化財のため、指定品の時代も国宝よりは相当広く、平安から江戸時代中期となっていた。応永の備前盛光や戦国期の与三左衛門尉祐定、新刀の雄堀川国広や長曽根虎徹、大坂の津田助広や井上真改等々、室町時代から新刀期の至る名工が名を連ねていた。

しかし、江戸中期以降の刀工の名は、重要文化財リストには無く、最近とみに評価の高い源清麿の「窪田清音の清麿」にしても指定は重要美術品止まりである。


このように、国指定の文化財の刀に於ける時代区分として、大雑把に、国宝は南北朝時代まで、重要文化財は新刀まで、重要美術品は江戸時代末期の新々刀期までと理解している。もちろん、美術品の評価も時代と共に大きく変化するので、将来、現在と同じ評価が永久に続かない可能性もあるが、当面、このような基準で日本刀は評価されているようだ。


(斬れ味から見た江戸時代の名刀観)

この辺のテーマに関しては、毎回、引用させて頂いている。「懐宝剣尺」と山田浅右衛門の「古今鍛冶備考」を基に、江戸期の武士達の考えた「斬れる名刀」について振り返って見たい。

この両書に記載されている刀工銘全般を見ると実際に試すことが出来る健全な刀が多い新刀を中心に戦国時代の末古刀が大部分を占めている感じがする。

国宝の名刀が多い平安から鎌倉時代中期までの太刀の切れ味に関する記載は少なく、最上大業物で最も時代が上がる刀工銘は建武頃の「長船秀光」と「長船元重」の二名と応永の「三原正家」位で、その他では、末関の兼元の初二代が入っている。残りは全て「初代忠吉」、「大坂初代助広」、「長曽根興里」等の新刀鍛冶で占められている。

最上大業物に続く、「大業物」の作者に関しても同様で、時代もあって高名な作者で古いところでは、「二字国俊」、「手搔包長」、「長船長光」、「長船景光」が列記されている物の主流は、やはり、新刀鍛冶と室町時代の刀工群である。

最上大業物と大業物作者、約百名を見ても、「三条宗近」や「伯耆安綱」、「豊後行平」の名前は出てこない。この項の最初に名前の上げた作者では、残っている名刀の数が多いといわれている「長船長光」が漸くランクインしているに過ぎない。

これも、至極当然な事で、将軍家や大大名家といえども数少ない伝家の宝刀を易々と「試し斬り」に出す可能性は少ない。

特に、桃山時代から神聖視された相州伝の名刀、「正宗」や「貞宗」、「江」が試刀される可能性は極めて低かったと思われるので、当然ながら記載は無く、刀の世界の雲上人の扱いだったことが解る。


結論から言うと江戸時代の武士達にとって、室町時代に始まった反りの浅い「打ち刀」は極めて使い易い日本刀だったのに対し、古い時代の反りの深い太刀姿の日本刀は、どちらかというと扱いにくい伝家の宝刀だった気がする。

その為もあってか、二尺七寸前後の鎌倉時代の太刀を摺り揚げて、二尺三寸前後にした場合、深い腰反りが失われて、平均的な反りの「打ち刀」姿に変身している刀が、多く鑑定会でも良く出て来る。

それでは、反りの深い太刀姿の刀で、巻藁を斬ってみるとどの様になるのか、少し、検討してみたい。


(反りの深い太刀で斬る)

実際経験した範囲では、鎌倉最末期から南北朝期と思われる摺り揚げた茎の下半に銘が半分残る太刀二口で、巻藁を斬った経験があるのと、室町期の末古刀ながら、反りが非常に深い「打ち刀」で斬った事しか無いので、その二つについてお話ししてみたい。

手持ちの二口の太刀の反りは、8分(2.4cm)から9分(2.7cm)の間で、斬れ味は相当良かった。しかし、何人かで斬った印象から言うと、これだけ反りが深いと腕の立つ友人関係でも充分使いこなせる達者は、そう多くない印象だった。 

特に、近代剣道に多い、手数の多い打ちの連続技には、不向きな印象を強く受けた。その一方、古文書にある「撫で斬り」には、若しかしたら向いているのではと考えている。複数本の巻藁を立てて、半身で体移動しながら斬る場合、反りの深さに困ることは無かった。

一方、抜刀と試斬に慣れた友人が、巻藁に正眼で正対して斬るケースでは、棒反りの現代刀になれているせいか、巻き藁に対する刀の侵入が遅く感じるようで、斬り難そうにしていた。


室町期の末古刀二口も生茎で二尺五寸(約76cm)近くある上、反りも8分(24mm)あるせいか、斬った時の印象は、上記の太刀と同様だった。また、この末古刀の反りは、深いながらも平均的だった。

但し、言い訳をして置くと、試した二口の太刀は両方共、擦り上げの為、腰反り姿が失われて、平均的な反りになっているせいも、あろうかと思う。

もし、この鎌倉最末期から南北朝初期の時代の生茎で腰反りの強い太刀を用いたら、私も含めて周囲で充分に活用できるメンバーは居なかったかも知れない。

もし、そんな太刀に巡り会えたら、馬上で擦れ違いざまに斬る、モンゴル風の斬り方をしないと、評価出来ないのではないかと皆で笑いながら話した記憶がある。


正月らしく「名刀」について考えようと思い立ったが、余りにも名刀に接する機会が少なく、「名刀の姿」に関しての机上の空論に不本意ながら、なってしまった。また、今回は、国宝の刀を中心に調査を進めた為、どうしても古刀が中心になってしまった。

新刀の名刀に関しては、機会を改めて、再度、勉強したいと思っているので、宜しくお願いしたい。

唯、正月の刀掛けに、まだ銘の残る太刀の刃を下にして抜き身を飾る時、「打ち刀」姿との大きな差に気付き、在銘の健全な太刀が欲しいと今更ながら思った次第である。


(参考文献)

1)図説 日本刀大全Ⅱ   歴史群像編集部編    学研   2007年


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