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19.居合:初太刀の変遷と斬る為の動作

日本刀の外装に関連して話題が少し拡散してしまったので、若干軌道を「斬る動作」に戻して基礎から考え直してみたい。

日本刀独特の帯刀から瞬時に抜いて斬る動作を考えると、どうしても「居合」の「初太刀」が自然に浮かんでくる。平安時代から続く日本刀の歴史の中で「居合」は戦国時代後期に考案された新しい武術だが今回は、戦国時代から江戸時代、現代と続く「居合」の流れを中心に「斬る為の動作の変遷」を考えてみることにした。


皆さんご存じのように、平安、鎌倉、南北朝期までは、太刀の時代で、室町初期の応永年代から打刀が登場して、大小の帯刀が始まる。最も打刀や脇差が初めて登場した室町初頭の応永や次の永享頃には太刀の生産が主流で、打刀の製造比率は少なかったようだ。しかしながら、戦国時代の始まりと戦乱激化による足軽の登場以降、太刀の生産は順次減って打刀の大量生産時代の時代が始まる。

その結果、室町後期は長い太刀と短い打刀の混用時代で、比較的上級武士達が戦場で長い太刀を用い、下級武士や足軽が短い打刀(2尺から2尺2寸前後)の使用例が多い姿が合戦図屏風等から認められる。


太刀と打刀の使用上の最大に違いは、「柄手」、即ち太刀の場合、刃が下を向いた状態で佩く為、柄に自然に手を掛けるだけで、抜き打ちに必要な柄握りが十分に確保される有利な点にある。

一方、帯刀し易く、軽便で使い易い「打刀」の場合、太刀と反対に刃部が上を向いている為、唯単純に柄を握っただけでは斬る準備が十分に整った柄握り、即ち、「柄手」には成らない大きな問題点があった。

打刀では腰から刀抜いて敵に対して構える前に、柄を握り直す余裕がある場合は問題ないが、「抜き即斬」が極度に要求される居合の場合、刀を抜く前の柄握りの微妙な動作がこの武術の最重要課題の一つとなった。


その日本刀独特の「瞬速の抜き付け」を最初に武術として完成させたのが、居合道の始祖林崎甚助重信である。

戦国時代後期の天文年間に出羽国に生まれた林崎甚助重信は、不幸にも幼少時に父を討たれ為、敵討ちを志して「京流」を学び、後年、神社に参籠して、「抜刀」の奥義を神授されて開眼、業成って目出度く敵討ちに成功している。

大願成就して古郷、山形県村山市の現在の「林崎居合神社」に報恩の参拝をした折り、重信は佩刀としていた3尺の「信国」の太刀を奉納したと伝えられている。重信が奉納した信国の大太刀は、何時の頃からか所在が不明になってしまったようで、信国の外装が太刀拵なのか打刀拵えなのかもはっきりとはしない。


何故、林崎甚助重信の佩刀信国の外装に拘るのかと言うと上記の様に太刀と打刀では、初動作の柄握りと抜き付けの動きが根本的に異なるためである。

重信の信国の長さは、一説では3尺2寸(97cm)だったようで、重信はこの大太刀を相手が脇差を抜くよりも早く瞬時に抜刀したとの伝承もある。もし、太刀拵ならば、自然な柄手で抜刀と同時に逆袈裟で斬り上げ、勝負を制したと想像される。

確かに、戦国時代を創始年代とする古流の多くに刃を下にした状態からの逆袈裟の抜打ちの技が多く伝えられているように記憶する。一例を挙げると薩摩の「薬丸自顕流」の抜即斬の「抜き」の技がある。薬丸家には古くから野太刀の刀法が家伝として伝わっており、後に、東郷重位の「示現流」の技を加味し、後世、野太刀の刀法と示現流刀法が一体となった薬丸派の「抜き」の技が完成したと側聞している。

極端な前傾姿勢を執りながら腕を思いっきり伸ばし、全力で下から斬り上げる薬丸派自顕流の技は明治維新から西南戦争まで敵に恐れられ、新撰組の局長近藤にさえ「一刀目は極力外せ」と隊士に指示させているほど有名な話である。


そこで、仮に林崎甚助重信の林崎流居合の祖型の初太刀の抜き付けを腰に佩いた太刀からの居合と『仮定』して、長い日本刀の歴史の中の「居合」と共に変化した四百数十年の「初太刀の変遷と斬る為の動作」を学んでみたいと本項では考えた。

居合に関する戦国時代後期から現代までの居合の歴史的流れを初太刀の「片手抜打ち」を中心に簡易的に次のⅢ期に分けて考えてみることとした。


第一期戦国期から江戸時代初期の大太刀を即座に抜く居合草創期

第二期江戸時代中期から江戸時代後期の正座居合完成期

第三期明治から昭和及び現代までの流れと今日の居合


(第一期の抜き付けを推測する)

戦国時代の荒々しい気風の中で生まれた居合は、時代の影響を強く受けて長寸の長大な太刀あるいは打刀による居合だったと想像される。「得物は長い方が有利」であり、当然のことに使用する外装の柄も長く、林崎重信門下の田宮平兵衛重正にしても「長柄の利」を説いている。

戦国期を過した剣豪達の所持刀は現代の我々では、とても自由に扱えないような長大な太刀や刀が多かった。

林崎重信の若干後の人で同じ居合の名手の、西国の片山伯耆守久安も伯耆流の始祖として有名だが、疾走する馬上で3尺余の長刀を自在に操って、抜刀、納刀を繰り返したと伝えられている。

また、抜刀を行う際の基本姿勢も「立ち技」または、左膝を曲げて座り、右足を立て膝にする「居合膝」や「甲冑座り」と呼ばれる戦場で甲冑着用時の座り方が一般的だったと考えられる。飽くまでもこの時代の「居合」は実戦向けの戦場での使用も想定した武術だったのである。


このような理由から、戦国期に始まって、江戸初期に至る頃の「居合」は、甲冑を着て太刀を佩いた状態の侍の武術として発達し完成して行ったと考えたい。

当時の有力武将や豪傑達の多くは、戦場では太刀を佩いて戦闘に望んだようなので、敵に対する一刀目の初太刀は自然に逆袈裟となり、二刀目は返す刀で真直あるいは左右袈裟に斬り付けた可能性がある。

もし、太刀では無く、打刀拵から居合が発達したとすれば、その場合、間違いなく初太刀は片手抜打ちによる「右袈裟」か、両手抜打ちによる「左袈裟」から発展していた気がしている。

そんな中で可能性が少ないのが、「水平の抜打ち」で、特に馬上の場合、乗馬の平首を傷つける危険を考えると難しそうである。しかし、ここで注意しなければならないのは、逆袈裟の種々の角度である。薬丸自顕流のように下から上に向かっての斬り上げもあるが、近い間合いで、敵の刀を抜こうとする小手を薙ぐように斬る低い位置での逆袈裟も存在する点を忘れてはならない。

長い刀の場合、出来るだけ初動作で大きく刀を振らない方がスピードも速く、近い間合いの有効性を最大限に発揮できるように感じる。敵が刀に手を掛けた瞬間、瞬時に横薙ぎに近い逆袈裟で小手を両断する技をご想像頂きたい。

話を戻して、薩摩の「薬丸自顕流」の「抜き即斬」の下段からの斬り上げをVTRで拝見しても、元々の薬丸家が伝承してきた野太刀の型は太刀拵を用いた型だったように感じられるが、如何であろうか?

柄に掛る手の動作を解析してみても、打刀の柄よりも太刀の柄の方が自然に柄を握れる位置関係にある。それだけ、打刀の柄を初動作で上手に握る事は修練の必要がある難しい技のように感じる。

太刀から打刀に外装が変わって、武士達が最も苦しんだのが、抜打ち時の柄握りだったと個人的には思っている。(笑い)


いずれにしても、戦国後期から江戸初期の長寸の刀を差していた武張った時代、居合の練達者達は3尺以上の長刀を苦も無く抜き、相手の隙に斬り込む技を身に付けていたと想像される。 

当然のことながら、抜き付ける時の基本姿勢も立った状態または、歩行中の体勢が主で、補助的に「居合腰(俗に言う甲冑座り)」での色々な角度での「逆袈裟」あるいは「袈裟」の初太刀が主だったと考えたい。

実際に竹等のやや堅い仮標を斬ってみると実感するが、試斬で確実に斬れる刀法は「逆袈裟」と「袈裟」だと思う。


(第二期の居合:正座技の導入)

戦国時代生き残りの古武士が誰も居なくなると共に、戦に関連する日本刀や甲冑、武術も大きな転換期を迎える。竹刀剣術の流行と共に反りの浅い寛文新刀が生まれたように、居合術も大きく変化する。

通常武士が建物の中で大小を差すことはあり得ず、大小を帯刀したままで正座する侍の習慣が無いにも拘わらず居合の練習法として、正座による室内での練習方法が急速に各流派で取り入れられて行く。

多分、正座による狭い行動空間での抜刀の難しさの学習効果が、居合の初動作の練習方法として極めて効率的だと理解されたためでは無いだろうか。即ち、戦国期以来の立った状態からの抜刀よりも、より不便で身動きのしにくい姿勢からの抜き付けに練習の効果を見いだした結果の練習方法の工夫が、正座による居合技の修練の推進であった。

 正座からの居合を促進させたもう一つは、日頃差す刀の常寸化である。戦国以来の3尺以上の大太刀を練習の基本として伝統を墨守する古流も多かったが、平和な時代の到来と共に侍の差料も短くなり、幕府の決めた大小の常寸を尊重して、2尺3寸の長さの刀を使用する例も江戸中期には急速に増えていったと考えられる。


今日でも、試しに大小を差して正座からの抜打ちを初めて体験した人の多くは、抜きにくさと納刀のやりにくさに閉口したと想像する。立ち技で最も容易だった「片手抜打ちの右袈裟」でさえ、腰の移動を誤ると鞘の小尻が床を叩いてみっともない事になってしまう。

太刀の時代に多かったと推測される「逆袈裟」の刀法も、正座の姿勢からでは、意外に難しい技である事が理解できる。

そんな中で江戸期に各居合の流派で多く用いられたのが、「横一文字水平の抜き付け」だったと考えている。この技での「柄手」に至る左右両手の動きの指導と習得こそ、各流派の初級者教育の要に一つになっていたと想像している。

太刀のように打刀の柄を自然に握ると刃が上を向いている関係上、柄を横方向から握る事に成り、初太刀の成功に最も相応しくない事態となることは、多くの方が実体験されていると思う。現代居合でも柄は手を横からでは無く、下から添えて握り、「死に手」に成らないように注意して抜刀している。

居合修練の基本姿勢が正座に変化し、佩刀も打刀拵になった事により、太刀の時代とは異なる新たな柄握りの開発が必要となったと考えたい。その結果、初太刀の抜打ちも戦国期の逆袈裟から横一文字または袈裟へと変化している所が、第一期の居合と第二期居合の最も異なる点では無いだろうか。

練習の場が屋外から屋内の狭い板の間や畳の上に替り、開始姿勢が正座に変わった結果、初太刀が「横一文字の抜打ち水平」となり、二の太刀が間合いを詰めての「上段からの真直斬り」となったと想像したい。

加えるに太刀を用いた時代からの「袈裟」や「逆袈裟」の技が有り、道場剣術で発達した「突き」も加えて「居合」は正座からの狭い空間を存分に活用した多彩で充実した武術となって行ったと考えられる。


一般的には、正座への居合姿勢の移行は、「大森六郎左衛門正光」からと伝えられ、「長谷川英信流」三代目の林六大夫守政が正座の居合を採り入れてから広く普及したといわれている。今日の古流居合の多くの流派で、「正座」居合は広く普及しているし、戦国期以来の「居合腰(俗に言う甲冑座り)」の居合も古流各派の中伝や奥伝に遺って今日に至っているケースが多い。

しかし、古伝を忠実に守って大太刀の技を今日に伝えている流派も多い。柳川藩伝来の「景流」や弘前藩に伝承された「林崎新夢想流」等である。景流の現宗家の愛刀の長さは4尺2寸(約127cm)であり、林崎新夢想流では流祖以来の3尺余の長い刀を使用していると聞く。林崎新夢想流の組太刀では、対座する脇差帯刀の打太刀に対して3尺3寸の長刀を帯びた仕太刀の間合いは驚くほど近い。ここら辺にも初代林崎甚助重信の考案した9寸5分(約29cm)の短刀よりも早く3尺の大太刀を一瞬で抜く秘技の一端が垣間見られて、長い伝統を大事にする日本ならではの幸せを感じる瞬間である。


居合に新しい境地を開拓させた「正座」からの居合だったが、その多彩な技の普及によって失ったものも多かった。本来、武士が大刀を差して歩くのは、屋外だったにも拘わらず立った状態からの居合が急速に少なくなっている。幕末の「神道無念流居合」には、座り技の居合は一本も無く、型12本は全て立ち技である。江戸中期に座り技中心に型を組み立てて行った居合の諸流派から見ると立居合専門の神道無念流居合は少数派の方では無いだろうか。

また、殿中あるいは城中で武士は、通常、脇差のみの帯刀となり、刃傷等の緊急時に身に帯びているのは脇差しかない状態が多かったにも拘わらず、小太刀あるいは脇差居合を伝える流派は意外に少ない気がする。

しかし、無外流や水鴎流高段者の小太刀の組太刀を拝見していると昔日の武士の平常の中の緊迫した鍛錬の一端を垣間見ているように感じて、何故か歴史を越えた武芸を見た瞬間独特の心暖まる印象を受ける。

剣道と居合の間合いの距離を考える時、小太刀居合の近間の間合いこそ「居合の冴えの真髄」の一端を如実に伝える技のように感じるが如何であろうか!


幕末、諸藩の居合は多く完成の域に達していたと考えられる。特に、土佐居合と呼ばれる七代目長谷川主税助英信によって大成された「長谷川英信流」の完成度は高く、後世、「下村派」と「谷村派」の二つの大きな流れとなって近代の居合の世界に大きな影響を与えている。


(第三期の居合)

明治維新の到来と共に武士の表芸だった多くの武術が衰微して、実用的には警視庁や陸海軍等で学ばれる程度の寂しい状況になっていった。しかし、西南戦争の抜刀隊の活躍や日清戦争での日本刀サーベルの有用性再確認もあって、少しずつ剣道が近代日本で受け入れられていったのであった。

一方、柔術の分野でも嘉納治五郎による「講道館柔道」の普及は目覚ましく、新渡戸稲造の「武道」と共に世界に受け入れられ、日本文化紹介の一端として世界の知識人に理解され始めたことは日本人にとって幸せであった。

居合の分野では、「昭和の剣聖中山博道」が土佐の「長谷川英信流下村派」を学んで、独自に「夢想神伝流」を創始して、今日の居合隆盛の基を築いている。今日の「居合道」を考える時、剣道、居合道、杖道の三道に通暁した中山博道の「居合道」に対する大きな功績を忘れる事は出来ない。


一方、剣道の世界では、明治に入って「直心影流」、「立見流」、「北辰一刀流」、「浅山一伝流」、「神道無念流」、「柳生流」、「鏡心明智流」等の多くの流派の長所を採り入れた「警視流」が制定せれている。これは、「木太刀形」であるが、この他にも各流派の居合型から編んだ「立居合」五本が制定されている。警視流居合の型は全て実戦的な立ち技で、座り技は一本も入っていない。

大正に入って陸軍戸山学校を中心に近代戦における軍刀術として、中山博道が中心となって制定されたのが「戸山流」である。

後に、中国大陸での陸戦が激しくなると共に、陸軍戸山学校では陸戦用の下士官及び下級指揮官用の実戦用居合術として、「初期戸山流」に改良を加えて最終的に型八本を制定、普及に努めている。これは、各流派の居合の型の中から実戦向けの型を選択、補正したもので、今日「戸山流」と呼ばれている祖型がこれである。


戸山流の最大の特徴は、江戸時代の武道の殆どが持つ、「一対一の尋常な武士の勝負」では無く、実戦向きの一対複数の「戦場での立ち技居合」に立脚して技が構成されている点である。

以前、中国武道を学んだ人と議論した折りに言われたのは、「日本の武道は、どう見ても考え方が可笑しい。戦場では一対複数の戦いが常時存在するのに、日本の剣道、柔道、居合道、空手道の全てが一対一の試合であり、戦場の常識に反する」と、

そう考えると「戸山流」は、日本の武道の中では珍しい位、中国武術の考え方に近い、実戦向きの複数を同時に敵とする武道なのかも知れない。

戦前、戦中に戸山流を学んだ何人かの先生が戦後、戸山流の普及に務めた。その中でも「中村泰三郎師範」が型と共に巻き藁での試斬を重要視して、「抜刀道」を推奨、普及活動を行った結果、戦後、巻き藁での試斬が急速に普及して、今日、ユーチューブでも多くの映像を見ることが出来る。


 以上、大雑把に戦国時代の太刀技の「逆袈裟の抜打ち」や打刀の「片手右袈裟の抜打ち」から始まった「居合」が、江戸期に入って「居合腰(俗に言う甲冑座り)」からの居合に加えて、正座からの居合に変化して普及した概略を述べた。

正座居合の普及と共に、正座からの「横一文字の抜き付け」、「袈裟」、「逆袈裟」、「突き」等の多彩な技が普及していった時代の流れを紹介し、その後の明治以降、現代に至る「居合道」と「抜刀道」について簡単に記述させて貰った。

江戸時代の表現から見れば「居合抜刀」は分離したものでは無く、総合的に一つの概念としてとらえられていた感じがする。「居合」の抜き付けも「抜刀」の初太刀の試斬も林崎甚助重信以来のこの伝統を大事にしている演舞を拝見する時、武道の重みと伝統の有難さを感じる。

残念ながら紙面の関係で一部分のつまみ食い的記述に終始してしまったが、戦国時代から現代までの「抜き打ち」の変化に対して少しでもご理解頂ければ幸いである。


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