2.幕末の刀
現在、伝えられている江戸時代以来の古武道の伝書や型等でも、江戸後期から幕末の物が多いような気がする。どうしても、江戸時代初期や中期の武道の伝書は元々少ない上、時代の経過と共に文化財はどんどん減少していく止めようの無い
絶対的傾向がある為、致し方の無いとは思っている。
同じように古くから伝来する刀の外装や甲冑の場合も同様の時代の流れの中にある。刀の刀身は有り難い事に平安時代中期後半から残っている不思議の国、日本であるが、刀剣の外側、外装の古い時代の遺品は想像以上に少ない。
甲冑のケースでも、戦国期や桃山時代の甲冑の現物は思いの外少ない感じがする。我々素人が桃山期だろうと勝手に想像して、専門の方にお聞きすると、
「兜の鉢は良いのだが錣の時代がね?」
とか、
「全体としては、まあまあ、なんだが、部分的に江戸中期の修理があってね?」
と、おっしゃる場合がある。
確かに、今日、健全な状態で残っている刀や短刀の外装も江戸後期から幕末の物が圧倒的に多い。
今回は、現代の試し斬り刀の一部の形状と幕末の刀との比較、及び幕末刀の斬れ味について狭い範囲の経験だが述べてみたいと思う。
■現代試斬刀の姿
話は変わって、先日、試斬の上手な後輩と会話をしていたら、新々刀姿の刀という表現が頻繁に出てきた。最初は分からなかったが、どうも、彼の言わんとしているのは、『寸法が長く、身幅が広く、反りがやや浅い姿大段平姿』の刀を言っているらしかった。
確かに、彼を含めて試斬、特に太い巻き藁や何本もの巻き藁を並べて斬るのを得意とする皆さんの所持刀は、どうも、この形状の大きな段平姿の刀が多いようだ。現実に試斬演武などで結構このような形状の刀での試し斬りを見る機会も多い。
その為もあって、言うなれば刀剣界の表現で、『武用刀』や『勤王刀』と称する部類の刀が標準的な『新々刀姿』と少し、彼は思い違いをしてしまった結果の表現らしかった。
彼としては、試し斬りを良くやる関係上、『寸法が長く、身幅が広く、反りがやや浅い姿大段平姿』の試斬用現代刀を良く見慣れている上に、試斬用を多く作刀する現代刀作家の方々との会話でも、この表現が多く使われて馴染みのある用語だったらしい。
居合が盛んな現代、無数にいる居合愛好家の人達の中も三つにその嗜好方向で大別出来るように思う。第一はその流派の型を大事にされていて型の精髄と礼法を追求されている方々、第二は、道統伝来の型も大切にされているが、同時に試斬も取り入れて一振の刀で型と試斬の両方をこなされている方々、第三が型もやるが試斬を重視されて抜刀道にウエイトを於かれている人達である。
上記の『寸法が長く、身幅が広く、反りがやや浅い姿大段平姿の試斬用現代刀』を好まれる方々は第三のグループか第二のグループに所属されている人達が多いように感じられる。この方々は大段平姿だけで無く、南北朝姿の広い身幅で大切先の刀を差料にされている人も多い。
第一のグループの方々の愛刀は刀樋のある刀が多く、上手な方が素振りをするとビューンと大きな音が聞こえる刀身が多い。第二グループの人達の刀身形状は尋常な新刀姿に近い現代刀が多いように見受けるが、高段者の方の所持刀を拝見すると新刀や古刀の在銘物が多いのに驚かされるケースもあった。
昔も今もそうだが、古来の太刀姿に近い日本刀を好む人達と南北朝時代や慶長新刀、幕末の大段平姿の豪壮な刀を好む両方の人達がいらっしゃる。中には羨ましいことに双方の姿の刀を数振ずつ所有されている幸せな方も存在する。
■新々刀の姿
我が家に有る最も古い年紀の新々刀は寛政五年だが、長さ二尺三寸六分(71.5cm)、反り六分余(1.9cm)で、元先のバランスも良く、姿形だけで見ると一見、新刀初期か、古刀末期の感じがする刀身である。
水心子正秀の助廣写しの刀や長運齋綱俊の備前伝の刀なんかも、平肉の状態や地金、刃紋を無視して姿だけで見ると新刀に見える刀である。
一方、固山宗次の弟子の泰龍齊宗寬や水戸の勝村徳勝、清麿一門、左の行秀、大坂の月山貞一の作刀等には、確かに『寸法が長く、身幅が広く、反りがやや浅い姿』の刀があって、彼が好む、試し斬りに最適なのではないかと想像を搔立てそうな刀も拝見している。
しかし、現存する大多数の新々刀は古刀、あるいは新刀に近い姿の刀が多数ではないかと個人的には思っている。それに、当時の大多数の勤王にも佐幕にも関係の無かった諸藩の武士達一般の差し料は意外に短かったと残存する多くの刀を拝見して感じる。
太平の世が続いた文化文政頃、二尺四寸や二尺五寸の刀は長くて城中でも邪魔になるし、長期間の参勤交代の道中では重いだけで、迷惑な代物だったはずである。江戸初期には、二尺四寸や二尺五寸の刀でも短すぎて実戦に向かないと言っていた武士達の刀も江戸中期では、常寸の二尺三寸五分(71.2cm)になり、江戸後期には二尺一寸~二尺二寸(約64~67cm)前後を好むように変化していったと考えられる。例えば、肥前の名工の伝統を継承した八代肥前忠吉の現存刀を見ても二尺一寸~二尺二寸の刀が多く、二尺三寸を超える常寸の物は少ないように感じる。
そんな江戸文化の爛熟期を経て天保の改革があった後、突然にペリーの蒸気船の来航があって、江戸を始め日本全体が震撼する。
当然のことながら寛政、文政等の江戸後期前半の新々刀と黒船来航があった後半の安政から慶応頃の刀ではその形状が大きく異なっている。
幕末になり世の中が騒然としてくると『武用刀』と称する武張った身幅の広い刀が流行しだして、その究極の姿が棒反りの勤王刀と呼ばれている長寸の新々刀であった。
だから、彼の言っている『寸法が長く、身幅が広く、反りがやや浅い姿』の俗に言う勤王刀もあながち江戸後期の新々刀の一形状として間違っている訳では無い。けれども、この形状が新々刀全般に使えない表現であることはもちろんである。
それから、もう一つ、新々刀後期の特徴として、銃を持った洋式調練に向いた、『突兵拵』、『ズボン差し』と呼ばれる外装付きの二尺チョットの短い刀も流行している。古刀、新刀を摺り揚げて短くした刀身もあるが、新規に作成したやや細身の刀も多い。
だから、幕末製作された刀の形状としては、古刀、新刀のような普通の姿の刀と大段平造りの武用刀とゲベール銃やエンフィールド銃を携帯して、軍事調練に参加しても邪魔にならないような相対的に小ぶりで短めの刀の三つの形状が併行して存在していた時代だったと私は考えているが、如何であろうか。
■幕末刀の斬れ味
新々刀全体の斬れ味に関しては、別にお話する機会があると思うが、新々刀後半期の幕末の刀について、少し印象を述べてみたい。
刀剣愛好家の間での会話で新々刀は余り斬れないと良く聞く。特に、新々刀の三名工の一人と呼び声の高い大慶直胤の刀はだめだとおっしゃる人が多い。これは、信州松代藩で清麿の兄山浦真雄の刀の荒試しをやった時に同時に試した直胤の刀が予想外に脆かったので、その伝聞が現代も拡散している結果のようだ。
それから、古刀、新刀の斬れ味に関しては、山田朝右衛門が『古今鍛冶備考』で一千百余名の刀工の斬れ味について詳細に分析して、ランク分けをしているが、新々刀の斬れ味については、具体的に記述している資料が存在しない為もあると考えられる。
幕末の武用刀では細川正義門下の藤枝英義が東都随一の評価があったし、首切り朝右衛門一門で度々作刀を試した固山宗次の斬れ味の評価も高い。丈夫さと斬れ味のバランスが優れている刀としては水戸刀、特に勝村徳勝一門の名声も聞こえている。
更に、幕末期は全国各地の郷土刀が活気を帯びた時期でもあり、旅行して各地の愛刀家と話をさせて貰うと、「我が郷土の某の刀は良く斬れたと聞いています」と耳にする機会も多かった。
私自身は古刀や新刀、昭和刀に比較して、幕末の刀で試し斬りした数が最も少ないので、確定的な事は申し上げられないが、愛刀家の皆さんがおっしゃるほど「斬れない刀が多い」とは、思えなかった。
幕末刀の殆どは平肉も少なく、中心も長く、比較的使い易く、斬り易い刀が多かった印象がある。強いて、難点を言えば、斬った時の刃味が何となく堅い感じがして、古刀、新刀に比べると片手斬りのケースでは手に伝わって来る衝撃が、何パーセントか多目に感じられる時があった位でしょうか。
また、刀姿と斬れ味の関係ですが、確かに幕末に流行した武用刀の身幅の広い刀は、同じような材質と鍛錬程度の普通の形状の刀と比較して、先幅で八分(2.4cm)以上有ると格段に斬り易い感触だった。特に、南北朝期に近い先重ねの薄めの刀で斬った時の仮標からの抜けは良く、太物の試斬向きだなあと友人と話した記憶がある。
幕末刀の斬れ味は以上の通りですが、あともう一つ、付け加えるとすれば、幕末に流行した短刀、中でも無銘の短刀は斬れない物が多かった感触を持っています。八寸五分(約26cm)から寸延び一尺一寸(33.3cm)までの数振を試したが、どれも期待外れあった。一振は冠落とし造りで、身幅もあり、鎬の重ねも落ちているので相当の所まで行きそうに感じたが、これも見かけ倒しの鈍刀だった。やはり、戦国期それも前半くらいの短刀が優れた斬れ味を示しているように個人的には認識しています。