第3話 存在しているはずのない自分
「……ちっ」
男が舌打ちをした。
数秒の睨み合い。
空気が張り詰める。
「……今日はいい」
そう言って、男は踵を返した。
「けどな」
立ち止まる。
「ここで勝手なことしてると、どうなるか分かってんだろうな?」
振り返らずに吐き捨てると、そのまま去っていった。
他の男たちも、それに続く。
足音が遠ざかっていく。
「……はぁ」
思わず息が漏れた。
背中に変な汗が滲んでいる。
怖くなかったわけじゃない。
むしろ、普通に怖い。
「……なんであんなこと言ったんだろうな、俺」
小さく呟く。
答えは分かっている。
――後ろに、子どもたちがいたからだ。
「……おい」
振り向くと、子どもたちがこちらを見ていた。
さっきと同じようで、少しだけ違う目。
「……なんだよ」
「……なんで、あいつらに逆らった?」
さっきの少年が聞いてくる。
真っ直ぐな目。
試している。
「別に」
肩をすくめる。
「飯くらい、普通に食いたいだろ」
それだけだ。
「……変なやつ」
ぼそりと呟かれる。
「よく言われる」
軽く返すと、少しだけ空気が緩んだ。
けれど。
「……でも、あいつらまた来るぞ」
別の子が言う。
現実は変わらない。
「だろうな」
否定しない。
「じゃあ、どうするんだよ」
問い。
それは、自分自身への問いでもあった。
「……ちゃんとした場所、いるな」
ぽつりと出た言葉。
「ちゃんと?」
「ああ」
頷く。
「誰にも文句言われない場所」
そんなものがあるのかは分からない。
でも――
「とりあえず、探す」
そのためには。
「……役所、とかか」
口に出してみる。
自分でも少し驚く。
この世界で、そんなものが機能しているのか。
でも、外の街を見る限り――
“それっぽいもの”はある。
「……ちょっと行ってくる」
「また戻ってくるのか?」
少年が聞く。
「ああ」
即答する。
「戻るよ」
それだけ言って、外に出た。
◆
スラムを抜ける。
昨日と同じ景色。
けれど、見え方が違う。
「……線引きされてるな」
ぽつりと呟く。
こっちは捨てられた場所。
あっちは、普通の場所。
明確な境界がある。
街に入る。
人の流れ。
車の音。
店の明かり。
どこにでもある日常。
でも。
子どもはいない。
いても、大人と一緒だ。
「……そういうことか」
守られている場所と、そうじゃない場所。
それだけの違い。
いや――
それが、全部か。
◆
しばらく歩くと、それはあった。
「市役所……でいいのか、これ」
見覚えのあるような建物。
看板の文字も読める。
中に入る。
冷たい空気。
整った空間。
さっきまでいた場所とは、まるで別世界だ。
「……すみません」
受付に声をかける。
「はい」
事務的な声。
「えっと……ちょっと確認したいことがあって」
「どのようなご用件でしょうか」
淡々とした対応。
それが逆に、現実味を帯びている。
「……自分の、身元っていうか」
言葉を探しながら続ける。
「戸籍、みたいなのってあります?」
一瞬、間があった。
「……ございますが」
「じゃあ、それ、確認ってできますか?」
「ご本人確認が必要になりますが」
「本人です」
即答する。
少しだけ怪訝な顔をされる。
「お名前をお願いします」
――来た。
一瞬だけ、息を整える。
「加藤悠聖です」
言った。
その名前を。
「……少々お待ちください」
職員が端末を操作する。
カタカタと音が響く。
数秒。
いや、もっと長く感じた。
「……」
画面を見ていた職員の手が、止まる。
わずかに、目が細くなる。
「……ありました」
「え?」
思わず声が漏れる。
「加藤悠聖様。登録されています」
「……は?」
頭が追いつかない。
「住所は……」
読み上げられる。
「スラム区域、第三区画」
「……スラム?」
「はい」
当然のように頷かれる。
「年齢は――」
続けて言われた数字。
「……え?」
違う。
自分の認識と、微妙にズレている。
「……何か問題でも?」
職員がこちらを見る。
その目は、どこか探るようで。
「ああ、いや……」
言葉が出てこない。
おかしい。
おかしいだろ。
ここに来たばかりのはずなのに。
なんで。
「……」
職員が、少しだけ表情を変える。
「……ああ」
何かを思い出したように。
「そういうことですか」
「……は?」
「いえ、こちらの話です」
にこりと、作ったような笑顔。
「特に問題はありませんので」
「……いや、ちょっと待って」
思わず身を乗り出す。
「なんで俺の――」
「次の方どうぞ」
言葉は、途中で切られた。
後ろに人が並んでいる。
「……」
何も言えない。
ただ、立ち尽くす。
◆
外に出る。
さっきと同じ街。
同じはずの景色。
でも――
「……なんなんだよ、これ」
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
自分は、ここに“いる”。
最初から、いたことになっている。
スラムに住んでいることになっている。
年齢も、少し違う。
そして――
職員の、あの反応。
「……知ってるみたいだったな」
ぽつりと呟く。
誰かが。
この状況を、分かっているような。
「……」
空を見上げる。
答えは出ない。
でも、一つだけ分かることがある。
「……普通じゃねえな、この世界」
ゆっくりと、息を吐く。
そして、歩き出す。
向かう先は――
あの場所だ。
「……戻るか」
スラムへ。
子どもたちのいる場所へ。
まだ何も分からない。
それでも。
関わることだけは、やめない。
それが、自分だからだ。




