23.大傷の刀で斬る㈡
さて、江戸の昔から刀屋さんの世界では気付かずに売った「刃切れの刀」は、元の売り主が黙って引き取る不文律があったようです。その位、折れる格率の高い刃切れの刀は、実用上から侍達に忌み嫌われていた。これは、武士が命を賭ける刀の大欠陥であった為、日本人の刀における商道徳の一つとして古くから成立していたと聞いている。
流石に、この試斬に致命的な大欠点を内蔵する刀を所有する知人は誰も居なかった。当然の結果であろう。
しかし、個人的には何故か、日本刀の死命を制する「刃切れ」の刀を一度試してみたいと若い頃から思っていた。理由の一つが水心子正秀の「刀剣実用論」等の諸書で展開した「新刀の大乱れ刃は折れ易い」との多くの実例を挙げて警鐘を鳴らしていた事実と、幕末の武用刀として、当時の多くの有志から「柾目の混じった大和伝の鍛えに直刃の刃紋が推奨された」話が頭の中の何処かにあったからであろう。
水心子の指摘した折れた刀の殆どは新刀の大乱れの刃紋だったが、古刀でも丁字乱れの華やかな刀はやはり折れ易いとの指摘があった。確かに、鎌倉期の代表評的な名刀作者である「長船長光」の太刀も前期作と後期作では、相当作風が変化している。大きく乱れた丁字刃主調の前期作に対して、後期の作刀は直刃調に小丁字や小互の目の混じる温和しい刃紋や直刃の太刀が多い。
この変化は、一説によると当時最大の国難であった「元寇」による実戦経験で、華やかな乱れ刃の太刀が折れ易かったのに対して、焼き幅の狭い温和しい直刃や小乱れの刃紋の太刀が丈夫だった結果によるらしい。
その様に考えると、当時、元寇の最前線で作刀していて、銘に「博多談義所西蓮」と切った国吉法師西蓮の太刀は、殆どが焼刃の狭い直刃と聞いている。西蓮だけで無く、モンゴルと戦った九州武士の地元の九州鍛冶の古い刀は直刃が多い。
西蓮と同じ筑前の金剛兵衛も直刃だし、肥後の延寿も同様、薩摩の波の平は鎌倉時代から戦国末期に至るまで、あの勇壮な薩摩武士が好む刀が穏やかな変化の少ない直刃と信じ難い程、代々直刃の刀を造り続けている。
そんな訳で、大乱れ刃が折れ易いという重大欠陥を持って居るとすれば、その反面の「折れない刀」の代表選手が、「細直刃」か「焼き幅の狭い小乱れ」の刀では無いかと考えて、「刃切れのある古刀」を探してみたいと思っていたのである。
一方、「刃切れ」の刀の恐ろしさも聞いていたし、一度だが、居合の演舞の場で、確か昭和刀の刃切れの刀での一枚巻きの簡単な試し斬りで、音も無く折れて刀身の半分が、折れて6m程、飛ぶのを実見もしている。
何人かの刀匠と会話した経験でも、一見健全な現代刀でも一瞬で刃切れは出来ると言う。その内の二、三の例をご紹介してみよう。
刀匠が鍛刀を終って、鍛冶押しに入り備水砥も巧く行って、明日は研ぎ師に渡そうと壁に斜めに立て掛けて、隣の部屋で寛いでお茶を飲んでいると、微かに隣室から、「ピシッ」と小さな音が聞こえてきたという。そこで、気になって行って見ると、「刃切れ」が出来てしまっていたと、残念そうにベテランの刀匠は話しておられた。
また、別の刀鍛冶からは、註文主に納品寸前の白鞘入りの完品が、朝起きて再度見直して見たら、刀身の真ん中に一夜にして、「刃切れ」が生じていた等のやるせない話を幾つか伺ったことがある。
そんな経験もあって、「刃切れ」の刀を探す際に、幾つかの条件を自分なりに設定して、求めることにした。
㈠新刀、新々刀、昭和刀はやめて、時代的に古刀の「刃切れ」のみに限定する。
㈡古刀でも、大きく乱れた刃紋の刀は排除して、狭い直刃か小乱れの刀とする。
㈢鍛えは、出来るだけ柾目肌の混じる刀で、「匂い出来」の刀を探す。
㈣一カ所しか「刃切れ」が無い物と数カ所の「刃切れ」の刀の両方を探す。
(「刃切れ」のある刀で斬る)
出来れば、同じ刃切れでも作風と時代が異なる方が好ましいと考えて懇意な古美術店の協力を得て、上記の条件に合った2口の刀を入手して試し斬りをすることが出来たので、その概要をお話したい。
最初に入手した刀は、兼某と銘のある末関で、長さは2尺3寸強(約71cm)の刀で、匂い口が絞まった若干湾れ気味の直刃に小足が入った刃紋、但し、残念ながら、刃切れが刀身の真ん中辺に1個あった。刃切れの深さは4mm程で、この刀を使用して斬る時は、折れ飛びを警戒して、最初は周囲から人を遠ざけ一人で斬ってみた。
流石に、刃切れは有るものの関の末古刀らしい順当な気持ちよい斬れ味であった。連続で巻藁の水平を斬っても手応え無く抜けたし、相当回数斬った後、高倍率ルーペで観察してみた。それでも、何ら刃切れ部分に変化は観察できなかった。
次に入手した刀は、何処か脇物らしい雰囲気があって、無銘の為、製作地を確定しにくい長い刀だった。
長さ2尺5寸弱(約75cm以上)の大摺り揚げの刀で、反りは長さの割に真っ直ぐな3分(9mm)弱であった。古い時代に何度も摺り揚げたらしく、茎も長く、室町時代の尾張鍔の優品を見ているような最高の錆色の茎に目釘穴が3個開いていた。
地は鈍い色の黒味の強い地金に板目に柾掛った肌が混じった肌で、直刃調の小乱れの匂い出来の刃紋の刀だった。私には国を推測する力は無かったが、何となく南北朝か室町前半くらいの地方作の大太刀を摺り揚げた刀のような印象だった。元々の長さは多分3尺を越えていただろか? 茎の錆色からは、摺り揚げられたのは戦国末期位かと勝手に想像している。
更に、肝心の刃切れだが、(笑い)この長い刀の中程に、3mmから4mm前後の刃切れが数センチ置きに5個散らばっている状況だったので、試斬の経過の何処かで、きっと折れるに違いないと悪い想像をしながら覚悟して求めた記憶がある。
所が、である、江戸期の柄では不安なので、柄も新規に作り直して試し斬りに挑戦してみたが、何の問題も無い良好な斬れ味を発揮するし、そのまま3年間、何度も試斬を重ねたが、全く斬れ味は変わらなかった。更に、刃切れの箇所が増えたり、刃切れが深くなることも無く驚異的な強靱性を示してくれた。
そうなると、これだけの強靱な刀で何故、刃切れがかくも多く生じたのか疑問が出てきたが、刃切れの部位の鎬地に複数の「しなえ」があることから考えて、多分、過去に戦闘か何かで、大きく「くの字」に刀を曲げた事があったと想像される。
この結果から、どうも、古刀の焼き幅の狭い刃紋の刀では、刃切れが少しくらいあっても実用上問題が無い場合があると考えられる。この長寸の刀の使用結果から、古刀の強靱さが証明が実証出来たような気がしている。
あえて、言い添えて置くと、「古刀は折れにくいが、曲り易い」とも聞いている。この「刃切れ」の多い刀も、きっとその様な生まれの刀ではなかったのかと推測する次第である。
そう言えば、大前田家伝来の名物「丈木」も南北朝期の刀で、複数の刃切れがありながら抜群の斬れ味の業物として有名だが、時には、刃切れがあっても地金の鍛錬や芯金の通し方が優れた構造の刀で、焼刃の狭い刀身の場合、刃切れが生じても実用に差し支えないケースも存在する可能性を感じた。
但し、上記の二口の刀共、鎧の小札等の鉄製品は一度も試さなかったので、実戦に使える強度を維持している刀なのか確認はしていない。悪しからず。
(傷、欠点のある刀で斬った結果)
一番心配した「刃切れ」の刀で斬った経過は上記に述べた通りです。
しかしながら、新刀、新々刀の「刃切れ」の刀や脇差で斬っていないので、「刃切れ」の刀全般に関して、断定的な事は言えない。
上記の少ない経験の範囲で考えてみると、焼き刃の幅の狭い古刀の場合、「刃切れ」があっても巻藁や若い真竹等の試し斬りでは、問題なく使用出来る印象を受けた。
但し、これは、飽くまで個人的な感触で、「刃切れ」の刀全般の使用を推奨するものでは無いことは、もちろんである。
さて、個人的に残っている課題は、「新刀の大乱れ刃で刃切れの刀」を試してみるかどうかの問題であるが、長年の経験から、若干、チャレンジする気力が乏しい現状である。
大坂の津田助広風の濤乱刃の刀で斬った経験は無いが、濤乱刃に近い大互の目の連続した尾張新刀や越前新刀を試した事はあるが、もちろん、通常の使用で問題点を生じた例は無かった。
どうも、個人的には延宝頃の大坂新刀のような大乱れの刃紋よりも、初期新刀の焼き幅の狭い刃紋の斬れ味が好みであり、新刀でも、下坂や越前新刀の播磨大掾重高の焼き幅の狭い乱れ刃の脇差が良く斬れたと記憶している。但し、これらの新刀でも室町期の美濃刀に比較すると刃味は少し硬かった印象がある。
やはり、個人的には、沸出来の新刀よりも匂い出来の新刀の方が、安心して使える気がするが、刀剣に詳しい方のご意見を一度お聞きしてみたい気がしている。
二回に渡って、「軽微な欠点」(匂い切れ」等の欠点には触れなかった)の刀から、「大傷」の刀まで、試斬した経験を狭い範囲だが述べてみた。
その結果、美術刀として嫌悪される傷や欠点であっても、試し斬り用としては充分実力を発揮する日本刀は少なく無いと思っている。
但し、何時もお願いしているように、試し斬りは再生産の利く現代刀が最適である事は、もちろんであり、多くの方々が優秀な現代刀を用いて、日々精進されている現状は好ましい限りである。