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アルヴェイン家のお話

婚約破棄ですか? では、王国を支えたものをすべて返していただきます

作者: シオン
掲載日:2026/08/22


セレスティア・フォン・アルヴェインは、十五歳のときに第一王子レオナルドの婚約者となった。


アルヴェイン公爵家は、王国最大の穀倉地帯と豊かな鉱山、東部の交易港を治める名門である。


一方、王家は三代前から続く浪費によって、莫大な借金を抱えていた。


国王は財政に疎く、王妃は毎月のように舞踏会を開き、宝石やドレスを買い集めていた。それにもかかわらず、王族たちは自分たちが国でもっとも裕福であり、偉大な存在であると信じて疑わなかった。


その王家を立て直すために結ばれたのが、セレスティアとレオナルドの婚約だった。


婚約に際し、アルヴェイン公爵家は王家へ大規模な支援を約束した。


王家の借金の肩代わり。


王都へ供給する小麦の値下げ。


国境防衛軍の給与負担。


王立学院への補助金。


街道と橋の整備。


港の改修。


干ばつに備えた食料備蓄。


どれも、セレスティアが将来の王太子妃となることを条件に結ばれた契約だった。


もっとも、その事実を理解している者は少なかった。


王国の民は、税が軽くなったのは国王の政策だと思っていた。


兵士たちは、給与が遅れなくなったのは第一王子の功績だと教えられていた。


王立学院の生徒たちは、奨学金制度を作ったのは慈悲深い王妃だと信じていた。


実際に制度を考え、必要な資金を用意し、毎晩遅くまで書類を作っていたのはセレスティアだった。


彼女は自分の功績を誇ろうとはしなかった。


「いずれレオナルド殿下が国王になれば、わたくしは王妃になります。一人の名誉より、国が安定することのほうが大切です」


そう言って、表舞台に立つことを避けていた。


だが、その慎ましさが彼女の最大の失敗だった。


レオナルドは周囲から褒められるうち、本当に自分が国を立て直したのだと思い込んだのである。


「税収が増えたのは、民が次代の王である私に期待しているからだ」


「国境が平和なのは、敵国が私の名を恐れているからだ」


「王都に食料があふれているのは、父上の統治が優れているからだ」


会議に一度も参加せず、報告書を一枚も読まないまま、レオナルドは堂々とそう語った。


セレスティアは何度も注意した。


「殿下、来年は北部で干ばつが予想されています。今のうちに輸送路を整備する必要がございます」


「そのようなことは文官に任せればよい」


「南西部の砦が老朽化しております。修繕費の承認をお願いいたします」


「また金の話か。お前と話していると気が滅入る」


「ですが、国を守るために必要です」


「セレスティア」


レオナルドは露骨にため息をついた。


「お前は私の婚約者だ。小麦や石壁の話ばかりではなく、たまには愛らしい話をしたらどうだ?」


「国政について意見を交わすことも、王太子妃の役目ではございませんか」


「女が政治に口を挟むな」


そう言った翌日、レオナルドは議会でセレスティアの提出した政策案を、さも自分が考えたかのように読み上げた。


その案は高く評価され、貴族たちは彼を「百年に一人の賢王になる」とたたえた。


レオナルドは満足そうに笑っていた。


セレスティアの名を口にすることは、一度もなかった。


それでも彼女は耐えてきた。


レオナルドが好きだったからではない。


国と民を見捨てられなかったからだ。


しかし、そんな彼女の献身を、レオナルドは愛情だと勘違いした。


セレスティアは自分なしでは生きられない。


何をしても最後には許してくれる。


本気で、そう信じていたのである。


王立学院の最終学年。


地方から一人の少女が編入してきた。


名を、ミレイユ・フォン・ダラスといった。


没落寸前の男爵家の一人娘だった。


金色の髪に大きな青い瞳を持ち、いつも誰かに守ってもらわなければならないような、か弱い雰囲気をまとっていた。


「王都の作法が分からなくて……」


「勉強についていけなくて……」


「家が貧しくて、新しいドレスも買えなくて……」


ミレイユが涙ぐめば、男子生徒たちは競うように彼女を助けた。


中でも夢中になったのがレオナルドだった。


彼はミレイユに宝石を贈り、王族専用の馬車で送り迎えし、授業や公務を抜け出して町へ遊びに行った。


それをセレスティアが注意すると、ミレイユは決まって涙を流した。


「申し訳ございません、セレスティア様。わたしが殿下にご迷惑をおかけしたのですね」


「あなたを責めているのではありません。殿下には公務がございます」


「でも、殿下はわたしといると心が安らぐとおっしゃいました」


「その結果、視察を三度も欠席されています」


「もしかして、セレスティア様は嫉妬なさっているのですか?」


「いいえ」


セレスティアが即答すると、ミレイユは一瞬だけ不満そうな顔をした。


その表情はすぐに涙で隠された。


「わたし、お二人の邪魔をするつもりなんてありません。ただ殿下をお慕いしているだけなのです」


「婚約者のいる男性に近づくことを、この国では『ただ慕っているだけ』とは申しません」


「身分が高いからといって、人の心まで縛るのですか?」


「人の心ではなく、国家に関わる契約の話をしております」


「難しい言葉で、わたしをいじめないでください!」


ミレイユは泣きながら走り去った。


その夜、レオナルドはセレスティアの屋敷に押しかけてきた。


「ミレイユを泣かせたそうだな!」


「婚約者のいる男性と二人きりで出歩くのは慎むよう申し上げただけです」


「あの子は純粋なのだ。お前のように、何でも契約や利益で考える女とは違う!」


「殿下とわたくしの婚約が、王国の存続に関わる契約であることをお忘れですか」


「また国の話か!」


レオナルドは机をたたいた。


「お前はいつもそうだ! 金、食料、軍隊、税金! 少しはミレイユのように可愛らしく振る舞えないのか!」


セレスティアの横には、承認を待つ予算案が積まれていた。


その中には、レオナルドがミレイユのために購入した宝石の請求書もあった。


「殿下。この首飾りの代金は、どなたがお支払いになるのでしょう」


「何を言っている。王家に決まっているだろう」


「王家の宝飾費は、すでに今年度の予算を超えております」


「ならば、お前の公爵家が払えばよい」


「あれは持参金ではなく、国政を安定させるための資金です」


「いずれ私の妻になるのだ。お前の金は私の金だろう」


その一言で、セレスティアの中に残っていた何かが、静かに消えた。


怒りではなかった。


悲しみでもない。


期待が、なくなったのだ。


「承知いたしました」


セレスティアは請求書を閉じた。


「何がだ?」


「殿下のお考えを、よく理解いたしました」


レオナルドは満足そうに笑った。


セレスティアが折れたと思ったのだろう。


だが、その日の夜から、彼女は準備を始めた。


婚約解消時に終了する契約の整理。


公爵家から王家へ流れている支援金。


王家が抱える負債。


王都の食料備蓄量。


軍と官僚への通達。


隣国との交渉。


そして、自分とミレイユに関するすべての出来事の記録。


セレスティアは、まだ婚約を破棄するつもりではなかった。


王国のため、最後に一度だけレオナルドへ機会を与えようと考えていた。


その機会すら、彼は自分の手で踏みにじった。


最初の事件は、学院の中央階段で起きた。


ミレイユが階段から転落し、足を軽く捻挫したのである。


彼女は駆けつけたレオナルドの胸で泣いた。


「セレスティア様が、わたしの背中を……」


「なんだと!」


「いいえ。きっと、わたしの勘違いです。セレスティア様がそのようなことをするはずがありません」


否定するふりをしながら、疑いだけを残す。


巧妙な言い方だった。


その時間、セレスティアは図書室で法務長官と面会していた。司書と十人以上の生徒が、それを証言できた。


だが、レオナルドは確認しようとしなかった。


「謝れ、セレスティア!」


「わたくしはその場におりませんでした」


「ミレイユが嘘をついたと言うのか!」


「事実を確認してほしいと申し上げております」


「言い逃れをするな!」


二つ目の事件では、ミレイユの教科書が破かれた。


三つ目の事件では、彼女の宝石がなくなった。


四つ目の事件では、机の中から脅迫状が見つかった。


五つ目の事件では、茶会に毒が持ち込まれた。


事件が起きるたび、ミレイユはセレスティアの名を口にした。


そのたびにレオナルドはセレスティアを責めた。


「いい加減にしろ!」


「証拠をお示しください」


「被害者の証言がある!」


「では、わたくしの証言はなぜお聞きにならないのですか」


「お前は加害者だからだ!」


「最初から、わたくしを犯人と決めておられるのですね」


「当然だ。ミレイユを憎む者は、お前しかいない」


実際には、証拠がいくつも残されていた。


階段から転落する直前、ミレイユが自分で周囲の侍女を遠ざけたこと。


破られた教科書と同じものを、彼女が古書店へ売った記録。


盗まれたはずの宝石が、ミレイユの実家の借金返済に使われていたこと。


脅迫状と彼女の手紙が、同じ筆跡であること。


毒を購入した商人が、彼女の顔を覚えていたこと。


学院から報告を受けたセレスティアは、すべての証拠をまとめた。


そして卒業舞踏会の三日前、レオナルドへ提出した。


「こちらをお読みください」


「なんだ、これは」


「ミレイユ男爵令嬢に関する調査報告書です。すべての事件が自作自演であった可能性を示す証拠がございます」


レオナルドは一枚目だけを眺めた。


その後、報告書を机の端へ放り投げた。


「今さら、こんなものを作っても遅い」


「お読みにならないのですか」


「読む必要はない」


「なぜです?」


「真実がどうであれ、お前との婚約は卒業舞踏会で破棄するからだ」


セレスティアは、しばらく黙って彼を見つめた。


「真実を確認する必要はないと?」


「ない」


「無実の者を罪人にしても構わないと?」


レオナルドは椅子にもたれ、笑った。


「公衆の面前で罪を並べれば、お前は反論できまい。お前のように体面を気にする女は、大勢の前で騒げないからな」


「わたくしが婚約破棄を受け入れたら?」


「あり得ない」


レオナルドは自信満々に答えた。


「お前は十年間も私のために尽くしてきた。私なしでは何者にもなれない。婚約を破棄すると言えば、泣いて許しを請うに決まっている」


「では、殿下の目的は何ですか」


「お前に立場を分からせることだ」


「立場?」


「ミレイユを側妃として受け入れ、今後は私の言うことに逆らわないと誓え。そうすれば、最後には許してやってもよい」


セレスティアは目を伏せた。


その仕草を、レオナルドは恐怖だと思った。


しかし、彼女が隠したのは込み上げてきた失笑だった。


セレスティアは一礼して部屋を出た。


そして法務長官へ、短い手紙を送った。


『王太子に更生の意思なし。予定どおり、すべての手続きを進めてください』


卒業記念舞踏会は、王国でもっとも格式高い行事の一つだった。


その年は、例年以上に多くの客が招待されていた。


国王と王妃。


有力貴族。


軍の司令官。


法務長官。


大商会の代表。


外国の大使。


レオナルドが大勢を集めたのだ。


セレスティアを公開断罪し、自分とミレイユの「真実の愛」を国中に認めさせるためだった。


楽団の演奏が止まる。


広間の中央で、レオナルドがセレスティアを指さした。


「セレスティア・フォン・アルヴェイン! 貴様との婚約を、ここに破棄する!」


予定どおりの宣言だった。


ミレイユはレオナルドの腕に寄り添い、勝ち誇った笑みを隠すために顔を伏せた。


「貴様は嫉妬に狂い、ミレイユを階段から突き落とした。所有物を壊し、宝石を盗み、脅迫状を送り、ついには毒殺まで企てた!」


大広間がざわめく。


何も知らない者たちは、驚愕の目でセレスティアを見た。


セレスティアは広間の中央へ進み出た。


白銀のドレスが、燭台の光を受けて静かに輝いていた。


「殿下。確認してもよろしいでしょうか」


「命乞いなら聞かん!」


「これは殿下個人のご意思ですか。それとも、王家の正式な決定でしょうか」


「同じことだ。私は次の国王だぞ」


「現在の国王は、陛下でございます」


セレスティアは壇上を見た。


「陛下。王家として、婚約破棄を認められますか?」


国王は隣に座る王妃を見た。


王妃は小さくうなずいた。


彼女は以前から、気が強く地味なセレスティアより、愛らしく従順なミレイユのほうが嫁にふさわしいと考えていた。


国王は威厳を保つように胸を張った。


「レオナルドは次代の王だ。その決定は、王家の決定である」


「撤回なさいませんね?」


「くどい!」


「承知いたしました」


セレスティアは優雅に一礼した。


「アルヴェイン公爵家は、王家からの婚約破棄を正式に受諾いたします」


広間の空気が変わった。


誰もが、セレスティアは泣いてすがると思っていた。


もっとも驚いたのはレオナルドだった。


「待て」


「何でしょうか」


「それだけか?」


「婚約破棄を受け入れましたが、ほかに何かございますか」


「謝罪はどうした!」


「しておりません」


「ミレイユにひざまずけ!」


レオナルドが叫ぶと、ミレイユが悲しげな顔で前へ出た。


「わたしは謝罪だけで十分です。セレスティア様を修道院へ送るなんて、かわいそうですもの」


「なんと慈悲深いのだ、ミレイユ!」


レオナルドは感動した様子で彼女の手を握った。


ミレイユは遠慮がちに続ける。


「ですから、セレスティア様には、わたしの侍女としてお仕えいただくのはいかがでしょう。わたしが正しい心を教えて差し上げます」


大広間に沈黙が落ちた。


公爵令嬢を、男爵令嬢の侍女にする。


それが慈悲だと言い張る厚顔さに、貴族たちは言葉を失った。


しかし、レオナルドだけは声を上げて笑った。


「素晴らしい考えだ! セレスティア、喜べ。罪人であるお前を、ミレイユが救ってくれるそうだ」


「わたくしを侍女にするというのも、正式な王命でしょうか」


「ああ、そうだ!」


「陛下も認められますか?」


国王は苛立たしげに手を振った。


「レオナルドに任せる」


「確かに承りました」


セレスティアが右手を上げる。


閉ざされていた大扉が開いた。


法務長官を先頭に、数十人の文官が入ってくる。


彼らは大量の契約書と帳簿を運び、広間の中央に並べた。


続いて、王国軍の騎士団長、商業組合の代表、穀物商会の会頭が入場した。


最後に姿を現したのは、隣国グランフェル帝国の大使だった。


レオナルドは眉をひそめた。


「なんのまねだ」


法務長官が答える。


「婚約解消に伴う契約終了の手続きでございます」


「契約終了?」


「王家とアルヴェイン公爵家の間には、婚約に付随する三十二件の契約がございます。先ほど双方が婚約解消に合意したため、すべての契約は本日をもって終了いたします」


国王が身を乗り出した。


「待て。三十二件とはなんだ」


今度は、セレスティアがはっきりと笑った。


「ご自分で署名された契約を、陛下は覚えておられないのですか?」


法務長官が、一枚目の契約書を掲げた。


「第一契約。アルヴェイン公爵家は、セレスティア嬢が王太子妃となることを条件に、王家の負債三百二十万金貨を立て替える」


広間からどよめきが起こった。


三百二十万金貨。


小国の国家予算に匹敵する金額だった。


「第二契約。公爵家は王都に供給する小麦を、市場価格の半額で王家へ譲渡する」


「第三契約。公爵家は国境防衛軍一万二千名の給与を負担する」


「第四契約。公爵家は王立学院の運営費および奨学金の八割を負担する」


「第五契約。公爵家は王都と東部港湾を結ぶ街道の維持費を負担する」


「第六契約。公爵家は王宮の維持費、衛兵の給与、王室行事費の不足分を補う」


読み上げられるたび、王族の顔から血の気が引いていく。


貴族たちも青ざめていた。


自分たちが豊かに暮らせていたのは、王家のおかげではなかった。


セレスティアが支えていたからだった。


王妃が扇を取り落とす。


「では、これから王宮の費用は誰が払うのです?」


「王家でございます」


セレスティアが答えた。


「当たり前でしょう」


「そのような金が王家にあるわけがないでしょう!」


「存じ上げません。わたくしは先ほど、公爵令嬢の地位を返上して男爵令嬢の侍女になれと命じられました。王家の家計を心配する資格など、わたくしにはございませんもの」


広間のあちこちから笑いが漏れた。


王妃の顔が赤くなる。


「命令します! 支援を続けなさい!」


「できません」


「これは王命です!」


法務長官が答えた。


「建国憲章第二十七条により、王家は上位貴族の私有財産を正当な理由なく没収できません。契約終了後の支援を強制すれば、王家による財産侵害となります」


「ならば、公爵家を反逆者として処罰すればよい!」


国王の言葉に、帝国大使が一歩前へ出た。


「その場合、グランフェル帝国はアルヴェイン公爵家との保護条約を発効します」


「他国が口を挟むな!」


「アルヴェイン領には、王家が契約を破った際、帰属する国家を選択できる権利がございます。これは両国が承認した建国条約に記載されています」


国王の声が震えた。


「アルヴェイン領がなくなれば、王国はどうなる」


セレスティアが指を折りながら答える。


「王国の小麦生産量は七割減少いたします。鉄の生産量は九割、金の生産量はすべて失われます。東部港湾も我が領地ですので、外国との交易収入は六割減少いたします」


「そんな……」


「加えて、我が家の資金で雇用している国境防衛軍は、契約満了と同時にアルヴェイン領軍へ復帰します」


国王は椅子にへたり込んだ。


「王国が、なくなるではないか」


「ご安心ください」


セレスティアは穏やかに言った。


「次代の国王であるレオナルド殿下が、支えてくださいますわ」


広間の視線が、レオナルドへ集中する。


彼は青ざめながらも、無理に胸を張った。


「も、もちろんだ! 国は王が治めるもの。女一人がいなくなった程度で困るはずがない!」


「心強いお言葉です」


セレスティアは微笑んだ。


「では殿下。昨年度の王国税収をお答えください」


「なぜ、今それを聞く」


「国を支えられるとおっしゃいましたので」


「細かい数字は文官が知っていればよい!」


「では、国家予算のうち軍事費の割合は?」


「知らん」


「王都の小麦備蓄は、現在何日分ございますか」


「知らん!」


「国境に配置されている兵士の人数は?」


「そんなもの、騎士団長に聞け!」


「王家の負債総額は?」


「金の話ばかりするな!」


セレスティアは法務長官を見た。


法務長官がうなずき、書面へ記入する。


「ただいまの発言を、王位継承者が国家財政、食料備蓄および国防の状況を把握していない証言として記録いたしました」


レオナルドの顔が引きつった。


「待て。今のは質問の仕方が悪い!」


「質問は単純でした」


「私を陥れたな!」


「殿下が『知らない』とお答えになっただけです」


広間から失笑が起こる。


「セレスティアめ!」


レオナルドは怒りに任せて彼女を指さした。


「やはり貴様は悪女だ! これだけの力を持ちながら、王家を脅していたのだな!」


「脅してなどおりません」


「ならば、なぜ私に教えなかった!」


セレスティアは目を瞬いた。


「毎月、報告書をお送りしておりました」


家令が別の箱を運んできた。


中には、未開封の報告書がぎっしりと詰まっている。


「こちらは殿下の執務室から回収したものです。すべて未開封でございました」


「う、嘘だ!」


「そして、こちらが殿下からいただいたご返答です」


家令が手紙を読み上げる。


「『小麦や鉄の話など私には必要ない。セレスティアが勝手に処理しろ』」


次の手紙が開かれる。


「『予算案は長くて読む気がしない。私が承認したことにしておけ』」


さらに次。


「『兵士の給与が足りないなら、アルヴェイン公爵家が払えばよい。どうせセレスティアのものは、結婚すれば私のものになる』」


広間の笑い声が大きくなる。


レオナルドの顔が真っ赤に染まった。


「やめろ! それ以上読むな!」


「まだ二百八十七通ございます」


「やめろと言っている!」


「すべて殿下の署名入りです」


先ほどまでレオナルドを「賢明な王太子」と褒めていた貴族たちは、次々に距離を取り始めた。


誰一人、彼のそばに残ろうとしなかった。


「まだだ!」


レオナルドが叫んだ。


「セレスティアは罪人だ! ミレイユを害した罪で処刑すれば、公爵家の財産は王家のものになる!」


王妃が希望を取り戻したように顔を上げる。


「そうです! 罪人の家は取り潰せばよいのです!」


セレスティアは二人を見つめた。


「公爵家の財産が欲しいから、わたくしを処刑なさるのですね」


「ち、違う! 正義のためだ!」


「では、事件を一つずつ確認いたしましょう」


法務長官が手を打った。


最初に入ってきたのは、学院の司書と十人の生徒だった。


「ミレイユ男爵令嬢が階段から転落した時刻、セレスティア様は図書室におられました」


司書が証言する。


法務長官はミレイユへ尋ねた。


「セレスティア嬢は、どのようにあなたを突き落としたのですか」


「それは、後ろから……」


「セレスティア嬢は、その時間に別棟の図書室にいました」


「手下に命じたのです!」


「先ほどは、セレスティア嬢本人に押されたと言いましたね」


「記憶が混乱しているのです!」


次に、古書店の主人が入ってきた。


「この教科書を売ったのは、ミレイユ様ご本人です。買い取り証と署名が残っております」


「偽物よ!」


「学院入学書類にある署名と一致しております」


その次は宝石商だった。


「盗まれたとされる首飾りは、ミレイユ様から受け取りました。売却代金はダラス男爵家の借金返済に使われております」


「人違いよ!」


「購入時の契約書に、ミレイユ様の指印がございます」


続いて、筆跡鑑定人が、脅迫状とミレイユの手紙は同じ人物によって書かれたと証言した。


最後に現れたのは、ミレイユの専属侍女だった。


ミレイユの顔が真っ白になる。


「あなた、なぜここにいるの」


侍女は法務長官の前にひざまずいた。


「すべて証言いたします。事件はすべて、ミレイユ様の自作自演です」


「裏切るの!?」


「わたしの家族を人質にして、命令に従わせたのはあなたです」


侍女は手紙の束を差し出した。


そこには、事件の細かな計画が記されていた。


階段では、転ぶ前に厚い布をドレスの下へ巻いていた。


教科書は自分で破った。


宝石は実家の借金返済に使った。


脅迫状は左手で書き、筆跡をごまかそうとした。


毒は実際には飲まず、症状を装うための薬を用意していた。


「法務長官、違います!」


ミレイユが叫ぶ。


「わたしは殿下に命じられたのです! セレスティアを悪役にすれば、何をしても許すと!」


「ミレイユ、何を言っている!」


レオナルドが彼女を突き飛ばした。


「私は何も知らない!」


「嘘よ! 証拠がなくても、王子が命じれば罪人にできると言ったではありませんか!」


「黙れ!」


「王になったら、セレスティア様を処刑して公爵家の財産を奪うと言ったでしょう!」


「この嘘つき女が!」


レオナルドがミレイユの頬を打とうとする。


騎士団長が、その腕をつかんだ。


「お二人とも、言い争いはそこまでに」


法務長官が、小さな魔導具を机に置いた。


「念のため、会話の記録も確認いたしましょう」


光が広がり、レオナルドの声が流れる。


『証拠など必要ない。大勢の前で断罪すれば、セレスティアは反論できない』


続いて、ミレイユの声。


『でも、本当に婚約を破棄したら、公爵家の援助もなくなるのでは?』


『心配するな。あの女は私に捨てられることを何より恐れている』


『泣いて謝ったら、許してあげるのですか?』


『側妃としてお前を受け入れ、財産をすべて私に渡すならな』


『それでも逆らったら?』


『毒殺未遂の罪で処刑する。そうすれば公爵領は王家の直轄地だ』


広間が静まり返る。


レオナルドの声は、さらに続いた。


『セレスティアは数字を計算するしか能のない地味な女だ。国を動かしているのは私なのに、偉そうに意見するのが気に入らない』


記録が終わった。


次の瞬間、誰かが吹き出した。


やがて笑いは広間全体へ広がった。


「数字を計算するしか能がない、ですか」


財務大臣が冷ややかに言った。


「殿下が一度も読まなかった予算案を作り、崩壊寸前だった財政を立て直した方に?」


「国を動かしていたのは殿下だそうですぞ」


軍務大臣が続ける。


「国境の兵士が何人いるかもご存じないのに、どのように動かしていたのでしょうな」


「寝ている間に統治なさる、奇跡の王なのでしょう」


笑い声がさらに大きくなる。


レオナルドは顔を真っ赤にして叫んだ。


「笑うな! 私は王太子だぞ!」


「いいえ」


国王が低い声で告げた。


「今、この場をもって王位継承権を剥奪する」


「父上?」


「お前を王にすれば、我が国は一月も持たぬ」


「ですが、父上も婚約破棄を認めたではありませんか!」


国王の顔が引きつる。


王妃も慌てて視線をそらした。


セレスティアは、その様子を見逃さなかった。


「陛下。すべてを元殿下お一人の責任になさるおつもりですか?」


「何を言う。私は事情を知らなかったのだ」


「三日前、調査報告書の写しを陛下と王妃殿下にもお送りしております」


家令が受領証を掲げた。


国王の署名。


王妃の印章。


どちらも、確かに記されていた。


「報告書を受け取った上で、先ほど婚約破棄を認められましたね」


国王は口を開いたが、言葉が出なかった。


「王家は真実を知る機会がありながら、我が家の財産を奪うために虚偽の断罪を認めた。そう判断せざるを得ません」


貴族たちの視線が、一斉に冷たくなる。


王妃が立ち上がった。


「違います! その報告書は読んでいません!」


「受け取ったが、読んでいないと?」


「そうです!」


「国家の存亡に関わる公爵家からの報告を、確認せずに処分を決められたのですね」


「それは……」


「読んだなら共犯。読んでいないなら、国を預かる者として重大な怠慢です」


どちらを選んでも逃げ道はなかった。


王妃は唇を震わせ、椅子に崩れ落ちた。


騎士団長がレオナルドの剣を取り上げた。


「レオナルド元第一王子。虚偽告発、証拠捏造、王権の私的利用、殺人未遂の共謀、および公爵家財産の強奪未遂により拘束いたします」


「離せ! 私はだまされたのだ!」


レオナルドはミレイユを指さす。


「全部あの女が仕組んだ! あの女を処刑しろ!」


ミレイユも負けじと叫ぶ。


「わたしは殿下に命令されただけです! 王太子妃にしてやると言われたから!」


「私を愛していると言っただろう!」


「王太子だから愛していたのよ!」


ミレイユの叫びに、レオナルドが動きを止める。


「なんだと?」


「王位を失ったあなたに、何の価値があるの! 自分では何もできないくせに!」


「貴様こそ、男爵家の借金を私に払わせただけではないか!」


「あなたが勝手に払ったのでしょう!」


「この詐欺師め!」


「無能!」


「嘘つき!」


ほんの少し前まで、真実の愛を誇っていた二人だった。


今では、互いの髪をつかもうとして衛兵に押さえられている。


法務長官が一枚の書類を取り出す。


「なお、お二人の婚姻契約はすでに成立しております」


ミレイユが顔を上げた。


「え?」


「卒業舞踏会で婚約を発表するため、昨日、お二人が署名されました。王家の承認もございます」


「待ってください。レオナルド様はもう王太子ではありません!」


「身分が変わっても婚姻契約は有効です」


「そんな結婚、嫌です!」


法務長官は不思議そうに首をかしげた。


「真実の愛で結ばれているのでしょう?」


広間から笑いが起こる。


「違います! わたしが愛していたのは王太子です!」


レオナルドが怒鳴った。


「私もお前のような女と結婚などしない!」


「契約には、地位や財産の変動を理由に婚姻を拒否できないと記載されています」


セレスティアが微笑む。


「真実の愛は身分を超えると、お二人が自ら加えた条文ですわ」


ミレイユの顔が絶望に染まった。


「そんな……」


「お望みどおり、何もお二人を引き離しません」


「嫌よ!」


「どうぞ末永く、お幸せに」


国王が壇上から下りてきた。


先ほどまでの威厳は、どこにも残っていなかった。


「セレスティア。過ちは認める。レオナルドは廃嫡した。ミレイユも罰する。これで満足だろう」


「満足?」


「婚約破棄は撤回する。第二王子の妃となってもよい。望むなら、そなた自身を王位につけよう」


第二王子は広間の端で目を伏せた。


やがて、静かに口を開く。


「父上。セレスティア嬢を、王家を支えるための道具のように扱うのはおやめください」


国王が息子をにらむ。


「国を救うためだ!」


「その言葉で、十年間も彼女にすべてを押しつけたのでしょう」


セレスティアは第二王子へ一礼した。


それから国王を見た。


「婚約破棄の撤回はお受けいたしません」


「なぜだ! 女王にしてやると言っているのだぞ!」


「してやる?」


彼女の声は静かだった。


しかし、その場にいた全員が国王の失言に気づいた。


「陛下はまだ、与える側のおつもりなのですね」


「そういう意味ではない!」


「わたくしが支援を打ち切れば、明日から使用人の給与すら払えない王家が、わたくしに何を与えられるのでしょう」


国王は言葉を失った。


セレスティアは机の上から、婚約破棄の証明書を取り上げた。


そこにはレオナルドだけでなく、国王の署名と王家の印章がある。


「王家は皆の前で、わたくしを捨てました」


「間違いだった!」


「いいえ」


セレスティアは首を横に振った。


「間違えたのではありません。証拠を確かめず、わたくしの財産を奪おうとしたのです」


国王はついに床へひざをついた。


「頼む。王国を見捨てないでくれ」


王妃も続いて頭を下げる。


「謝ります。ミレイユを嫁に迎えようとしたことも撤回します。あなたを王家でもっとも尊重します。ですから支援を……」


「王家でもっとも尊重する?」


セレスティアは王妃を見下ろした。


「先ほど、わたくしを男爵令嬢の侍女にするとお認めになりましたね」


「本気ではなかったのです!」


「本気でない命令なら、公の場で発してもよいと?」


「それはレオナルドが勝手に!」


「王家の決定だと、陛下がおっしゃいました」


王妃は何も言えなくなった。


セレスティアは法務長官へ合図する。


「最後の手続きをお願いいたします」


法務長官が、分厚い書類を開いた。


「アルヴェイン公爵家が立て替えた王家の負債三百二十万金貨は、王家側の都合によって婚約が破棄された場合、翌日の正午までに返済する契約となっております」


国王がゆっくり顔を上げた。


「翌日の正午?」


「はい」


「そんな金はない」


「その場合、担保となっている王家所有の財産を差し押さえます」


「担保?」


「王宮、王家の直轄地、離宮、保養地、狩猟場、馬車、宝飾品、美術品、および王家所有の船舶です」


王妃が胸元の首飾りを押さえた。


「宝石も?」


「王家の予算で購入されたものは、すべて対象です」


「これは私のものです!」


「代金を支払ったのはアルヴェイン公爵家です」


法務長官の背後から、宝石商たちが姿を現した。


それぞれが請求書を持っている。


王妃が耳飾りを隠そうとすると、商人が口を開いた。


「そちらも未払いです」


王妃が腕輪を押さえる。


「そちらもです」


指輪へ手を伸ばす。


「そちらも、公爵家からの立替金で購入されております」


王妃の顔がみるみる赤くなる。


「では、私自身のものはどれなのです!」


商人たちは互いに顔を見合わせた。


やがて、一人が控えめに答えた。


「現在お召しの下着までは、当方では確認できません」


広間が爆笑に包まれた。


王妃は悲鳴を上げ、顔を覆った。


セレスティアは国王へ一枚の請求書を渡す。


「明日の正午までにご返済くださいませ」


「払えないことを知っているだろう!」


「もちろんです」


「ならば、我々に王宮から出ていけと言うのか!」


「王宮は差し押さえ後、病院と孤児院へ改装する予定です」


「我々はどこに住めばよい!」


「王都の北に、長く使われていない官舎がございます」


国王の顔に、ほんの少しだけ安堵が浮かぶ。


「あちらを使用人用に修繕いたします。働いて借金を返済なさるのであれば、寝床としてお貸しいたしましょう」


王妃が悲鳴を上げた。


「私に働けと言うのですか!」


「国民は皆、働いております」


「私は王妃です!」


「明日までは」


その一言で、広間の空気が凍った。


法務長官が宣言する。


「王家が期限までに負債を返済できなかった場合、財産と統治基盤を失ったものとして、貴族議会は王朝の存続について審議を開始します」


国王は床に両手をついた。


「セレスティア。頼む。私が悪かった」


「わたくしではなく、これまで王家の浪費に苦しめられた国民へ謝罪なさってください」


「何でもする。だから王国を助けてくれ」


「では、王家の財産をすべて差し出し、罪を認めて退位してください」


国王の顔がゆがむ。


「それ以外の方法で……」


「何でもするとおっしゃったばかりでは?」


「王位だけは渡せない!」


セレスティアは小さく笑った。


「国民より王位が大切なのですね」


その場にいた貴族たちが、国王から距離を取った。


国王はようやく、自分が最後の支持まで失ったことに気づいた。


衛兵に連れていかれようとしたレオナルドが、突然その場にひざまずいた。


「セレスティア!」


彼は衛兵の手を振り払い、床を這うようにして彼女へ近づいた。


「私が悪かった! ミレイユに惑わされていたのだ!」


「先ほど、その方も殿下に命令されたと証言しておりました」


「違う! 私は操られていた!」


「会話の記録がございます」


「魔導具が壊れていたのだ!」


「ご自分の声すら認められないのですか」


レオナルドは言葉に詰まった。


「愛しているのはお前だけだ!」


「初めて聞きました」


「恥ずかしくて言えなかっただけだ!」


「殿下はミレイユ男爵令嬢に、一日に三度もおっしゃっていたそうですが」


ミレイユが吐き捨てる。


「わたしには、一日に十回は言っていたわ!」


「黙れ!」


「本当のことでしょう!」


レオナルドは再びセレスティアへ向き直った。


「私は愚かだった! これから変わる! お前の報告書もすべて読む! 国について勉強する! だから、もう一度だけ機会をくれ!」


セレスティアは静かに問いかけた。


「殿下。十年前、わたくしが初めて提出した政策案を覚えておられますか」


「もちろんだ!」


「どのような内容でしたか」


レオナルドの口が止まる。


「それは……」


「三年前、疫病が流行した村を救うため、わたくしが作った制度は?」


「急に聞かれても……」


「昨年の洪水で避難所となった施設を、誰が建てたかご存じですか」


「そんな昔のことを!」


「昨日まで、すべて殿下の功績として発表されていたものです」


レオナルドは目をそらした。


セレスティアは彼を見下ろした。


怒りはなかった。


ただ、完全な失望だけがあった。


「殿下が愛しているのは、わたくしではありません」


「違う!」


「黙って働き、功績を譲り、借金を払い、どれほど侮辱しても離れない、都合のよい道具です」


「そんなことはない!」


「では、わたくしの好きな花をご存じですか」


レオナルドは答えられなかった。


「好きな色は?」


沈黙。


「苦手な食べ物は?」


沈黙。


「わたくしの誕生日は?」


「春だったはずだ!」


「冬です」


広間のあちこちから、あきれたため息が漏れた。


レオナルドは床に額をこすりつけた。


「頼む! 許してくれ! 何でもする!」


「先ほど殿下は、わたくしにひざまずいて謝罪しろとおっしゃいましたね」


「ああ、私が悪かった!」


「実際にご自分がひざまずいてみて、いかがですか?」


レオナルドの肩が震えた。


「惨めだ……」


「そうでしょうね」


「だから、もう十分だろう!」


「いいえ」


セレスティアは、はっきりと告げた。


「これは罰ではございません」


レオナルドが顔を上げる。


「殿下が他人に強いようとした屈辱を、ご自分で味わっているだけです」


「では、どうすれば許してくれる!」


「何をしても許しません」


「なぜだ!」


「殿下は、謝れば奪った十年が戻るとお考えなのですか?」


レオナルドは息をのんだ。


「わたくしの努力を奪い、名誉を奪い、最後には命まで奪おうとなさいました」


「処刑は脅しだった!」


「脅しなら許されると?」


「本当に殺すつもりはなかった!」


「財産さえ手に入れば、わたくしの生死などどうでもよかったのでしょう」


レオナルドは、何も言えなかった。


セレスティアは彼に背を向ける。


「お待ちください!」


「もう、わたくしの名を呼ばないでくださいませ」


「セレスティア!」


「あなたに呼ばれるたび、わたくしの価値が下がるようで不愉快です」


広間から拍手が起こった。


最初は一人。


次に二人。


やがて、貴族も商人も軍人も、全員が拍手を送っていた。


レオナルドは床にひざまずいたまま、その音を聞いていた。


自分をたたえるために集めた者たちが、今は自分から去っていく女性を祝福している。


それこそ、彼にとって最大の屈辱だった。


翌日の正午。


王家は三百二十万金貨を用意できなかった。


支払いに充てようと国庫を開いたところ、中に残っていたのは金貨八百枚だけだった。


国庫番が盗んだわけではない。


王妃の舞踏会、国王の狩猟、レオナルドがミレイユへ贈った宝石で、すべて使い果たされていたのである。


王宮と直轄地は、契約どおり差し押さえられた。


同時に、アルヴェイン領は王国から離脱し、グランフェル帝国との連邦加入を宣言した。


王国の貴族たちは相次いで王家を見限った。


第二王子は自ら継承権を返上し、王家の不正を調査する委員会へ参加した。


国王と王妃は、退位を余儀なくされた。


かつての王宮は改装され、病院、孤児院、公共図書館として民に開放された。


王妃が集めたドレスや宝石は競売にかけられた。


その売上は、未払いだった兵士や使用人の給与に充てられた。


宝石を身につけられなくなった王妃は、毎日鏡の前で泣いた。


だが、彼女の涙を拭く侍女はもういなかった。


半年分の給与を払ってもらえなかった侍女たちは、全員が辞めていたからだ。


国王は官舎で帳簿の整理を命じられた。


しかし、数字を読む習慣がなかったため、何度も計算を間違えた。


かつて一言で人を動かした男が、今では若い文官に叱られていた。


「また間違えております。今日中にやり直してください」


「私は元国王だぞ!」


「ですから、何でしょう。働かなければ食事は出ません」


レオナルドとミレイユには、それぞれ懲役刑が下された。


二人は真実の愛を尊重され、同じ農場で働くことになった。


もっとも、その配慮を喜んだのは最初の一日だけだった。


「あなたがセレスティア様を怒らせたから、こんなことになったのよ!」


「お前が嘘をついたからだ!」


「自分で考える頭がなかっただけでしょう!」


「男爵家の借金を払ってやった恩を忘れたか!」


「王家のお金ではなく、セレスティア様のお金だったのでしょう!」


毎日、二人は責任を押しつけ合った。


朝から晩まで口論するため、仕事はまったく進まなかった。


ついには別々の作業場へ移された。


それでも宿舎へ戻れば、罵り合いが始まった。


婚姻契約は有効なままだった。


二人が自ら加えた「いかなる困難があっても真実の愛を貫き、離縁を求めない」という条文のためである。


その後、セレスティアはグランフェル帝国の財務総監となった。


彼女は複雑だった税制を整理し、汚職を摘発し、農民への負担を減らした。


商人が安全に行き来できる街道を整え、港を拡張し、貧しい学生のための学校を建てた。


彼女の政策によって、帝国の交易収入は三年で五倍となった。


誰かの名誉にされることはなかった。


功績は正式にセレスティアのものとして記録された。


帝国議会では、彼女が登壇するたびに全員が立ち上がった。


かつて「数字を計算するしか能がない」と笑われた女性は、その数字によって数百万の民の暮らしを豊かにした。


そして二十七歳の春。


セレスティアは、帝国史上初の女性宰相に就任した。


宰相就任から一年後、セレスティアは旧王都を視察することになった。


かつての王宮は、白い壁の美しい公共施設に生まれ変わっていた。


舞踏会が開かれていた大広間では、子どもたちが本を読んでいる。


王妃が宝石を隠していた部屋は診療室となり、貧しい者も無料で治療を受けられる。


国王の謁見室は、市民が意見を提出するための議場となっていた。


「すばらしい施設になりましたね」


セレスティアが言うと、施設長が一礼した。


「差し押さえた宝石の売却益で、今後十年間の運営費を確保できました」


「王妃殿下は、良い寄付をなさいましたね」


「ご本人は今でも返してほしいと手紙を送ってきますが」


二人は小さく笑った。


視察を終えたセレスティアは、郊外の農業施設へ向かった。


そこで作られた作物は、孤児院や病院へ送られている。


馬車が止まると、労働者たちが手を休めた。


その中に、レオナルドがいた。


かつて毎日豪華な衣装をまとっていた男は、泥のついた作業着を着ていた。


慣れない仕事で手は荒れ、日に焼けた顔には深い疲れが刻まれている。


セレスティアの姿を見た瞬間、彼は農具を取り落とした。


「セレスティア……」


彼女は帝国宰相の礼装をまとっていた。


胸元には、皇帝から授けられた勲章。


背後には、彼女を敬う官僚と騎士たち。


その姿は、レオナルドがかつて想像していた王妃より、はるかに堂々としていた。


「セレスティア!」


レオナルドは監督官の制止を振り切り、彼女の前へ駆け寄った。


「やっと会えた!」


セレスティアは彼を見た。


「どちら様でしょうか」


レオナルドの顔が凍る。


「私だ! レオナルドだ!」


「ああ」


セレスティアは少し考えた。


「ミレイユ夫人のご主人でしたか」


「違う! 私は、お前の婚約者だった!」


「過去の話です」


「私はずっと後悔していた!」


「そうですか」


「毎日、お前のことを考えている!」


「わたくしは一度も思い出しませんでした」


レオナルドの口が開いたまま止まる。


怒られるより、憎まれるより、残酷な言葉だった。


「そんなはずはない。私のすべてを奪ったのはお前だぞ!」


セレスティアは首をかしげた。


「ご自分で婚約を破棄されたのでは?」


「お前が支援を打ち切ったから!」


「契約を破棄された方が、契約の利益だけを受け取れるとお考えだったのですか」


「それでも、私たちは十年間も一緒にいた!」


「いいえ」


セレスティアの声が冷たくなる。


「わたくしは十年間、殿下の後始末をしていただけです」


「もう一度やり直そう!」


「ミレイユ夫人とご結婚なさっています」


「愛していない!」


その瞬間、作業小屋のほうから怒鳴り声が聞こえた。


「誰が愛してほしいと言ったのよ!」


ミレイユが、泥だらけの姿で立っていた。


手には大きなかごを持っている。


彼女はレオナルドをにらんだ。


「仕事を抜け出して、何をしているの!」


「お前には関係ない!」


「あなたがさぼると、わたしの作業まで増えるのよ!」


「元はといえば、お前のせいだ!」


「またわたしのせいにするの!?」


二人は、セレスティアの存在も忘れて言い争いを始めた。


三年前と何も変わっていなかった。


自分の失敗を認めず、相手に責任を押しつけている。


セレスティアは監督官へ尋ねた。


「働きぶりはいかがですか」


「二人とも不平ばかりで、仕事はほとんど進みません」


「改善の見込みは?」


「ございません」


「では、今後は働いた分だけ食事を支給する方式に変更してください」


レオナルドとミレイユの口論が止まった。


「待て!」


「そんな!」


二人が同時に叫ぶ。


セレスティアは書類に署名した。


「働かなければ食べられない。国民にとって当たり前のことです」


「私は王子だったのだぞ!」


「わたしは未来の王妃だったのよ!」


セレスティアは二人を見た。


「お二人とも、過去形を正しく使えるようになったのですね」


周囲の労働者たちが笑った。


レオナルドは顔を赤くした。


「お前は悪魔だ!」


「以前は悪役令嬢と呼んでおられましたね」


「ああ、そうだ! お前のせいで、私はすべてを失った!」


セレスティアは静かに微笑んだ。


「それは違います」


「何が違う!」


「わたくしは、殿下から何も奪っておりません」


彼女は、かつての婚約者をまっすぐに見た。


「わたくしのものを、わたくしの手元へ戻しただけです」


レオナルドは言葉を失った。


セレスティアは彼に背を向けた。


「待ってくれ!」


「まだ何か?」


「一度だけでいい! あの頃のように、私を助けてくれ!」


セレスティアは振り返らなかった。


「お断りいたします」


「なぜだ!」


「今のわたくしは多忙なのです」


彼女は、新しく生まれ変わった街を見渡した。


学校へ向かう子どもたち。


市場で働く商人たち。


畑を耕す農民たち。


かつて王家の浪費に消えていた金は、今では彼らの未来のために使われている。


「あなたの失敗を隠すために使う時間など、一秒もございません」


馬車の扉が閉じられた。


レオナルドは追いすがろうとしたが、泥に足を取られて転んだ。


ミレイユは助けるどころか、その背中を踏み越えて監督官へ弁明を始めた。


「今の口論は夫が始めたのです! わたしの食事まで減らさないでください!」


「お前が先に怒鳴ったのだろう!」


「無能!」


「嘘つき!」


馬車の中まで、二人の罵声が聞こえてきた。


セレスティアは窓の外を見る。


胸に浮かんだのは喜びでも、復讐を遂げた満足感でもなかった。


ただ、遠い昔に終わった芝居を思い出したような、わずかな懐かしさだけだった。


「宰相閣下」


向かいに座る補佐官が尋ねる。


「よろしかったのですか?」


「何がです?」


「あの者は、ご自身が破滅したのは閣下のせいだと、今後も言い続けるでしょう」


セレスティアは小さく笑った。


「構いません」


「腹立たしくはないのですか?」


「自分の失敗を誰かのせいにし続ける限り、あの方は永遠に同じ場所から動けません」


馬車は、新しく舗装された街道を進んでいく。


その先には、セレスティアが作り上げる未来がある。


レオナルドとミレイユは、いつまでも過去にしがみついて罵り合うだろう。


けれど、彼女にはもう関係のないことだった。


かつて悪役令嬢と呼ばれた女性は、今では数百万の民から賢宰相と呼ばれている。


彼女を陥れた者たちは、彼女がいなければ何もできなかったという現実を、毎日突きつけられながら生きていく。


それこそが、セレスティアが望んですらいなかった、もっとも完全な復讐だった。


そう思っていた。


旧王都から帝都へ戻って七日後、セレスティアのもとに一通の報告書が届くまでは。


「旧王国の北部で、反乱の兆候がある?」


執務机の前で報告書を読みながら、セレスティアは眉を寄せた。


向かいに立つ補佐官ユリウスが、険しい表情でうなずく。


「はい。元国王を支持する一部の貴族が、領民から武器と食料を集めています」


「元国王を支持する貴族など、まだ残っていたのですね」


「正確には、元国王を支持しているのではありません」


「では、何を望んでいるのです?」


「混乱に乗じて、没収された土地や特権を取り戻そうとしているのでしょう。セレスティア様の改革によって、彼らは農民から不当に徴収していた税や、無償労働を命じる権利を失いましたから」


セレスティアは報告書を机へ置いた。


旧王国が帝国の保護領となってから、彼女はさまざまな改革を行っていた。


領主が勝手に税を増やすことを禁じ、農民に無償で働かせる制度を廃止した。


裁判を受ける権利を身分にかかわらず認め、領主による私刑も禁止した。


困窮する村には食料を配り、子どもたちが読み書きを学べる学校を建てた。


その結果、多くの民の暮らしは改善した。


だが、民が豊かになることで損をした者もいる。


これまで民から搾り取っていた貴族たちだ。


「彼らの掲げている旗印は?」


セレスティアが尋ねる。


ユリウスは一瞬だけ返答をためらった。


「レオナルド元王子です」


「……あの方が?」


「農場を脱走しました」


セレスティアは黙ってユリウスを見た。


「監督官をだまし、物資を運ぶ馬車に隠れて逃げたようです。ミレイユ夫人も同時に姿を消しております」


「二人で協力したのですか?」


「今のところは」


その言い方に、セレスティアは小さく息をついた。


あの二人が長く協力できるとは思えなかった。


利害が一致している間だけ手を組み、少しでも不都合が生じれば、すぐに相手へ責任を押しつける。


三年前から何一つ変わっていないなら、今回も同じだろう。


「彼らは何を主張しているのです?」


「セレスティア様が王国を不当に奪った。王家の血を引くレオナルド元王子こそ、正統な王であると」


「ご自分で王位継承権を失い、王家も退位したというのに?」


「民には、すべてセレスティア様が書類を捏造して仕組んだことだと説明しているそうです」


「随分と便利な説明ですね」


セレスティアは椅子の背にもたれた。


「責任を誰かに押しつければ、過去を書き換えられると思っているのでしょう」


「兵を送りますか?」


「反乱に参加している人数は?」


「武装した貴族兵が、およそ二千。領民も含めれば五千を超えます」


「領民は自ら参加しているのですか?」


「いいえ。家族を人質に取られ、強制されている者が多いようです」


セレスティアは即座に答えた。


「正規軍による正面攻撃は認めません」


「しかし」


「貴族兵だけを狙って戦うことはできません。強制的に参加させられた領民まで巻き込まれます」


「では、いかがなさいますか」


セレスティアは立ち上がり、壁に掲げられた旧王国の地図を見た。


反乱の拠点となっている北部地方には、大きな城が一つある。


堅牢な城壁を持つものの、土地は痩せ、食料の多くを他領からの輸送に頼っていた。


「レオナルド元王子は、国を治めることを何も理解していません」


「はい」


「そして、彼を担ぎ上げた貴族たちも、民から奪う方法しか知りません」


セレスティアは北部へ続く街道を指でなぞった。


「ならば、戦う必要はございません」


その日のうちに、北部へ向かうすべての物資輸送が停止された。


ただし、封鎖されたのは反乱軍の占拠する城へ向かう経路だけだった。


近隣の村には帝国軍が直接食料を届け、避難を望む領民を保護した。


さらにセレスティアは、反乱軍へ参加しているすべての領民へ告知を出した。


『武器を置き、城を出た者の罪は問わない。家族も保護する』


『反乱貴族の命令に従わずとも、土地と財産を没収しない』


『連れ去られた家族がいる場合、帝国軍が救出する』


告知は矢に結びつけられ、城壁の内側へ何百枚も放たれた。


最初の一日は、誰も出てこなかった。


二日目の夜、十人の農民が城から逃げ出した。


三日目には百人。


四日目には、城門を守っていた領民兵が自ら門を開き、三百人が投降した。


投降した者たちは、聞いていたような処罰を受けなかった。


温かい食事を与えられ、家族のもとへ帰された。


その話が城内へ伝わると、脱出する者はさらに増えた。


一方、反乱を主導する貴族たちには食料が届かなかった。


彼らは領民から食料を奪おうとした。


だが、すでに多くの領民が城から逃げている。


残った者たちも、食料を隠した。


わずか十日で、反乱軍は外から攻撃されることなく崩壊し始めた。


「どういうことだ!」


北部城の大広間に、レオナルドの怒声が響いた。


「なぜ兵が次々に逃げる!」


集まった貴族たちは、誰も答えようとしなかった。


彼らが期待していたのは、王家の復興ではない。


レオナルドを旗印として利用し、混乱に乗じて自分たちの特権を取り戻すことだった。


ところが、戦いは始まる前から負けようとしている。


食料は届かず、領民は逃げ、帝国軍は城を攻めてこない。


このままでは、反乱軍だけが城内で飢えることになる。


「殿下」


老貴族の一人が口を開いた。


「セレスティア宰相へ降伏なさってはいかがでしょう」


「ふざけるな!」


レオナルドは杯を床へ投げつけた。


「私は正統な国王だぞ!」


「ですが、兵がおりません」


「集めればよい!」


「周辺の村は帝国軍の保護下に入りました」


「ならば、村を焼け! 帝国に従う者を見せしめにするのだ!」


貴族たちの表情が固まった。


村を焼けば、そこから税を取り立てることもできなくなる。


レオナルドは、自分がこれから支配しようとしている土地すら平然と破壊しようとしている。


その事実に、ようやく彼らも気づき始めた。


「皆様、聞きましたか?」


広間の隅から、ミレイユの声がした。


人々の視線が集まる。


ミレイユは以前とは違う豪華なドレスを着ていた。


反乱に参加した貴族令嬢から、半ば強引に奪ったものだった。


「この方を王にすれば、気に入らない村をすぐに焼き払いますわ。皆様の領地も、いずれ同じ目に遭うかもしれません」


「ミレイユ、何を言っている!」


「本当のことでしょう?」


「黙れ! お前は未来の王妃だぞ!」


「王妃?」


ミレイユは鼻で笑った。


「兵も食料もないのに、どこの王になるおつもりです?」


レオナルドの顔が赤くなる。


「私がいなければ、お前は今も農場で泥にまみれていたのだぞ!」


「わたしが手引きしなければ、あなたは農場から出ることすらできなかったでしょう!」


二人は再び、貴族たちの前で罵り合いを始めた。


そこへ、一人の騎士が駆け込んできた。


「申し上げます! 東門の守備隊が投降しました!」


「何だと!」


「城内に残る兵は、三百名ほどです!」


「逃げた者を捕らえろ!」


「追う兵がおりません!」


静まり返った大広間で、レオナルドの荒い息だけが響いた。


やがて、集まっていた貴族たちが互いに視線を交わす。


彼らの判断は早かった。


「レオナルド殿」


先ほどの老貴族が告げる。


「あなたを帝国へ引き渡します」


「な……」


「そうすれば、我々の命は助かるでしょう」


「私はお前たちの王だぞ!」


「王冠も、領土も、民も、兵も持たない者を、王とは呼びません」


レオナルドが剣を抜こうとする。


しかし、背後にいた騎士が彼の腕を押さえた。


別の騎士が剣を奪い、床へ引き倒す。


「離せ! この反逆者ども!」


「反逆者はあなたです」


「私は王家の血を引いている!」


「血だけで国が治められるのなら、誰も苦労はいたしません」


レオナルドは縄で縛られた。


それを見たミレイユは、そっと後ずさる。


「わたしは関係ありませんから」


老貴族が彼女を見る。


「あなたも共犯でしょう」


「違います! わたしはレオナルドに脅されていたのです!」


「脱走に使う馬車を手配したのは、あなたでは?」


「命令されたのです!」


「北部貴族へ書状を送ったのも?」


「それも命令です!」


「あなたの署名が残っています」


ミレイユは口を閉じた。


逃げようとしたが、すぐに騎士たちに取り押さえられた。


「嫌よ! わたしは王妃になるのよ!」


「つい先ほど、王妃になどなりたくないとおっしゃっていたではありませんか」


「今は事情が変わったの!」


「皆の前で何度も事情が変わるのですな」


ミレイユもレオナルドの隣へ縛られた。


二人は互いの顔を見る。


「お前が裏切ろうとしたからだ!」


「あなたが無能だからでしょう!」


「黙れ!」


「そちらこそ黙りなさい!」


城を包囲していた帝国軍のもとへ、反乱貴族から降伏を申し入れる使者が訪れたのは、その日の夕方だった。


反乱は一度も大きな戦闘を起こすことなく、終結した。


帝都で開かれた裁判には、多くの市民が傍聴に訪れた。


レオナルドとミレイユは、以前と同じように豪華な衣装を求めた。


当然、認められなかった。


二人は農場から脱走したときの粗末な服を着せられ、被告人席へ立たされた。


法廷の中央にはセレスティアがいた。


レオナルドは彼女を見るなり叫んだ。


「お前の仕業だな!」


「何のことでしょう」


「食料を止め、兵を逃がした!」


「反乱軍へ物資を送る義務はございません」


「正々堂々と戦え!」


「戦わずに解決できる問題で、なぜ民の命を失わなければならないのですか」


「臆病者め!」


傍聴席から冷たい声が飛んだ。


「臆病なのは、領民を盾にしたお前だ!」


「村を焼けと命じたそうではないか!」


「俺たちを何だと思っている!」


レオナルドは傍聴席をにらんだ。


「黙れ、平民ども! 王に逆らうな!」


その言葉に、法廷全体が静まり返る。


セレスティアは、深いため息をついた。


「元殿下」


「なんだ!」


「裁判の途中ですが、一つだけ感謝いたします」


レオナルドの顔に、わずかな期待が浮かんだ。


「ようやく私の価値に気づいたか?」


「いいえ」


セレスティアは傍聴席へ視線を向けた。


「あなたが今、ご自身の本質を皆の前で示してくださったことにです」


レオナルドの顔から期待が消える。


「民を守るべき王が、民を盾にし、村を焼こうとし、命令に従わない者を平民と侮辱する」


セレスティアは彼を見た。


「あなたが王にふさわしくないことを証明するために、もはや書類も証人も必要ございませんね」


傍聴席から拍手が起こった。


裁判長が木槌を鳴らし、静粛を命じた。


反乱に参加した貴族たちには、それぞれの罪に応じた判決が下された。


領民を脅し、武器を持たせた者は領地と爵位を失った。


自ら降伏し、領民の解放に協力した者は財産の一部を没収された上で、辺境での公共事業へ従事することになった。


レオナルドとミレイユには、農場からの脱走、反乱の扇動、領民の監禁、帝国統治への武力抵抗について有罪判決が下された。


さらにレオナルドには、村の焼き払いを命じた罪が加わった。


「被告レオナルドは、旧王国の復興を名目に反乱を起こした。しかし、その行動に民を守る意思は認められない」


裁判長の声が法廷へ響く。


「よって、今後いかなる政治的地位も利用できぬよう、王族および貴族としてのすべての身分と権利を永久に剥奪する」


レオナルドが叫んだ。


「すでに奪われているではないか!」


「此前は王位継承権の剥奪です。今回の判決により、王家の姓を名乗る権利も失います」


「王家の姓まで?」


「今後、あなたの名はただのレオナルドです」


レオナルドは呆然と立ち尽くした。


彼が最後までしがみついていたもの。


血筋。


王子という過去。


自分は特別な人間だという思い込み。


そのすべてが、公の場で否定されたのだ。


「待ってくれ」


彼は裁判長ではなく、セレスティアを見た。


「お前からも何か言ってくれ。私は王子だったのだぞ」


「だからこそ、責任がございます」


「一度くらい助けてくれてもいいだろう!」


「一度?」


セレスティアは静かに聞き返した。


「わたくしは十年間、あなたを助け続けました」


「ならば、もう一度だけ!」


「助けた結果、あなたは何も学ばなかった」


レオナルドが言葉を失う。


「失敗しても誰かが片づけ、借金をしても誰かが支払い、報告書を読まなくても誰かが国を動かす。あなたは、それが当然だと思うようになりました」


「これから学ぶ!」


「農場で機会を与えられました」


「環境が悪かったのだ!」


「脱走後にも、投降する機会がございました」


「貴族たちに惑わされた!」


「今度は貴族のせいですか?」


レオナルドは口を閉じた。


「あなたは、自分の選択の責任を一度も引き受けようとしませんでした」


セレスティアの声に怒りはなかった。


「ですから、わたくしがあなたを助けることは、もう優しさではありません」


「では、何だというのだ」


「あなたが永遠に成長しないよう、手助けすることになります」


レオナルドは力なく首を振った。


「私は、どうすればよかったのだ」


「他人から奪う前に、感謝するべきでした」


「今は感謝している!」


「失ってから口にする感謝は、返してほしいという要求と同じです」


「そんな……」


「そして何より、ご自分の責任を認めるべきでした」


「認めたら、許してくれるのか?」


セレスティアは少しだけ目を細めた。


「まだ、許されることしか考えていないのですね」


レオナルドは、今度こそ何も言えなくなった。


裁判長は判決文へ視線を戻した。


「被告レオナルドおよび被告ミレイユを、北部復興事業所での終身労働に処する」


ミレイユが悲鳴を上げた。


「終身ですって?」


「あなた方が反乱に利用し、荒らした土地を、生涯をかけて復興しなさい」


「嫌よ! なぜ、わたしまで!」


「あなたが送った反乱勧誘の書状が百二十三通、証拠として提出されています」


「レオナルドに書かされたのです!」


「書状の一部には、あなたが王妃になった際、領民から特別税を徴収して宮殿を建てる計画も記されています」


法廷に失笑が広がる。


「そ、それは夢を書いただけです!」


「他人の金で建てる宮殿が、あなたの夢だったのですね」


裁判長が木槌を鳴らした。


「判決は以上です」


衛兵が二人の腕を取る。


ミレイユはセレスティアへ向かって叫んだ。


「あなたばかり、ずるいわ!」


セレスティアが足を止める。


「わたしと何が違うの! あなたは公爵家に生まれ、何もかも持っていた! わたしは貧しい男爵家に生まれたのよ!」


「確かに、生まれ育った環境は違います」


「なら、少しくらい譲ってくれてもよかったでしょう!」


「わたくしの婚約者も、地位も、財産も?」


「あなたはほかにも持っていたでしょう!」


セレスティアはミレイユを見つめた。


「あなたに足りなかったのは、身分でも財産でもありません」


「では、何よ!」


「自分で積み上げる覚悟です」


ミレイユの表情が固まった。


「あなたには学ぶ機会がありました。奨学金を受け、王立学院に入学し、多くの教師から教育を受けられた」


「勉強は苦手だったのよ!」


「働く機会もございました」


「農作業なんて、わたしに向いていないわ!」


「失敗を認め、やり直す機会もありました」


「そんな惨めなことはできない!」


「それが答えです」


セレスティアは静かに告げた。


「あなたは何も持っていなかったのではありません。自分の手で得ることを嫌い、他人から奪う道を選び続けたのです」


ミレイユの唇が震えた。


「あなたが悪役になってくれれば、すべてうまくいったのに……」


「そうですね」


セレスティアはわずかに微笑んだ。


「けれど現実では、誰かを悪役にしただけで、自分が主人公になれるわけではございません」


二人は衛兵に連れられ、法廷を出ていった。


最後まで、互いに責任を押しつけ合いながら。


裁判の翌日、元国王と元王妃から嘆願書が届いた。


息子の罪を軽くしてほしい。


王家の名だけは残してほしい。


過去の功績を考慮してほしい。


セレスティアは、嘆願書に目を通した。


「過去の功績、ですか」


隣にいたユリウスが苦笑する。


「何かございましたか?」


「王妃が開催した舞踏会によって、王都の仕立屋が一時的に豊かになりました」


「それは功績なのでしょうか」


「国庫を空にしなければ、多少は」


セレスティアは嘆願書を閉じた。


「法の定めに従って処理してください。特別扱いは認めません」


「ご両親だから、ではなく?」


「彼らは、レオナルド元王子がなぜ罪を犯したのか、今も理解していません」


嘆願書には、被害を受けた領民への謝罪が一言もなかった。


息子を助けてほしい。


王家の名誉を守ってほしい。


自分たちが再び豊かに暮らせるようにしてほしい。


書かれているのは、それだけだった。


「助ければ、また同じことを繰り返します」


セレスティアは嘆願書を返した。


「王家の物語は、これで終わりです」


それから時が流れた。


北部の復興には五年を要した。


焼かれかけた村には新しい家が建ち、城へ続く街道が整備された。


反乱貴族が住んでいた城は、農業研究所と学校へ改装された。


雪の多い北部でも育つ小麦が開発され、土地は以前より豊かになった。


レオナルドとミレイユは、復興事業所で働き続けた。


二人には何度も、態度を改めれば別々の作業場へ移すと告げられた。


だが、どちらも相手に責任を押しつけることをやめなかった。


レオナルドは、自分が王子であった過去を語り続けた。


しかし、新しく事業所へ入った者たちは、彼が誰なのか知らなかった。


「私はかつて、王国の王太子だったのだ」


「そうですか。では、この袋を倉庫へ運んでください」


「お前は私を知らないのか!」


「仕事をしない人だとは知っています」


いつしか、彼の過去に興味を示す者はいなくなった。


ミレイユも、自分が王太子に愛された特別な女性だったと語り続けた。


「わたしは昔、未来の王妃と呼ばれたのよ」


「今は配給係ですね」


「わたしは美しく、誰からも愛されていたの!」


「それでは、配給するパンの数を間違えないでください」


二人が欲しがっていた注目も称賛も、二度と向けられることはなかった。


誰も彼らを憎まなかった。


誰も恐れなかった。


ただ、自分の仕事すら満足にできない二人として扱った。


それは二人にとって、刑罰以上につらいことだった。


さらに十年が過ぎた。


セレスティアは宰相として、帝国の歴史に残る改革を成し遂げていた。


税収は安定し、飢饉による死者はほとんどいなくなった。


すべての地方に学校と診療所が作られ、身分に関係なく試験によって官僚を選ぶ制度も始まった。


かつての旧王国は帝国の中でもっとも豊かな地域の一つとなり、人々はそこを旧王国とは呼ばなくなっていた。


アルヴェイン地方。


セレスティアの家名を冠したその土地は、努力によって未来を変えられる場所として知られるようになった。


帝国議会での最後の演説の日。


セレスティアは大勢の議員を前に、宰相職から退くことを発表した。


「まだお若いではありませんか!」


「帝国には、閣下が必要です!」


「どうかお考え直しを!」


議場から次々に声が上がる。


セレスティアは穏やかに微笑んだ。


「必要なのは、わたくし一人に頼らなくても動く国でございます」


多くの者が息をのんだ。


かつての王国は、セレスティア一人の働きに依存していた。


だからこそ、彼女が去った瞬間に崩壊した。


彼女は同じ過ちを帝国で繰り返さなかった。


自分がいなくなっても制度が機能するよう、後継者を育て、権限を分散し、誰もが意見を述べられる仕組みを作った。


「わたくしの仕事は、終わりました」


議員たちは立ち上がった。


誰かに命じられたのではない。


一人、また一人と立ち上がり、セレスティアへ拍手を送った。


その拍手は、かつて卒業舞踏会で聞いたものよりも大きく、長く続いた。


しかし、あのときとは違っていた。


あの拍手は、悪意に勝った彼女へ送られたものだった。


今の拍手は、彼女が築いた未来へ送られている。


セレスティアは深く一礼した。


議場を出ると、一人の男性が待っていた。


補佐官だったユリウスである。


今では帝国の法務長官となり、セレスティアの後継者を支える立場にあった。


「長い間、お疲れさまでした」


「あなたにも随分と苦労をかけましたね」


「本当に大変でした」


ユリウスは真面目な顔で答えた。


セレスティアが目を瞬くと、彼は笑った。


「ですが、退屈はしませんでした」


「そうですか」


「これからは、どちらへ?」


「まずはアルヴェイン領へ戻ります。ずっと後回しにしていたことが、たくさんございますから」


「例えば?」


「領地の学校を見て回ります。それから、港の向こうの国々も訪ねてみたいですね」


「お一人で?」


セレスティアはユリウスを見た。


「法務長官はお忙しいのでは?」


「本日付で辞表を出しました」


「まあ」


「後継者は育っております。誰か一人がいなければ動かない組織にしてはいけないのでしょう?」


セレスティアは思わず笑った。


それは、先ほど彼女が議会で述べた言葉だった。


「わたくしの言葉を利用しましたね」


「十年以上、あなたの補佐官をしていましたから」


ユリウスが手を差し出す。


「今度は国のためではなく、ご自分のために時間を使ってはいかがですか」


セレスティアは、その手を見る。


彼は一度も、彼女の功績を奪わなかった。


彼女の財産を当てにせず、地位を利用しようともしなかった。


意見が違えば正面から反論し、誤りがあれば認め、彼女が疲れていれば休むように言った。


セレスティアが宰相ではなくなっても、彼の態度は何一つ変わらない。


「旅行の同行者を募集しているのですか?」


セレスティアが尋ねる。


「はい。ただし、かなり長い旅になる予定です」


「どのくらい?」


「できれば、生涯」


セレスティアは少しだけ目を見開いた。


ユリウスは続ける。


「すぐに返事をいただくつもりはありません」


「自信がないのですか?」


「あなたに返事を急がせるほど、愚かではありません」


かつてのレオナルドなら、断られる可能性など考えもしなかっただろう。


自分が望めば、相手も望むのが当然だと思っていた。


だが、ユリウスは違う。


彼はセレスティアの選択を待っている。


セレスティアは差し出された手に、自分の手を重ねた。


「では、旅をしながら考えます」


「良い返事を期待しても?」


「期待するのは自由です」


「厳しいですね」


「十年以上もわたくしのそばにいたのですから、ご存じでしょう?」


二人は笑いながら、議会を後にした。


その一年後、アルヴェイン領の小さな教会で、二人は結婚式を挙げた。


皇帝は帝都の大聖堂で盛大に祝うことを提案したが、セレスティアは断った。


招待されたのは、家族と親しい友人、長年ともに働いた官僚たち。


そして領地の学校に通う子どもたちだった。


豪華な王冠も、何百人もの貴族もいない。


けれど、そこにはセレスティアを道具として求める者は一人もいなかった。


誰もが彼女自身の幸福を願っていた。


式を終えた後、ユリウスが尋ねた。


「後悔はありませんか?」


「何についてです?」


「王妃にも、女王にもなれたでしょう」


セレスティアは、教会の外に広がる景色を見た。


金色の小麦畑。


遠くに見える新しい学校。


整備された街道を行き交う商人の馬車。


子どもたちの笑い声。


「王妃になっていたら、わたくしは今も誰かの失敗を隠していたでしょう」


「では、女王なら?」


「すべてを一人で背負い込んでいたかもしれません」


「宰相になったことは?」


「必要な時間でした」


「今は?」


セレスティアは夫となった男性の手を取った。


「今は、自分の人生を生きています」


その冬、北部復興事業所へ一枚の新聞が届けられた。


一面には、セレスティアの結婚を祝う記事が掲載されていた。


レオナルドは記事を何度も読み返した。


彼女が宰相を退いたこと。


帝国中から感謝の言葉が寄せられたこと。


長年の友人だった元法務長官と結婚したこと。


今後は各国を巡り、学校や病院の建設を支援すること。


記事の中に、レオナルドの名は一度も出てこなかった。


「おかしい」


彼はつぶやいた。


「何がです?」


隣で作業していた男が尋ねる。


「セレスティアの物語は、私が婚約を破棄したところから始まったのだ」


「そうなのですか」


「ならば、私のことも書かれるべきだろう」


男は新聞をのぞき込んだ。


「この記事は、セレスティア様の結婚について書かれたものですから」


「だが、私は彼女の人生にとって重要な存在だった!」


作業場の向こうから、ミレイユが笑った。


「まだそんなことを言っているの?」


「お前に言われたくない!」


「セレスティア様は、あなたのことなど忘れたのよ」


「黙れ!」


「わたしたちは二人とも、あの方の人生には必要なかったの」


ミレイユの声には、かつての甲高さがなかった。


長い年月を経て、彼女もようやく一つだけ理解したのかもしれない。


自分たちは主人公を苦しめる強大な宿敵ですらなかった。


セレスティアの長い人生における、一時の障害にすぎなかったのだ。


「違う」


レオナルドは首を振った。


「私は王子だ。私は特別だ」


周囲の誰も答えなかった。


作業終了を告げる鐘が鳴る。


人々は道具を片づけ、宿舎へ戻り始めた。


レオナルドだけが、その場に立ち尽くしていた。


手の中の新聞では、セレスティアが穏やかに笑っている。


彼女の隣には、同じように穏やかな表情の夫がいた。


二人の視線は互いへ向けられ、過去を振り返る様子はない。


レオナルドは、ようやく気づいた。


自分が何度名前を呼んでも、彼女はもう振り返らない。


謝罪しても、怒鳴っても、過去を語っても、彼女の人生には二度と登場できない。


彼が失ったのは王位だけではなかった。


自分を支え続けてくれた、唯一の人。


その価値に気づいたときには、彼女は自分の手が届かないほど遠くへ歩いていた。


そして、その距離を生み出したのは、ほかでもない彼自身だった。


数年後。


遠い海の向こうの国に、新しい学校が完成した。


開校式へ招かれたセレスティアは、子どもたちに囲まれていた。


「先生、この学校を作ってくれたのは誰ですか?」


一人の少女が尋ねる。


教師はセレスティアを見た。


しかし彼女は、小さく首を横に振った。


「この学校を作ったのは、大勢の人です」


セレスティアは少女と目線を合わせる。


「石を運んだ人。木を削った人。設計図を描いた人。お金を寄付した人。そして、ここで学びたいと願った皆さんです」


「セレスティア様が作ったのではないのですか?」


「わたくし一人では、何も作れません」


かつて彼女の功績は、レオナルド一人のものとして扱われた。


だからこそ、セレスティアは同じことをしなかった。


どれほど小さな仕事であっても、携わった者の名を記録した。


誰か一人がすべてを成し遂げたことにせず、努力した全員が正当に評価される仕組みを作った。


「では、一番大切なのは誰ですか?」


少女が尋ねる。


セレスティアは校舎を見上げた。


「これから、この学校で学ぶ皆さんです」


「わたしたち?」


「ええ。ここで学んだことを、いつか誰かの役に立ててください。それが、この学校を作った人たちへの一番の恩返しです」


少女は大きくうなずいた。


少し離れた場所で、ユリウスがその様子を見守っていた。


彼の腕には、二人の幼い娘が抱かれている。


娘は母親の姿を見つけると、懸命に手を伸ばした。


「お母様!」


セレスティアは立ち上がり、家族のもとへ歩いていく。


「お話は終わりましたか?」


ユリウスが尋ねる。


「ええ。待たせましたね」


「次はどちらへ?」


「港町に、新しい診療所を建てる計画があります」


「またお仕事ですか?」


「旅の途中で、少しお手伝いするだけです」


「あなたの『少し』は信用できません」


セレスティアは笑った。


「では、あなたが休ませてください」


「それも私の仕事ですから」


四人は並んで歩き出した。


セレスティアの前には、まだ長い道が続いている。


だが、もう誰かの失敗を背負うための道ではない。


誰かに認めてもらうための道でもない。


自分で選び、愛する者たちと歩む道だった。


かつて、セレスティアは悪役令嬢と呼ばれた。


王子の命令に従わず、男爵令嬢へ婚約者を譲らず、王家へ金を差し出すことを拒んだからだ。


けれど彼女は、誰のものも奪ってはいなかった。


奪われていた名誉を取り戻した。


利用されていた財産を取り戻した。


他人のために使い潰されかけた人生を取り戻した。


ただ、それだけだった。


彼女を悪役に仕立てた者たちは、自分の欲と愚かさによってすべてを失った。


王子は王冠を失い、男爵令嬢は夢見た地位を失い、王家は民から搾り取った富を失った。


彼らには何度も、引き返す機会が与えられていた。


真実を確かめる機会。


罪を認める機会。


働き、学び、やり直す機会。


そのすべてを拒み、自ら破滅を選んだのだ。


一方、セレスティアは歩き続けた。


彼らが過去にしがみついている間に。


彼らが責任を押しつけ合っている間に。


彼らが彼女の名を恨みとともに口にしている間に。


彼女は新しい国を豊かにし、人々の未来を作り、自分自身の幸福を手に入れた。


やがて歴史書には、彼女の名が大きく記されることになる。


王国を滅ぼした悪役令嬢としてではない。


滅びかけた国から民を救い、新しい時代の礎を築いた賢宰相として。


その長い記述の片隅に、レオナルドとミレイユの名も残された。


セレスティアを陥れようとし、自らの虚偽によって破滅した者として。


二人があれほど望んでいた、歴史に名を残すという願いはかなった。


ただし、尊敬される名ではない。


権力と財産を当然のものと思い、支えてくれる者への感謝を忘れた愚か者の例として。


後世の教師たちは、彼らの失敗を子どもたちへ教えた。


自分の過ちを他人のせいにしてはいけない。


誰かの努力を奪ってはいけない。


地位や血筋だけで人の価値は決まらない。


そして、善意を差し出してくれる者が、永遠にそばにいると思ってはいけない。


すべてを学び終えた子どもたちは、最後に必ずこう尋ねたという。


「それで、セレスティア様は幸せになったのですか?」


教師は微笑みながら答えた。


「もちろんです」


彼女は王妃にはならなかった。


女王にもならなかった。


誰かの隣で、その人を立派に見せるための人生も選ばなかった。


自分の名前で功績を残し、自分を尊重する者を愛し、大切な家族とともに世界を巡った。


自分の人生を、自分のために生きた。


それがセレスティアの勝ち取った、何よりも価値ある幸福だった。


彼女はもう、悪役令嬢ではない。


誰かの物語における、都合のよい悪役でもない。


これは最初から最後まで、セレスティア・フォン・アルヴェインという一人の女性が、自らの人生を取り戻す物語だった。


そして彼女の物語は、婚約破棄によって終わったのではない。


あの日、ようやく始まったのである。

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― 新着の感想 ―
セレスティアが終始揺るぎ無くカッコよかった
第2王子以外の王家が屑だわぁ。第2王子はどうなったんだろ。
とても面白かったです。丁寧な人物描写と短いセリフのやり取りがリアルで惹き込まれました。主人公の凛とした姿にこちらまで背筋が伸びます。良い時間をありがとうございました。
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