17太刀の外装と装束
「日本刀の反り」に関して、何時もの通り、簡単で大まかな勉強結果を書かせて貰った所、懇意なO氏より、束帯で衛府太刀を身に付けた状態での太刀の柄の位置関係や装束と太刀関連の所作を含めて、何点かの的確なアドバイスを頂戴した。
何時もながら、知らない内容も多く、今後の勉強にも成ると思うので、お送り頂いた文章をそのまま掲載させて頂き、関連する太刀拵や装束との関係をもう少し考えてみることにした。
考える上で、私なりに幾つかの項目に分けて考えた方が理解しやすそうだったので、独断で恐縮だが勝手に分けさせて頂いた。
宜しくお願いしたい。
『伝統芸能の方で束帯を着装する機会があるので、そこからの体験です。 衛府の太刀に代表される鎌倉期以前のスタイルの太刀では、茎の部分で大きく曲がって、柄が持ち上がったような太刀拵えが多いです。 これは束帯で飾太刀を佩剣する時に、柄を水平すると鞘が尻上がりにする為です。
太刀は釣りますが、拵えのバランスが悪いと、軍刀やサーベルのように落とし差しになりますが、装束ではこれを嫌います。 柄が水平、鞘が尻上がりになると、抜けが心配になりますが、飾太刀では口金を固めにし抜けにくくします。また江戸期に用いられた大名の飾太刀では本身でないものもあります(経緯は不明なので断言はできませんが、柄の部分で曲がる身が実用的でなかったと推理しています)
飾太刀に用いられる場合の柄の不自然な曲がりは装束の都合だと推理しておりますが、如何思われますか?』
『ちなみに、束帯で鞘を上げる必要があるのは、裾という引きずりもの(高位者ほど長い)を、移動時に飾太刀の鞘に掛ける事があるのです。 掛け方も故実や流儀があるんですが脇におくとして、鞘が上がってないと裾を掛けた時に下がってみっともない、最悪 ずり落ちてしまうからなのです。 そんな事を誰が何時やるかと問われれば、御大礼の時で、大正や昭和の御大礼では、高位の軍人や有爵者が束帯に帯剣をして参列しました。
稀にオークションなどに出てくるものは、大名物を除くと御大礼であつらえたものなのですね。 鮫皮や金具の質がとても良いのです』
以上のO氏のご意見、ごもっともだと思います。
公家衆が徐々に実力を失っていった鎌倉時代末期以降、朝議での装束や威儀を大事にして外見を整える姿勢と装束等の倣古姿勢が目立つようになって来る気が致します。特に、実際の力の低下が著しい室町時代中期以降、有職故実と先例に従う威儀が重視された気がしますので、順次、項目毎に考えていきたいと思います。
(衛府太刀の流れ)
平安時代後期に流行した「衛府太刀」は柄の形状から「毛抜透太刀」あるいは、「毛抜型太刀」とも呼ばれ、数は少ないながら、伊勢神宮や春日大社等に実物が遺っているのをご存じの方も多いと思います。
伊勢神宮の藤原秀郷所用の伝来がある「毛抜透太刀」は、刃長70.5cm、柄長17.5cmの反りの深い太刀で、「毛抜透太刀」らしく柄反りが極端に付いた白銀造りの名品です。
また、絵姿では、以前、「源頼朝画像」として有名だった神護寺の人物の佩く太刀が、「毛抜透太刀」の例として引用されるケースをまま見たものです。
ご指摘のあった『伝統芸能の方で束帯を着装する機会があるので、そこからの体験です。 衛府の太刀に代表される鎌倉期以前のスタイルの太刀では、茎の部分で大きく曲がって、柄が持ち上がったような太刀拵えが多いです。 これは束帯で飾太刀を佩剣する時に、柄を水平すると鞘が尻上がりにする為です』
との御意見ですが、おっしゃるように束帯で太刀を佩く場合、柄が上がって鞘尻が下がると非常にみっともなく見える気がします。歌舞伎でも見栄を切る場面では、必ず、柄頭をグーッと下げて、小尻を極単に挙げて、見栄を切りますので、ご指摘の通りだと思います。
しかし、平安期を過ぎ鎌倉期に入ると本当の「毛抜透太刀」の刀身はだんだん造られなく成ったようで、柄の目貫の位置に「毛抜型」の金具を装着して、外見を似せた「毛抜型太刀」で代用する習慣になっていったようです。この傾向は江戸時代にも続き、徳川本家始め各大名家の「毛抜型太刀」も外観だけ似せた倣古調の物になっていったと考えられますが、如何でしょうか?
(飾太刀について)
飾太刀は平安時代の最上級の儀仗用太刀で皇族や参議以上の高級公家の束帯時の佩用品程度の知識しかありません。現物も数点ガラス戸越しに拝見した程度で、現物を手にとって見たことは残念ながら一度もありません。
但し、江戸時代にも相当人気があったようで、京都のお公家さんの家でも上級の家や大名家でも国主クラスの家では、相当、造られて、大切に所蔵されていたようです。
確かに、ご指摘のように柄は「糸巻太刀」等の太刀拵に比較すると極端に反り、実用よりも儀礼用の感じが強い拵です。
飾太刀の場合、徳川家はもちろん、南部家などの大名家の伝来品を拝見しても、ご指摘の通り柄反りが著しく感じます。
また、中味の刀身に関しても研ぎ減って細くなった、唯、古いだけの短い刀身が申し訳程度に入っている場合が多く、「糸巻太刀拵」の中味のような、健全で、直ぐ戦場に持参できそうな健全な刀身の入った物を残念ながら見たことがありません。
これは、O氏の指摘にもあった通り、腰反りの強い平安・鎌倉時代の刀身が貴重になり、飾太刀の柄反りの強い外装と中味の整合が取れなくなった結果だと考えています。その結果、外装は昔を重んじて作成しながらも、中の刀身は、細くて短い、柄反りの外装に影響を与えない無難な刀になっていったと考えます。
中味に本身では無い「つなぎ」が入っているのは、本来、収納時に外装保管用のつなぎと白鞘入りの刀身二点を、同一の刀箪笥か長持ちに入れて保存して置くものですが、何処かで、別々になってしまった結果だと推測されます。
(束帯時の飾太刀について)
ご教授、誠に有り難うございました。この項に関しましてはお教え頂くのみで、勉強不足を痛感しておりますし、束帯時の飾太刀と裾の関係についても、これから学んで行きたいと思っております。
束帯時ではありませんが、直垂着用時の太刀、腰刀、箙、弦巻の位置関係も実際身に付けてみると細かい点で、色々と議論が出来そうで、楽しみにしております。
(太刀外装の変遷について)
平安後期から鎌倉時代前半に「衛府太刀」と共に流行した太刀拵に、「兵庫鎖太刀拵」や「長覆輪太刀拵」等、色々と種類が有ったらしく、良く平家物語等の軍記物に登場して、戦闘場面や登場人物の性格付けに役だっているケースが見受けられます。
南北朝期になると「笹丸拵」のような実戦向きの軽量で風雨にも耐える「革包太刀拵」が流行したようで、平安・鎌倉の優雅さよりも実用第一に徹した戦乱の時代の世情を感じさせます。
室町後期・戦国期になると大名クラスの高級武士の衣冠着用時の太刀として生まれたのが、「糸巻太刀拵」でしょうか! 「糸巻太刀」は、当時の天皇家、将軍家はもとより武士の進物用として大いに重宝され、信長、秀吉、家康等の有名な武将からの拝領品との伝承を持つ現存品も数多くあります。
当然のことながら衣冠着用時の必需品でもあった関係で、中味の刀身も高級品が多く、現在、国宝や重要文化財に指定されている名品も数多く存在します。
逆に、「糸巻太刀拵」の場合、外装の柄は、打刀拵の柄のように平均的に反っており、平安・鎌倉期の太刀拵のように柄反りの強い物は拝見したことがありません。その結果、中味の古い太刀の茎の反りを直してある名刀を時々、拝見します。即ち、腰反りの強い茎を穏やかに平均的に反った後世の茎同様に改造してあるわけです。
(御大典の太刀について)
大正天皇、昭和天皇ご即位の御大典に際して製作された太刀拵は時代が新しい関係もあって、保存状態の好ましい美品で遺っている場合が多い気がします。ご指摘のように、刀身や外装の金具も丁寧に製作されており、注文者と製作者の誠意が身近に感じられる気が致します。
今まで、三口ほど拝見しましたが、一口の刀身は月山貞勝で細身の明治期のサーベル風の品の良い刀でした。もう、二口も明治から大正期の名の知られた作者の細身の刀で上品な中直刃が焼かれておりましたし、外装の鮫も良い物がしっかりと選ばれて使用されていました。
以上、本来のO氏のご指摘と若干離れてしまった箇所もあったかも知れませんが、その点は私の能力不足とお笑い下さい。
最後に一つだけ付け加えさせて頂くと残念なことに、平安、鎌倉や南北朝期の古い太刀拵は絶対数が少なく実際手にとって見る機会が極めて少ない現実があります。
しかし、拝見してみると、古い太刀拵の肉取りは想像以上に贅肉が無く、柄も持つのに心配するほど肉を削ぎ落としている印象がありました。もし当時の太刀拵を忠実の再現した物があれば、是非、実際に斬ってみて、手の内の感触を試してみたいほのかな願望を持っている。(笑い)