18.中国古代刀剣の日本への影響と鎌倉武士の太刀拵
「飾太刀」を軸に太刀の外装と装束のイロハについて、初歩の議論をさせて頂いた所、海外出張中のO氏から、再度、次の内容のメールを頂いたので、ご紹介させて頂く。
『束帯に帯びる飾太刀は、系譜で言えば正倉院に伝わる「金銀鈿荘唐大刀」が起源なのだと思います。中身は唐風の剣で、この流れは平家の「小烏丸」が剣の名残を残している事や、伊勢遷宮の際 誂えられる「須賀利御太刀」などが剣である事からも想像できます。
その一方で平安末期から鎌倉期の宮廷武官は「兵杖太刀」という、後の日本刀に近いものを用いていました。 その中に、ご指摘の毛抜太刀があるのですね。
良くご存じと思いますが、毛抜太刀は茎部分が、そのまま柄になっています。
何故か、これに長方形の穴があいています。
この柄と刀身が一体になった構造は、中国の青龍刀や包丁にも共通しており、この方が丈夫な事は明確です。 日本刀の構造で耐久性に問題があるのは、柄の部分です。
名人は例外として脇におくとして、刀の長さがモーメントになって斬撃の衝撃を大きくします。 これを柄で受け止める事で手を痛めるのを避けられます。
一方で中国刀は、柄は丈夫ですが、衝撃が手に伝わります。 これを軽減する為には、刀身を短めにして、反りを大きくする必要があります。
日本刀は、この方向には発展せず、長さを保ったまま、柄で衝撃を受け、柄紐で補強と滑り止めにしました。 兵杖太刀には、革包、蛭巻などの柄拵えがありますが、これらは柄紐の柄に落ち着くまでの発展段階なのだと思います。
毛抜の太刀の柄穴は、構造面では欠陥だと思います。一説には、衝撃を吸収する為と言われますが、はたしてそれだけのクッションになるのか浅学にして知りません。
金属板に長方形の穴を開けて加重をかければ、四隅で割れが生じます。 これを避けるには直角部分にRをとって楕円にするのが合理的で、これが毛抜き型の由来と思います。
穴は、何かと言えば、柄を木製の板でサンドイッチしたのではないかと想像しています。
そうでないと、柄の薄さに説明がつかないのです。
いづれ、日本刀の形が定まってきて、柄を木で覆うようになる鎌倉期になると、兵杖太刀である印として、柄の上に「毛抜形金具」が付けられます。 これは柄の押さえ金具ともなり、滑り止め?にもなったかもしれません。 武官装束が形式化し見栄えを気にするようになったのは武士が台頭する平家の頃から鎌倉初期です。 鎌倉武士は京都番で在京すれば宮廷への出仕もあり、宮廷用の太刀が登場します。 ここで、柄が上に跳ね上がった、奇妙な太刀が出てくるのですね。 この理由は、すでにお話した通りです。
高位の武士は将軍で、これは公卿ですから兵杖太刀を帯びながらも、蒔絵鞘に金覆輪の金具の華麗な太刀が登場します。 宮廷人も格好の良いものは真似ますので、旧来の剣ではない、飾太刀が一般的になります。
とりあえず、そんな流れだと思っております』
以上、大変興味の有る内容で、それぞれについて、考察してみたい欲望に駆られる気がするテーマでした。しかし、何時もながら、当方の基礎知識不足で十分な対応が出来そうにもありませんので、若干、我田引水の傾向は有りますが、本稿では、「中国古代刀剣技術の日本への影響」から始めて「鎌倉武士の太刀の外装」までを調べてみたいと思います。
(古代刀における漢の影響)
日本の古代史による中国の影響の最初の時代が、後漢の光武帝から「委奴国王」への金印の親授だったことは、金印の実物の出土によって明確になった。朝鮮半島諸国への印の授受が銅印または銀印だった事例から考えると北九州に有った「委奴国」への光武帝の評価は、予想外に高い物だった気がしている。
一方、鉄製武器に関しては、初期段階では中国からの直接の輸入とみるよりも朝鮮半島の伽耶諸国等からの導入が主だったと考えられる。それは、古墳からの出土品の年代別変遷からも容易に窺える。初期古墳の出土品が、青銅鏡や曲玉、土器等の呪術的、祭祀的な品々が多かったのに対し、ある時期から鉄の刀槍、鏃、短甲、挂甲等の武器や馬具、鉄鋌の出土が急増している点から考えても、倭国政権の思想や権力維持機構のシステムが古墳時代中期から大きく変わった事実が実感される。
その変換の時期の中核技術の一つが鉄の加工技術、特に刀剣の製作技術における鍛錬方法及び外装技術だった気がする。
先進中国においては、戦国時代において、既に鉄製の剣(諸刃の直刀)が出現し、前漢の時代には剣と共に片刃直刀型の環刀大刀が造られ始めている。
代表的な遺物としては、河北省満城漢墓(中山王劉勝の墓)から出土した鋼鉄刀がある。その刀身と柄は一体構造で、茎は二枚の木片で挟み込まれており織物で巻かれていたと出土品からは推測されるようだ。また、木製の鞘には麻が巻付けられて補強され朱の漆が塗られていて華麗な姿をしていたらしい。
他の漢の時代の出土品の環刀大刀の研磨品からも当時の技術の幾つかの点が解明されている。研磨表面には、炭素量の異なる層の組み合わせが見られ、どうも炭素量の多い鋼鉄層と低炭素量の練鉄?層を重ねて鍛え上げられているようで、紀元前後には、硬軟の鉄を組み合わせて刀を強化する技術が既に存在したようだ。
これは、漢帝国だけで無く、西の古代ローマ帝国の軍団が使用した剣、「グラディウス」でも同様だった。古い本だが、「Swords & Daggers」の著者Frederick Wilkinson も同様のことを著書の中で述べている。もし、そうだとすれば、東西の古代の両先進国では、鋼鉄と軟鉄の組み合わせによる刀身の強化と切断力の向上が既に図られていたと考えられて、非常に興味深い。
そして、この技術は、そう遠くない時点で、倭国に伝来して倭国内の特殊技能集団内では使用された可能性も高いと個人的には思っている。
(唐の刀剣の影響)
遣隋使及び初期遣唐使によって、隋、唐の新しい文化の流れが倭国に流入し始めた段階で、唐と新羅の連合軍と倭国は百済の旧地白村江で全面対決することになってしまった。
結果は壊滅的な大惨敗で、倭国の総力を挙げ、大和から西日本全域から遠征した殆どの兵力を失ってしまった上、刀を始めとする自国の兵器に対する信頼性も揺らいだ可能性があると個人的には想像している。
その後、倭国は敗戦による劣勢の挽回を図るべく唐との国交の回復に努力した。幸いなことに連合を組んでいた唐と新羅の間で新たな朝鮮半島の支配権を巡る抗争が勃発、それに助けられる形で倭国は、遣唐使を再開している。
遣唐使の再開は、唐の都長安を始めとする先進文化地域からの広範囲で膨大な文物の流入となった。もちろん、刀剣の世界でも唐貴族層の持つ「金銀装唐大刀」を始めとする最新の刀剣が日本に招来された。
この「金銀装唐大刀」が我国の飾太刀の起源の一つとするご指摘に関しては、ごもっともだと思います。
その当時、古代からの中国の刀剣製作技術と刀装は完成期を迎えようとしていた。諸刃の剣も片刃の直刀も技術的に完成し、硬軟の鉄を組み合わせる鍛法も焼入技術も高度なレベルに達していたと考えられる。
我国の聖武天皇を始めとする貴族層も唐で造られた大刀、「唐大刀」や唐大刀を模して我国で造られた「唐様大刀」を賞美し、愛玩していた事実は、今日、正倉院に遺るご指摘の「金銀鈿荘唐大刀」等の豪華な刀剣から確認出来よう。
また、正倉院には、天皇や貴族層の飾大刀の原型と思われる大刀だけでは無く、兵仗用の実戦向けで飾り気の無い「黒作大刀」も所蔵されており、初期日本刀の外装の出発点になっている拵も現存する。
いずれにしても、弥生、古墳時代の漢の時代に始まる刀剣製作知識の導入とそれに続く、唐からの完成度の高い鍛造技術と外装技法の移入によって、初期日本刀発生の為の基盤が出来たことは疑いない事実と考えられる。
(柄と刀身の一体構造について)
世界の刀剣全体で考えると柄と刀身が一体構造になっている方が使用時の強度を考えると好ましいように感じる。
実際上でも、世界の歴史上の刀剣の大半が刀身と柄の一体構造になっていると考えても可笑しくない状況にある。特に、近代に刀剣が儀仗用に特化する以前の実戦向け兵士用刀剣では、その様に考えられる。
西洋騎士の刀剣の母体となった900年頃のヴァイキング・ソードでも、広い両刃の刀身と柄の部分及び柄頭のヒルトの部分は一体で成型してある場合が多く、茎の部位を薄い木片で挟み込んで革または金属ワイヤーで滑り止めに巻き締めて実用化を図っている。中には、二本の銀線をよじった物を柄に巻き込んで、滑り止めの効率を改善している高級品もあったようだ。もちろん、ヴァイキング・ソード及び、それに続く中世の騎士の剣には、日本刀のような目釘穴はもちろん存在しない。
ご指摘のあった中国の青竜刀も同様で、北京で見た数口の青竜刀も薄い木片二枚で表裏を挟み、籐あるいは、革で片手巻きにした簡易な物で、先反りの強い構造であった。身近な例で見ると各家庭の台所にあるステンレス製の文化包丁の柄の部分の構造が同様で、左右から挟んだ木部の真ん中にステンレスの金属部が覗く構造が丈夫でも有り、製造コスト削減に貢献しているのと同様である。
刀剣製作上も刀身と柄の一体構造化は強度的に極めて強く、昭和軍刀の大きな欠点とされた実戦での柄の部分の損傷発生の可能性も極めて低く、損傷した際も日本刀のように専門家を煩わせる事無く、素人の兵士でも簡易的修理は可能な気がする。
唯、強いて刀身と柄の一体構造の欠点を挙げると斬った際の衝撃が直接手に来る危険性が高い事であろうか?
繊細な日本刀の柄の構造と目釘は、斬撃の際の衝撃を優しく緩和する働きがある。日本刀独特の鎬構造と柄の形状は、巻き藁五本を一度に裁断した場合でも、刃筋さえ通っていれば、何の大きな衝撃を手に感じること無く両断出来る事実を居合抜刀経験者の多くの方々は良くご存じだろうと推察している。
(鎌倉期の武家の太刀と飾太刀について)
平安後期から鎌倉時代初期に流行した「毛抜型太刀」は、鎌倉時代になると急速に人気を失ったように感じられる。何故ならば、現物の残存数が少なく、今遺っている鎌倉期の太刀拵では、「毛抜型太刀」よりも「兵庫鎖太刀拵」の数が圧倒的に多いからである。その他の太刀拵で当時、人気があったのは、「蛭巻太刀拵」や「長覆輪太刀拵」、「錦包太刀拵」等では無かったのだろうか?
春日大社始め、多くの社寺に大切に保存されて来た鎌倉時代、南北朝時代の太刀の数々を拝見すると平安期の公家文化を継承しつつ、武将自身の趣向による太刀拵を追求して行った姿が想像されて興味が尽きない。一例を挙げると「狐ヶ崎」と号のある吉香小次郎友兼の「黒漆革巻太刀拵」がある。薄い鹿革で包んで黒漆を掛け、簡素ながら雅趣のある金具を添えた拵えで、鎌倉武士の本領を今に伝えている。
「毛抜型太刀」に関しては、もう少し手元の史料の充実を待った上で、ご指摘のあった諸点を私なりに勉強させて頂いた上で項を改めて書かせて頂きたいと思います。
武官装束が形式化し見栄えを気にするようになったのは武士が台頭する平家の頃から鎌倉初期です。 関東武士が京都の大番役で上京すれば、当然のように宮廷への出仕や貴族層との交流、接触の機会も増えたと考えられますので、宮廷あるいは、衛門府の武官の所持する太刀拵に興味を惹かれ、同様の製品を京の職人達に依頼して造らせ、武士達が身に帯びたとしても不思議では無いと思います。
武士の最高官位といえば将軍で、公卿ですから、ご指摘の『兵杖太刀を帯びながらも、蒔絵鞘に金覆輪の金具の華麗な太刀が登場します』との内容もごもっともだと思います。
平家物語には、合戦の場面での各自の鎧の詳細や太刀拵が実に生き生きと記述されています。それだけ、当時の人々は装束や鎧、太刀に強い興味を示していたのでしょう。鎌倉殿の館内で会合する平常の坂東武士達も京生まれで絢爛な外装の太刀を身に帯びて自慢し合った事だろうと想うと、微笑ましい感じが湧いてきます。
友人O氏の再度のご指摘に感謝しつつこの項を終りたいと思います。 拝